第三話 花屋の噂
花屋の娘の話
《リリエ》を出た頃には、陽はすっかり高くなっていた。
春の風が街路を抜けていく。
レオンは花束を抱え、ユリウスは白馬の手綱を引いて歩いていた。
少し先には、もう一頭の馬がのんびり後をついて来ている。
市場の賑わいは昼へ向かって増していた。
荷車。
呼び声。
焼きたてのパンの匂い。
王都は今日も忙しい。
けれど二人の足取りは、どこかゆっくりだった。
ユリウスがちらりと横を見る。
花束。
橙と白。
淡い黄色。
朝の光に柔らかく映えていた。
彼は口元を緩める。
「……で?」
レオンが嫌な予感をした顔になる。
「何だよ」
「いや別に?」
ユリウスはわざとらしく肩を竦めた。
「花買ってるなぁと思って」
「買うだろ」
ユリウスが笑う。
「優しいなぁ」
「うるさい」
「母親だっけ?」
レオンは少し視線を逸らした。
「……そう」
「へぇ」
春の風が吹く。
花束の葉が小さく揺れた。
ユリウスは少し歩きながら、何気なく言う。
「でも意外だったな」
「何が」
「お前が花屋入るの」
レオンは苦笑する。
「俺もそう思った」
「だろ?」
「入りづらかったし」
「だよなぁ」
ユリウスは頷いた。
それから、ふと思い出したように笑う。
「でも」
「面白い店だった」
レオンも小さく笑った。
「……まあな」
少し間があった。
通りの向こうで鐘が鳴る。
市場の喧騒が流れていく。
ユリウスが白馬の首を撫でた。
「花屋の娘」
彼は少し笑う。
「変な子だったな」
レオンは即座に返した。
「失礼だろ」
「いや褒めてる」
「褒めてるのか?」
「俺の馬見て、落ち着かないとか言ったぞ?」
白馬が小さく鼻を鳴らした。
ユリウスは肩を竦める。
「しかも当たってたし」
レオンは少し黙る。
花束を見る。
それから、ぽつりと呟いた。
「……靴、見るけどな」
ユリウスが吹き出した。
「お前もう信じてるじゃねぇか!」
「信じてない」
「じゃあ何で見るんだよ」
レオンは少し考えて。
真面目な顔で答えた。
「……気になるだろ」
春の王都に、ユリウスの笑い声が響いた。
「気になるだろ、か」
「うるさい」
レオンは花束を抱え直す。
花が潰れないように、少しだけ慎重な手つきだった。
ユリウスはそれを見て、また笑いそうになる。
「いやでも」
彼は白馬の歩調に合わせながら言った。
「俺も火はちょっと気になる」
「だろ?」
「そこは否定しろよ」
二人は市場通りを抜けていく。
荷車の軋む音。
露店の呼び声。
魚屋の前では客が値段で揉めていた。
王都は相変わらず騒がしい。
やがて、兵舎のある区画が見えてくる。
石造りの建物。
訓練場。
馬小屋。
ここまで来ると、歩く人間も兵士が増えていた。
門の前で、見張りの兵士が二人に気付く。
「あ、お帰り」
「ただいま」
ユリウスが手を上げる。
その視線が、すぐレオンの花束へ落ちた。
一拍。
そして。
「……お前」
兵士が真顔で言った。
「どうした?」
ユリウスが即座に横を向く。
レオンは嫌な予感しかしなかった。
「いや違う」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
見張り兵は腕を組んだ。
「いやだって」
花束を見る。
レオンを見る。
「急にどうした?」
ユリウスが肩を震わせている。
「母親だよ」
「母親かぁ」
妙に納得した顔だった。
「何だその反応」
「いや別に?」
「お前もさっき同じ事言っただろ」
門をくぐる。
兵舎の中庭では、既に演習準備が始まっていた。
荷物確認。
槍や盾の点検。
馬の世話。
普段より少し慌ただしい。
その空気の中へ入ると、自然と兵士の顔へ戻る。
けれど。
花束だけは、少し場違いだった。
だから余計目立つ。
案の定。
