第二部 第三十二話 村の少女
王都から南へ延びる街道を馬車で七日ほど進み、さらに森の中の細い道へ入った先に、その村はあった。
なだらかな山々に囲まれた、小さな盆地である。雪解け水を集めた川が北から南へ流れ、その西岸に四十軒ほどの家が集まっていた。村の中央には共同の井戸と古い礼拝所があり、そこから土の道が枝分かれして、それぞれの家や畑へ続いている。
川の東側には麦と豆の畑が広がり、西側の森では薪や木の実が採れた。南の緩やかな斜面は家畜を放す草地になっており、北へ続く一本の道だけが、村と外の土地を繋いでいた。
春を迎えたばかりの朝は、まだ少し冷える。
川面には薄い霧が残り、畑へ下りた露が、昇り始めた朝日を受けて光っていた。家々の煙突からは細い煙が上がり、屋根の上を越えて、風の弱い空へゆっくりと溶けていく。
最初の鶏が鳴くと、それに応えるように別の家の鶏も鳴いた。
牛小屋の戸を開ける音。井戸へ向かう桶の音。畑へ出る者達が交わす朝の挨拶。
村の一日は、毎朝ほとんど同じ音から始まった。
リアナの家は、村の東の端にあった。
共同の井戸から川へ向かって道を下り、平たい石を並べただけの小さな橋を渡った先にある。家の裏手はすぐ畑になっており、収穫の時期には、窓を開けるだけで刈り取った麦の匂いが入ってきた。
土壁と木材で造られた家は、決して大きくない。家族が食事をする居間と、全員で使う寝室が一つずつ。そのほかには食料を置く小さな物置があるだけだった。
家の横には、父親が自分で建てた農具小屋があった。壁板は大きさが揃っておらず、屋根も僅かに傾いている。それでも雨漏りはせず、鍬や鎌のほかに、冬を越すための薪が隙間なく積まれていた。
その家の寝室で、リアナは目を覚ました。
身体を起こそうとして、腹の上に何かが載っていることに気付く。毛布をめくると、六歳になる妹のミナが、片足をリアナの上へ投げ出して眠っていた。
「ミナ。重いよ」
小さな声で呼んでみたが、返事はない。
ミナは寝返りを打ち、今度はリアナの腕へ両手でしがみついた。寒い夜にはいつもこうなる。眠る前には寝台の端にいても、朝になる頃には必ずリアナへ身体を寄せていた。
リアナは妹の腕をそっと外し、ずれた毛布を肩まで掛け直した。
寝室には、壁を挟まず三つの寝台が並んでいる。一番奥を両親が使い、真ん中では弟のテオが毛布を頭まで被っていた。入口に近い少し広い寝台を、リアナとミナが一緒に使っている。
父親の姿は、既になかった。
家の外から、斧が薪を割る乾いた音が聞こえている。父親は日の出より早く起き、家族が目を覚ます頃には、その日に使う薪と農具の準備を終えていることが多かった。
リアナは寝台から下りると、冷たい床板を踏んで居間へ向かった。
石造りの炉には火が入り、母親が鍋をかき混ぜていた。長い髪を後ろで束ね、袖を肘まで捲っている。鍋から立ち上る湯気には、豆と干し肉の匂いが混じっていた。
「おはよう、お母さん」
「おはよう。ミナは?」
「まだ寝ています。テオも」
「テオには、昨日の夜に言っておいたのだけれどね。今朝の水汲みは自分がやるって」
母親は鍋から目を離さずに言った。
リアナが寝室を振り返ると、真ん中の寝台から、毛布に包まれた足だけが見えていた。
「起こしてきます」
「お願い。放っておいたら、朝食が出来ても起きてこないでしょうから」
リアナは寝室へ戻り、弟の肩があると思われる辺りを毛布の上から揺すった。
「テオ、朝だよ」
「起きてる」
毛布の中から、くぐもった声が返ってきた。
「起きている人は、毛布を頭まで被らないでしょう」
「今、起きるところだったんだ」
「昨日もそう言ってたよ」
「昨日は昨日だよ」
「今日は水汲みをするんでしょう?」
