第五話 王宮からの風
王都中央区。
白い石造りの回廊に、
朝の光が落ちていた。
王宮神殿。
王都でも古い建物の一つだ。
高い天井。
色硝子。
静かな祈りの間。
けれど今日、その空気は穏やかではなかった。
「……報告は以上か」
低い声が響く。
円卓を囲む神官達は、重い空気の中にいた。
年若い神官が頭を下げる。
「……はい」
返事は小さい。
卓上には地図。
記録。
古い文献。
そして、書き込みの増えた観測報告。
春先から続く異変。
地脈の揺らぎ。
感知の乱れ。
祈祷結果の不一致。
どれも小さい。
だが——。
無視出来ない。
円卓の奥。
白髪混じりの老神官が指を組んでいた。
神官長補佐――セヴラン。
王宮神殿でも古参にあたる男だ。
「……場所は」
静かな声だった。
「まだ掴めんのか」
若い神官が顔を曇らせる。
「申し訳ありません」
「北区……反応薄」
「東区も違います」
別の神官が報告を継ぐ。
「南方観測塔も一致せず」
「揺らぎが分散しています」
セヴランは黙って聞いていた。
それが余計に空気を重くする。
円卓の空気は張っている。
誰も怠けてはいない。
むしろ逆だった。
動いている。
調べている。
けれど——。
掴めない。
それが問題だった。
若い神官が口を開く。
「……本当に」
少し言いづらそうだった。
「灰冠の戦い級の兆候なのでしょうか」
部屋が静かになる。
七十年前。
帝国で起きた『灰冠の戦い』。
神殿にとって、
その名はまだ歴史ではなかった。
セヴランは窓の外を見る。
春の空。
王都。
遠く霞む街並み。
「……だから困っておる」
小さく言う。
「似ておるのだ」
その声は重かった。
「だが、違う」
円卓が静まる。
「揺らぎが定まらん」
「一箇所へ集束しておらぬ」
「……まるで」
少し間。
「何かに隠されているようだ」
誰も返事をしなかった。
それが一番嫌な言葉だった。
窓の外。
王都の空は穏やかだった。
けれど。
その穏やかさが、今は逆に落ち着かなかった。
若い神官が卓上の密書へ手を伸ばす。
「……各国からの返信ですが」
円卓が顔を上げる。
机には封蝋の割られた書状が並んでいた。
王国。
交易都市。
自治領。
そして帝国。
王宮神殿は既に動いている。
七十年前『灰冠の戦い』以来の手順に従い、
復活兆候の可能性を、水面下で各国へ伝達済みだった。
内容は簡潔。
『異常観測あり。警戒準備を』
それだけだ。
だが——。
問題は、その先だった。
若い神官が続ける。
「問い合わせが増えています」
別の神官が小さく息を吐く。
「……当然だな」
「はい」
神官は頷いた。
「ですが」
少し言葉を選ぶ。
「確認だけではありません」
円卓の空気が少し張った。
紙が開かれる。
「西方諸侯連合——」
読み上げる。
「『観測根拠の詳細提示を求む』」
「『対象・規模・位置不明の警戒要請は、交易および軍備へ混乱を生む』」
別の密書。
「南同盟都市——」
「『誤観測の可能性を否定できない』」
「『神殿内部の判断過程開示を要請する』」
空気が重くなる。
若い神官は、最後の書状を見る。
帝国紋章。
部屋が少し静かになった。
「……帝国からは」
誰も急かさない。
その沈黙自体が、内容を察していた。
神官は読む。
「『警戒要請の意図を問う』」
「『観測異常の実在性に疑義あり』」
「『意図的な緊張誘導、あるいは政治的混乱を目的とした情報操作ではない事を証明されたい』」
円卓に重い沈黙が落ちる。
誰かが小さく舌打ちした。
若い神官は視線を下ろす。
「……誤報ではないのか」
「……神殿が過敏になっているだけではないのか」
「……あるいは、別の意図があるのではないか」
それが各国の本音だった。
神殿は動いていない訳ではない。
むしろ逆だ。
異変を感知し、
手順通り伝達し、
各地へ警戒を促した。
だが。
場所が分からない。
主体も分からない。
規模すら曖昧。
だからこそ——。疑われる。
それが今の状況だった。