中庭の向こうから声が飛んだ。
「おーいレオン!」
大柄な兵士がこちらへ歩いて来る。
三十代くらいだろうか。
日に焼けた顔。
いかにも古参という雰囲気だった。
「何だそれ」
レオンが即答する。
「花」
「見れば分かる」
ユリウスが吹き出した。
古参兵は花束を見る。
それから、にやりと笑った。
「へぇ」
「春だなぁ」
「だから違う!」
「何が?」
「……母親」
古参兵は少し目を丸くした。
「ああ」
そしてすぐ頷く。
「そっちか」
「そっちって何ですか」
ユリウスはもう笑いを隠していない。
古参兵は笑いながら聞く。
「で、どこの花屋だ?」
レオンは少し間を置いて答えた。
「……《リリエ》」
その名前に、ユリウスが横から口を挟む。
「知ってるか?」
古参兵は少し考える顔になる。
「花屋は詳しくねぇな」
「でも」
ユリウスは妙に楽しそうだった。
「面白い店だったぞ」
古参兵が眉を上げる。
「面白い?」
ユリウスは少し笑った。
「花屋の娘がいてさ」
「変な事言うんだよ」
レオンがすぐ訂正する。
「変じゃない」
「ほら始まった」
「始まってない」
中庭に、小さな笑いが広がっていった。
レオンは無言で荷物を下ろした。
花束を木箱の上へそっと置く。
潰れない場所を選んでいる辺りが、少し真面目だった。
それから腰を下ろし、演習用の靴を脱ぐ。
頑丈な革靴だった。
泥道も山道も歩くためのものだ。
ユリウスが横から覗き込む。
「信じてるじゃねぇか」
「確認してるだけ」
「同じだろ」
レオンは靴を手に取り、何気なく底を見た。
その時だった。
「……あれ」
指先が止まる。
靴底の端。
革を留めている部分が、少し浮いていた。
よく見ると、縫い目が一部ほつれている。
古参兵が覗き込む。
「どれ」
レオンが靴を渡す。
古参兵は指で押して、すぐ顔をしかめた。
「……あー」
「こりゃ駄目だ」
ユリウスが身を乗り出す。
「そんな悪いのか?」
「今はまだな」
古参兵は靴底を軽く曲げた。
すると、端が少し開く。
「でも山道歩きゃ広がる」
「最悪、底が剥がれるぞ」
一瞬。
周りが静かになる。
レオンは少し目を丸くしていた。
普段なら見逃していた程度の傷みだ。
演習前だからこそ、確認していなかったかもしれない。
古参兵は靴を返しながら笑う。
「運が良かったな」
レオンは靴を見つめた。
大事ではない。
でも。
確かに——少し危なかった。
その時、ふと頭に浮かぶ。
『靴は、少し見ておいた方がいいかもしれません』
春の花屋。
穏やかな声。
レオンは小さく息を吐いた。
「……靴、か」
ユリウスが横から覗き込む。
「な?」
「ちょっと気になるだろ?」
レオンは靴を履き直しながら答える。
「……まだ信じてない」
「はいはい」
「確認して良かったとは思ってる」
古参兵が笑う。
「それを信じてるって言うんだよ」
中庭にまた笑いが起きた。
演習準備はその後も続いた。
靴の補修。
荷物の確認。
水袋の点検。
花束は潰れないよう、レオンの荷とは別に置かれていた。
やがて昼を過ぎ、
兵士達は明朝出発のため早めの休息へ入る。
――翌朝。
王都を離れた一行は、北西の演習地へ向かっていた。
春とはいえ、郊外へ出れば風は少し冷たい。
馬の蹄が土を踏む。
荷車が軋む。
空はよく晴れていた。
レオンは補修した靴を確かめるように歩いていた。
違和感はない。
隣ではユリウスが白馬を引いている。
「……で」
彼が笑う。
「花、渡せたのか?」
レオンは少し視線を逸らした。
「渡した」
「どうだった?」
少し間があった。
それから、ぽつり。
「……喜んでた」
ユリウスがにやりとする。
「良かったじゃねぇか」
「うるさい」
「泣いた?」
「泣いてない!」
「ちょっと期待した」