返事がなくなった。
リアナが毛布の端を掴むと、十一歳になる弟が慌てて反対側を押さえた。
「分かった。起きるから引っ張るなよ」
「本当に?」
「起きるって言ってるだろ」
ようやく毛布から出てきたテオの髪は、片側だけ大きく跳ねていた。本人は気付いていないらしく、目を擦りながら寝台の端へ座っている。
「まだ鶏も鳴いてないじゃないか」
その言葉が終わらないうちに、家のすぐ近くで鶏が鳴いた。
居間から、母親の笑う声が聞こえる。
「今のは、うちの鶏じゃない」
テオは不満そうに言った。
「どこの鶏でも、朝は朝だよ」
リアナが答えると、テオは諦めたように床へ足を下ろした。
二人が話している間に、ミナも目を覚ましたらしい。寝台の上で身体を起こし、眠そうな顔で周囲を見回している。
「お姉ちゃん」
「ここにいるよ」
「どこに行くの?」
「まだどこにも行かないよ。これから顔を洗うの」
リアナが手を差し出すと、ミナはその手を握って寝台から下りた。寝間着の裾を踏みそうになり、慌ててリアナの腕へしがみつく。
「ミナも一緒に洗う?」
「お水、冷たい?」
「たぶん冷たいね」
「じゃあ、洗わない」
「顔を洗わないで朝ご飯は食べられないよ」
ミナは困った顔をしたあと、少し考えてから言った。
「お姉ちゃんが先に洗って」
「私が洗っても、水は温かくならないよ」
「でも、お姉ちゃんが平気なら、ミナも平気かもしれない」
リアナは笑いながら、妹を連れて居間へ戻った。
父親が外から戻ってきたのは、家族が顔を洗い終えた頃だった。
片腕に割った薪を抱え、もう片方の手には刃先を研いだ鍬を持っている。村の男達の中でも背が高く、厚い肩と大きな手をしていた。口数は少ないが、家の壊れた場所や家族の困り事には、誰よりも早く気付く人だった。
「おはよう、お父さん」
「ああ。おはよう」
父親は鍬を入口脇へ立て掛け、薪を炉の傍へ置いた。それから、まだ半分眠っているテオを見る。
「水はどうした」
「これから行くよ」
「昨日は一人で行くと言っていたな」
「リアナも行くって」
初めて聞いたリアナは、弟へ顔を向けた。
「私が?」
「桶が二つあるから、二人の方が早いだろ」
「一人で出来ると言っていなかった?」
「あれは、昨日の話だ」
「一晩で出来なくなったの?」
「出来ないとは言ってない。二人の方が早いと言っただけだ」
テオは真剣な顔で言い張った。
水を満たした桶を、一人で二つ運ぶことが出来ないのは、家族全員が知っている。
父親の口元が、僅かに緩んだ。
「お父さん、笑った」
ミナがすぐに指摘した。
「笑っていない」
「笑ったよ」
「見間違いだ」
「ミナも見た」
妹がリアナを見上げる。
味方を求められたリアナは、父親の顔を確かめた。
「私も見ました」
「二人とも見間違えている」
父親はそれ以上の話を打ち切るように、食卓の前へ腰を下ろした。
朝食は豆と芋を煮たものに、固い黒パンと、山羊の乳から作ったチーズだった。どれも特別な料理ではない。この季節なら、村のどの家でも似たようなものを食べている。
母親が鍋の中身を五つの器へ分ける。父親と子ども達の器へ先に盛り付け、最後に自分の分を取った。
リアナは、自分と母親の器を見比べた。母親の方が明らかに少ない。
「お母さん、私の分が多いよ」
「今日は畑へ出るのでしょう。働く人が遠慮しないの」
「お母さんも働くでしょう」
「残ったら、あとで食べるから」
母親はそう言ったが、料理が残ることはほとんどなかった。
リアナは何か言おうとしたものの、母親に先回りするように器を押し返され、諦めて匙を取った。
「今日は南の畑を見る」
父親がパンをちぎりながら言った。
「昨日の風で、柵が一部倒れていた。リアナには苗の方を手伝ってほしい」
