第三十三話 星を待つ夜
日が西の山へ近付く頃、ナディアが空の籠を持ってエルム家を訪れた。
森の手前へ花を採りに行く約束をしていたことを、リアナはその姿を見るまで忘れていた。
「ごめん。私……」
「今日はやめておこうか」
ナディアは、リアナが最後まで言い終える前に答えた。
右腕の重さは礼拝所を出た時より軽くなっていたが、身体にはまだ、長く畑仕事をしたあとのような疲れが残っている。ナディアにも、それが分かったのだろう。
「でも、礼拝所の飾りに使うのでしょう?」
「花は今日だけ咲いているわけじゃないよ」
「明日は、朝からもう一度検査があるの」
「なら、明日の午後にする。それでも駄目なら明後日」
ナディアは空の籠を持ち上げた。
「花は逃げないでしょう?」
「雨が降ったら、散るかもしれないよ」
「その時は、散っていない花をリアナに探してもらう」
「やっぱり、私に任せるつもりなんだね」
「私は籠を持つ係だから」
いつもと変わらない言い方だった。
それでもナディアは、すぐには笑わなかった。
「本当に、王都へ行くことになるの?」
「まだ決まってない。明日の検査が終わらないと、セラン司祭にも分からないみたい」
「そっか」
ナディアは、家の中へ視線を向けた。
ルタは夕食の支度をしながら、二人の話を聞いている。畑から戻ったダリオも、農具小屋の前で鍬に付いた土を落としながら、時折こちらを見ていた。
「じゃあ、明日また来る」
ナディアは言った。
「検査の結果を聞きに来るの?」
「花を採りに行けるか聞きに来るの」
「同じことじゃない?」
「違うよ。私が気にしているのは、礼拝所の飾りだから」
そう言ってから、ようやくナディアは笑った。
リアナも笑い、橋の向こうへ遠ざかる友人を見送った。
空の籠が、歩くたびにナディアの脚へ軽く当たっている。
明日も、その籠を持って来る。
今までなら、何も疑わずにそう思えた。
だが、その日のリアナには、明日の午後も自分が村にいるのか、はっきりとは分からなかった。
◇
夕食の時間になっても、家の中は普段より静かだった。
炉に掛けた鍋から、豆と根菜を煮込んだ匂いが広がっている。ルタは家族の器へ順番に煮物を盛り、最後に自分の分をよそった。
ダリオは黒パンを切り分け、子ども達の前へ置く。
いつもなら、テオが一番に手を伸ばすところだった。
だが今夜は、誰も食べ始めようとしない。
「冷めるわよ」
ルタが言うと、テオはようやくパンを取った。
ミナは煮物へ手を付けず、リアナの右手を見ている。
「お姉ちゃんの中に、星があるの?」
「セラン司祭は、誰の中にもあるって言っていたよ」
「ミナにも?」
「あると思う」
「どこに?」
「どこだろう」
リアナは自分の胸へ手を当てた。
「胸の辺りかな」
ミナも真似をして、自分の胸へ両手を置く。
「光ってる?」
「外からは見えないみたい」
「どうして、お姉ちゃんの星だけ見つかったの?」
リアナは答えられなかった。
自分にも分からないことだった。
「星があったからって、王都へ行く必要はないだろ」
テオが言った。
「村にいたって、夜になれば星は見える」
「空の星を見る話ではないよ」
「同じようなものだろ」
「同じではないと思う」
「じゃあ、何が違うんだよ」
「それが分からないから、明日もう一度調べるんでしょう?」
リアナが答えると、テオは黙ってパンをちぎった。
口に入れるわけでもなく、指先で小さく分け続けている。
「リアナ」
ダリオが呼んだ。
「検査で何が起きたのか、最初から話してくれ」
リアナは星盤へ手を置いたところから話し始めた。
最初は何も感じなかったこと。
しばらくすると、手のひらの下で水のようなものが動いたこと。
目を閉じているのに、幾つもの光が見えたこと。
その中心に、一つだけ赤い光があったこと。
