↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/34

第二十九話 揺れのあと

大きな揺れが、少しずつ遠ざかっていく。

だが、大地は静まっていなかった。

地面の奥から伝わる震えが、途切れることなく続いている。

砦の石床は、波の上に浮かんでいるように、ゆっくりと揺れていた。

ユリウスは、城壁の上へ伏せたまま、顔を上げる。

周囲は、白い粉塵に覆われていた。


崩れた石。

割れた木材。

消えた春の火から上がる、僅かな煙。

それらが入り混じり、砦の中庭さえ、はっきりとは見えない。

耳鳴りがしている。

人の声も。

馬の嘶きも。

遠くから聞こえてくるようだった。

「……無事か」

ユリウスは、自分が引き倒した兵士の肩へ手を置いた。

兵士が、咳き込みながら顔を上げる。

額から血が流れていた。

だが、目は開いている。

「はい」

掠れた声だった。

「動けます」

「急に立つな」

ユリウスは答える。

「もう一度、揺れるかもしれない」

兵士が頷く。


その直後、足元が再び小さく揺れた。

崩れかけていた石材が、城壁の外側へ落ちていく。

遅れて、地面へ叩き付けられる音が聞こえた。

ユリウスは、自分の身体を確かめる。

左肩が痛む、石床へ打ち付けたらしい。

肘にも擦り傷があった。

だが、腕は動く。

脚にも力が入る、立つことは出来た。


「中庭へ下りる」

ユリウスは言った。

「階段を確認する。俺の後ろから来い」

「はい」

立ち上がると城壁の上には、幾つもの亀裂が走っていた。

見張り用の胸壁も、一部が外側へ崩れている。


帝国側を見る。

白い粉塵の向こうで、監視塔が大きく傾いていた。

先ほどまで見えていた上部は、既に崩れ落ちている。

灯りはない。

人影も見えない。

川の流れる音だけが、揺れの後も変わらず響いていた。

いや、以前よりも大きい。

崩れた岸から流れ込んだ土と、倒れた木々を巻き込み。

濁った水が激しく流れている。

帝国側へ続く街道も、途中から形を失っていた。


ユリウスは視線を戻す。

今は、向こうを確かめることは出来ない。

砦の中に、助けを必要としている者がいる。

城壁から中庭へ続く階段は、下半分が崩れていた。

石段の途中に、兵士が一人倒れている。

「おい!」

ユリウスが呼び掛ける。

反応はない、頭部に血が見えた。

「先に下りる」

ユリウスは。

残っている石段へ足を掛ける。

壁へ身体を寄せ。

崩れた場所から中庭へ飛び下りた。

着地した足元が、まだ僅かに揺れている。

続いて、城壁にいた兵士が下りてきた。

二人で、階段に倒れていた者の身体を持ち上げる。

呼吸はある。

脈も感じられた。

「頭を動かすな」

ユリウスは言った。

「肩と腰を支えろ」

「はい!」

倒れた兵士を、崩れた壁から離れた場所へ運ぶ。


中庭では、既に動ける者達が、負傷者を集め始めていた。

砦の責任者も、額へ布を巻いた状態で立っている。

片腕を庇っていた。

「フェルト伍長」

ユリウスを見つけ、声を上げる。

「無事か」

「動けます」

「城壁上は?」

「亀裂があります。北側の階段は半分崩落。監視塔も危険です」

責任者は頷いた。

「人を上げるな。壁際にも近付けるな」

「はい」

「負傷者は中庭の中央へ集める。動ける者をまとめてくれ」

「承知しました」

ユリウスは周囲を見る。

城壁。

監視塔。

記録所。

厩舎。

砦の各所から、助けを求める声が聞こえている。

「王都から来た者は、こちらへ!」

ユリウスが声を張る。

返事が幾つか上がる。

だが、全員ではなかった。

「二人一組で動け!」

ユリウスは続ける。

「一人は周囲を確認しろ。崩れた建物へ勝手に入るな。声を掛けながら、生存者を探せ!」


騎兵達が動き始める。

厩舎へ向かう者。