「分かりました」
「俺も行く」
テオがすぐに口を挟んだ。
「あなたは礼拝所でしょう」
母親が言うと、テオの動きが止まった。
村には学校と呼べる建物がなかった。その代わり、十六歳に満たない子ども達は、週に何度か礼拝所へ集まり、老司祭から読み書きと簡単な計算を教わっている。
「今日は畑を手伝った方がいいと思う」
テオは父親へ訴えた。
「どうして?」
「柵が壊れてるんだろ。人手が必要だ」
「柵は私とお父さんで直せるわ」
リアナが言うと、テオは眉を寄せた。
「姉ちゃんは俺より細いだろ」
「それでも、テオより長く畑仕事をしているよ」
「俺だって出来る」
「なら、先に読み書きを覚えなさい」
母親の一言で話は終わった。
助けを求めるように父親を見たテオへ、父親も短く告げる。
「礼拝所へ行け」
テオは肩を落とし、黒パンを大きく齧った。
その隣では、ミナが豆を避けて芋だけを食べていた。リアナが見ていることに気付くと、木の匙を持ったまま目を逸らす。
「ミナ」
「食べてるよ」
「お豆も食べないと」
「あとで食べる」
「昨日もそう言って残したでしょう?」
「今日は残さない」
「では、今一つ食べてみようか」
ミナは器の中から一番小さな豆を選び、口へ入れた。ほとんど噛まずに飲み込むと、すぐにチーズを食べる。
「食べたよ」
「一つだけでしょう」
「一つ食べてって言ったよ」
確かに、その通りだった。
言い返せなくなったリアナを見て、今度は母親が笑った。
朝食を終えると、リアナとテオは空の桶を一つずつ持って家を出た。留守番をするはずだったミナも、母親に頼まれた布袋を抱え、二人のあとを付いてくる。
家の前には、畑へ水を引くための細い水路が流れている。三人は木の板を渡しただけの橋を越え、村の中央へ続く道へ入った。
朝日は既に山の上へ姿を現していた。川面を覆っていた霧は薄くなり、対岸の家々もはっきりと見える。道の両側では、冬の間は枯れていた草が新しい芽を出し、その間から小さな白い花が咲き始めていた。
ミナが足を止め、その花へ手を伸ばす。
「全部は取らないでね」
リアナが声を掛けると、ミナは花へ伸ばした手を止めた。
「どうして?」
「ここに残しておけば、また種が出来るでしょう。来年も咲いてくれるよ」
「一つなら取ってもいい?」
「一つなら大丈夫」
ミナは花を選び始めた。同じように見えるものを何度も見比べ、ようやく一本を摘み取る。
「お母さんにあげるの」
「きっと喜ぶよ」
ミナは折れやすい茎を両手で持ち、大事そうに布袋の上へ載せた。
リアナも、道の脇へ咲く花を見ながら歩いた。
どこにでも咲く花だったが、一つとして同じ形には見えなかった。よく開いているもの。まだ半分しか開いていないもの。真っ直ぐ伸びたものもあれば、風を避けるように草の陰で咲いているものもある。
リアナは幼い頃から、花を見ることが好きだった。
珍しい花を集めたいわけではない。家へ持ち帰って飾るより、その場所で咲いている姿を眺める方が好きだった。畑仕事の途中でも、見慣れない花を見つけると足を止め、母親に呼ばれるまで眺めていることがあった。
「姉ちゃん、置いていくぞ」
先を歩いていたテオに呼ばれ、リアナは顔を上げた。
「今、行くよ」
三人が村の中央へ近付くにつれて、道を歩く者が増えていった。
鍬を担いで畑へ向かう男。洗濯物を籠に入れ、川へ向かう女。母親に手を引かれながら礼拝所へ向かう子ども達。山羊を引いて家の前へ出てきた老人。
顔も名前も、リアナはほとんど知っていた。
「おはよう、リアナ」
「おはようございます」
「テオ、今日は礼拝所を抜け出すんじゃないぞ」
「今日は逃げないよ」
「昨日も同じことを言っていたな」