そして、星盤から低い音が響いたこと。
家族は、誰も途中で口を挟まなかった。
「赤い光に触れたのか」
ダリオが尋ねる。
「触れたわけではないよ。ただ、見たら音がしたの」
「腕が重くなったのは、そのあとか」
「うん」
「今も重いの?」
ルタが、リアナの右手へ触れる。
「少しだけ。昼よりは軽くなったよ」
「痛みは?」
「ないよ」
「指は動く?」
リアナは母親に見えるよう、右手を握ってから開いた。
「大丈夫」
ルタはそれでも安心出来ないらしく、手首から指先までを何度も確かめた。
「明日の検査でも、同じものへ触れるのかしら」
「分からない」
「セラン司祭は、詳しい検査と言っただけなのね?」
「うん」
ルタはリアナの手を離したが、その表情から心配は消えなかった。
「嫌なら、行かなくていい」
テオが言った。
今度は、誰にも聞き返されないよう、はっきりとした声だった。
「明日の検査も、王都へ行くこともだ。姉ちゃんが嫌だって言えば、断れるだろ」
「断れるかどうかも、まだ分からないよ」
「どうしてだよ。姉ちゃんのことだろ」
「テオ」
ダリオが名前を呼んだ。
叱るような声ではなかったが、テオはそれ以上続けなかった。
「リアナは、どうしたい」
父親が尋ねた。
リアナはすぐに答えられなかった。
王都がどのような場所なのか、ほとんど知らない。村へ来た商人から、大きな建物や広い市場の話を聞いたことはある。見たことのない花が、遠い土地から運ばれてくるとも聞いていた。
一度見てみたいと思ったことはあった。
だが、そこで暮らす自分を考えたことはない。
「分からない」
リアナは正直に答えた。
「王都を見てみたいと思ったことはあるよ。でも、家を離れて暮らしたいかは分からない。お父さんとお母さんも、テオとミナもいない場所でしょう?」
「ミナも行く」
ミナがすぐに言った。
「お姉ちゃんが王都へ行くなら、ミナも行く」
「王都は遠いよ」
「手をつないで歩けば大丈夫」
「七日以上掛かるらしいよ」
「途中で寝る」
ミナは本気で一緒に行けると思っているようだった。
ルタはミナを膝の上へ抱き寄せる。
「まだ、リアナが行くと決まったわけではないのよ」
「行かない?」
「それも、まだ決まっていないわ」
「決まっていないことばかりだな」
テオが不満そうに言う。
「ああ」
ダリオは短く答えた。
「だから、今夜決める必要はない」
父親は、リアナを見た。
「明日の検査を受ける。何が分かったのかを聞く。王都へ行く必要があると言われたなら、その理由も、期間も、断ることが出来るのかも確認する。それから家族で考える」
「でも、国王陛下と大司教猊下の命だと言っていたわ」
ルタが言った。
「だからこそ、分からないまま返事はしない」
ダリオの声は低く、普段と変わらなかった。
だが、パンを持つ指には力が入っていた。
「リアナ一人に決めさせることでもない。俺達だけで決めることでもない。全て聞いてからだ」
ルタは暫く夫の顔を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「そうね」
リアナも頷く。
「分かりました」
「明日の朝までは、何も決めなくていい」
それは以前、ミナがリアナの将来を心配した時に、ルタが言った言葉とよく似ていた。
ずっと先のことまで、今決めなくていい。
あの時は、誰も本当にリアナが村を離れるとは考えていなかった。
それから僅か一日しか経っていない。
それなのに今は、家族全員が、リアナのいない暮らしを考え始めていた。
◇
夕食が終わると、家族は昨日と同じように居間で過ごした。
ダリオは農具の柄を削り、ルタは縫いかけの服を膝へ載せた。テオは石板へ文字を書き、ミナはその隣で絵を描いている。
