第四話 噂の出どころ
風の噂
王都南区。
市場通りから一本外れた細い道。
そこにある花屋は、
今日も朝の光に包まれていた。
店先の花は春風に揺れ、
窓辺には柔らかな陽が差している。
いつもの朝。
……のはずだった。
「……まただねぇ」
店の奥で、エマがぽつりと言った。
リアナは花の水を替える手を止める。
「何がです?」
エマは店先を見ていた。
通り。
向かいの壁。
そして——。
花屋の前を、妙にゆっくり通る男二人。
視線だけがこちらを見ている。
花を見る訳でもない。
入る訳でもない。
少しして、そのまま通り過ぎていった。
エマが鼻を鳴らす。
「最近、多いのよ」
リアナは窓の外を見る。
「……お客さんですか?」
「だったら入ってくるでしょ」
エマは枝葉を整えながら言った。
「見てるだけ」
少し間。
風鈴が揺れる。
「……変だと思いません?」
リアナが聞く。
「思うわよぉ」
エマは即答した。
「花見ないんだもん」
《リリエ》は大きな店ではない。
南区の裏通りにある、小さな花屋だ。
常連が多い。
近所の人。
市場帰り。
顔見知り。
だからこそ、
最近の空気は少しだけ目立っていた。
その時。
扉が開く。
入ってきたのは、見覚えのない男だった。
三十前後だろうか。
少し落ち着かない様子で店を見回している。
「……いらっしゃいませ」
リアナが穏やかに声を掛ける。
男は一瞬、言葉を探した。
それから聞く。
「……あの」
「ここ?」
エマが笑う。
「ここって?」
男は少し言いづらそうに続けた。
「……花屋の」
一拍。
「……当たる人いるって」
店が静かになった。
リアナが瞬きをする。
エマだけが、にこりと笑った。
「花買うの?」
男が固まる。
「え?」
「花」
エマは穏やかだった。
でも声は店主のものだった。
「買うの?」
男は視線を泳がせる。
「いや……その……」
エマは腕を組む。
「うちは花屋だよ」
春の光が店先へ落ちる。
男は少し気まずそうだった。
「……すみません」
「冷やかしなら帰んな」
店がしん、と静まる。
エマは笑っている。
けれど、その目は本気だった。
「うちは見世物小屋じゃないの」
男は小さく頭を下げる。
「……失礼しました」
扉が閉まる。静けさが戻った。
リアナは少し困った顔をしていた。
エマは鼻を鳴らす。
「まったくもう」
「エマさん」
「何?」
「……怒ってます?」
エマは花を整えながら言った。
「少しねぇ」
窓の外では、春の風が通り過ぎていく。
《リリエ》には、
少しずつ違う風が吹き始めていた。
静けさが戻る。
風鈴が小さく揺れた。
エマは花鋏を置く。
「……これで三人目」
リアナが顔を上げる。
「今日だけで?」
「今日だけで」
エマは肩を竦めた。
「昨日は二人」
「一昨日は……何人だったかしら」
リアナは少し考える顔になる。
窓の外。
春の光。
いつもの通り。
けれど、
確かに最近——。
花を見ずに店を覗く人が増えていた。
「……気のせいかと思ってました」
リアナが言う。
「私も最初そう思ったわよぉ」
エマは葉を整える。
「でも違った」
少し間。
「花見ないんだもん」
それが一番だった。
《リリエ》へ来る人は、
大体まず花を見る。
色。
香り。
値段。
誰に贈るか。
でも最近来る人は違う。
最初に見るのは、
花じゃなく——。
リアナだ。
エマはそれが気に入らなかった。
「……ごめんなさい」
ぽつりとリアナが言う。
エマが顔を上げる。
「何であんたが謝るの」
「でも……」
「でもじゃない」
即答だった。
エマは腕を組む。
「悪い事した?」
「……してません」
「誰か騙した?」
「してません」
「花枯らした?」
「それは困ります」
エマが吹き出した。
「でしょう?」
リアナも少し笑った。
その時だった。
二人が振り向く。
扉が少しだけ開き——
見慣れた顔が、そっと覗いた。
「……あのぉ」
サラだった。
けれど。
いつもの勢いが無い。
妙に遠慮がちだ。
エマが目を細める。
「……何その顔」
サラは店へ入る。
肩が少し縮こまっている。
「……怒らない?」
エマが即答した。
「内容による」
リアナが首を傾げる。
「どうしました?」
サラは二人を見る。
それから、
申し訳なさそうに頭を掻いた。
「……私さ」
少し間。
「……ちょっと話したかも」
エマが腕を組む。
「ちょっと?」