男は笑いながら通り過ぎていく。
テオは不満そうに、その背中を見送った。
「みんな、いつまで俺を子ども扱いするんだ」
「子どもだからでしょう」
「姉ちゃんだって、俺と四つしか違わないじゃないか」
「その四つが大きいの」
リアナは十五歳になったばかりだった。
村では既に、大人と同じ仕事を任される年齢である。畑を耕し、食事を作り、幼い兄妹の面倒を見る。母親が数日家を空けたとしても、リアナなら家のことを任せられると思われていた。
けれども、何でも上手に出来るわけではない。
重い桶を運べば腕が痛くなり、急いで料理をすれば鍋を焦がした。朝寝坊をして、父親が先に水を汲んでいたこともある。母親に注意され、テオと喧嘩をし、泣いているミナをどう慰めればよいのか分からなくなることもあった。
この村で生まれ、この村で育った、ごく普通の少女だった。
村の中央にある井戸へ着くと、既に五人ほどが順番を待っていた。石造りの井戸の向こうには古い礼拝所があり、その鐘楼から朝の鐘が鳴り始める。
鐘の音は家々の屋根を越え、畑と川を渡り、村を囲む山へゆっくりと広がっていった。
リアナは空の桶を地面へ置き、順番を待ちながら周囲を見渡した。
水を汲む村人達。
礼拝所へ入っていく子ども達。
母親へ渡す花を大切そうに持っているミナ。
一人で水を運べると、まだ言い張っているテオ。
目に入るものは、昨日までと何も変わらなかった。
リアナにとって世界とは、この小さな村と、そこで暮らす人々のことだった。
父親と母親がいて、弟と妹がいる。朝になれば同じ食卓を囲み、それぞれの仕事へ向かう。夜になれば再び家へ集まり、同じ屋根の下で眠る。
その暮らしが、これからも変わらず続いていく。
十五歳のリアナは、そう信じていた。
◇
共同井戸の周りは、村で最も人の集まる場所だった。
朝と夕方には水を汲む者が列を作り、順番を待つ間に、畑の様子や家畜の具合、近頃生まれた子どもの話まで交わされる。誰かの家で困り事が起きれば、村中へ伝わるまで半日も掛からなかった。
リアナ達が着いた時、井戸の石縁に腰を預けていた少女が、すぐに片手を上げた。
「遅かったね、リアナ。今日は来ないのかと思った」
声を掛けてきたのは、製粉小屋の娘のナディアだった。リアナと同じ十五歳で、幼い頃から一緒に川遊びや木の実拾いをしてきた友人である。
栗色の髪を太い三つ編みにし、肩から前へ垂らしている。鼻の周りには薄いそばかすがあり、よく笑うため、黙っていても口元が少し上がって見えた。
「テオを起こすのに時間が掛かったの」
リアナが答えると、テオが不満そうに振り返った。
「姉ちゃんだって、すぐに起きたわけじゃないだろ」
「私は自分で起きたよ」
「ミナに蹴られて起きたんじゃないのか」
「どうして知っているの?」
「毎朝そうだから」
ナディアが声を立てて笑った。
「テオに言われたくないよね。あなた、この間は昼近くまで寝ていたでしょう」
「あれは前の日に、父さんの仕事を手伝ったからだ」
「夕方に薪を三本運んだだけだって聞いたけど」
「誰から聞いたんだよ」
「村の人から」
それでは誰なのか分からないと、テオはますます不満そうな顔をした。だが、この村で一度知られたことの出所を探しても、ほとんど意味はなかった。
「お姉ちゃん」
ミナがリアナの服を引いた。
母親から預かってきた布袋を両腕で抱えている。
「これ、渡すの」
「そうだったね」
リアナは布袋を受け取り、ナディアへ差し出した。
「お母さんから。昨日頼んでいた分を入れてほしいって」
「ああ、ライ麦ね。昨日のうちに挽き終わっているよ。帰りに持っていく」
ナディアは布袋を受け取ると、自分の水桶の脇へ置いた。
「ちょうどよかった。リアナに頼みたいこともあったの」