だが、テオの文字は同じ場所を何度もなぞったため、読みにくいほど太くなっていた。
ミナが描いているのも、昨日までの花ではない。
丸い点を幾つも並べ、その間を線で結んでいる。
「何を描いているの?」
リアナが尋ねる。
「お姉ちゃんの星」
「そんな形だったかな」
「分からないから、ミナが決めたの」
石板の中央には、一際大きな丸が描かれていた。
「これは?」
「赤い星」
色のない石板では、どの丸も同じ色にしか見えない。
それでもミナの中では、その一つだけが赤いのだろう。
窓辺には、昨日ミナが摘んだ白い花が残っていた。
僅かに茎が曲がり、花弁の一枚が器の脇へ落ちている。ルタは縫い物を置くと、器の水を新しいものへ替えた。
「まだ咲くかな?」
ミナが尋ねる。
「今夜は大丈夫よ」
「明日は?」
「明日のことは、明日にならないと分からないわ」
ルタは花の向きを整え、再び家族の傍へ戻った。
◇
夜が深くなり、テオとミナが眠ったあとも、リアナは目を閉じることが出来なかった。
同じ寝台では、ミナがリアナの右手を握っている。
眠る前に何度離しても、いつの間にか同じ手を探し、指を絡めてきた。
居間では、まだ炉の火が消えていなかった。
両親が小さな声で話している。
「もし、連れていくと言われたら」
ルタの声が聞こえた。
「明日、話を聞く」
ダリオが答える。
「断れないと言われたら?」
暫く、返事はなかった。
「それも、明日聞く」
子ども達の前で話していた時と同じ答えだった。
けれど、暗い部屋の中で聞く父親の声は、昼間よりも低く、重く感じられた。
リアナは、ミナを起こさないよう身体の向きを変えた。
小さな窓から、夜空の一部が見える。
幾つもの星が、昨日までと変わらない光を放っていた。
そのどれかと、自分の中に見えた赤い光が繋がっているのだろうか。
星盤へ触れるまで、考えたこともなかった。
リアナは右手を握る妹の指へ、そっと左手を重ねた。
明日の朝になれば、何かが分かる。
そう思いながら目を閉じたが、眠りが訪れるまでには、長い時間が掛かった。
◇
エルム家の明かりが消えた頃、村の礼拝堂にはまだ一つだけ、夜更けの灯が残っていた。
礼拝堂の奥に設けられた小さな控え室で、セランは机の前に腰を下ろしていた。石壁に掛けられたランプの火が、ときおり風もないのに細く揺れる。部屋には古い木と蝋、それから昼間に焚かれた香の匂いが薄く残っていた。
長椅子では村の司祭エドガーが外套を掛けたまま眠っている。王都から同行した護衛たちも、今夜は礼拝堂に隣接する宿舎で休んでいた。
眠らずにいるのは、セランとイネスだけだった。
イネスは机の反対側に立ち、昼間の検査記録を読み返していた。肩の辺りで切りそろえられた髪が、紙面を覗き込むたびに頬へ落ちる。彼女はそれを指で払うと、記録の一行を爪先で軽く示した。
「カエラ・ハルト。星盤の反応なし。本人の体調にも変化なし」
確認するように読み上げ、次の紙へ移る。
「ナディア・エーカー。外周部にごく弱い発光。持続時間は一息に満たず。本人の自覚症状なし」
そこでイネスは言葉を切った。
三枚目の記録だけは、ほかの二枚より書き込みが多い。セランが検査の直後に書いた文字の周囲へ、イネスが質問と補足を書き加えたためだった。
「リアナ・エルム。星盤上の点と線がほぼ同時に発光。中央部に赤色の光。台座に微細な振動あり。本人は右腕の重さを訴えた……」
イネスは紙から顔を上げた。
「記録に間違いはありませんね?」
「ない。私も君も見ていた」
「では、やはり星盤の不調を疑うべきでしょうか」
「その可能性を消すために、もう一度確かめる」
セランは机の端に置いていた布包みを引き寄せた。結び目を解くと、中から白い小石ほどの検定石が現れる。王都の神殿で調整され、どの星盤に触れさせても同じ場所に同じ強さの光を生じさせるものだった。