サラは目を逸らした。
《リリエ》の空気が、
少しだけ静かになった。
エマが腕を組む。
「……まあまあ?」
サラは視線を泳がせた。
「いやその……」
「《ラルカ亭》で?」
「……はい」
「何を?」
サラは少し縮こまる。
いつもの勢いが無い。
「……リアナさんの話を」
リアナが瞬きをした。
「私ですか?」
「うん……」
エマが額を押さえる。
「……あぁ」
何となく察した顔だった。
サラは慌てて手を振る。
「でも悪気じゃないの!」
「それは知ってる」
エマは即答した。
「問題はそこじゃないのよぉ」
サラはさらに小さくなる。
「……ごめん」
《リリエ》に少し沈黙が落ちる。
春の風が窓辺の花を揺らした。
リアナは二人を見ている。
まだ少し状況が分かっていない顔だった。
サラは申し訳なさそうに続ける。
「最初はね?」
「入口の花が評判良かったって話だったの」
エマは頷く。
「それは普通ね」
「うん」
「で」
サラが目を逸らす。
「……ちょっとリアナさんの話になって」
「ちょっと?」
「……少し?」
「サラ」
「……はい」
エマの声は静かだった。
だから余計逃げ場が無い。
サラは観念したように言った。
「……熱いもの気を付けろって言われて」
リアナが少し首を傾げる。
「言いましたね」
「で」
「鍋ほんと危なかったの!」
サラは身振り付きで話し始める。
こうなると止まらない。
「布ずれてて!」
「私ほんと素手で持つとこで!」
エマが聞く。
「火傷したの?」
「してない!」
「じゃあ良かったじゃない」
「良かったんだけど!」
サラは少し困った顔になる。
「……あれ?」
言葉を探している。
「……ってなって」
エマが肩を竦めた。
「で、喋ったのね」
「……喋った」
「どれくらい?」
サラは少し考える。
それから。
「……二卓くらい?」
「二卓」
「……途中から四卓」
エマが吹き出した。
「増えてるじゃないの!」
「だって皆聞くんだもん!」
リアナだけが少し考えていた。
窓辺の光。
風。
それから、サラを見る。
「……つまり」
穏やかな声だった。
「サラさんが原因なんですね」
サラが固まった。
エマが吹き出す。
「そこ理解したのねぇ!」
「いや違うの!」
サラは慌てて両手を振る。
「原因って言い方やめて!?」
「噂っていうか!」
「何て言うの!?」
「……風?」
リアナが小さく言った。
サラが止まる。
エマが腕を組む。
リアナは少し考えるように窓の外を見る。
春風が花を揺らしていた。
「噂は風みたいなものですから」
穏やかな声だった。
「止めようとしても、動く時は動きます」
サラは少し申し訳なさそうに笑う。
「……怒ってない?」
リアナは首を横に振った。
「少し驚きましたけど」
「……ごめん」
「でも」
リアナはサラを見る。
「熱いものは気を付けてください」
一瞬。
サラが目を丸くした。
《リリエ》に、笑い声が戻った。
サラは胸を撫で下ろしている。
「……良かったぁ」
エマが肩を竦める。
「何が良かったのよ」
「追い出されるかと思った」
「私そんな人?」
「内容によるって言った!」
「言ったわねぇ」
また少し笑いが起きる。
春の風が店の中を抜けていく。
窓辺の花が揺れた。
サラはようやくいつもの調子を少し取り戻したらしい。
店の中を見回す。
「……でも」
少し言いづらそうに聞く。
「ほんとに増えてるの?」
エマが頷く。
「増えてる」
「花見ないの」
「まずリアナ見る」
サラの顔が少し曇った。
「……うわぁ」
「うわぁよ」
エマは腕を組む。
怒っているというより、
呆れている顔だった。
「別に有名になりたい訳じゃないのよぉ」
リアナが花を整えながら言う。
「私はなってません」
「リアナはね」
エマは即答する。
「でも店がなるの」
少し間。
エマは窓の外を見る。
南区の細い道。
行き交う人影。
「……花屋はねぇ」
静かな声だった。
「花買いに来る場所でいて欲しいのよ」
店の空気が少し落ち着く。
サラはその言葉を聞いていた。
普段は明るいエマが、
店の事になると少し真面目になる。
それが分かった。
「……ごめん」
サラがもう一度言う。
エマはすぐ手を振った。
「だから、あんた責めてないって」
「口軽いとは思ってるけど」
「そこは否定できない!」
《リリエ》にまた笑いが戻る。
その時だった。
風鈴が、からりと鳴った。
三人が振り向く。
