第三十一話 緑に沈む道 第一部 完
国境を越えたユリウス達が、最初に辿り着いたのは、帝国側の監視所だった。
石造りの監視塔は、上部から折れるように崩れていた。
屋根と外壁の一部が街道側へ倒れ込み、入口の半分を塞いでいる。
帝国の旗が、折れた旗竿と共に泥の中へ落ちていた。
「誰かいないか!」
年長の国境兵が声を張る。
返事はなかった。
三人は馬を下りた。
倒木へ手綱を結び、足元を確かめながら監視所へ近付く。
崩れた石壁の下から、一人の兵士の腕が伸びていた。
ユリウスは傍らへ膝をつき、首元へ指を当てた。
脈はなかった。
胸から下が石壁に埋まり、身体は既に冷たくなっている。
少し離れた場所にも、倒れた塔へ巻き込まれた兵士がいた。
そちらも、既に息をしていなかった。
「中を見てきます」
若い国境兵が言った。
半ば外れかけた扉を、三人で少しずつ動かす。
歪んだ蝶番が軋み、人一人が通れるだけの隙間が開いた。
監視所の中は薄暗かった。
机や椅子が倒れ、棚から落ちた帳面が、床一面へ散らばっている。
天井の一部も崩れていたが、詰所そのものは残っていた。
その奥に、三人の兵士が倒れていた。
一人は机へ突っ伏し。
もう一人は、壁に背を預けたまま座り込んでいる。
最後の一人は、出口へ向かおうとしたのか、扉の近くへ手を伸ばした姿勢で伏せていた。
ユリウス達は、一人ずつ身体を確かめた。
誰も、息をしていなかった。
若い国境兵が、壁際の兵士の傍らで眉を寄せる。
「この人……怪我をしていません」
血の跡はない。
倒れた棚や石の下敷きになった様子もなかった。
他の二人にも、死に至るような傷は見当たらない。
「見えないところを打ったんじゃないか」
年長の国境兵が言った。
だが、声には迷いがあった。
ユリウスは、机へ倒れた兵士の後頭部へ触れた。
傷も。
腫れもない。
指に血が付くこともなかった。
「当直記録を探そう」
ユリウスは立ち上がった。
「揺れの前に、何か起きていたかもしれない」
三人で、床へ散らばった帳面や記録板を拾い集める。
最後に残されていたのは、国境付近の天候についての記録だった。
雨。
雷。
風向きの変化。
王国側の砦に動きなし。
悪天候のため、巡回中止。
記述は、そこで途切れていた。
地震については、一文字も書かれていない。
書き留める暇がなかったのか。
その前に、書ける者がいなくなったのか。
今のユリウス達には判断出来なかった。
三人は、詰所の中で亡くなっていた兵士達を、崩れの少ない壁際へ並べた。
外の二人は、石の下から引き出すことが出来なかった。
ユリウスは泥の中から帝国の旗を拾い上げる。
付着した泥を出来るだけ払い、二人の身体を覆うように広げた。
「行こう」
この先に生存者がいるのなら、一刻も早く、先へ進まなければならない。
◇
監視所から先の街道は、すぐに馬で走れない状態になった。
地面が、波打った形のまま固まっている。
街道の中央が盛り上がり、その両側は、大きく沈み込んでいた。
敷石も、地中から押し上げられたように、何枚も裏返っている。
雨で土が緩んでいるうえ、窪みには濁った水が溜まっていた。
馬が脚を取られないよう、三人は歩くほどの速さで進んだ。
危険な場所では馬を下り、手綱を引きながら足場を選ぶ。
「この先に、小さな集落があります」
年長の国境兵が言った。
「そこを抜ければ、駐屯地へ続く山道です」
「ここからなら、日が落ちる前に着けるか」
「道が残っていれば――」
兵士は、言い終える前に馬を止めた。
街道の先が、土砂に埋まっていた。
斜面から流れ落ちた土。
根元から折れた木。
転がり落ちた大小の岩。
それらが折り重なり、道幅いっぱいを塞いでいる。
「これは、越えられませんね」
若い国境兵が呟いた。
ユリウスは周囲を見回す。
人だけなら通れる隙間はある。
だが、馬を置いていくわけにはいかない。
「斜面の下を回ろう」
「川沿いですか」
「ああ。足場を見ながら進む」
三人は街道を外れ、馬を引いて大きく迂回した。
泥へ脚を取られ、岩の隙間を何度も戻りながら。
ようやく街道へ戻った時には、既に昼を過ぎていた。
平時なら、最初の集落を通り抜けている時刻だった。
◇
集落が見えてきたのは、日が山の端へ近付いた頃だった。
十数軒の家が、街道の両側へ並んでいる。
その半数近くで、壁や屋根が崩れていた。
石造りの倉庫は、正面の壁が丸ごと道へ倒れている。
木造の家屋も、柱が傾き、屋根の片側が地面へ落ちかけていた。
住民達が瓦礫を運んでいる。
助け出された負傷者は。
地面へ敷いた布の上へ寝かされていた。
泣く子どもの声。
人を呼ぶ声。
木材を動かす掛け声。
小さな集落の中で。
幾つもの声が入り交じっていた。
帝国軍の姿はない。
街道へ入ってきたユリウス達を見て、一人の男が動きを止めた。
折れた柱を抱えたまま、三人の軍服を見つめる。
「……王国兵?」
敵意より先に、戸惑いが浮かんでいた。
「アルシア王国の兵だ」
ユリウスは答えた。
「国境から、第三山岳国境警備隊の駐屯地へ向かっている。怪我人は――」
「まだ中にいる!」
崩れた家屋の前から。
誰かの叫び声が上がった。
「声が聞こえた! 生きてるぞ!」
住民達が、傾いた柱を動かそうと集まっていく。
ユリウスは馬を下りた。
「どの家だ」
先ほどの男へ尋ねる。
男は、呆気に取られた様子で崩れた家屋を指差した。
「こっちです」
三人は、馬を街道の端へ寄せ、その家へ向かった。
屋根の一部が落ち、入口を太い梁が塞いでいる。
瓦礫の奥から、女性の掠れた声が聞こえた。
生きている。
だが、梁の上には、崩れかけた屋根が載っていた。
無理に動かせば、残っている部分まで落ちてくる。
「縄を出せ」
ユリウスは言った。
「梁だけを引く。上を揺らすな」
三人で縄を掛け、倒れていない柱へ回す。
住民達にも手を貸してもらい、合図を合わせて引いた。
一度目では動かなかった。
二度目。
木材が低く軋む。
「もう一度だ」
三度目で。
入口を塞いでいた梁が僅かに浮いた。
「今だ!」
若い国境兵が隙間へ潜り込む。
やがて、閉じ込められていた女性を抱えるようにして出てきた。
女性の片脚から血が流れている。
顔は青ざめていたが意識はあった。
「大丈夫だ。外へ出たぞ」
若い国境兵が声を掛ける。
住民達が、すぐに水と布を持ってきた。
ユリウスは馬の荷から包帯を取り出した。
出血している場所を押さえ、添え木を脚へ当てる。
「この家に、他の人は」
「その人だけです」
住民の一人が答えた。
「旦那は外へ出ていました。子どもも一緒です」
すぐ近くで、男性と子どもが、助け出された女性の手を握っていた。