床に置かれた星盤は、昼間のまま布を被せてある。
セランは椅子から立ち上がると、その布を静かに取り払った。黒い円盤の表面には、細かな星の点と、それらを繋ぐ線が刻まれている。今は光を失い、夜の水面のように沈黙していた。
検定石を中央から少し外れた窪みに置く。
ほどなくして、星盤の一部に青白い光が灯った。場所も、明るさも、持続する長さも規定どおりだった。
セランは石を外し、しばらく待ってからもう一度試した。結果は変わらなかった。
「故障しているようには見えませんね」
イネスの声から、わずかな期待が消えた。代わりに、書記として事実を受け止めようとする硬さが戻ってくる。
「少なくとも、検定石への反応は正常だ」
「それなら、今夜のうちに中央神殿へ速報を送りますか?」
イネスは机上の記録へ視線を戻した。
「各地の巡察報告が届くまでには時間がかかります。これほど強い反応なら、先に知らせておいた方が王都も準備を――」
「何を知らせるつもりだ」
静かな問いに、イネスが口を閉じた。
セランは星盤へ布を戻しながら続けた。
「地方の検査で、強い反応を示した少女が一人いた。それ以上のことは、まだ何も分かっていない」
「ですが、王都の選考へ送る適性者としては、十分な反応です」
「一度の検査だけなら、十分とは言えない。疲労や熱、星盤に触れた時間、それに本人も気づいていない体調の変化が影響することもある」
イネスは反論しかけたが、言葉を呑み込んだ。
セランは彼女を責めているわけではなかった。明日の朝を待たず報告したいと考えるのは、中央神殿の書記として当然の判断でもある。
だが、彼らが村々を巡って探しているのは、巫女そのものではない。
地方での検査によって見つけられるのは、王都で正式な選考を受けるだけの適性を持つ者までだった。各地から集められた少女たちは、中央神殿で改めて星盤に触れ、健康状態や力への反応を調べられる。一定の期間をともに過ごしながら、教えを理解する力や、心身の安定も見られるという。
その過程を経て初めて、少女たちは正式な候補者として扱われる。
さらに、その候補者たちの中から一人が選ばれるのだ。
村の星盤が一度強く光ったからといって、その少女が選ばれたことにはならない。今のリアナは、選考を受ける可能性が生じたというだけだった。
「私たちの役目は、王都へ送るべき適性があるかを確かめることだ」
セランは椅子へ戻った。
「選ぶのは私たちではない。まして、あの子の行く先を今夜ここで決めることでもない」
「……分かっています」
イネスは記録を机へ置いたが、まだ納得しきれていない様子だった。
「ただ、中央に赤い光が現れたという報告は、これまで見た覚えがありません」
「私もない」
「過去の記録には?」
「色の異なる発光について記した古い文書はいくつかある。だが、記述は断片的だ。赤い光が何を意味するのかまでは残されていない」
「だからこそ、早く知らせるべきではありませんか」
「意味が分からないからこそ、慎重に確かめる必要がある」
セランは机の上に置かれた三枚目の記録へ目を落とした。
リアナが星盤から手を離したあと、右腕を押さえていた姿を思い出す。ひどい痛みではないと言っていたが、あのときの少女の顔には、驚きだけではない戸惑いがあった。
本人にも理解できない何かが、身体の内側を通り抜けたような顔だった。
「明日の再検査では、最初に検定石で星盤の状態を確認する。そのあと右手と左手を分けて試す。接触時間は砂時計で測り、触れずに手を近づけた場合の反応も見る」
セランが言うと、イネスは記録用紙を引き寄せ、すぐに筆を取った。
「脈と呼吸も測りますか」
「ああ。検査の前後で比べる。腕の重さだけでなく、痛みや痺れが出た場合はその時点で中止する」