扉が開く。
春の光が差し込む。
そこに立っていたのは——
見覚えのある青年だった。
青い外套。
少し癖のある髪。
そして、どこか気まずそうな顔。
ユリウスだった。
一瞬。
店が静かになる。
ユリウスは店内を見る。
リアナ。
エマ。
そして——サラ。
「あ」
サラが声を上げる。
ユリウスも少し目を丸くした。
「……あれ?」
思わぬ顔ぶれだったらしい。
《リリエ》の風鈴が、
小さく揺れていた。
サラも少し目を丸くした。
「えっ」
「兵士さん?」
ユリウスは苦笑した。
「……ああ」
「この前の」
「えっ!」
サラはリアナを見る。
リアナは静かに頷いた。
「馬の方ですね」
「ああ!」
サラはようやく繋がったらしい。
「白い馬の!」
エマだけは腕を組んだままだった。
店主の顔だ。
笑ってはいる。
でもちゃんと見ている。
ユリウスもそれに気付いたらしい。
少しだけ背筋を正した。
「……あの」
「いらっしゃい」
エマが先に言う。
「花買う?」
以前と同じ問いだった。
店の空気が少し止まる。
サラがちらっとユリウスを見る。
ユリウスは一瞬だけ瞬きをして——
それから、ふっと笑った。
「……買います」
エマが目を細める。
「誰に?」
「妹」
即答だった。
少し間。
エマの腕がほどける。
「あら」
その声は少し柔らかかった。
「あら」
エマの声が少し柔らかくなる。
店の空気も、ほんの少しだけ緩んだ。
ユリウスは少し肩の力を抜いた。
「来週、誕生日なんです」
「妹さんの?」
リアナが聞く。
「ええ」
彼は頭を掻いた。
「で……」
少し店の中を見る。
花。
窓辺。
春の匂い。
それから苦笑した。
「……正直、花なんて全然分からなくて」
サラが即座に口を挟む。
「分かる!」
ユリウスが笑う。
「だろ?」
「私もそれ!」
「仲間だな」
エマが吹き出した。
「何の仲間よ」
ユリウスはその空気に少し安心したようだった。
この前来た時より、
肩の力が抜けている。
彼はふとリアナを見る。
春の窓辺。
穏やかな横顔。
そして。
演習地の夜を少し思い出す。
火。
風。
冷えた空気。
焚火。
『……無理に見張りを代わらない方が』
ユリウスは少し迷うように笑った。
「……それと」
エマが眉を上げる。
「それと?」
彼は少し言いづらそうだった。
「……一応」
「お礼も」
店が少し静かになる。
サラが先に反応した。
「お礼?」
ユリウスは頷く。
「演習」
少し肩を竦める。
「……火、ほんと危なかったんです」
エマが目を細める。
「へぇ?」
ユリウスは苦笑した。
「大事って程じゃないんですけど」
「火の粉が飛んでて」
「あと」
少し間。
「夜番も」
リアナは静かに聞いていた。
ユリウスは炎を思い出すように言う。
「代わらなくて良かったかもなって」
店に少し沈黙が落ちる。
サラが真っ先にリアナを見る。
その顔がもう面白い。
「……え」
「ほんとに?」
リアナは少し困ったように瞬きをした。
「……たまたまですよ」
ユリウスが笑った。
「かもしれません」
「でも」
彼は穏やかに続ける。
「助かりました」
店に少し静かな空気が落ちる。
サラが——黙っていられなかった。
「ちょっと待って!」
ユリウスが振り向く。
「はい?」
「火って何!?」
エマが肩を揺らした。
「そこ行くと思ったわぁ」
サラはもう身を乗り出している。
「えっほんとに!?」
「いや……」
ユリウスは少し苦笑した。
「そんな大袈裟な話じゃないんです」
「演習中に焚火見てて」
「火の粉が飛んでたんですよ」
サラはリアナを見る。
リアナは少し困った顔のままだ。
ユリウスは続けた。
「あと夜番」
「腹壊した奴いて」
「代わってくれって言われたんですけど」
エマが眉を上げる。
「代わらなかったの?」
「……何か」
ユリウスは少し笑った。
「思い出したんです」
店が少し静かになる。
春の光。
揺れる花。
彼はどこか照れくさそうだった。
「だからまあ……」
肩を竦める。
「気になっただけです」
サラは完全に目を丸くしていた。
「……えぇ」
「ほんとに?」
エマが横から口を挟む。
「サラ」
「何!?」
「目が面白くなってる」
「なってない!」
「なってるわよぉ」
また笑いが起きる。
ユリウスもつられて笑っていた。
《リリエ》の空気は、不思議だった。
静かなのに、
妙に人を落ち着かせる。