ユリウスは立ち上がる。
視線の先。
集落の中央には、布を掛けられた遺体が並んでいた。
瓦礫の下から運び出された者。
倒れた壁へ巻き込まれた者。
頭や身体に、大きな傷を負っている。
だが、そこから少し離れた場所にも。
幾つかの遺体が並べられていた。
そちらの布には、血の跡がない。
「向こうの人達は」
ユリウスが尋ねる。
先ほどの男が、表情を曇らせた。
「分からないんです」
「分からない?」
「あの人達の家は、崩れていません」
男は遺体へ目を向けた。
「揺れが来たあと、様子を見に行ったら……家の中で倒れていました」
ユリウスは、一番手前の布を僅かに上げた。
年老いた女性だった。
顔にも、身体にも、目立った傷はない。
隣には若い男。
その隣には、まだ幼い子どもが横たわっていた。
三人とも、外傷は見当たらなかった。
「倒れる前に、何か言っていなかったか?」
ユリウスが尋ねる。
男は、記憶を探るように目を伏せた。
「頭が痛い、とか」
遺体の傍へ座っていた女性が答えた。
膝の上で、両手を強く握り締めている。
「母です。急に頭が痛いと言い出して……耳の奥で、ずっと音がするとも言っていました」
「あなたは?」
「私も同じでした」
女性は、震える息を吐いた。
「目が回って、立っていられなくなって。でも、私は横になっているうちに少し楽になりました。母は、そのまま意識を失って……」
「一度も目を覚まさなかったのか」
女性は頷いた。
「息が、どんどん弱くなって。名前を呼んでも、身体を揺すっても……」
言葉が続かなかった。
ユリウスは、国境の砦で起きたことを思い出す。
頭痛。
吐き気。
眩暈。
耳鳴り。
手足の震え。
同じだった。
「揺れが収まったあと、同じ症状で新しく倒れた者はいるか?」
住民達が、互いの顔を見る。
やがて、一人が首を横へ振った。
「いません。具合の悪かった者も、朝にはほとんど治っていました」
国境の砦でも、症状は夜のうちに弱まっている、新しく倒れた者もいなかった。
あの時。
白い光が空を覆い、大地が揺れ始めた時。
その一度だけ、何かが。
人々の身体に異変をもたらした。
耐えた者は回復し。
耐えられなかった者は、目を覚まさなかった。
同じ症状を受けながら、なぜ生死が分かれたのか。
ユリウスには分からなかった。
◇
ユリウス達は、その夜を集落で過ごした。
崩れかけた家屋からの救助、負傷者の手当て。
余震が起きても倒れにくい場所への移動。
日のあるうちに、済ませなければならないことが多過ぎた。
夜の間に、新たな頭痛や眩暈を訴えた者はいなかった。
少なくとも、人から人へ移る病ではなさそうだった。
翌朝。
ユリウス達は、包帯と食料の一部を住民へ残した。
「駐屯地へ着き次第、救援を頼む」
ユリウスは言った。
「向こうが動ける状態なら、必ず人を寄越してもらう」
「駐屯地は、無事なのでしょうか」
昨日の男が尋ねた。
ユリウスは、すぐには答えなかった。
「それを確かめに行く」
三人は、駐屯地へ向けて出発した。
◇
山沿いの街道へ入ると、地震の被害は、さらに大きくなっていた。
道の一部が、地盤ごと崖下へ落ちている。
橋は中央から割れ、片側が川へ沈んでいた。
斜面には、土の奥まで続く新しい亀裂が走っている。
崩れていない場所も、いつ土砂が動き始めるか分からなかった。
三人は馬を下りた。
崖側へ寄せ過ぎないよう、一頭ずつ手綱を引いて進む。
壊れた橋を避け、水の浅い場所を探して川を渡った。
濡れた石へ蹄が滑るたび、馬が怯えた声を上げる。
進めた距離は、平時の半分にも届かなかった。
それでも、天候だけは穏やかだった。
雨は降らない、風も弱い。
空を覆っていた雲も、少しずつ薄くなっている。
数日前まで荒れ続けていた空が、何事もなかったように静まり返っていた。
◇
二つ目の集落は、最初の集落よりも大きな被害を受けていた。
街道沿いの家屋は、三軒が完全に倒壊している。
石造りの集会所も、屋根の半分を失っていた。
だが、外にいる人の姿は少なかった。
広場へ集まっているのは、十人にも満たない。
その傍らには、生存者よりも多くの遺体が並べられていた。
「止まれ!」
広場にいた男が、ユリウス達へ向かって声を上げる。
両手で、農具を槍のように構えていた。
「それ以上、近付くな!」
ユリウスは馬を止めた。
「負傷者の救助に来た。俺達は――」
「誰だろうと来るな!」
男は、遺体が並ぶ場所へ目を向けた。
「病かもしれない。怪我もしていないのに死んだ。家族も、隣の家の者もだ。触れた者まで死ぬかもしれない」
その言葉に、広場へ集まった人々が身を固くする。
ユリウスは、馬上から男を見る。
「揺れが収まったあと、同じ症状で倒れた者はいるか」
男は答えなかった。
「今朝になって、頭痛や眩暈を訴えた者は」
「……いない」
「国境の砦でも、同じ症状が出た」
ユリウスは言った。
「頭痛、吐き気、眩暈、耳鳴り。だが、時間が経つにつれて治まった。今のところ、人から人へ移っているようには見えない」
男の手から、農具を握る力は抜けなかった。
「なら、なぜ死んだ」
掠れた声で尋ねる。
「なぜ、あいつらだけ目を覚まさなかった」
ユリウスは、遺体の列を見た。
「分からない」
答えられるのは、それだけだった。
「俺達にも原因は分からない。ただ、あの夜のあとに新しく倒れた者がいないなら、今も広がり続けている病ではないはずだ」
男は黙った。
農具も下ろさなかった。
その時、倒壊した家屋の方から、石の転がる音がした。
続いて、細い声が聞こえる。
「……誰か……」
広場にいた者達が、一斉に振り返った。
「今、声がした」
「生きてるぞ!」
一人が走り出す。
それまで抱いていた警戒も。
病への恐怖も、その瞬間だけは消えた。
ユリウス達も馬を下り、声のした家屋へ向かった。
倒れた壁の下に、若い女性が挟まれている。
片方の腕だけが、瓦礫の隙間から覗いていた。
「上の壁が残っている」
ユリウスは住民達へ告げる。
「一度に動かすな。支えを作ってから、一つずつ外す」
三人と住民達で、縄と木材を使い、崩れかけた壁を支える。
小さな石から順に取り除き、女性の身体を挟んでいる梁を持ち上げた。
救い出した頃には、太陽が山の向こうへ沈みかけていた。
その日も、駐屯地まで辿り着くことは出来なかった。
◇
二日目の夜。
ユリウス達は、集落から少し離れた場所で休んだ。
住民達は、遺体の近くで眠ることを恐れている。
病ではない可能性を伝えても、原因が分からない以上、恐怖は消えなかった。
ユリウス達も、崩れかけた家屋へ入るのは避けた。