記録所を確認する者。

崩れた監視塔の周囲へ回る者。

ユリウスは、中庭に横たえられた負傷者の間を歩く。

軍医と衛生兵が、傷の深い者から順に確認していた。


頭を打った者。

腕や脚を折った者。

落ちてきた石材で、背を傷付けた者。

自分で歩ける者には、布と水が渡されている。

泣き叫ぶ者はいなかった。

誰もが、自分に出来ることを探していた。


その時、厩舎の方から声が上がった。

「人が挟まれています!」

ユリウスは駆け出す。

厩舎の入口は、外れた扉と木材で塞がれていた。

屋根の一部も、内側へ落ちている。

隙間から、馬の荒い呼吸が聞こえた。

「ここです!」

若い騎兵が、折れた柱の下へ腕を伸ばしている。

その先に、一人の兵士が倒れていた。

娘から三本脚の藁馬を持たされた騎兵だった。

折れた梁が、右脚の上へ乗っている。

意識はある、顔を歪めながら、自分の脚へ目を向けていた。

「動かすな」

ユリウスは言った。

梁の周囲を確認する。

「先に上の板を外す。梁だけを持ち上げれば、屋根が落ちる」

「はい」

動ける者達が集まり、折れた板を一本ずつ取り除く。

揺れが来るたび、全員が手を止めた。

残っている柱が軋む。

馬が、奥で激しく地面を蹴った。

「馬を落ち着かせろ!」

「近付けません!」

「声を掛け続けろ。急に綱を外すな!」

板が外され、梁を支えている柱が見えた。

ユリウスは、折れた箇所へ縄を回す。

「三人で持ち上げる」

周囲へ告げた。

「上がったら、すぐに引き出せ」

若い騎兵が頷く。

「分かりました」

「いくぞ!」

縄を引く、梁は動かない。

もう一度、全員で力を込める。

湿った木が、低い音を立てた。

僅かに持ち上がる。

「今だ!」

若い騎兵が、倒れていた兵士の脇へ腕を入れる。

もう一人が腰を掴み、梁の下から引き出した。

「下ろせ!」

縄を放す。

梁が、再び地面へ落ちた。

舞い上がった埃の中で、救い出された騎兵が、激しく咳き込む。

脚は、不自然な方向には曲がっていない。

だが、自分では立てなかった。

「包みが……」

騎兵が呟く。

「何だ?」

ユリウスが尋ねる。

騎兵は、胸元へ手を当てた。

服の内側に、布で包まれた小さな物が入っていた。

手で確かめ、僅かに息を吐く。

「いえ。あります」

娘と一緒に、四本目の脚を付けると決めた藁馬だった。

「運ぶぞ」

ユリウスは言った。

「それを落とすな」

騎兵は、痛みに顔を歪めながら頷いた。


◇

救助は続いた。

砦の至る所で、崩れた石と木材が取り除かれていく。

負傷者が、一人ずつ中庭へ運ばれる。

呼び掛けても、返事のない者もいた。

助け出せなかった者もいた。

その度に、軍医が短く首を振った。

立ち止まっている時間はなかった。

また揺れる可能性がある。

川の水位も、さらに上がるかもしれない。

火を起こす場所、負傷者を休ませる場所。

飲み水。

包帯。

夜を越えるために必要なものを、残っている物資から集めなければならない。


「伍長」

記録所を確認していた騎兵が戻ってくる。

「伝令用の記録板は無事です。ですが、王都側へ続く街道は確認出来ません」

「門の外へ出たのか?」

「いえ。塔の残った窓から見ました」

騎兵は答える。

「街道の先で、土煙が上がっています。斜面が崩れた可能性があります」

「今は確かめに行くな」

「はい」

王都へ、すぐに知らせなければならない。

だが、馬を出せる状態ではなかった。

厩舎は壊れ、馬達も落ち着きを失っている。

街道そのものが残っているかも分からない。


ユリウスは、中庭へ集められた者達を見る。

一人の兵士が、座ったまま額を押さえていた。

目立った傷はない。

「頭を打ったのか?」

ユリウスが尋ねる。

「分かりません」

兵士は答える。

「ぶつけた覚えはないのですが……頭の奥が痛みます」