その時。
エマがふと聞く。
「……で?」
ユリウスが顔を上げる。
「はい?」
「妹さん」
エマは花棚を見る。
「何が好きなの?」
話は自然と花へ戻る。
ユリウスは少し考えた。
「……明るい奴です」
サラがすぐ言う。
「それ私じゃん」
「誰も聞いてない」
「ひどくない!?」
ユリウスも肩を揺らしていた。
「妹、十六なんです」
リアナが静かに聞く。
「どんな方ですか?」
ユリウスは少し考える。
そして、
どこか困ったように笑った。
「……よく喋ります」
サラが胸を張る。
「やっぱ私じゃん」
エマが即座に返す。
「妹さんが可哀想だからやめなさい」
店内に笑いが広がる。
ユリウスも肩を揺らした。
「いや……」
少し考える。
「でも近いかも」
「えっほんと!?」
サラが嬉しそうに身を乗り出す。
「どこが!?」
ユリウスは花棚を見る。
窓辺の光。
揺れる花。
それから、どこか優しい顔になった。
「賑やかなんです」
「家の中でもずっと喋ってる」
サラが頷く。
「分かる」
「あんたは分かり過ぎる」
エマが呆れる。
ユリウスは少し笑った。
「でも」
「明るい奴で」
「よく笑うんですよ」
その声は、兄の声だった。
リアナは静かに聞いている。
「兄妹仲が良いんですね」
ユリウスは少し肩を竦めた。
「どうですかね」
「小さい頃はよく泣かせました」
「最低!」
サラが即反応する。
「何したの!?」
「虫」
「最低!!」
店が笑いに包まれる。
ユリウスも苦笑した。
「今はちゃんと謝ってます」
「謝って済む問題かなぁ!?」
「だから花買いに来てるんだろ」
エマが助け舟を出す。
「優しいお兄ちゃんじゃない」
ユリウスは少し気まずそうだった。
「……そう見えるなら」
リアナは花棚へ視線を向ける。
春の花が並んでいる。
柔らかな色。
明るい色。
香り。
窓辺の風。
「十六歳……」
小さく呟く。
「元気な方なら」
彼女はゆっくり花を見ていた。
選ぶというより、
話を聞いているような目だった。
サラが横から覗く。
「何選ぶの?」
「まだ考え中です」
「私は黄色!」
「聞いてません」
「ひどくない!?」
また笑いが広がる。
ユリウスはそのやり取りを見ていた。
静かな花屋。
明るい食堂娘。
口は少し厳しいけれど優しい店主。
そして。
花を見ているリアナ。
彼はふと、演習地の夜を思い出す。
焚火。
冷えた風。
リアナの話。
あの時は少し不思議だった。
でも今は——。
その不思議さが、少し分かる気がしていた。
《リリエ》には、
穏やかな空気が流れていた。
春の陽。
窓辺の花。
そして、誰かのために花を選ぶ時間。
リアナは花棚の前へ立つ。
指先が花へ触れる。
急がない。
いつものように。
ユリウスはその後ろ姿を見ていた。
花なんて、正直よく分からない。
でも。
この店では、
花を選ぶ時間そのものが何か違う気がした。
リアナが聞く。
「妹さんは、どんな色がお好きですか?」
ユリウスは少し考えた。
「……青?」
「多分」
サラがすぐ言う。
「多分なんだ」
「聞いた事ないんだよ」
「兄!」
「難しいだろ!」
エマが肩を揺らす。
「十六にもなれば聞きづらいわねぇ」
ユリウスは少し苦笑した。
「そうなんです」
リアナは頷く。
責める顔ではない。
「青……」
小さく呟く。
花棚を見る。
淡い青。
紫。
白。
光を受けた花弁が揺れていた。
「他には?」
ユリウスは腕を組んだ。
少し真面目に考えている。
「……甘い物好きです」
サラが吹き出した。
「急に情報雑!」
「いやでも大事だろ!」
「花関係ある!?」
「分かりません!」
笑いが広がる。
リアナは少しだけ笑った。
「ありますよ」
ユリウスが顔を上げる。
「あるんですか?」
「ええ」
彼女は花を見ながら続ける。
「好きな物が分かると、その人の雰囲気も少し分かります」
サラが感心した顔になる。
「へぇ」
エマはもう慣れている顔だった。
リアナは花を一本手に取る。
淡い青。
それから、もう一本。
白。
窓辺の光に透けるような花だった。
「よく外へ出ますか?」
「妹ですか?」
「はい」
ユリウスは少し考えた。
「出ます、友達多いし市場も好きですね」
リアナは頷く。
「なるほど」
彼女は花を並べていく。
青。
白。
それに、柔らかな色を少し。
サラが横から覗く。
「……何か」
「それっぽい」
「便利な感想ですね」