街道脇の平らな場所へ毛布を敷き、交代で見張りに立つ。
空には、雲の切れ間から星が見えていた。
雨音も。
雷鳴もない。
聞こえるのは。
遠くを流れる川の音だけだった。
夜の間に、体調を崩す者は出なかった。
◇
三日目。
ユリウス達は日の出と共に集落を発った。
初めのうちは、街道の様子に、これまでとの大きな違いはなかった。
崩れた斜面。
割れた敷石。
雨に濡れた道道端の草。
長雨の後なら、どこにでも見られる光景だった。
だが、山を上るにつれて、道の両脇に生える草の量が、少しずつ増えていった。
石の隙間から伸びた葉が、敷石の上へ広がっている。
低い藪も、街道側へ枝を張り出し始めていた。
「この辺りは、もともと草が多いのか?」
ユリウスが尋ねる。
年長の国境兵は、周囲を見ながら首を傾げた。
「少なくはありません。ただ、街道の脇は駐屯地の兵が刈っています」
「最後に見たのは」
「ひと月ほど前です。その時は、馬車が二台並んで通れるだけの幅がありました」
今も、通れないほどではない。
ただ長雨の間に手入れが行き届かなくなったと考えれば、説明出来る程度だった。
三人は、そのまま進んだ。
1時間ほど経った頃、若い国境兵が足元を見て、馬を止めた。
「この草……」
街道へ走る亀裂から、何本かの葉が伸びていた。
葉の長さは、指を少し越える程度だった。
亀裂は新しい、内側の土も、まだ雨を含んだまま崩れている。
「地震のあとに生えたのでしょうか?」
「種が埋まっていたなら、芽が出ることはある」
年長の兵士が答えた。
「それにしては早過ぎる気もするがな」
その場だけなら、見過ごしていたかもしれない。
同じような草は、その先の亀裂からも伸びていた。
折れた倒木の根元には、新しい芽が幾つも出ている。
葉は雨に洗われ、どれも濃い色をしていた。
不自然と断じるほどではない。
だが、一度気付くと、あちらにもこちらにも目に入った。
◇
昼を過ぎる頃には、草は街道の端を隠し始めていた。
道端の藪も、馬の腹へ触れるほど枝を伸ばしている。
倒れた木には、幾本もの蔓が絡み付いていた。
そのうちの一本は、折れてまだ白い幹の断面まで這い上がっている。
年長の国境兵が、その蔓を見て足を止めた。
「おかしい」
「やはり、増えていますか」
若い兵士が尋ねる。
「ああ」
年長の兵士は、街道の先へ目を向けた。
「この辺りは、駐屯地へ物資を運ぶ道だ。荷車へ枝が当たらないよう、定期的に刈られている」
街道そのものは、まだ見えているし、馬も進むことが出来る。
それでも、ひと月手入れをしなかっただけで、ここまで荒れるとは思えなかった。
さらに先へ進む。
草の背丈は、少しずつ高くなっていった。
足首を覆い、やがて脛の辺りまで届く。
敷石の縁には苔が広がり、道沿いの距離標も、半分ほど蔓に隠れていた。
「駐屯地まで、あとどれくらいだ?」
「平時なら半日も掛かりません」
年長の兵士が答える。
三人は、互いに何も言わず、先へ進んだ。
◇
街道沿いの休憩所が見えてきた。
駐屯地へ物資を運ぶ者や、巡回中の兵士が身体を休めるための建物だった。
石造りの小さな建物で、その隣には馬を繋ぐための柵がある。
屋根の一部が崩れ、入口の扉も傾いていた。
その周囲だけ、街道の手前よりも明らかに草が深かった。
膝近くまで伸びた草が、建物の壁際へ密集している。
窓の下から伸びた蔓は、石壁を伝い、窓枠へ届いていた。
屋根から落ちたばかりに見える石へも、薄い苔が広がっている。
「ここまで来ると、雨だけでは説明出来ませんね」
若い国境兵が言った。
年長の兵士も否定しなかった。
三人は馬を下り、休憩所の中と周囲を調べる。
七人の遺体が見つかった。
二人は、崩れた屋根の下敷きになっている。
残る五人には、大きな外傷がなかった。
そのうち一人は、帝国軍の軍服を着ていた。
他の者達は、荷を運ぶ者の服装だった。
建物の外には、横倒しになった荷車が残されている。
駐屯地へ物資を届ける途中だったのか。
駐屯地から逃げようとしていたのか。
それを知る者はいなかった。
三人は、休憩所の周囲を探した。
倒木の下。
街道脇の斜面。
草に隠れた窪み。
何度呼び掛けても。
返事はなかった。
今も、新たな死者が増えているのではない。
あの夜に亡くなり、誰にも見つけられないまま残されていた者達が、道を進むたびに見つかっている。
駐屯地へ近付くほど、死者の数は増えていった。
そして、生きている者の声が聞こえなくなっていった。
◇
休憩所を過ぎると、街道の様子は急速に変わり始めた。
草は、膝を越える高さまで伸びている。
何本もの蔓が地面を横切り、敷石の境目を覆い隠していた。
両脇の木々も、街道の上へ枝を伸ばしている。
枝葉が重なり、昼間にもかかわらず、道は薄暗かった。
道沿いに造られた排水溝は、苔と草に埋まり、形さえ見えない。
敷石も、隙間へ入り込んだ根によって、何枚も持ち上げられていた。
地震で割れた石と。
根に押し上げられた石。
どちらが原因なのか、見分けることが出来なくなっている。
さらに進むと、地面から若木が生えていた。
細い芽ではない。
幹は既に手首ほどの太さがあり、人の背を越える高さまで枝を伸ばしている。
根元を確かめると、地震で割れたばかりの敷石を突き破っていた。
若い国境兵が、幹へ手を当てる。
「これが……数日で?」
誰も答えられなかった。
周囲には、青い葉と湿った土の匂いが満ちている。
これほど多くの植物に覆われているにもかかわらず。
鳥の声は聞こえなかった。
虫の羽音もない。
風が葉を揺らす音だけが、道の奥から絶え間なく聞こえていた。
やがて、草が地面の亀裂まで隠し始めた。
このまま馬を進ませれば、脚を折る危険がある。
三人は馬を下り、棒で足元を探りながら進んだ。
それでも、坂を上るにつれて道幅は狭くなる。
左右から伸びた枝が荷へ絡み、蔓が馬の脚へ巻き付いた。
ついに、年長の国境兵が足を止めた。
「この先は、馬を連れていけません」
前方では、街道そのものが緑の中へ消えていた。
三人は、少し開けた場所まで戻り、馬を繋いだ。
水。
包帯。
縄。
必要な道具だけを持つ。
ユリウスが先頭に立ち、腰近くまで伸びた草を掻き分けた。
その下には、辛うじて石畳が残っている。
確かに、人が造った道だった。
だが、既に自然の一部へ戻りかけていた。
◇
昼を過ぎた頃、年長の国境兵が前方の斜面を指差した。
「駐屯地は、あの上です」
ユリウスは目を凝らす。
本来なら、監視塔と外壁が見える場所だった。
だが、見えるのは幾重にも重なった枝葉だけだった。
「場所を間違えていないか」
若い国境兵が尋ねる。
「いや」