「ご両親にも同席していただきます?」
「そのつもりだ」
筆を走らせていたイネスの手が止まった。
「結果が同じだった場合、どこまで説明しますか」
「分かっていることは、隠さず話す」
「王都へ呼ばれる可能性も?」
「それもだ。ただし、正式に決まったような言い方はしない。再検査で同じ反応が出たとしても、私たちが出せるのは適性ありという報告だけだ。王都から召集が届き、中央神殿の検査を通らなければ、候補者にはならない」
セランはそこで一度言葉を切った。
「十五歳の娘を、遠い王都へ送り出すかもしれない話だ。家族にとっては、可能性だけでも十分に重い」
「だから、一晩置くのですね」
「王都の選考は、私たちが一晩確かめた程度で遅れはしない」
イネスはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「承知しました。今夜の速報は見送ります。明日の再検査を終えてから、巡察報告としてまとめます」
「そうしてくれ」
イネスは書き上げた手順を読み直し、乱れていた紙の端を丁寧に揃えた。几帳面な指先の動きが止まると、控え室に再び静けさが戻った。
壁の向こうから、眠っているエドガーの低い寝息が聞こえてくる。
村もまた、何事もなかったように眠っているのだろう。
けれど明日の再検査で同じ光が現れれば、リアナ・エルムの名は巡察記録に残される。王都で選考を受ける可能性を持つ少女の一人として、中央神殿へ送られることになる。
それはまだ、選ばれたという意味ではない。
ただ、これまで村の中だけで続いていた少女の暮らしに、遠い王都へ繋がる道が生まれる。
その道を進むことになるのかどうかは、まだ誰にも分からなかった。
セランはランプの火を少し絞った。
暗くなった部屋の床で、布に覆われた星盤だけが、眠らずに明日を待っているように見えた。
◇
翌朝、空には薄い雲が広がっていた。
夜のうちに冷えた土には朝露が残り、道を歩くたび、草の葉から小さな雫が落ちる。畑へ向かう村人の姿はいつもと変わらなかったが、リアナ達が通り過ぎると、誰もが一度は手を止めた。
昨日の検査でリアナに適性が認められたことは、既に村中へ伝わっているらしい。
声を掛けてくる者はいなかった。何を尋ねればよいのか、村人達も分からないのだろう。ただ、遠巻きに向けられる視線が、リアナには少し落ち着かなかった。
礼拝所へ続く橋の手前で、ダリオが足を止める。
「腕はどうだ」
「もう何ともないよ」
リアナは右腕を上げ、父親へ見せた。
昨夜は眠りにつくまで重さが残っていたが、朝には消えていた。指を握っても、腕を回しても痛みはない。
「無理はしなくていいのよ」
ルタが言った。
「痛くなったら、すぐに止めてもらいなさい」
「セラン司祭も、そう言っていたでしょ?」
「言われなくても止めてもらうの。昨日とは違うことを調べるのでしょ?」
ルタは普段より口数が多かった。
家を出る前から、リアナの顔色を確かめ、朝食をきちんと食べたか、夜は眠れたかと何度も尋ねている。心配していることを隠す余裕もないようだった。
「ルタ」
ダリオが短く呼ぶ。
「分かっているわ」
そう答えながらも、ルタは娘の腕から手を離さなかった。
礼拝所の前には、王都から来た二人の護衛が立っていた。そのためか、様子を見に来た村人達も、入口から離れた共同井戸の辺りに集まっている。
人垣の中には、ナディアとカエラの姿もあった。
ナディアが心配そうにリアナを見ている。リアナが小さく手を振ると、彼女も胸の前で手を振り返した。
エドガー司祭が礼拝所の扉を開けた。
「お待ちしていました。中へどうぞ」
礼拝所へ入ると、昨日と同じ場所に星盤が置かれていた。