「でも分かる!」
ユリウスは花を見る。
まだ完成じゃない。
でも。
少しずつ形になっていく。
それは不思議だった。
ただ花を束ねているだけなのに、妹の顔が少し浮かぶ。
よく笑う顔。
家で騒がしい声。
小さい頃。
虫で泣いた事。
……いや、あれは悪かった。
思わず少し笑う。
リアナはその表情を見ていた。
「……仲が良いんですね」
ユリウスは少し驚いた顔になる。
「え?」
「今、笑ってました」
一瞬。
店が静かになる。
ユリウスは少し目を丸くして——
それから苦笑した。
「……そう見えます?」
リアナは小さく頷く。
「ええ」
春の風が、
《リリエ》の花を静かに揺らしていた。
「……そう見えます?」
ユリウスは少し照れたように笑った。
リアナは小さく頷く。
「ええ」
「妹さんの話をする時」
花を整えながら続ける。
「少し優しい顔になります」
一瞬。
ユリウスが言葉に詰まる。
サラがすぐ反応した。
「おぉ〜」
「やめて」
「何で!?」
エマが肩を揺らす。
「サラ、面白がり過ぎ」
「だって今の見た!?」
ユリウスは少し困った顔で頭を掻いた。
「……そんな顔してました?」
「してた」
サラ即答。
「してない」
「してた!」
「あんたはどっち側なんだよ」
「面白い側!」
リアナはそのやり取りを聞きながら、花を束ねていく。
青。
白。
そして——。
少し柔らかな色。
ユリウスがふと聞く。
「……それ」
リアナが顔を上げる。
「はい?」
「青だけじゃないんですね」
彼女は花を見る。
窓辺の光が花弁を照らしていた。
「妹さん、明るい方なんですよね?」
「ええ」
「なら」
少し花を整える。
「青だけだと、少し静か過ぎるかもしれません」
サラが覗き込む。
「なるほど〜」
「分かってます?」
「雰囲気!」
「便利ですねそれ」
エマは腕を組み、花束を見ていた。
店主の目だ。
「……良いんじゃない」
ユリウスも花を見る。
まだ詳しくは分からない。
でも。
何となく。
妹が好きそうだと思えた。
それが不思議だった。
「……これ」
彼は少し真面目な顔になる。
「喜ぶかな」
リアナはすぐには答えなかった。
少し考える。
花を見る。
それから。
ユリウスを見る。
「……多分」
穏やかな声だった。
「花も嬉しいと思います」
一瞬。
店が静かになる。
ユリウスが瞬きをした。
「……花?」
サラが吹き出した。
「あっ出た!」
「出ましたねぇ」
エマが笑う。
リアナだけが少し不思議そうだった。
「……変ですか?」
「変!」
サラ即答。
「でもリアナさんっぽい!」
また笑い声が広がる。
ユリウスも少し肩を揺らしていた。
そして。
彼はふと、完成しつつある花束を見つめる。
店は静かだった。
けれど、不思議と話し声が途切れない。
リアナは最後の葉を整えている。
指先は丁寧だった。
急がない。
花を扱う人の手だった。
サラが横から覗く。
「完成?」
「もう少しです」
「待ち遠しい!」
「サラさんのじゃありませんよ」
「分かってる!」
《リリエ》に小さな笑いが広がる。
ユリウスは花束を見る。
青。
白。
それに柔らかな色が少し。
派手ではない。
でも、目を離しにくかった。
リアナは紐を整えながら聞く。
「妹さん、お名前は?」
ユリウスが顔を上げる。
「ミレアです」
リアナは小さく頷く。
「……ミレアさん」
花束を見る。
まるで名前を馴染ませるようだった。
エマが聞く。
「離れて暮らしてるの?」
「今は」
ユリウスが頷く。
「父と実家にいます」
「俺、兵舎なんで」
サラがすぐ聞く。
「会うの久しぶり?」
「二ヶ月ぶりくらいですかね」
「長っ!」
「兵士だからなぁ」
エマが言う。
ユリウスは少し苦笑した。
「慣れてますよ」
でも。
その顔は少しだけ寂しそうでもあった。
リアナは何も言わない。
ただ花を整える。
やがて。
「……できました」
店の空気が少し静かになる。
リアナが花束を持ち上げた。
春の光が花弁を照らす。
青。
白。
そして柔らかな色。
明るさと落ち着きが、自然に寄り添っている。
ユリウスは少し目を丸くした。
「……あ」
それしか出なかった。
サラが嬉しそうに言う。
「いい!」
エマも頷く。
「うん」
「《リリエ》って感じ」
リアナは花束をユリウスへ向ける。
「どうでしょう」
彼は少し黙った。
花なんて分からない。
今もそうだ。
でも。