年長の兵士は答えた。
それでも、足は止まったままだった。
「間違いないはず」
三人は、斜面を覆う緑の中へ入った。
道は、既に目で追うことが出来ない。
草を掻き分け。
蔓を切り。
時折その下へ現れる敷石を頼りに進む。
やがて、樹木の向こうへ石壁が見えた。
初めは、崖の一部かと思った。
壁面のほとんどが、苔と蔓に覆われていたからだった。
さらに近付く。
ようやく、それが駐屯地の外壁だと分かった。
壁の上部は、地震によって何か所も崩れている。
だが、崩れた石の隙間からは、既に低木が枝を伸ばしていた。
蔓は、地面から壁の上まで途切れずに這い上がっている。
石と石の間へ根を食い込ませ。
一部では、壁面そのものを押し開いていた。
苔に覆われた場所には、石の色すら残っていない。
外壁へ刻まれていた帝国軍の紋章も、葉の下に僅かな輪郭が見えるだけだった。
門前には、かつて道だった場所を塞ぐように、何本もの若木が生えている。
枝は頭上で重なり、緑の屋根を作っていた。
門楼の屋根も、半分近くが植物に隠れている。
屋根石の間から草が垂れ下がり、軒の上には、細い木まで根を張っていた。
片側の門扉は外れ、地面へ斜めに倒れている。
その上へ蔓が何重にも絡み、門扉と地面を縫い付けるように広がっていた。
割れた板の隙間からは、人の背丈ほどに育った木が伸びている。
もう片方の門扉も、太い根に押され、枠から外れかけていた。
ユリウスは、足を止めた。
目の前にあるのは、数日前の地震で壊れた駐屯地には見えなかった。
少なくとも数年、見方によっては十年近く前に放棄され。
誰にも手入れされないまま、山へ呑み込まれた廃墟に見えた。
「……本当に、ここか」
年長の国境兵が、門の脇へ近付く。
石標があったはずの場所を探し、蔓を剣で切った。
葉を払い、表面を覆う苔を手袋で擦り落とす。
少しずつ、刻まれた文字が現れた。
第三山岳国境警備隊。
年長の兵士は、その文字を指でなぞった。
「間違いありません」
低い声だった。
「ひと月前、境界確認の書類を届けに来ました。この門を通っています」
壁を見上げる。
「門前には見張りがいた。道も外壁も、きれいに手入れされていました。こんな木は一本もなかった」
ひと月。
いや、地震が起きる直前まで、ここには多くの兵士がいたはずだった。
街道を巡回し。
国境を監視し。
カルドラ山麓へ向かう者達を受け入れていた。
それが、僅か数日のうちに、年月から取り残された廃墟へ変わっている。
「中へ入る」
ユリウスは言った。
三人は、外れた門を越えた。
◇
門を抜けた先の営庭は、深い緑に沈んでいた。
訓練や整列に使われていたはずの広場は、胸近くまで伸びた草と藪に覆われている。
石畳は、僅かな部分しか見えなかった。
地表を這う太い根が、敷石を下から持ち上げている。
何枚かは完全に外れ、斜めに突き出していた。
営庭の中央に立つ旗竿には、何重もの蔓が巻き付いている。
その蔓は先端近くまで達し、旗を吊るす縄へも絡んでいた。
落ちた帝国旗が、草の中へ半分埋もれている。
布は泥に汚れていたが、長年風雨へ晒されたようには色褪せていなかった。
営庭の右手には兵舎。
左手には厩舎と物資庫。
正面には司令棟が建っているはずだった。
建物の配置は、年長の国境兵から聞いた通りだった。
だが、どの建物も、輪郭を植物に崩されていた。
兵舎の石壁は、上から下まで蔓に覆われている。
窓は葉で塞がれ、割れた硝子の隙間から、枝が室内へ入り込んでいた。
屋根の雨樋には土が溜まり、そこから草と小さな木が生えている。
垂れ下がった根が、壁を伝い、窓枠へ届いていた。
厩舎の前では、馬を繋ぐ柵が倒れている。
朽ちたように見える木材の上へ苔が広がり、蔓が柱から柱へ渡っていた。
だが、折れた柵の内側は、まだ白い。
本当に長年放置されていたなら、残っているはずのない新しい色だった。
物資庫は、扉の半分を太い根に塞がれていた。
石段の隙間から伸びた低木が枝を広げ、入口へ近付くことさえ難しくしている。
営庭の端へ倒れた監視塔は、特に異様だった。
折れた塔の上から、何本もの木が伸びている。
崩れた石積みを鉢のようにして根を張り、枝葉が塔の残骸を覆い隠していた。
石の表面には厚い苔。
日陰には羊歯。
亀裂には小さな花まで咲いている。
十年近く、崩れたまま雨に打たれてきたと言われても、疑う者はいない光景だった。
だが、草の中に落ちている槍の穂先には、錆がない。
横倒しになった荷車の車輪も、長く放置されたようには朽ちていなかった。
帝国兵の兜。
割れた食器。
落とされた道具。
どれも、つい数日前まで使われていたものだった。
風景だけが、周囲の物よりも何年も先へ進んでいる。
「誰かいないか!」
ユリウスが声を張る。
声は、植物に覆われた建物の間へ吸い込まれていった。
返事はない。
葉が擦れ合う音だけが、頭上から降ってくる。
三人は、互いの姿が見える範囲で営庭を調べた。
草を掻き分ける。
その下から、最初の遺体が見つかった。
帝国兵だった。
胸から下が、崩れた外壁に挟まれている。
少し先にも一人。
さらに奥には二人。
いずれも、地震へ巻き込まれたことが分かる傷を負っていた。
だが、兵舎の入口付近では、傷のない兵士達が、折り重なるように倒れていた。
外へ出ようとしたのか。
助けを呼ぼうとしたのか。
伸ばされた手は、誰にも届いていない。
兵士達の間から、草が伸びていた。
腕へ蔓が絡み、軍服の上には、何枚もの葉が重なっている。
まるで、遺体まで緑の中へ沈めようとしているようだった。
若い国境兵が、口元を押さえる。
年長の兵士は、何も言わなかった。
三人は、一人ずつ生死を確かめた。
脈はない。
呼吸もない。
兵舎の中も確認した。
寝台の間から草が伸び、壁を這う蔓が天井まで達している。
窓から入り込んだ枝が、通路を塞いでいた。
床へ落ちた毛布。
棚に残された私物。
開いたままの衣装箱。
兵士達が計画的に駐屯地を去った形跡はなかった。
「まだ全て見たわけじゃない」
ユリウスは言った。
「司令棟を調べる」
◇
司令棟へ続く石段も、半分近くが草に隠れていた。
根に押し上げられ、段差が崩れている場所もある。
正面扉は開いたままだった。
その上へ蔓が垂れ下がり、入口を幕のように塞いでいる。
ユリウスは剣で蔓を切った。
切り口から、青い匂いが強く立つ。
建物の中へ入る。
外よりも、さらに暗かった。
窓が葉に覆われ、僅かな緑色の光しか差し込んでいない。
廊下には、天井から落ちた石や木材が散らばっている。
壁の亀裂から根が伸び、床板の隙間からも草が生えていた。
湿った石壁には、苔が広がっている。