セヴランは黙っていた。
白い指が机上で静かに組まれている。
老神官は窓の外を見る。
春の王都。
穏やかな街。
その平穏さが、今は妙に遠かった。
「……分からぬ」
ぽつりと言う。
部屋が静まる。
「それが問題なのだ」
若い神官が、少し迷うように手元の紙を見た。
「……南区の件ですが」
空気が戻る。
「兵士の間で、奇妙な話が出ています」
「火」
「見張り」
「……小さな事ですが」
神官は正直に言った。
「偶然とも取れます」
セヴランが初めて顔を上げる。
「……続けろ」
「南区の花屋です」
「娘が——」
少し間。
自分でも信じていないような顔で言う。
「……風を読む、と」
王宮神殿の空気が、
わずかに止まった。
円卓に沈黙が落ちる。
そして。
「……市井の噂か」
誰かが低く言った。
若い神官は頷く。
「はい」
「南区の兵士や商人の間で」
「最近出始めた話です」
別の神官が眉を寄せる。
「花屋娘……」
「占い師ではなく?」
「本人は否定しているそうです」
「否定?」
「……花屋だと」
一瞬。
部屋が静まり——
誰かが小さく息を吐いた。
「……なるほど」
その声には、
理解というより困惑が混じっていた。
若い神官は急いで続ける。
「火の件」
「夜番の件」
「いずれも小事です」
「偶然とも説明可能です」
「ですが」
紙を見る。
「複数証言があります」
神官達の空気はまだ重い。
期待している訳ではない。
むしろ逆だった。
こんな話しか無いのか。
その感情の方が近い。
春先から続く異変。
各国からの疑念。
説明要求。
そして——。
何も掴めない現実。
その中で、
南区の花屋娘の噂は、
あまりにも小さかった。
若い神官が言う。
「……南演習帰りの兵士達から広がったようです」
「補給所」
「南区商人」
「食堂周辺でも」
別の神官が鼻を鳴らす。
「噂の育ち方としては実に市井らしいな」
否定とも皮肉とも取れた。
その時だった。
円卓の奥。
黙っていたセヴランが、静かに口を開く。
「……花屋」
部屋が静まる。
老神官は窓の外を見ていた。
「名は何と言った」
若い神官が紙を確認する。
「リアナ・エルムです、王都南区市場通りから一本外れた細道」
セヴランは少し黙った。
その横顔は読めない。
やがて。
ぽつりと聞く。
「……その娘」
円卓が見る。
「何歳だ」
若い神官が紙を見る。
「正確には不明ですが……」
少し迷う。
「二十前後かと」
老神官は何も言わなかった。
ただ、
静かに指を組んでいる。
若い神官が続ける。
「……調査を?」
部屋の空気が少し張る。
誰も先走りたくはない。
花屋娘の噂。
それだけだ。
けれど。
今の神殿には、
切り捨てるだけの余裕も無かった。
その時。
セヴランが、ようやく窓から視線を戻した。
老いた目が、静かに円卓を見る。
「……いや」
低い声だった。
「まだだ」
神官達が息を止める。
セヴランは机上の報告書を見る。
異変。
揺らぎ。
各国の疑念。
そして、
王宮神殿は静まり返っていた。
「……まずは」
セヴランが机上の報告へ視線を落とす。
「風を見よう」
低い声だった。
円卓の空気が少し張る。
若い神官が聞く。
「……調査を?」
老神官は頷く。
「騒ぐな、確証はまだ無い」
「だが」
少し間。
「放置も出来ん」
窓の外。
春の王都。
穏やかな街並みが広がっている。
セヴランは静かに言った。
「王都南区」
「花屋、娘——」
報告書へ目を落とす。
「……リアナ・エルム」
部屋が静かになる。
「神殿への来訪を求めよ」
若い神官が顔を上げた。
「召……」
「違う」
セヴランは即座に言った。
「事情を聞く、それだけだ」
その声は冷静だった。
「騒ぎ立てるな、王宮名義も不要」
「南区の一花屋だ、余計な尾ひれは付けるな」
若い神官達が頷く。
だが——。
人の口とは、
そう上手くいかないものだった。
◇
王宮回廊。
昼前。
白い石床を、衛兵と従者達が行き交っていた。
その片隅で。
「……聞いたか?」