「私に?」
「今度の種蒔きの祝いで、礼拝所を花で飾るでしょう。母さんから、今年は私も手伝えって言われたんだけど、どの花を摘めばいいのか分からなくて」
「礼拝所の飾りなら、白い花だけでは足りないと思う。森の手前に黄色い花が咲き始めているから、それも使えるよ」
「ほら、もう私より詳しい」
ナディアは満足そうに頷いた。
「今度、一緒に採りに行ってよ」
「いつ?」
「明日の仕事が終わってからは?」
リアナは、その日の畑仕事を思い浮かべた。南の畑の柵を直し、苗を植える場所も整えなければならない。だが、夕方までには終わるだろう。
「分かった。明日の夕方なら」
「決まりね。私一人に任せたら、礼拝所が草だらけになるから」
「草も選べばきれいだよ」
「それを選べるのがリアナなんでしょう」
礼拝所の鐘が鳴り始めた。
最初の鐘は、子ども達へ集まる時間を知らせるものだった。二度目の鐘が鳴り終わると、読み書きの授業が始まる。
礼拝所の扉が開き、細身の老人が姿を現した。
村の礼拝所を預かるエドガー司祭だった。六十代も後半に入り、以前より少し腰が曲がっている。白髪の下には短く整えた灰色の髭があり、右手の指先は、長年使ってきた黒いインクによって薄く染まっていた。
エドガー司祭は、井戸の傍にいるテオを見つけた。
「テオ・エルム。今日は来ているようですね」
「まだ鐘は一回目です」
テオはすぐに答えた。
「その通りです。ですから、今日は遅刻ではありません」
「今日は?」
「昨日は遅刻でしたから」
「昨日は、父さんの仕事を手伝っていて」
「その話は昨日聞きました。薪を三本運んだのでしたね」
ナディアが顔を逸らし、笑いを堪えている。
テオは、村中に知られていた話の出所をようやく見つけたようだった。
「エドガー司祭が話したのか」
「私は聞かれたことへ答えただけです」
「同じじゃないか」
「口答えをしている間に、二度目の鐘が鳴りますよ」
エドガー司祭は厳しいことを言いながらも、目元には笑みを浮かべていた。
「水を運んだら、すぐに来なさい。昨日書き終わらなかった文字から始めます」
「まだ、あれをやるのか」
「読めるようになるまでは」
テオは大きく息を吐き、井戸の列へ向き直った。
順番が来ると、リアナは井戸の中へ桶を下ろした。滑車が軋み、縄が手の中をゆっくりと滑っていく。やがて桶が水面へ触れる音が、石壁の下から響いた。
水を満たした桶を引き上げると、朝の光を受けた水面が揺れ、石縁へ小さな波がこぼれた。リアナは家から持ってきた桶へ水を移し、もう一度、井戸の中へ縄を下ろす。
二つの桶が満たされると、テオは自分の分へ手を掛けた。
「持てる?」
リアナが尋ねる。
「持てる」
「途中で無理になったら言ってね」
「大丈夫だよ」
テオは両手で桶を持ち上げた。予想していたよりも重かったらしく、一瞬だけ肩が下がった。それでも、何も言わずに歩き始める。
リアナは自分の桶を持ち、弟の半歩後ろを歩いた。
助けようとすれば、テオは意地になって断るだろう。だが、後ろにいれば、手を滑らせた時に支えることが出来る。
ミナは白い花を両手で持ち、二人の間を歩いていた。
◇
家へ戻ると、母親のルタが入口の前で待っていた。
水桶を受け取るより先に、ミナが駆け寄る。
「お母さん、これ」
ミナは道端で摘んだ白い花を差し出した。
「私に?」
「うん。一つだけ取ったの。お姉ちゃんが、全部取ったら来年咲かないって」
「そう。来年の分を残してくれたのね」
ルタは花を受け取ると、ミナの頭を撫でた。
家の中へ入り、窓辺に置かれていた小さな陶器の器へ水を入れる。縁の一部が欠け、飲み物を入れることには使えなくなった器だった。