廊下の奥へ進むほど、山の中に造られた洞窟へ入っていくようだった。
「隊務室は、こちらです」
年長の国境兵が、左手の扉を示した。
扉は、地震によって枠ごと歪んでいた。
三人で肩を当て、少しずつ押し開ける。
室内には、倒れた机と棚が残されていた。
命令書。
巡回報告。
兵員表。
補給品の受領記録。
床へ散らばった書類の間から。
細い草が伸びている。
ユリウスは、机の下へ落ちていた当直日誌を拾い上げた。
泥も、苔も付いていない。
最後の頁を開く、そこへ記されていた日付は、地震が起きた日だった。
国境付近の悪天候。
監視所からの定時連絡なし。
山麓施設から返答なし。
地震についての記録は、途中で途切れている。
文字の終わりに、筆を引きずったような線だけが残っていた。
駐屯地は、何年も前に捨てられたのではない。
数日前まで、確かに多くの兵士が働いていた。
それでも、窓の外に見える営庭も。
植物に塞がれた廊下も、長い年月を経た廃墟にしか見えなかった。
「伍長」
年長の国境兵が、壁へ掲げられた構内配置図を見つけた。
表面へ垂れ下がった蔓を払い、積もった埃を袖で拭う。
「地下防護壕があります」
兵士は、司令棟の奥を指差した。
「何のためのものだ」
「砲撃や山崩れが起きた際に、負傷者と指揮要員を収容する場所です。司令棟の裏手から入れます」
配置図によれば、司令棟の裏には、物資を運び込むための荷下ろし場がある。
その先、山の斜面へ掘られた通路が、地下防護壕へ続いていた。
地下なら、地震を生き延びた者がいるかもしれない。
「先に防護壕を確かめる」
ユリウスは言った。
「動ける者がいれば、他の生存者がいる場所も分かるかもしれない」
三人は、隊務室を出た。
倒れた棚を乗り越え、司令棟の裏口を目指す。
壁の亀裂から入り込んだ根が、廊下の途中を塞いでいた。
ユリウスが剣で細い根を切る。
二人の国境兵が、崩れた木材を脇へ退けた。
裏口の扉は、地震によって枠から外れている。
三人は、傾いた扉の隙間を抜けた。
司令棟の裏側にも、深い草が広がっていた。
日当たりが悪いためか、営庭よりも湿り気が強い。
石畳は厚い苔に覆われ、建物の陰では、背の高い羊歯が葉を重ねている。
三人は、配置図を頼りに奥へ進んだ。
だが、間もなく、年長の国境兵が足を止めた。
「……こんな建物はなかった」
司令棟と山の斜面の間に、横長の石造りの建物が立っていた。
周囲を覆う植物によって、初めは司令棟の一部にも見えた。
しかし、明らかに別の建物だった。
壁へ這い上がった蔓。
屋根の端から垂れ下がる草。
窓枠を半ば塞いでいる葉。
それらを取り除けば、建物そのものは新しい。
蔓の隙間から覗く石は白く、角も鋭いまま残っている。
石を繋ぐ目地にも、長年の風雨による黒ずみはなかった。
ユリウスは、年長の国境兵が持つ配置図を見る。
「どこにも記されていないな」
「はい」
兵士は、図面と目の前の建物を見比べた。
「ここは荷下ろし場のはずです。荷車が向きを変えられるよう、何も置かれていない場所でした」
「図面が古いのではありませんか」
若い国境兵が尋ねる。
年長の兵士は、配置図の端に記された日付を確かめた。
「半年前に更新されている」
「それ以降に建てられたなら」
「新しい図面へ差し替える。少なくとも、ここへ書き足すはずだ」
それさえ、行われていなかった。
建物の外壁には、所属を示す部隊章がない。
用途を記した標板も、棟の名称も掲げられていなかった。
正面には、分厚い金属製の扉が一つだけ設けられている。
扉の周囲は太い金属の枠で補強され、左右には外を窺うための細い監視窓があった。
窓は、人の目の高さに合わせて造られている。
だが、外から中を覗くことは出来ない。
入口の両脇には、石造りの小さな警備所まで設けられていた。
国境を守る駐屯地の中に、さらに警備された建物がある。
「防護壕の入口は、あの建物の向こうか」
ユリウスが尋ねる。
年長の兵士は、配置図の上で位置を確かめた。
「そのはずです。この建物が、荷下ろし場を塞いでいます」
迂回出来る道はなかった。
建物と斜面の間は、高い石壁によって閉じられている。
地下防護壕へ入るには、この建物の中を通るほかなかった。
「誰かいないか!」
ユリウスが呼び掛ける。
返事はない。
三人は、周囲を警戒しながら入口へ近付いた。
草の中に、一人の兵士が倒れていた。
営庭で見つけた帝国兵とは、装備が違っている。
胸から腹を覆う厚い防具。
肩と首を守る金属板。
頭部を深く覆う兜。
腰には、弾薬の詰まった金属箱が取り付けられていた。
その傍らに、見慣れない大型の銃が落ちている。
銃身は、通常の歩兵銃よりも太く、長い。
銃身の下には折り畳まれた二脚。
側面には、大型の箱型弾倉が取り付けられていた。
「帝国の重連射銃です」
年長の国境兵が言った。
「知っているのか」
「国境で説明を受けたことがあります。陣地へ据えて使う火器です。普通は二人で運用するものですが……」
倒れている兵士は、それを一人で扱えるよう、身体へ固定する革帯まで身に着けていた。
警備所の中にも、同じ装備の兵士がいた。
椅子から崩れ落ち、壁際へ倒れている。
重連射銃は、すぐに使える状態で机へ立て掛けられていた。
「何を相手にするつもりだったんでしょう?」
若い国境兵が呟く。
ここは既に、帝国軍の駐屯地の内側だった。
外敵は、外壁と門で防がれる。
それでも、この建物だけは、重火器を備えた兵士によって守られていた。
ユリウスは、二人の兵士の身体を調べた。
どちらにも脈はない、大きな外傷も見当たらなかった。
戦闘が起きた形跡もない、銃から弾が発射された様子もなかった。
二人とも、警備に立ったまま、突然身体から力を失ったように見えた。
「中を調べる」
ユリウスは言った。
「生存者がいるかもしれない。火器には触れるな」
◇
正面の扉は、地震によって枠から外れかけていた。
だが、三人で押しても、簡単には動かなかった。
扉の下が、歪んだ床へ食い込んでいる。
年長の国境兵が、隙間へ鉄棒を差し込む。
二人の国境兵が扉を持ち上げ、ユリウスが肩で押した。
金属が床を擦る。
重い音が、建物の中へ響いた。
人一人が通れるだけの隙間が開く。
ユリウスは、剣を抜いたまま中へ入った。
空気は、外よりも冷たかった。
閉ざされていたためか、青い葉や湿った土の匂いは薄い。
代わりに、機械油と金属。
それに、薬品を思わせる刺激のある臭いが残っていた。
入口のすぐ内側には、短い通路と、もう一枚の金属扉があった。
二つの扉に挟まれた区画。
その両側にも、警備所が設けられている。