窓の覆いはすべて開かれ、室内には朝の白い光が差し込んでいる。机の傍らには椅子が三脚用意され、壁際の小机には、水差しと木の杯が置かれていた。
イネスは既に帳面を開き、検査に使う砂時計と細い紐を並べている。
「おはようございます」
セランが三人を迎えた。
昨日と同じ祭服を着ているが、銀糸の肩掛けは外していた。リアナ達を畏まらせないためなのかもしれない。
「昨夜は眠れましたか?」
「少し遅くなりましたけど、眠れました」
「朝食は?」
「食べました」
「腕に痛みや痺れは残っていますか?」
「いいえ。今は重くもありません」
セランは頷くと、イネスへ目を向けた。イネスが帳面へリアナの答えを書き留める。
「最初に、星盤が正常に働いていることをご両親の前で確認します」
セランは白い検定石を取り出し、星盤の窪みへ置いた。
間もなく、黒い盤面の一部へ青白い光が灯る。
光はしばらく同じ明るさを保ったあと、検定石が外されるとゆっくり消えていった。
「この石を置いた時に、どこが、どの程度光るのかは決められています。昨日の夜と今朝、同じ方法で確かめました。星盤に異常はありません」
「では、昨日の光は、この子が起こしたものなのですか?」
ルタが尋ねた。
「現時点では、その可能性が高いと考えています。その確認のために、今日は幾つか方法を変えて調べます」
セランはリアナへ向き直った。
「腕に違和感が出た場合は、我慢せずに言ってください。途中で検査を止めても、結果を悪く扱うことはありません」
「分かりました」
「まずは星盤に触れず、右手を近付けてください。私が止めたところで、そのまま動かさずに」
リアナは机の前へ立った。
右手を星盤の上へ伸ばす。触れないよう気を付けながら、ゆっくりと手のひらを下ろしていった。
「そこで止めてください」
星盤との間には、指二本分ほどの隙間があった。
リアナは息を整え、手を動かさないようにする。
しばらくは何も起こらなかった。
やはり触れなければ反応しないのだろうと考えた時、盤面の端に刻まれた小さな点が一つ、淡く光った。
続いて、その隣の点にも光が灯る。
「接触なし。外周二点に発光」
イネスが砂時計を見ながら記録する。
「光量は微弱。線への広がりはありません」
ルタがリアナの背後で息を呑む気配がした。
「手を上げてください」
セランに言われ、リアナは右手を星盤から離した。
二つの光はすぐに消えた。
「今度は左手を置きます。砂が落ち切る前でも、私が合図をしたら離してください」
リアナは頷き、星盤の中央へ左手を載せた。
昨日と同じ、冷たくも温かくもない感触だった。
砂時計が返される。
細い砂が落ち始めるのとほぼ同時に、手のひらの下で水が揺れるような感覚が生まれた。
盤面に刻まれた点が一つずつ光り、そこから細い線が伸びていく。昨日よりもゆっくりとしていたが、光は確実に星盤の外側から中央へ集まっていた。
「外周部から中央へ発光が進行」
イネスの声が室内へ響く。
「昨日と同じ線です。光量はやや弱いですが、欠けはありません」
砂時計の砂が半分ほど落ちたところで、星盤の中央に赤い光が現れた。
リアナの左腕が、急に重くなる。
「腕が重くなりました」
「手を離してください」
セランはすぐに告げた。
リアナが左手を上げると、セランはその手首へ指を添えた。脈を数えているらしい。
「痛みは?」
「ありません。少し重いだけです」
「指は動かせますか」
リアナは指を一本ずつ曲げた。
「動かせます」
セランはそれを確認すると、椅子を勧めた。
「少し休みましょう」
ルタがすぐに木の杯へ水を注いだ。
「もう十分ではありませんか?」
娘へ杯を渡しながら、ルタが言う。
「昨日と同じように光ったのでしょう?」
「お母さん、私は大丈夫だよ」
「大丈夫かどうかを、あなたが決めてはいけないわ」
ルタの声は強かったが、杯を持つ手は小さく震えていた。