白い花が一本挿されると、それまで何もなかった窓辺が少し明るく見えた。
ミナは嬉しそうに何度も花を眺めている。
「お母さん、きれい?」
「ええ。とてもきれいよ」
「明日も取ってくる」
「明日は、別の花を残してあげなさい」
「どうして?」
「毎日取ったら、来年の分がなくなるでしょう?」
ミナはリアナへ顔を向けた。
リアナも同じことを言ったはずだったが、母親から言われて、ようやく納得したらしい。
「じゃあ、見るだけにする」
「それがいいわね」
テオは水桶を台所まで運び終えると、息を切らしながら入口へ戻ってきた。
「行ってくる」
「走らないと、二度目の鐘に間に合わないわよ」
ルタが言った直後、礼拝所から鐘の音が響いた。
「もう鳴った!」
テオは慌てて道へ飛び出した。
「転ばないようにね!」
リアナが声を掛けた時には、弟の背中は橋の向こうまで遠ざかっていた。
「今日は間に合うと思ったのだけれど」
ルタは呆れたように言いながら、笑っていた。
◇
リアナが南の畑へ着いた時、父親のダリオは、既に倒れた柵を半分ほど取り外していた。
地面には古い杭が並べられ、使えるものと、腐っているものに分けられている。新しく使う木材も運び込まれていた。
「遅くなってごめんなさい」
「井戸が混んでいたか」
「それもあります。ナディアと少し話していました」
「そうか」
ダリオはそれ以上尋ねず、新しい杭を一本持ち上げた。
口数の少ない父親だったが、リアナが誰と何を話していたのか、細かく確認するようなことはしなかった。話したいことがあれば自分から話すと、信じているようだった。
「これを支えてくれ」
「はい」
リアナは杭の下を持ち、父親と一緒に柵の端まで運んだ。
昨日の風で倒れたと聞いていたが、実際には、杭の根元が長い時間を掛けて腐っていたらしい。近くの家から逃げ出した山羊が何度か身体を擦り付け、最後に風を受けて倒れたのだろうと、ダリオは説明した。
穴へ新しい杭を立てると、リアナが真っ直ぐになるよう支え、ダリオが周囲へ石と土を詰めていく。
「もう少し右だ」
「このくらい?」
「少し戻せ」
リアナが杭を動かす。
「ここ?」
「ああ。そこでいい」
ダリオは短く答え、木槌で周囲の土を固めた。
二人で作業を進めていると、次第に日が高くなっていった。朝の冷たさは消え、土からは湿った匂いが立ち始める。
柵を直し終えると、今度は畑の端にある苗床へ移った。
冬の間に家の裏で育てていた苗を、数日後にはこちらへ植え替える。その前に土をほぐし、細かな石や枯れた根を取り除かなければならなかった。
リアナは鍬を入れた土を手で崩し、硬さを確かめた。
「まだ少し水が多いね」
昨夜の雨が残っており、握った土が指の形に固まっている。
ダリオも土を取り、同じように確かめた。
「今日は畝を作らない方がいい」
「明日まで待つ?」
「ああ。先に水の通り道を広げる」
父親はリアナの判断を否定しなかった。
リアナは十五歳だったが、幼い頃から畑へ出ている。どの土へ何を植えるのか、雨のあとに何日待つべきなのか、父親や母親の仕事を見ながら覚えてきた。
二人は畑の脇を流れる細い水路へ向かった。
冬の間に落ち葉と土が溜まり、水の流れが悪くなっている。リアナが小さな鋤で泥を掻き出し、ダリオが水路の外へ運んだ。
作業をしている途中、リアナは畑の隅へ何度も目を向けていた。
豆を植える畝から少し離れた場所に、細長い空き地がある。石が多く、作物を育てるには向いていないため、毎年ほとんど使われていなかった。
その空き地には、春になると幾つかの野花が咲く。
「お父さん」
「なんだ」
「あそこは、今年も使わないの?」
ダリオは、リアナが見ている場所へ目を向けた。
「石の多い場所か」
「うん」