片方には、入退室を記録するための机と帳面。
もう片方には、重連射銃を固定する銃架と、大型の弾薬箱が並んでいた。
壁の一部には、銃身を通すための小さな射撃口まで設けられている。
外の扉を突破した者を、ここで迎え撃つための造りだった。
「武器庫でも、ここまではしません」
若い国境兵が言った。
二枚目の扉の前にも、重装備の兵士が倒れていた。
一人は、重連射銃の銃架へ手を掛けたまま。
もう一人は、扉を開閉する装置の傍へ倒れている。
ユリウス達は、一人ずつ生死を確かめた。
二人とも、既に亡くなっていた。
若い国境兵が、扉の横へ残された鍵の束を見つける。
幾つもある鍵の中から、錠へ合うものを探す。
四本目で、重い音を立てて錠が外れた。
内側の扉を開く。
その先には、白い石板を敷き詰めた廊下が続いていた。
壁は滑らかに磨かれている。
床には継ぎ目が少なく、汚れを洗い流せるよう、僅かな傾斜が付けられていた。
天井には、金属の籠で守られた照明用の晶石が、等間隔に並んでいる。
光は消えていた。
その下を、何本もの金属管と、束ねられた線が走っている。
「治療所でしょうか」
若い国境兵が尋ねる。
清潔に保つための造りだけを見れば。
軍の治療所に似ている。
だが、負傷者を運び込む建物にしては、入口の警備が厳重過ぎた。
「呼び掛けながら進む」
ユリウスは言った。
「部屋を一つずつ確かめるぞ」
◇
最初に見つけたのは、白い衣服を着た男だった。
廊下の途中で、壁にもたれるように倒れている。
軍服ではない、膝近くまである白衣を身に着けていた。
その下には簡素な灰色の服。
腰には筆記具と、幾つかの小さな器具が下げられている。
ユリウスは、首元へ指を当てた。
脈はない。
身体にも、目立った傷はなかった。
「軍医ですか」
年長の国境兵が尋ねる。
ユリウスは、男の傍らへ落ちていた革袋を拾った。
中に入っていたのは、包帯や薬ではない。
目盛りの刻まれた硝子管。
細い金属棒。
小さな晶石を挟むための器具。
用途の分からないものばかりだった。
「軍医ではなさそうだ」
廊下の両側には、幾つもの扉が並んでいた。
どの扉にも、部屋の名称は記されていない。
代わりに、数字と記号だけが刻まれている。
最初の部屋には、長い机が三列に並んでいた。
机の上には、針の付いた測定器。
硝子管。
金属製の容器。
小さな晶石を固定するための台。
見慣れない器具が置かれている。
棚には、番号を付けられた瓶が並んでいた。
中身の入っているもの。
空のもの。
割れて床へ落ちているもの、様々だった。
室内には、白衣を着た者が二人倒れていた。
一人は、机へ突っ伏している。
もう一人は、扉へ向かう途中だったのか、片手を前へ伸ばしていた。
二人とも、既に息をしていなかった。
次の部屋では、壁一面へ記録盤が取り付けられていた。
盤の上には、幾本もの針と、波のような線を描く装置がある。
床へ固定された机には、書きかけの記録板が残されていた。
筆が、最後の文字から長い線を引いたまま止まっている。
何かを記録している途中に、書いていた者が力を失ったようだった。
「研究をしていたのでしょうか」
若い国境兵が。
声を落として尋ねる。
「そう見える」
ユリウスは答えた。
「だが、何を調べていたのかは分からない」
部屋の奥には、さらに重装備の兵士が倒れていた。
白衣の者達を守っていたようにも見える。
だが、それなら入口へ兵士を置けば足りる。
建物の内部。
区画を分ける扉。
作業室の中。
奥へ進んでも、重火器を備えた兵士が配置されていた。
何者かが侵入することだけでなく、施設の中にあるものが、外へ出ることまで警戒していたように見えた。
◇
廊下の最奥に、地下へ続く階段があった。
階段の前にも、厚い金属扉が設けられている。
その横には、この建物とは別の古い石壁が残されていた。
年長の国境兵が、構内配置図を開く。
現在地と、地下防護壕の入口を見比べた。
「この階段です」
「防護壕へ続いているのか」
「もともとの入口を、この建物の中へ取り込んだようです」
古い防護壕へ続く通路を残し、その周囲へ新しい施設を建てた。
そう考えれば、配置図にない建物が、地下への入口を塞いでいる理由も分かる。
だが、なぜ防護壕の周囲に、これほど厳重な施設を造る必要があったのか。
答えは見つからなかった。
金属扉は、半分ほど開いていた。
三人は、照明用の携帯晶石を取り出す。
ユリウスが先頭に立ち、慎重に階段を下りた。
地下へ進むにつれ、外の音が遠ざかっていく。
聞こえるのは、三人の足音。
時折、天井から落ちる水滴の音。
それだけだった。
階段の途中にも、白衣を着た者と兵士が倒れていた。
呼吸はない。
身体は冷たい。
誰一人、助けを求める声を上げることはなかった。
◇
階段を下り切った先には、地上の建物よりも広い区画が造られていた。
左右へ伸びる通路。
天井を走る太い管。
壁の中へ収められた無数の線。
床には、荷を運ぶためと思われる金属製の軌道まで敷かれている。
地下防護壕を利用しただけの施設ではなかった。
古い石壁の内側を削り、さらに奥へ拡張している。
「駐屯地の地下に、こんな場所が……」
若い国境兵が呟く。
三人は、最も広い通路を進んだ。
幾つもの扉を開け。
生存者を探す。
その先で、大きな部屋へ辿り着いた。
室内には、何かの作業を行っていた痕跡が残っている。
壁に沿って、太さの違う管が何本も伸びていた。
管は、部屋の中央に置かれた複数の装置へ繋がっている。
床には、大型の晶石を固定するためと思われる金属台。
その周囲には、幾つもの操作盤が並んでいた。
操作盤のレバーは、上げられたもの。
途中で止まっているもの。
根元から折れているものがある。
目盛りの針は、限界を示す位置へ振り切れたまま動かない。
机の上には、開いた記録帳。
途中まで数値の書き込まれた板。
中身のこぼれた容器。
誰かが作業を中断し、慌ただしく立ち上がったことが分かる。
「何かを動かしていた途中だったようですね」
年長の国境兵が言った。
「ああ」
ユリウスは、床へ落ちた工具を拾うことなく見下ろした。
作業を終え、片付けてから施設を離れたのではない。
装置を動かしている最中に、何かが起きた。
地震の前なのか。
同時なのか。
それも分からなかった。
部屋の奥に、大きな観測窓があった。
厚い硝子には、中心から幾本もの亀裂が走っている。
その向こうにも、別の部屋が見えた。
そこでは、さらに多くの者が倒れていた。
◇
観測窓の向こうは、装置を管理するための管制室だった。
三人は、隣の通路から中へ入った。
白衣を着た者達。