「何をだよ」
一行の前方では、隊長が演習地を確認している。
半日ほど進んだ頃、
彼らは小さな林の近くで野営準備に入った。
簡易天幕。
馬の繋留。
薪集め。
慣れた作業だった。
夕方になると、風が変わる。
昼の暖かさが少しずつ消えていく。
レオンは荷を整えながら、ふと空を見た。
「……冷えるな」
古参兵が薪を抱えて笑う。
「山側だからな」
「春でも夜は別だ」
レオンは黙って上着を引き寄せる。
その時。
ふと頭に浮かんだ。
『……夜は冷えます』
春の花屋。
穏やかな声。
彼は小さく苦笑する。
「……そこまでか」
「ん?」
ユリウスが聞く。
「いや」
レオンは首を振った。
「何でもない」
焚火の準備が始まる。
ユリウスが薪を組みながら言う。
「火なぁ」
古参兵が即座に言った。
「ちゃんと消せよ?」
「だから何なんだよその流れ!」
兵士達が笑う。
ユリウスも苦笑しながら火打石を取り出した。
その時だった。
別の若い兵が、少し疲れた顔で近付いてくる。
「ユリウス」
「ん?」
「悪い」
彼は肩を回した。
「俺、夜番代わってくれないか?」
ユリウスが顔を上げる。
「どうした」
「昼から腹が微妙でさ……」
火の前。
風が吹く。
その瞬間、
ユリウスの頭に、不意に浮かぶ。
『……無理に見張りを代わらない方が』
彼は少しだけ、返事を止めた。
ユリウスは少しだけ、返事を止めた。
焚火の前。
風が吹く。
若い兵は本当に辛そうな顔だった。
「……悪い」
もう一度言う。
「一回だけ」
ユリウスは少し困った顔になる。
普段なら、多分代わっていた。
そういう性格だ。
実際、これまでも何度かある。
古参兵が薪を組みながら顔を上げた。
「腹か?」
「多分……」
「食い過ぎじゃねぇの」
「違いますって」
兵士達が少し笑う。
けれど若い兵の顔色はあまり良くない。
ユリウスは腕を組んだ。
火の準備。
夜番。
風。
それから——。
花屋。
『……無理に見張りを代わらない方が』
彼は小さく息を吐いた。
「……悪い」
若い兵が顔を上げる。
「今日はやめとく」
少し気まずそうに続ける。
「お前も休め」
若い兵は一瞬意外そうな顔をした。
それから苦笑する。
「……そっか」
「悪いな」
「いいって」
ユリウスは肩を竦めた。
「その代わり、明日頼む」
「分かった」
若い兵は天幕の方へ戻っていく。
古参兵がその背を見送りながら言った。
「珍しいな」
「何が」
「お前、代わる側だろ」
ユリウスは薪を整える。
「まあ……」
「今日は眠いからな」
レオンが横から即座に言う。
「夜勤だったしな」
「お前まだ言う?」
「事実だろ」
焚火に火が入る。
ぱち、と乾いた音がした。
夜はゆっくり降りてくる。
昼の暖かさは消え、
風は少しずつ冷たくなっていた。
レオンは上着を引き寄せる。
「……冷えるな」
古参兵が頷く。
「だから言ったろ」
焚火を囲み、兵士達は簡単な食事を取った。
他愛ない話。
王都の噂。
演習の愚痴。
その中で、
ユリウスは何気なく火を見る。
薪は乾いている。
炎も安定していた。
けれど。
ふと気付く。
焚火のすぐ脇。
風で飛ばされた小さな火の粉が、
乾いた草へ落ちていた。
「……あ」
彼はすぐ立ち上がる。
足で踏む。
じゅっ、と小さな音がした。
火はそれだけだった。
大した事じゃない。
でも。
古参兵が目を細める。
「……危なかったな」
ユリウスは草を踏みながら苦笑した。
「……火、か」
レオンが横を見る。
ユリウスはまだ足元を見ていた。
風が吹く。
焚火が揺れる。
春の夜は、思っていたより冷たかった。
焚火が小さく揺れる。
ユリウスはまだ足元を見ていた。
踏み消した火の粉。
ほんの小さなものだ。
大した事ではない。
けれど。
古参兵が腕を組む。