妹の顔が浮かんだ。
笑う顔。
よく喋る声。
甘い物好き。
市場を歩く姿。
「……多分」
小さく笑う。
「怒られます」
サラが吹き出した。
「何で!?」
「いや」
ユリウスも笑っていた。
「綺麗過ぎて」
自然と笑いが広がる。
エマが腕を組む。
「良いお兄ちゃんじゃない」
「虫泣かせたけどな」
「まだ言う!?」
春の風が窓辺を揺らした。
その時だった。
通りの方から、何やら話し声が聞こえる。
《リリエ》の前を通る二人連れだった。
「……ここ?」
「多分」
「当たるって……」
声は小さい。
でも。
店の中には聞こえた。
エマが眉を上げる。
サラが、すっ……と目を逸らす。
リアナは少し首を傾げる。
そしてユリウスだけが、
花束を持ったまま—状況を理解し始めていた。
通りから、また小さな声が聞こえる。
「……ここだろ?」
「南区の……」
「花屋」
足音が止まる。
店先。
風鈴の向こう。
店内少しだけ静かだった。
サラが、すっ……と視線を逸らす。
エマが横目で見る。
「……何その顔」
「何でもない!」
「すごく心当たりありそうだけど」
「気のせい!」
リアナはまだ状況を半分くらいしか飲み込めていない顔だった。
その時。
風鈴が鳴る。
扉が少し開いた。
入ってきたのは若い男二人。
商人見習いだろうか。
二十前後。
店へ入ったものの、どこか落ち着かない。
まず花を見る。
……いや。
正確には。
花を見ようとしている。
でも視線が少し迷っている。
エマが先に声を掛けた。
「いらっしゃい」
二人が顔を上げる。
「……あ」
「どうも……」
エマは笑っていた。
店主の笑顔だ。
「花?」
少し間。
男達は顔を見合わせる。
それから。
「……えっと」
片方が聞いた。
「ここって……」
エマが即座に言う。
「花屋」
店が一瞬静かになる。
サラが肩を震わせている。
男は少し慌てた。
「いやそうじゃなくて!」
「当たる人……」
エマがにこりと笑う。
「花買うの?」
男達が固まる。
ユリウスは思わず吹き出しそうになっていた。
……強い。
この人、強いな。
男達は視線を泳がせる。
「その……」
「ちょっと話聞いて……」
エマは腕を組む。
「花の話?」
「……いや」
「じゃあ何の話?」
春の光が店へ差し込む。
男達は完全に押されていた。
サラが小声でユリウスへ囁く。
「……エマさん強いんだよ」
「見れば分かる」
ユリウスも小声で返す。
リアナは少し困ったように二人を見ていた。
怒ってはいない。
でも、どうしたら良いか考えている顔だ。
その時。
男の一人が、ふとユリウスへ気付いた。
「あれ?」
皆が見る。
男は少し目を丸くする。
「……兵士?」
ユリウスが瞬きをした。
「ん?」
「演習行ってた?」
一瞬。
ユリウスが考える。
それから思い出した。
「ああ……」
「補給所の?」
男が頷く。
「そう!」
どうやら顔見知りらしい。
男は少し興奮気味だった。
「聞いたんだよ!」
エマが眉を上げる。
「……何を?」
男はユリウスを見る。
それから——。
店の中。
その全部を見回して言った。
「……火の話」
一瞬。
サラが、
「うわぁ……」
と小さく呟いた。
ユリウスは花束を持ったまま、
何とも言えない顔になっていた。
「……火の話」
店の空気が、少しだけ静かになる。
春の風が窓辺を揺らした。
エマが腕を組む。
「……へぇ?」
男達は少し気まずそうだった。
でも来た以上、引き返せないらしい。
片方が慌てて言う。
「いや!」
「別に冷やかしじゃなくて!」
エマが聞く。
「花買うの?」
「…………」
男達が詰まる。
ユリウスが横で小さく吹き出した。
……これ、逃げられないやつだ。
男は観念したように言った。
「……買います」
「誰に?」
「母に」
即答だった。
エマの腕がほどける。
「あら」
その変化が分かりやすすぎて、
サラが吹き出す。
「判定早っ」
「花屋だもの」
エマは悪びれない。
男達も少し肩の力を抜いたらしい。
けれど。
もう一人の方が、ちらちらとリアナを見ている。
それをエマは見逃さなかった。
「で?」
男が少し固まる。
「……で?」
「母親に花買う話と」
エマは穏やかに笑う。
「火の話は別でしょう?」
店内が小さな沈黙が落ちる。
ユリウスは、少しだけ空を仰ぎたくなった。
……強いなぁ。
男達は顔を見合わせる。
そして。