帝国軍の技術兵と思われる者達。
その数は、二十人を超えていた。
操作盤へ突っ伏している者。
椅子から滑り落ちている者。
出口へ向かう途中で倒れている者。
負傷した誰かを支えようとした姿勢のまま、折り重なっている者。
誰も、息をしていなかった。
壁際には、重連射銃を携えた兵士達が配置されていた。
一人は、銃を両手に抱えたまま倒れている。
別の一人は、扉の前へ立ちはだかるような姿勢で、壁へ背を預けていた。
室内に、銃撃戦の痕跡はない。
壁へ弾痕はなく、重連射銃も使われていなかった。
研究者らしき者も、警備兵も。
同じ何かによって一斉に倒れたように見えた。
「これだけの人数がいて……誰も逃げられなかったのか」
若い国境兵が呟く。
ユリウスは答えなかった。
机に残る記録板へ目を向ける。
幾つもの数値。
急激に大きくなる波形。
途中から重なり始める複数の線。
最後には、記録盤の端を越えるほど跳ね上がっていた。
何を示しているのか、ユリウスには理解出来なかった。
ただ、ここにいた者達が何らかの異常を観測し。
止めようとしていたことだけは伝わってきた。
管制室の奥では、金属製の足場が崩れていた。
その下に、帝国軍の制服を着た男が倒れている。
身体の半分へ、壊れた足場と石材が載っていた。
「こちらにも一人います」
年長の国境兵が声を上げた。
ユリウスは、男の傍らへ膝をついた。
額から血が流れている。
片腕は、不自然な向きへ曲がっていた。
外傷がないまま亡くなった者達とは違う。
地震によって、壁へ叩き付けられたようだった。
ユリウスは、首元へ指を当てる。
すぐには、何も感じられなかった。
位置を変え、もう一度確かめる。
指先へ、ごく弱い脈が触れた。
「生きている」
若い国境兵が、すぐに傍らへ膝をつく。
「意識は」
「ない。だが、息はしている」
呼吸は、浅く、途切れがちだった。
今すぐ、身体の上に載っているものを取り除かなければならない。
だが、先に動かせば、崩れた足場がさらに落ちる可能性がある。
「支えを作る」
ユリウスは言った。
「一度に持ち上げるな。上の石から順に退ける」
三人は、近くに残されていた金属棒と木材を集めた。
足場を支え、小さな瓦礫から取り除く。
男を引き出すまでに、かなりの時間が掛かった。
出血している頭へ布を巻き。
折れた腕を固定する。
男は、一度も目を開けなかった。
それでも、弱いながら呼吸は続いていた。
「この人を外へ運びますか?」
若い国境兵が尋ねる。
ユリウスは、亀裂の走った観測窓を見る。
向こう側。
さらに奥の部屋は、まだ調べていない。
「あの部屋を確認してからだ」
「ここで待たせるのですか」
「動かす前に、他の生存者がいないか確かめる。二人なら、一度に運べる人数にも限りがある」
男を、倒れたものがない壁際へ寝かせる。
毛布を敷き、呼吸を妨げない姿勢へ整えた。
三人は、観測窓の向こうへ続く扉を探した。
◇
扉は、管制室の端にあった。
そこにも、太い金属の枠と複数の錠が設けられている。
だが、地震によって扉そのものが歪み、僅かに開いていた。
隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。
地下施設の奥から、風が来ていた。
その風には、濃い草と湿った土の匂いが混じっている。
「この先も、地下ですよね」
若い国境兵が言った。
「ああ」
年長の兵士が、構内の位置を確かめる。
「少なくとも、地上へ通じる場所ではありません」
三人で、歪んだ扉を押し開けた。
隙間が広がるほど、差し込む光が強くなる。
扉の向こうには、広大な円形の部屋があった。
だが、地下の実験施設とは思えない光景が広がっていた。
床一面に、草が生い茂っている。
膝を越える高さの草。
太い葉を広げる植物。
装置へ絡み付く蔓。
地割れから伸びた若木。
室内であるにもかかわらず、駐屯地の営庭よりも深い緑に覆われていた。
床に敷かれた金属板も、中央へ伸びる何本もの線も、植物の下へ半ば隠れている。
壁際に並んでいた装置は、蔓に巻き付かれ、形を失いかけていた。
根は、機器の隙間へ入り込み、金属の覆いを内側から押し上げている。
部屋の中央を囲むように、五つの円形の足場が並んでいた。
いずれも、人が一人立てるほどの大きさだった。
そこから伸びる線は、中央に置かれた台座へ集まっている。
その台座の上に、巨大な青い石の残骸があった。
もとは、人の背丈を越える一つの結晶だったのかもしれない。
今は、根元から砕けている。
大きな破片が台座へ残り、細かな欠片が、周囲の草の中へ散らばっていた。
欠片の一部には、今も淡い青色が残っている。
光を放っているわけではない。
空から差し込む光を受け、濡れた硝子のように青く見えていた。
「これは……何だ」
年長の国境兵が呟いた。
ユリウスにも、答えは分からなかった。
見たことのない石だった。
宝石とも、普通の晶石とも違う。
何に使われていたのか。
なぜ、部屋の中央へ置かれていたのか。
周囲の装置が、なぜその石へ繋がっているのか、何一つ理解出来なかった。
その頭上。
部屋の天井は、大きく抜け落ちていた。
円形の穴が、地下から地上まで続いている。
天井だけではない、その上にあった岩盤と建物の一部まで。
内側から押し破られたように失われていた。
崩れた縁には、折れた梁と金属管が突き出している。
土と石の間から伸びた根が、穴の内側へ垂れ下がっていた。
何本もの蔓が、高い天井から部屋へ降り、床へ届いている。
その隙間から、青空が見えた。
流れる雲。
差し込む陽光。
地下にあるはずの部屋へ。
外の風が吹き下ろしている。
光が当たるたび、草の葉が明るく揺れた。
床には、先日の雨が溜まっている。
青い石の欠片の間を流れ、根と草の下へ小さな水溜まりを作っていた。
数日前まで、ここは閉ざされた室内だったはずだった。
それが今は、崩れた遺跡の中へ森が生まれたような姿になっている。
「中央から、植物が広がっているように見えます」
若い国境兵が言った。
確かに、砕けた青い石へ近いほど、緑が深かった。
台座の周囲には、腰近くまで草が伸びている。
太い根が、青い破片の下へ潜り込み。
そこから床の亀裂に沿って、部屋全体へ広がっていた。
しかし、植物が石から生まれたのか。
単に、崩れた天井から差し込む光へ集まったのか、判断は出来なかった。
「人を探す」
ユリウスは言った。
「草の下にも注意しろ。踏む前に確かめろ」
三人は、円形の部屋へ入った。
草を分けながら進む。
倒れた装置。
砕けた硝子。
床へ落ちた記録板。
その間を、一つずつ確かめていく。