「……危なかったな」
「風が変わってたな」
ユリウスは苦笑した。
「そうみたいです」
レオンが焚火へ薪を寄せる。
「火、な」
「うるさい」
「俺何も言ってないぞ」
「顔が言ってる」
焚火を囲む兵士達が笑う。
その時だった。
天幕の方から声が飛んだ。
「うわっ!」
皆が顔を上げる。
さっきの若い兵だった。
腹を押さえ、慌てた顔で出てくる。
「……悪ぃ」
「ちょっと無理」
古参兵が顔をしかめる。
「本格的じゃねぇか」
「だから言ったろ……」
若い兵は苦い顔をしている。
どうやら腹の具合は、本当に悪かったらしい。
ユリウスは少し目を丸くした。
もし——。
さっき代わっていたら。
夜番の配置も変わっていただろう。
古参兵が肩を竦める。
「今日は休め」
「……すみません」
兵は天幕へ戻っていく。
風が吹いた。
焚火が揺れる。
少しの沈黙。
そして。
古参兵が、ふと火を見たまま言った。
「……そういや」
ユリウスが顔を上げる。
「ん?」
「お前、代わってたら」
少し間を置く。
「火、誰見てた?」
沈黙。
ユリウスは焚火を見る。
赤い炎。
揺れる火。
さっき踏み消した草地。
夜番。
腹痛の兵。
風。
それから——。
自分が別の場所に居たかもしれない事。
「……あー」
小さく声が漏れる。
古参兵は肩を竦めた。
「別に火事って程じゃねぇだろうが」
「草くらいは燃えてたかもな」
焚火が、ぱち、と鳴る。
レオンが横を見る。
ユリウスは少し苦笑していた。
「……火、か」
その声は、
笑っているようで——
少しだけ考えている声だった。
風が吹く。
冷えた夜気が、焚火の熱をさらっていく。
レオンは上着を引き寄せた。
「……冷えるな」
古参兵が鼻を鳴らす。
「だから言ったろ」
レオンは火を見る。
春の花屋。
穏やかな声。
『……夜は冷えます』
彼は何も言わなかった。
ただ、焚火の向こうを見ていた。
その夜。
《リリエ》の花屋娘の話は、
演習地の焚火を囲む兵士達の、
少し不思議な雑談になっていた。
その時。
焚火の向こうで、別の兵士が口を開いた。
二十代後半くらいの男だった。
ずっと話を聞いていたらしい。
「《リリエ》?」
ユリウスが頷く。
「知ってるのか?」
男は少し考えた。
「名前だけ」
器を揺らしながら続ける。
「……南区の方だろ?」
レオンが顔を上げる。
「知ってるのか?」
「いや」
男は肩を竦めた。
「市場通りの裏」
「一本入った細い道にある花屋」
「前に通った事ある」
古参兵が少し意外そうな顔をした。
「花屋行くのか?」
「行かねぇよ」
男は即答する。
「道だ道」
焚火の周りで笑いが起きる。
「でも」
男は少し思い出すように言った。
「静かな店だったな」
「表通りの賑やかな感じじゃなくて」
「なんか……」
言葉を探す。
「落ち着いてた」
ユリウスが頷く。
「それは分かる」
「花屋って感じだった」
古参兵が笑う。
「感想がふわっとしてんな」
「いやでもそうなんだって」
男は苦笑した。
「南区の裏通りにある、小さい店だろ?」
「ちょっと見てみたくなるじゃん」
ユリウスが吹き出した。
「何だそれ」
「風読む娘」
焚火の周りでまた笑いが起きる。
「占い師じゃねぇんだろ?」
「本人否定派だった」
「じゃあ占い師じゃねぇな」
「そこは守るんだな」
笑い声が夜へ溶けていく。
けれど。
古参兵がふと炎を見ながら言った。
「……まあ」
皆が見る。
彼は少し肩を竦めた。
「変な娘ではあるんだろうな」
ユリウスが苦笑する。
「それは否定しません」
レオンは少し考えて。
それから、ぽつりと言った。
「……でも」
焚火が揺れる。
「嫌な感じはしなかった」
一瞬だけ。
場が静かになる。
古参兵はふっと笑った。
「……ほぉ?」