男が、少しだけ真面目な顔になった。
「……兵士さんから聞いたんだ」
ユリウスを見る。
「焚火の火の粉」
「夜番」
「……ちょっと当たったって」
リアナは困ったように瞬きをする。
「……たまたまですよ」
男は頷いた。
「かもしれない」
「でも」
少し言いづらそうに続ける。
「最近、商売うまくいかなくてさ」
その場が静かになる。
男は頭を掻いた。
「……で」
「もし話聞けるならって」
サラがさっきまでの勢いを少し引っ込める。
エマもすぐには言わなかった。
リアナは男を見ている。
怒ってはいない。
でも少し困っている。
その時。
ユリウスが花束を見て、
それから小さく息を吐いた。
「……あの」
皆が見る。
彼は少し苦笑していた。
「先に言っときますけど」
男達が顔を上げる。
「俺、占い師だとは聞いてないですよ」
一瞬。静かになる。
それから——。
サラが吹き出した。
「そこ!?」
ユリウスは肩を竦める。
「いや大事だろ」
「じゃあ何なんですか!」
彼は少し考えて。
店内を見る。
リアナ。
それから、ぽつりと言った。
「……花屋」
リアナが少し目を丸くした。
エマは、ふっと笑う。
そして。
サラは何故か嬉しそうだった。
「……でしょ!?」
「何でお前が誇らしげなんだ」
ユリウスが苦笑する。
店内に少し笑いが戻る。
けれど。
男はまだ少し困った顔のままだった。
光が店へ差し込む、入口の近く。
二人は少し居心地悪そうに立っている。
リアナはその様子を見ていた。
「……商売が、ですか?」
男が顔を上げる。
「あ……」
少し迷ってから頷く。
「うん」
「補給所の仕事なんだけど」
頭を掻く。
「最近ちょっと噛み合わなくてさ」
隣の男が補足する。
「荷が遅れたり、取引先と揉めたり、別に潰れるとかじゃないんだ」
男は苦笑した。
「でも何かこう……」
言葉を探している。
「……流れ悪いっていうか」
場が少し静かになる。
リアナは頷いた。
分からないとは言わない。
でもすぐ答えもしない。
その間が、彼女らしかった。
エマは腕を組んで見ている。
店主の顔だ。
サラも今は黙っていた。
リアナは花棚へ目を向ける。
並ぶ春の花。
窓辺の光。
それから、穏やかに聞いた。
「……最近」
男が顔を上げる。
「休めてますか?」
「え?」
予想外だったらしい。
「いや……」
少し考える。
「忙しいけど」
「寝てない訳じゃ——」
隣の男が即座に言った。
「寝てない」
「おい」
「こいつ最近ずっと補給所いるんだよ」
サラが小さく「うわぁ」と漏らす。
男は少し気まずそうだった。
「……まあ」
「忙しい時期で」
リアナは静かに聞いていた。
「食事は?」
「……適当」
「甘い物多いです」
隣がまた言う。
「お前ほんと余計な事——」
「事実だろ」
少し笑いが戻る。
リアナは小さく頷いた。
そして。
男を見る。
その目は、不思議と責める目ではなかった。
「……商売の事は」
穏やかな声だった。
「私には分かりません」
男達が少し肩を落とす。
けれど。
リアナは続けた。
「でも」
窓辺の風が花を揺らす。
「疲れている時は」
「悪い事だけ、よく見える時があります」
店が静かになる。
男が少し黙った。
リアナは花を見る。
「だから」
「少し休んでください」
「それから」
小さく微笑む。
「お母様に花を買って帰るのは、良いと思います」
一瞬。
男達がぽかんとする。
サラが先に吹き出した。
「……あぁ」
「リアナさんだ」
エマも肩を揺らす。
ユリウスは花束を持ったまま、
何だか少し納得した顔をしていた_
男は数回瞬きをして——
それから、困ったように笑った。
「……それ」
「占いじゃないな」
リアナは小さく首を傾げる。
「花屋ですから」
また静かな笑いが広がった。
サラが肩を揺らす。
「でしょ?」
「何でお前が誇らしいんだ」
ユリウスが苦笑する。
春の風が店へ吹き込んだ。
窓辺の花が揺れる。
エマは腕を組んだまま、男達を見る。
「で?」
二人が顔を上げる。
「お母さんに花買うの?」
補給所の男は少し目を丸くした。
「……え?」
「買うんでしょ?」
エマは当然のように言う。
「話聞いたんだから」
また店内が少し静かになる。
男は隣を見る。
隣も見る。
二人とも、どうしてそうなったのか分かっていない顔だった。
サラが吹き出す。
「エマさんのそれ好き」
「花屋だもの」