「豆を植えても育たないだろうな」
「それなら、花を植えてもいい?」
ダリオは泥を載せた鋤を止めた。
「食べられる花か」
「違うけど」
「薬になるものか」
「それも少しはあるけど、全部ではないよ」
「では、何に使う」
リアナはすぐに答えられなかった。
花を育てたい理由を、父親が納得する言葉へ変えるのは難しかった。ただ、畑の端に色があれば、仕事へ来るたびに見ることが出来る。
「きれいだから」
結局、それだけを答えた。
ダリオは、もう一度空き地を見た。
作物を植えられる広さではない。水路の邪魔にもならず、畑へ影を落とすこともない。
「自分で石を除けるなら、使っていい」
「本当に?」
「ただし、豆の仕事を先に終わらせろ」
「分かりました」
リアナが笑うと、ダリオは何も言わず作業へ戻った。
だが、リアナが水路を掘り始めたあと、父親は空き地へ向かい、大きな石を一つだけ拾い上げた。
抱えるほど重い石だった。
リアナ一人では、動かすことが出来なかっただろう。
ダリオはその石を畑の外へ運ぶと、何事もなかったように水路の作業へ戻った。
◇
昼を過ぎた頃、ルタが食事を入れた籠を持って畑へやって来た。
その後ろから、ミナも小さな水差しを両手で抱えて歩いている。
「お姉ちゃん、持ってきたよ」
「ありがとう。重かったでしょう?」
「少しだけ」
ミナは水差しを地面へ置くと、すぐにリアナの隣へ座った。
昼食は黒パンとチーズ、それに朝の煮物の残りだった。家族は畑の端に立つ木の陰へ集まり、敷物の上へ腰を下ろした。
少し遅れて、礼拝所から戻ったテオもやって来た。
「遅かったね」
リアナが言うと、テオは持っていた石板を敷物の上へ置いた。
「エドガー司祭が、同じ文字を五回も書き直せって言うんだ」
「間違えたの?」
「少し形が違っただけだ」
リアナが石板を見る。
同じ文字が横へ並んでいたが、一番左のものだけ上下が逆になっていた。
「これは少しではないと思う」
「読めれば同じだろ」
「逆になったら、別の文字でしょう」
「意味は分かる」
「書いた本人だけでしょうね」
ルタに言われ、テオは石板を裏返した。
ダリオはパンを食べながら、息子の石板へ目を向ける。
「明日も書け」
「父さんまで」
「読めなければ、収穫の数も書けない」
「姉ちゃんに書いてもらえばいい」
「リアナが、いつまでもお前の隣にいるとは限らない」
何気なく言われた言葉だった。
ダリオは、娘がいずれ結婚して別の家へ入る可能性を考えただけなのだろう。村では珍しくないことであり、十五歳のリアナにも、遠い先の話ではなかった。
「お姉ちゃん、どこかに行くの?」
ミナが不安そうにリアナを見る。
「今すぐは行かないよ」
「ずっといる?」
「少なくとも、明日も明後日もいるよ」
「そのあとは?」
リアナは答えに迷った。
代わりにルタが、ミナの器へ小さく切ったチーズを入れた。
「ずっと先のことまで、今決めなくていいのよ」
ミナは納得していない様子だったが、チーズを食べ始めた。
リアナも再びパンへ手を伸ばした。
この時は、父親の言葉を深く考えなかった。
自分が村を離れるとしても、それはまだ先のことだと思っていた。
◇
日が傾く頃には、柵の修理と水路の掃除が終わった。
家へ戻ると、ナディアが製粉したライ麦の袋を届けに来ていた。
袋は朝より大きく膨らみ、持ち上げると、細かく挽かれた粉が中で柔らかく動いた。
「明日の夕方、忘れないでね」
ナディアが言った。
「森の手前でしょう?」
「籠は私が持っていく。リアナは花を選んで」
「全部任せるつもり?」
「私が選んだら草になるって、自分で言ったでしょう」
「そこまでは言ってないよ」
「似たようなものよ」
ナディアは笑い、ルタへ挨拶してから製粉小屋へ戻っていった。