ユリウスがにやっとした。
「何だよそれ」
「別に」
レオンは器へ視線を落とした。
「南区の花屋だった」
「ただそれだけ」
けれど。
焚火の向こうで、
誰かが小さく呟く。
「……《リリエ》、か」
王都南区。
市場通りから一本外れた細い道。
その小さな花屋の名は、
春の夜の演習地で、
兵士達の小さな噂話になり始めていた。
春の夜は静かだった。
焚火は小さく揺れ、
冷えた空気の中へ火の粉を散らしている。
食事を終えた兵士達は、少しずつそれぞれの持ち場へ戻り始めていた。
天幕へ入る者。
馬の様子を見る者。
火の番を続ける者。
演習前夜らしい、慣れた夜だった。
ユリウスは焚火へ薪を寄せる。
炎が少し明るくなる。
その横で、古参兵が立ち上がった。
「俺、先寝るぞ」
「おう」
「火」
ユリウスが顔を上げる。
古参兵はにやりと笑った。
「ちゃんと見ろよ?」
焚火の向こうで笑いが起きた。
「もうそれ言いたいだけでしょう!」
「大事だからなぁ」
「正論が一番困るんですよ」
兵士達は肩を揺らしていた。
古参兵は去り際、ふとレオンを見る。
「……お前もな」
レオンが顔を上げる。
「何です?」
「花」
少し間。
そして。
「……喜んでたんだろ?」
レオンは一瞬黙った。
焚火が揺れる。
橙と白。
淡い黄色。
母が少し驚いた顔をした事。
それから、嬉しそうに笑った事。
玄関先に飾られた花。
ふと、それが頭に浮かぶ。
レオンは少し照れたように頷いた。
「……まあ」
古参兵は満足そうに鼻を鳴らした。
「ならいい」
その背中が夜へ消えていく。
焚火の周りには、
レオンとユリウスだけが残った。
風が吹く。
昼とは違う冷たい風だった。
レオンは上着を寄せる。
「……ほんとに冷えるな」
ユリウスが炎を見る。
「だから言ったろ」
「お前じゃない」
「ひどくない?」
二人は少し笑った。
夜は静かだった。
遠くで馬が鼻を鳴らす。
林が風に揺れる。
その中で。
ユリウスがふと口を開く。
「……なぁ」
「ん?」
「《リリエ》」
レオンが顔を上げる。
ユリウスは炎を見ていた。
「休みあったら、また行くかも」
少し間。
レオンは薪を動かしながら聞く。
「花買うのか?」
「いや?」
ユリウスは肩を竦めた。
「風読む娘見に」
焚火が、ぱち、と鳴る。
レオンは少し考えて。
それから、小さく笑った。
「……変な店だったな」
「変な店だった」
でも。
どこか落ち着く店だった。
春の夜は更けていく。
そして王都南区。
市場通りから一本外れた細い道にある《リリエ》では、
そんな話が広がり始めている事など知らず、
花屋の朝は、また静かに訪れようとしていた。
○王都南区。
市場通りは朝から賑やかだった。
荷車が行き交い、
呼び声が飛び、
焼きたてのパンの匂いが風に乗る。
その喧騒から少し外れた通り沿い。
食堂《ラルカ亭》もまた、忙しい朝を迎えていた。
「サラー!」
店の奥から声が飛ぶ。
「はーい!」
返事も元気だった。
厨房と客席を行き来する若い女性——サラは、
両手に皿を抱えながら器用に人の間を抜けていく。
朝の《ラルカ亭》は戦場だ。
市場の商人。
荷運び。
職人。
皆、仕事前に腹を満たしに来る。
「こっち水ー!」
「はいはい!」
「パン追加!」
「今行きます!」
サラは忙しかった。
でも嫌いじゃない。
むしろ、こういう賑やかさは好きだった。
入口の扉が開く。
風鈴が鳴る。
そして——。
店先に置かれた花が、小さく揺れた。
橙と黄色。
昨日、《リリエ》で選んでもらった花だ。
通りからもよく見える場所に置かれている。
客の一人がそれに気付く。
「お」
市場帰りの男だった。
「花変わったな」
店の奥から店主が顔を出す。
少し恰幅の良い男だ。
「だろ?」