五つある足場のうち、四つには誰もいなかった。
最も入口へ近い足場の傍で、若い国境兵が動きを止めた。
「伍長、こちらに人が」
草の中へ、若い女性が倒れていた。
帝国軍の制服を着ている。
目立った外傷はない。
左手には、赤い石の付いた指輪が残されていた。
ユリウスは、女性の首元へ指を当てる。
脈がある。
先ほどの男よりも、はっきりしていた。
「生きている」
呼び掛けても。
女性は目を覚まさなかった。
呼吸は安定している。
身体にも、骨折や大きな出血は見当たらない。
若い国境兵が、周囲の草をさらに掻き分ける。
その先、砕けた青い石の反対側にも、人が倒れていた。
白い衣服を纏った少女だった。
帝国軍の制服ではない。
研究者達が着ていた白衣とも違う。
薄い布を幾重かに重ねた、簡素な衣服。
足元に靴はなく、長い髪が、草の上へ扇状に広がっている。
なぜ、この場所にいるのか分からなかった。
研究者にも。
警備兵にも見えない。
ユリウスは、少女の傍らへ膝をついた。
顔へ掛かっていた髪を、呼吸を妨げないよう、そっと脇へ払う。
その顔が、空から差し込む光の中へ現れた。
ユリウスの思考が止まった。
手も。
息も。
一瞬だけ動かなくなる。
見覚えがあった。
眉の形。
閉じられた瞼。
鼻筋。
僅かに色を失った唇。
頬から顎へ続く輪郭。
全く同じではない、髪の長さも。
纏っている雰囲気も違っている。
それでも、見間違えたのだと、すぐには思えなかった。
王都の花屋で何度も顔を合わせ。
王宮でも言葉を交わした、あの少女とあまりにもよく似ていた。
姉妹だと言われれば、疑うことなく信じただろう。
だが、そんな話は一度も聞いていない。
それ以前に、あの少女は、王都にいるはずだった。
帝国領の奥。
地図にも記されていない地下施設。
砕けた青い石と、異常なほど生い茂った草木に囲まれた場所。
ここに、いるはずがない。
「伍長?」
若い国境兵が呼ぶ。
ユリウスは答えなかった。
少女の顔から、目を離すことが出来ない。
喉元まで、一つの名前が出掛かっていた。
だが、口にする直前で飲み込んだ。
同じ人物であるはずがない。
そう考えているのに、胸の奥では、別の記憶が蘇り始めていた。
春の光が差し込む、王宮の回廊。
花の香りを運ぶ風。
いつもより僅かに低い声。
そして、普段とは違う、研ぎ澄まされた静かな眼差し。
「――そこで見つけなければならない人がいます。」
あの日、そう告げられた。
帝国を中心に、大きな災いが起こる。
大地が揺れ、一つの町や地方だけでは済まないかもしれない。
災害が起きれば、王国も救援隊を送ることになる。
そして、自分は、その場所で多くのものを見ることになる。
実際に、その言葉通りになった。
王都まで届いた大地震。
崩壊した国境。
傷のない死者。
人の気配が消えた集落。
何年も放置されたように緑へ呑まれた駐屯地。
配置図へ記されていない施設。
その地下で、ユリウスは今、一人の少女を見つけた。
「――その方は怪我を負っている可能性があります。」
「――意識を失っているかもしれません。」
「――自分の名前や、何が起きたのかを、すぐには説明出来ないかもしれない。」
言葉の一つ一つが、目の前の光景へ重なっていく。
ユリウスは、動けないまま少女を見つめた。
あの日、その人物が誰なのか尋ねた。
答えは教えられなかった。
ただ、見れば分かると言われた。
「――きっと、あなたは驚くでしょう。」
「――目の前にいる人を見て、何かの間違いではないかと思うかもしれません。」
何かの間違い。
今、まさにそう思っていた。
この少女が、自分の知るあの少女であるはずがない。
だが、無関係だとも思えなかった。
顔が似ているだけではない。
あの日の言葉が。
この場所を。
この少女を。
初めから指し示していたように思えた。
「伍長」
今度は、年長の国境兵が声を掛けた。
「この少女を、ご存じなのですか?」
ユリウスは、すぐには答えられなかった。
知っていると答えることも。
知らないと言い切ることも出来ない。
「……よく似た人を知っている」
ようやく、それだけを答えた。
「王国の方ですか?」
「ああ」
「では、なぜ帝国に」
「分からない」
ユリウスは、少女へ視線を戻した。
「本人であるはずもない」
言葉にしたことで。
かえって疑問が深くなった。
若い国境兵も、困惑した様子で少女を見る。
「他人の空似、でしょうか」
「そうかもしれない」
ユリウスは答えた。
だが、自分の声に確信がないことは分かっていた。
もう一つ、あの日の言葉が蘇る。
「――それでも、その人を見捨てないでください。」
ユリウスは、少女の首元へ指を当てた。
皮膚は冷えている。
すぐには、脈を感じ取れなかった。
指の位置を変える、呼吸を確かめるため。
少女の口元へ耳を近付けた。
ほんの僅かに、空気が動く。
もう一度、首元へ指を当てる。
今度は、弱い脈が触れた。
「生きている」
自分でも気付かないうちに、声へ力が入っていた。
若い国境兵が、すぐに少女の傍らへ膝をつく。
「怪我は」
「目立つ傷はない。呼吸もしている」
呼び掛けても、少女は目を開けなかった。
肩へ触れても、反応はない。
深く眠っているように見える。
だが、この寒さの中で、意識のない状態が何日も続いていたのなら、決して安全とは言えなかった。
ユリウスは、白い衣服の上へ毛布を掛けた。
その手を止めることなく、あの日の最後の頼みを思い出す。
「――その人の命を守ってください。」
「――意識が無ければ安全な場所へ。」
「――可能であれば、その人を現地に残さないでください。」
そして、王国の救援隊と共に連れ帰ってほしいと。
そう告げられた。
ユリウスは当時、約束は出来ないと答えた。
現場には命令があり、自分一人で決められないこともある。
それでも。
その人物を見つけた時は、あの言葉を思い出すと答えた。
怪我をしていれば助ける。
出来る限り。
王国まで連れて戻る方法を考えると。
その時が。
今だった。
なぜ。
この少女を帝国へ残してはいけないのか。
なぜ。
自分がここへ来ると分かっていたのか。
目の前の少女と。
王都にいるはずの人物に、どのような関係があるのか。
何一つ分からない。
それでも。
ユリウスは立ち上がった。
「この少女も運び出す」
「駐屯地の外へですか」
年長の国境兵が確認する。
「ああ」
ユリウスは答えた。
「事情は後で調べる。今は命を繋ぐことが先だ」
それは。
救助に来た兵士として当然の判断だった。
同時に。
あの日に交わした約束を果たすための判断でもあった。
第一部 完