夕食のあと、家族は居間でそれぞれの仕事をした。
ダリオは壊れかけた椅子を直し、ルタは春物の服の裾を縫っていた。テオはエドガー司祭から出された文字の練習を続け、ミナは石板の端へ、花らしき絵を描いている。
リアナは窓辺へ座り、畑へ植える苗を包むための古布を切り揃えていた。
「種蒔きの祝いには、花の冠を作って」
ミナが石板から顔を上げる。
「花を摘み過ぎたら、来年咲かないんじゃなかった?」
テオが言った。
「お姉ちゃんが作るなら大丈夫」
「俺には?」
「テオはいらないでしょう」
「どうしてだよ」
「似合わないから」
ミナに即答され、テオは黙り込んだ。
「テオには、小さいものを作ってあげるよ」
リアナが言うと、テオは余計なことをするなという顔をした。
「俺は要らない」
「では、ミナの分だけね」
「本当に作ったら困るからな」
そう言いながら、テオは完全には断り切れない様子だった。
炉では薪が静かに燃え、窓辺には、ミナが摘んだ白い花が飾られている。
外が暗くなると、家族の姿は炉の光に照らされ、土壁へ大きな影を作った。
リアナは布を切りながら、その光景を見ていた。
何か特別なことが起きた一日ではなかった。
朝に水を汲み、畑へ出て、家族と食事をした。明日の仕事を決め、友人との約束を交わした。
いつもと変わらない一日だった。
◇
翌朝。
リアナは、昨日と同じように鶏の鳴き声で目を覚ました。
ミナの足は、またリアナの腹の上へ載っている。家の外からは、ダリオが薪を割る音が聞こえていた。
何も変わらない朝になるはずだった。
だが、リアナが妹の足を毛布の中へ戻した時、村の北側で犬が鳴き始めた。
一匹だけではない。
北へ続く道に近い家から順に、何匹もの犬が何かへ警戒するように吠えている。
やがて、馬の蹄と車輪の音が聞こえてきた。
商人が村を訪れる時間には早過ぎた。荷車の重い音とも違っている。
ダリオが薪割りを止めた。
リアナが外へ出ると、父親は斧を置き、北へ続く道を見ていた。
朝霧の向こうから、二人の騎馬が姿を現す。
その後ろを、一台の幌馬車が進んでいた。
馬は二頭ともよく手入れされ、騎乗している者達は、村人が着るものとは明らかに違う濃紺の外套を身につけている。外套の胸元には、小さな銀色の紋章が留められていた。
幌馬車の側面には、白い星を描いた神殿の印と、王家の紋章が並んでいる。
家から出てきた村人達が、道の両側へ集まり始めた。
「王都から?」
後ろへ出てきたルタが、小さく呟いた。
ダリオは答えなかった。
馬車は村の中央まで進み、古い礼拝所の前で止まった。
エドガー司祭が礼拝所から出てくる。
普段の擦り切れた祭服ではなく、祭日のために保管している濃い灰色の正装を身につけていた。エドガー司祭だけは、彼らが来ることを知っていたようだった。
幌馬車の扉が開く。
最初に降りたのは、四十歳ほどの男だった。
白い祭服の上から、銀糸の刺繍が入った肩掛けをまとっている。短く整えられた灰褐色の髪には乱れがなく、村人達を見る淡い青色の目にも、長旅の疲れは表れていなかった。
男はエドガー司祭と短く言葉を交わしたあと、集まった村人達へ向き直った。
「突然の訪問となったことを、お詫びいたします」
よく通る声だった。
「私は、王都中央神殿に所属する巡察司祭、セラン・アーレスと申します」
セランは胸元へ手を当て、丁寧に一礼した。
「国王陛下と大司教猊下の命により、今年十五歳を迎えた娘達の、星詠みの適性を調べるために参りました」
村人達の視線が、僅かに動いた。
リアナの隣で、ルタの手が娘の肩へ置かれる。
炉へ薪を入れていたためだろう。
その手は、朝の冷たい空気の中でも温かかった。