若い衛兵が声を潜める。
「南区の件?」
「ああ」
もう一人が眉を寄せた。
「花屋の娘だろ?」
「何でそんなの神殿が?」
事情を知らない者達には理解できなかった。
神殿が動く時。
それは大抵、
祈祷。
外交。
あるいは王宮案件だ。
街の花屋など、本来関係ない。
衛兵が声を潜める。
「……占い師らしい」
「は?」
「兵士の間で話あるんだよ」
「火がどうとか」
「未来が見えるとか」
「ほんとか?」
「知らん」
従者の一人が割り込む。
「いや、風読むって話だ」
「風?」
「商人の間で聞いた」
「未来読む娘だって」
話は既に混ざり始めていた。
花屋。
風。
兵士。
未来視。
人づての噂は、
勝手に形を変えていく。
「……だから神殿か?」
「かもな」
「召還らしいぞ」
「えぇ……」
困惑が回廊に広がる。
その時だった。
柱の向こう。
小さな影が、ぴくりと反応する。
十歳ほどの少女だった。
淡い金髪。
好奇心の強そうな瞳。
侍女達の陰に隠れるように立っている。
フィーナ・アウグスト。
王家の孫娘である。
少女は聞き耳を立てていた。
「……花屋?」
衛兵達は気付いていない。
フィーナは少し首を傾げる。
「未来が見える……?」
その目が、少しだけ輝く。
侍女が慌てて声を掛ける。
「フィーナ様?」
少女は振り向かない。
回廊の向こう。
衛兵達の話を見ている。
そして——。
小さく呟いた。
「……会ってみたい」
春の王宮に、
新しい風が入り始めていた。
数日後——。
王都南区。
春の陽射しが市場通りを照らしていた。
《ラルカ亭》の昼前は忙しい。
皿の音。
客の声。
焼ける匂い。
その中を、サラは慌ただしく動いていた。
「二番できたー!」
「運ぶ!」
「パン追加お願い!」
いつもの《ラルカ亭》。
いつもの騒がしさ。
……のはずだった。
ふと。
通りの方が少しざわついているのに気付く。
サラは皿を持ったまま顔を上げた。
市場通り。
人の流れ。
その向こう。
白灰色の馬車がゆっくり進んでいた。
サラが瞬きをする。
「……あれ?」
王宮紋章。
護衛。
綺麗な外装。
南区ではあまり見ない馬車だった。
客も少し見ている。
「珍しいな」
「王宮か?」
サラは窓際へ寄る。
嫌な予感がした。
……いや。
別に理由は無い。
でも何となく。
「……どこ行くんだろ」
馬車は市場通りを進む。
ゆっくり。
そして——。
南区の細道へ入った。
サラが止まる。
「…………」
そこ。
《リリエ》方面である。
数秒。
思考停止。
そして。
「えっ」
馬車はそのまま進む。
曲がる。
完全に進路が一致していた。
サラの顔色が変わる。
「……えっ」
「待って」
「待って待って待って」
《ラルカ亭》店主が顔を上げる。
「サラ?」
「ちょっと行ってくる!!」
「は!?」
サラはエプロンを外した。
店主が叫ぶ。
「おい仕事!」
「ごめん!!」
「サラー!?」
春の市場通りを、
サラが駆け出す。
客が振り向く。
本人はもうそれどころじゃなかった。
王宮馬車。
南区。
《リリエ》。
嫌な予感しかしない。
「うそでしょーー!?」
◇
花屋。
いつもの昼過ぎだった。
春の光。
窓辺の花。
風鈴。
エマは店先の鉢を整えている。
リアナは花の水を替えていた。
その時。
通りの方から、馬の足音が聞こえた。
石畳を踏む、落ち着いた音。
エマが顔を上げる。
南区の細道には、
少し不釣り合いな馬車が見えていた。
白灰色。
王宮紋章。
衛兵二名。
エマが眉を上げる。
「……あら?」
馬車は、
《リリエ》の前で静かに止まった。
そして——その直後。遠くから、
別の足音。
「まっ……!!」
息を切らした声。
春の細道を、
サラが全力で走ってきていた。
「待ってーー!!」
エマが目を丸くする。
「何あれ」
サラは《リリエ》へ駆け込み、
肩で息をしながら——
馬車を見る。
《リリエ》を見る。
そして。
「……うそぉ……」
顔色が、だいぶ悪かった。