妙に得意げだった。
サラが横目で見る。
「……何で店長が偉そうなの」
「店長だからな!」
「買ってきたの私!」
客が笑う。
「でもいいじゃねぇか」
男は花を見る。
「明るいな」
「入口華やかだ」
店主がさらに胸を張る。
「だろう!」
「だから何で店長なの!」
《ラルカ亭》に笑いが広がる。
入口の花は、朝の光を受けて小さく揺れていた。
橙と黄色。
通りを歩く人の目にも留まるらしい。
「前より入りやすいな」
市場帰りの男がそう言うと、
店主はますます得意げになった。
「だろう?」
「だから何で店長なの!」
サラが皿を置きながら抗議する。
「買ってきたの私!」
「店の花だからな!」
「理屈がおかしい!」
客席から笑い声が上がる。
《ラルカ亭》は賑やかだった。
忙しい。
でも嫌いじゃない。
サラは皿を抱え、客の間を軽やかに動く。
市場の朝は回転が早い。
ぼんやりしている暇なんて無い。
「サラ!」
厨房から店主の声。
「二番!」
「はーい!」
「スープ熱いから気を付けろ!」
「分かってるって!」
サラは返事をしながら鍋へ向かった。
湯気。
香草の匂い。
煮込まれた肉の香り。
いつもの朝だった。
その時だった。
鍋へ手を伸ばしかけた瞬間。
ふと。
頭に浮かぶ。
穏やかな声。
『……熱いものは、気を付けてください』
サラの手が、少し止まる。
「……ん?」
何となく。
本当に何となくだった。
彼女は鍋を持つ前に、取っ手へ目を向ける。
そして。
「あっ」
思わず声が出た。
布が、ずれている。
鍋の持ち手が半分むき出しだった。
もう少しで、素手で掴むところだった。
店主が振り向く。
「どうした?」
サラは鍋を見ていた。
それから、じわっと笑う。
「……あっぶな」
「何だ?」
「いや」
彼女は布を巻き直しながら言う。
「ちょっと今」
「花屋の人思い出してた」
店主が眉を上げる。
「花屋?」
「《リリエ》」
スープを受け取りに来ていた常連客が反応する。
「ああ?」
「南区の?」
サラは頷く。
「そうそう」
「市場通りから一本入ったとこ」
店主が首を傾げた。
「何だよ花屋って」
サラは少し笑う。
忙しい手は止めない。
でも話し始めると、彼女は止まらない。
「昨日ねぇ」
皿を運ぶ。
「花買いに行ったの」
「そしたらさ」
客席の男が口を挟む。
「値切ったのか?」
「値切ってない!」
笑いが起きる。
サラは肩を揺らした。
「そこのリアナさんって人がいるんだけど」
店主が聞く。
「店主か?」
「違う違う」
「花屋の娘」
サラはスープを置きながら続けた。
「何かねぇ」
少し言葉を探す。
「……変なの」
客席が少し静かになる。
「変?」
「うん」
サラは少し考える。
どう説明したらいいのか、自分でも分からなかった。
「占い師って感じじゃないんだけど」
「変な事言うの」
店主が笑う。
「変な事?」
サラは真面目な顔で頷いた。
「慌てるな、とか」
「熱いもの気を付けろ、とか」
一拍。
それから鍋を見る。
ずれていた布。
さっきの手。
「……で」
少し笑う。
「ちょっと当たるの」
《ラルカ亭》の朝に、
小さな興味の空気が生まれ始めていた。
常連客が聞き返す。
サラはスープ皿を並べながら頷く。
店主が腕を組んだ。
「何だそりゃ」
「だから私もよく分かんないんだって」
「占い師か?」
「違うの!」
サラは即答した。
「本人が違うって言ってた!」
客席から笑いが起きる。
「本人否定派か」
「そこは大事!」
「じゃあ何なんだよ」
サラは少し考える。
鍋の湯気。
忙しい店。
入口の花。
それから、昨日の《リリエ》。
「……花屋?」
店主が呆れた。
「見りゃ分かる」
「いやだから!」
サラは笑う。
「何かねぇ」
少し言葉を探した。
「……静かな人」