悪びれない。
補給所の男は、少しだけ肩の力を抜いた。
「……いや」
頭を掻く。
「母親に花なんて初めてだ」
エマが即答する。
「皆そうよ」
「そうなんですか?」
「花屋に来る男の半分は」
少し考える。
「いや七割かし」
「最初そんな顔してる」
笑いが起きる。
男達もつられて笑っていた。
リアナは花棚へ向かう。
「お母様はどんな方ですか?」
男は少し考えた。
さっきより顔が柔らかい。
「……働き者」
ぽつりと言う。
「小さい頃からずっと働いてて」
「口うるさいけど」
少し笑う。
「でも飯はうまい」
サラが頷く。
「大事」
「お前食べ物基準だろ」
「大事!」
エマが肩を揺らした。
リアナは花を見ている。
ユリウスはその横で、自分の花束を抱えていた。
そして。
ふと、補給所の男達を見る。
少し前の自分に似ていると思った。
花なんて分からない。
でも、
誰かの顔を思い浮かべている。
その時だった。
サラが小声でユリウスへ聞く。
「……ねぇ」
「ん?」
「兵士さんさ」
「ユリウス」
「ユリウスさん」
少し声を潜める。
「……ほんとに火あったの?」
ユリウスは一瞬黙って——
それから苦笑した。
「……まだ聞く?」
サラが真顔で頷いた。
「聞く」
「何でそんな真剣なんだよ」
「気になる!」
「お前ほんと好きだな」
「こういう話は!」
エマが横から言う。
「サラ」
「何?」
「仕事中なら怒るやつね」
「今日休み!」
笑いが起きる。
補給所の男達まで何となく聞く空気になっていた。
リアナは花を選ぶ手を止めていない。
でも耳は聞いている。
ユリウスは少し困った顔になる。
「……大した話じゃないんだって」
「そこ!」
サラが指を差す。
「皆そう言う!」
「皆?」
「うちの店長も!」
「何なんだその共通項」
ユリウスは花束を抱え直した。
「……演習中」
ぽつりと話し始める。
「夜、焚火見てたんだ」
サラが頷く。
補給所の男達も聞いている。
「で」
「火の粉飛んでた」
「それだけ?」
「それだけ」
サラが首を傾げる。
「……で?」
「踏んだ」
「……で?」
「終わり」
一瞬。静まり——
サラが叫んだ。
「終わり!?」
また笑いが広がる。
ユリウスも吹き出した。
「だから言ったろ!」
「いやいやいや!」
サラは納得していない。
「もっと何かあると思うじゃん!」
「無いよ!」
エマが肩を揺らす。
「平和で良かったじゃない」
「いやそうなんだけど!」
サラはまだ少し不満そうだった。
ユリウスは苦笑しながら続ける。
「あと夜番」
「腹壊した奴いて」
「代わってくれって言われた」
補給所の男が聞く。
「で?」
「……断った」
「珍しいな」
「俺もそう思った」
少し間。
ユリウスは窓辺を見る。
静かな店。
それから、ぽつり。
「……何か気になったんだ」
少し静かになる。
サラはその顔を見ていた。
さっきまでの茶化す顔じゃない。
ユリウスは肩を竦める。
「そしたら、ほんとに腹壊しててさ、結構大変そうだった」
補給所の男が小さく言う。
「……あぁ」
ユリウスは苦笑した。
「だからまあ」
「火も夜番も」
「……たまたまだよ」
少し沈黙。
春風が窓辺を揺らす。
その時。
エマが、ふっと笑った。
「たまたまでも」
皆が見る。
エマは花を見ながら言った。
「助かったなら、それで良いじゃない」
一瞬。
ユリウスが黙る。そして
ユリウスが小さく笑った。
「……そうかも」
補給所の男達も、どこか肩の力が抜けた顔をしている。
リアナは何も言わなかった。
少しだけ柔らかい顔で窓辺の花を見ていた。
揺れる花。
静かな店。
その空気の中——。
ただ一人。
納得していない顔があった。
サラである。
腕を組み、
じぃ……っとユリウスを見ている。
ユリウスが気付く。
「……何だよ」
サラは真顔だった。
「……まだあるでしょ?」
一瞬静まり——
ユリウスが吹き出した。
「無いよ!」
「絶対ある!」
「何でだよ!」
「勘!」
「一番信用できないやつ!」
エマが肩を揺らす。
「サラ」
「何!?」
「それ以上は営業妨害」
「えぇ!?」
笑いが広がる。
けれど。
サラだけはまだ諦めていなかった。
じぃ……。
その視線に、
ユリウスは少しだけ居心地悪そうに頭を掻く。
春の風が、
《リリエ》の風鈴を小さく揺らした。
――そして。
一人、納得のいかないサラの姿があった。