サラは肩で息をしていた。
《リリエ》の前。
王宮馬車。
衛兵。
そして春の細道。
南区には少し不釣り合いな光景だった。
エマが腕を組む。
「何あんた」
「……見えたの……」
「何が」
サラは馬車を指差す。
「これ……」
馬車の扉が静かに開く。
降りてきたのは武官ではなく、一人の従者だった。
三十代半ばほど。
落ち着いた所作。
整えられた服装。
彼はまず店先を見た。
花。
窓辺。
小さな店。それから、
丁寧に一礼する。
「失礼致します」
落ち着いた声だった。
エマが前へ出る。
店主の顔である。
「……花屋だけど?」
従者は穏やかに頷いた。
「承知しております」
視線が店内へ向く。
そして。
リアナで止まった。
「……リアナ・エルム様でいらっしゃいますか」
《リリエ》の空気が少し静かになる。
リアナは水差しを置いた。
「……はい」
従者はもう一度、丁寧に頭を下げる。
「王宮神殿より参りました」
春風が通りを抜ける。
通行人達も少し遠巻きに見ていた。
王宮馬車。
南区。
花屋。
目立たない訳がない。
従者は続ける。
「神殿より」
「来訪のお願いがございます」
サラが、
「ひっ」
と小さく声を出した。
エマが横目で見る。
「何その声」
「だって!」
「王宮ーー!!」
「静かにしなさい」
「無理ーー!!」
従者は少しだけ困った顔になったが、
礼儀は崩さなかった。
リアナは首を傾げる。
「……私に、ですか?」
「はい」
「事情を伺いたいとの事です、強制ではございません」
「ご都合を伺うよう仰せつかっております」
その言葉に、
エマが少し目を細める。
ちゃんとしている。
少なくとも、
高圧的な来訪ではなかった。
リアナは少し考えていた。
神殿。
王宮。
来訪。
正直、理由は分からない。
その時——。
サラが、そろそろとリアナの袖を引いた。
「……リアナさん……」
小声だった。
「……逃げる?」
《リリエ》が一瞬静まり——
エマが吹き出した。
「何からよ!」
「分かんないけどーー!!」
ユリウスがいたら絶対笑ってる場面である。
従者も、
さすがに少しだけ目を瞬かせていた。
そしてリアナだけが、
本気で少し考えていた。
「……逃げる……」
サラが真顔で頷く。
「うん」
リアナは窓の外を見る。
王宮馬車。
春の空。
それから——。
静かに首を横へ振った。
「……花屋ですし」
サラが頭を抱えた。
「その答え何ーー!?」
春風が店先を通り抜ける。
従者は静かに待っていた。
急かさない。
王宮神殿の名は重い。
けれど彼の態度は、どこまでも丁寧だった。
エマは腕を組んでいる。
店主の目だ。
サラは半分青ざめたまま、
リアナの返事を待っていた。
そして——。
その時だった。
リアナの視線が、
ふと窓の外へ逸れた。
ほんの一瞬。
風に揺れる花。
そのどこかを見るように。
誰も気付かないほど小さな間だった。
リアナは、静かに瞬きをする。
まるで——。
何かを聞いたように。
「……?」
サラだけが少し首を傾げた。
けれど。
それも一瞬だった。
リアナはすぐに視線を戻す。
表情は変わらない。
穏やかなまま。
ただ。
ほんの少しだけ、
考え直したような静けさがあった。
従者が丁寧に言う。
「急ぎではございません」
「ご不安であれば、後日でも」
リアナはその言葉を聞き、
小さく頭を下げた。
「……分かりました」
サラが固まる。
「えっ」
エマが横を見る。
「決めたの?」
リアナは頷く。
「お話を聞くだけなら」
穏やかな声だった。
「お受けします」
「えぇぇぇ!?」
サラが頭を抱える。
「ほんとに行くの!?」
「はい」
「王宮だよ!?」
「そうみたいですね」
「軽いーー!!」
《リリエ》に悲鳴に似たサラの叫びが響いたのだった。
従者も、少しだけ肩の力を抜いたようだった。
けれど。
リアナはもう一度だけ、
ほんのわずかに窓辺へ目を向ける。
春風が花を揺らしている。
その横顔は、
誰にも気付かれないほど静かだった。