店主が眉を上げる。
「お前と正反対だな」
「失礼!」
店内にまた笑いが広がる。
サラは皿を置きながら続ける。
「でも嫌な感じじゃないの」
「話すと落ち着くっていうか」
「花の話してるのに、人の話みたいになるの」
常連客が少し面白そうな顔になる。
「へぇ」
「で?」
「美人か?」
サラが即座に振り返る。
「そこ!?」
客席が笑う。
男は肩を竦めた。
「大事だろ」
「……まあ」
サラは少し考えて。
「綺麗」
店主が「ほぉ」と声を出す。
「でも」
サラは皿を持ったまま続ける。
「何て言うんだろ」
「目立つ綺麗さじゃないの」
「花みたいなの」
一瞬。
客席が静かになる。
店主が吹き出した。
「何だその感想!」
「知らないよ!」
サラも笑っている。
「私だって説明難しいんだから!」
入口の花が揺れた。
新しく入ってきた客が、花へ目を留める。
「あれ?」
荷運びらしい男だった。
「花、変わったな」
店主がまた胸を張る。
「だろう?」
「だから何で店長なの!」
笑い声。
男は入口を見て頷く。
「いいじゃねぇか」
「明るいな」
サラは少し得意げになる。
「でしょ?」
「南区の裏通りにあるんだけどね——」
忙しい朝の《ラルカ亭》に、
《リリエ》の話が、
少しずつ混ざり始めていた。
「南区の裏通り?」
荷運びの男が聞き返す。
「そうそう」
サラは皿を抱えながら頷く。
「市場通りから一本入った細い道」
「静かなとこ」
店主が腕を組む。
「お前、宣伝してんのか?」
「してない!」
「してる顔だぞ」
「違うって!」
客席から笑いが起きる。
荷運びの男は入口の花を見る。
「へぇ」
「その花屋が選んだのか?」
「うん」
サラは少し得意げだった。
「昨日買ったんだけどさ」
「評判いいでしょ?」
「入口明るいな」
「入りやすい」
「だから私が買ったの!」
店主が即座に言う。
「店だ」
「何その理屈!?」
また笑い。
《ラルカ亭》の朝は騒がしい。
でも、その騒がしさが嫌いな人間は少ない。
その時。
入口近くの席でパンを食べていた中年男が口を開いた。
「……《リリエ》か」
サラが振り向く。
「知ってるの?」
男は少し考える顔をした。
「名前だけな」
「南区に花屋あるのは知ってる」
店主が聞く。
「行った事は?」
「いや?」
男は肩を竦めた。
「花屋なんざ用ねぇし」
サラがすぐ言う。
「それ皆言う!」
「でも行くと意外と面白いよ?」
「面白い花屋って何だ」
「分かんないけど!」
彼女は自分でも説明出来ていなかった。
けれど、嫌いじゃない感じだけは伝えたかった。
荷運びの男が笑う。
「で?」
「その花屋娘は何なんだ」
サラは皿を置く。
少し考える。
リアナ。
穏やかな声。
花。
それから——。
『……慌てない方がいいかもしれません』
『……熱いものは、気を付けてください』
サラは少し笑った。
「……変なの」
店主が吹き出す。
「褒めてんのかそれ」
「褒めてる!」
「どこが」
「うーん……」
彼女は少し悩んだ。
「不思議?」
荷運びの男が笑う。
「占い師か」
「だから違うの!」
サラは即座に否定した。
「本人が違うって言ってた!」
「でもちょっと当たるんだろ?」
一瞬。
サラは鍋を見る。
布。
熱気。
さっきの事。
それから、ふっと笑った。
「……ちょっとだけ」
店主が肩を竦める。
「便利な言い方だな」
「便利じゃない!」
入口の花が風に揺れた。
新しく入ってきた客が、その会話の最後だけ聞いたらしい。
席へ座りながら聞いてくる。
「何だ?」
「当たる花屋でもいるのか?」
サラは振り向いた。
そして——。
にやっと笑う。
「聞く?」
店主が額を押さえた。
「……始まったな」
《ラルカ亭》に、また笑い声が広がった。