セランは母親を急かさず、リアナの呼吸が落ち着くまで待った。
「左手の検査だけでも、昨日の反応が偶然ではなかったことは確認出来ます」
「それなら、右手は調べなくてもよいのでは?」
ダリオが尋ねた。
「検査を止めることは出来ます」
セランは率直に答えた。
「ただ、昨日は右手で強い反応が出ています。左右で差があるのかを確認しておけば、王都へ報告する際、リアナさんが不必要な再検査を受けずに済むかもしれません」
ダリオは黙って娘を見る。
「私は、やっておきたい」
リアナは答えた。
「何度も同じことをする方が嫌だから」
ルタは何か言いかけたが、最後には小さく頷いた。
「少しでも痛かったら、すぐに止めるのよ」
「うん」
十分に休んだあと、リアナはもう一度机の前へ立った。
今度は右手を星盤へ置く。
触れた瞬間、盤面の点が一斉に光った。
左手の時のように、外側から少しずつ広がったのではなかった。無数の点を繋ぐ線までほぼ同時に明るくなり、黒い星盤の上へ、白く輝く模様が浮かび上がる。
机の脚を通して、低い振動が床へ伝わった。
「全域に発光。昨日と同様です」
イネスが早口で記録する。
「中央部、赤色の光を確認」
盤面の中央で、赤い光が脈を打つように明滅している。
リアナの腕へ重さが広がった。それと同時に、昨日は気付かなかった感覚が胸の奥に生まれる。
何かが、遠くから自分を呼んでいる。
声ではなかった。
言葉も聞こえない。
それでも、土の深い場所から響いてくるものへ、身体の内側にある何かが応えようとしていた。
「リアナさん」
セランの声で、意識が礼拝所へ戻る。
「聞こえていますか」
「はい」
「手を離してください」
リアナは星盤から右手を離した。
白い光が端から消えていく。中央の赤い光だけが僅かに残り、最後に一度強く明滅してから失われた。
礼拝所が静かになる。
セランはリアナの手首へ指を当てたあと、瞳の様子と指の動きを確かめた。
「気分は悪くありませんか?」
「大丈夫です」
「腕以外に、何か感じたことは?」
リアナはすぐには答えられなかった。
あの感覚を、どのように説明すればよいのか分からない。
「遠くから……呼ばれたような気がしました」
「声が聞こえたのですか」
「声ではありません。音も、言葉もなかったです。でも、何かが下の方にあるような……」
「下というのは、星盤の中ですか」
リアナは床へ目を向けた。
「もっと遠くです。地面の下から来たように感じました」
イネスの筆が止まった。
セランは少し考えたあと、彼女へ告げる。
「感じたとおりに記録してくれ。解釈は加えなくていい」
「承知しました」
イネスが再び筆を動かす。
ダリオとルタは何も言わず、娘と星盤を見比べていた。
すべての確認を終えると、セランは星盤へ布を掛けた。
「検査は以上です」
ルタはリアナを椅子へ座らせ、両手で娘の右腕を包んだ。
「結果を聞かせてください」
ダリオが言った。
その声には、昨日までよりも強い警戒が表れていた。
セランはダリオと向き合う。
「リアナさんには、星詠みについて非常に強い適性があると判断します」
「王都へ行くことになるのですか?」
「今日、私が決められるのは、中央神殿へ適性者として報告するところまでです」
セランは言葉を選びながら続けた。
「各地の巡察で適性が認められた者は、報告が集められたあと、王都へ呼ばれる可能性があります。そこで改めて正式な検査を受け、一定の期間、基礎的な教育を受けることになります」
「王都では、何を調べるのですか?」
ルタが尋ねる。
「星盤への反応だけではありません。身体に異常が生じないか、力を自分で制御出来るか、中央神殿の教えを正しく理解出来るか。各地から集められた適性者を見ながら、さらに教育を受ける者を選びます」
「では、この子が選ばれないこともあるのですね」
「あります。その場合は、家へ帰ることが出来ます」
「選ばれた場合は?」
ダリオの問いに、セランは僅かに間を置いた。
「中央神殿で教育を続けることになります。詳しい役目や期間については、召集の知らせとともに説明されます」
「その知らせは、いつ届く」
「各地の巡察が終わり、報告が王都で確認されてからです。少なくとも、明日すぐに村を出るようなことはありません」
ルタの肩から、僅かに力が抜けた。
だが、安心したわけではない。考えるための時間が残されていると分かっただけだった。
「王都から知らせが来るまで、今までどおり暮らしていてよいのですか?」
リアナが尋ねた。
「構いません。ただし、腕の重さが戻った場合や、同じような感覚を星盤に触れていない時にも覚えた場合は、すぐにエドガー司祭へ伝えてください」
「畑仕事は?」
「体調に変化がなければ問題ありません」
「花を採りに行っても?」
セランは少し意外そうな顔をした。
「危険な場所でなければ」
「森の手前までです」
「それなら大丈夫でしょう」
リアナが頷くと、ルタは娘の横顔を見た。
王都や選考の話を聞いた直後にもかかわらず、リアナが気にしていたのは、ナディアと交わした約束だった。
そのことが、ルタを安心させたのか、それとも余計につらくさせたのか、リアナには分からなかった。
礼拝所を出ると、共同井戸の周りにいた村人達が一斉にこちらを見た。
ナディアが人垣から抜け出し、リアナの前まで駆けてくる。
「終わったの?」
「うん」
「どうだった?」
リアナはすぐに答えず、隣にいる両親を見た。
ダリオは黙っていた。ルタも、娘の代わりに話そうとはしなかった。
「適性があるって」
リアナは自分の言葉で答えた。
「王都へ報告するそうなの。まだ、行くと決まったわけではないけど」
ナディアの顔から笑みが消えた。
「そう……」
「でも、今日の夕方は空いているよ」
「え?」
「花を採りに行く約束をしたでしょう」
ナディアは何度か瞬きをしたあと、困ったように笑った。
「こんな時まで、約束を覚えていたの?」
「礼拝所を飾る花が必要なんでしょう?」
「必要だけど……今日は休んだ方がいいんじゃない?」
「畑仕事も花を採るのも、していいって言われたよ」
「セラン司祭に、そこまで聞いたの?」
「危険な場所でなければいいって」
ナディアは礼拝所の扉を見た。そこには、検査を終えたセランとイネスが立っている。
「王都の司祭に、花を採っていいか聞く人なんて、リアナくらいだと思う」
「聞いておかないと、お母さんが止めるから」
「聞いても心配するわよ」
ルタが後ろから言った。
その声は呆れていたが、昨日から張り詰めていたものが、ほんの少しだけ和らいでいた。
村人達が近付き、何があったのか尋ね始める。
リアナは同じ説明を何度か繰り返した。
適性が認められたこと。
王都へ報告されること。
知らせが来るまでは、この村で今までどおりに暮らすこと。
説明を終える頃には、朝露はほとんど乾いていた。
畑では、昨日広げた水路を水が静かに流れている。製粉小屋からは水車の回る音が聞こえ、鍛冶場ではカエラの父親が鉄を打ち始めていた。
村の朝は、いつもと同じように進んでいく。
リアナも両親とともに家へ戻り、作業着へ着替えれば畑へ向かう。
夕方にはナディアと籠を持ち、森の手前まで花を採りに行くつもりだった。
けれど遠い王都の帳面には、やがてリアナ・エルムという名が記される。
村で生まれ、村の外をほとんど知らずに育った一人の少女。
その名が王都へ届いた時、これまでリアナには見えていなかった道が、初めて村の外から彼女の足元へ伸びることになる。
今はまだ、その道を歩くかどうかさえ決まってはいなかった。