顔色が悪い。

額には、冷たい汗が浮かんでいた。

「軍医に診てもらえ」

「はい」

兵士が立ち上がろうとする。

その身体が、大きく傾いた。

ユリウスが腕を掴む。

「急に立つな」

「すみません」

兵士は、何度も瞬きをした。

「地面が、まだ揺れているように感じます」

余震ではない。

少なくとも、今は揺れていなかった。

ユリウスは兵士を座らせる。


その時、少し離れた場所で、別の者が膝をついた。

口元を押さえ、地面へ吐いている。

さらに、負傷者を運んでいた騎兵が立ち止まった。

胸元を掴み、荒い呼吸を繰り返す。

「どうした!」

「胸が……」

騎兵は答える。

「脈が、速い」

軍医が近付く。

手首を取り、顔色を確かめる。

「鎧を緩めろ。横になれ」

「ですが、まだ救助が」

「横になれ」

軍医が強く言った。

騎兵は、隣にいた者へ支えられながら座り込む。

その手が、細かく震えていた。


「軍医」

ユリウスが呼ぶ。

「同じ症状の者がいる」

軍医は周囲を見る。

頭痛。

吐き気。

眩暈。

耳鳴り。

動悸。

手足の震え。

傷を負った者だけではない。

地震の直後まで動いていた者達にも、同じ症状が現れ始めていた。

「負傷が原因ではないのか?」

ユリウスが尋ねる。

「これだけ同時には起きません」

軍医は答えた。

自分の額へ、片手を当てる。

その軍医の指先も、僅かに震えている。

「先生も休んでください」

衛生兵が言った。

「そういうわけにはいかん」

「顔色が悪いです」

軍医は、答えようとした。

一度、目を閉じる。

「……耳鳴りがする」

低い声だった。

症状は、砦の中へ急速に広がっていた。


◇

「煙か」

砦の責任者が尋ねる。

中庭の中央。

比較的損傷の少なかった天幕の下へ、動ける者達が集められていた。

「火は消えています」

兵士が答える。

「倉庫からの漏出も確認しました。油や薬品の臭いはありません」

「井戸は?」

「まだ誰にも飲ませていません」

「なら、水ではない」

責任者は、震える手で地図を押さえていた。

彼も、眩暈を訴えている。

左腕の負傷だけが原因ではなかった。

「空気かもしれません」

軍医が言った。

壁へ背を預け、座った状態で話している。

「ですが、毒の臭いはありません。喉の痛みも、全員に出ているわけではない」

「帝国側から流れてきたものか?」

誰かが言った。

天幕の中が静かになる。

白い光。

地の底から響いた音。

帝国側から押し寄せた大地の波。

そして、揺れの後に広がった体調不良。

結び付ける根拠はない。

だが、無関係だと言い切ることも出来なかった。

「風は吹いていない」

ユリウスは言った。

雨がやんでから、風は止まったままだった。

煙も。

粉塵も。

ほとんど流れていない。

「それでも、何かが広がった可能性はある」

責任者は答える。

「フェルト伍長。お前はどうだ」

「耳鳴りはあります」

ユリウスは言った。

「左肩も痛みます。ですが、動けます」

「吐き気は」

「ありません」

「眩暈は?」

「ありません」

天幕の中にいる者達が、ユリウスを見る。

王都から来た騎兵達の中にも、症状の軽い者はいた。

だが、全く動けない様子を見せていないのは、ユリウスだけだった。

「なぜ、お前だけ」

責任者が呟く。

「分かりません」


本当に、分からなかった。

同じ場所にいた。

同じ光を見た。

同じ空気を吸っている。

それなのに、自分だけが、殆ど影響を受けていない。

「今は理由を考えても仕方がない」

責任者は言った。

「動ける者が必要だ」

地図へ視線を落とす。

「フェルト伍長。救助の指揮を続けてくれ。症状が出た者には無理をさせるな。意識があるうちに横にしろ」

「承知しました」

「誰かが倒れてからでは遅い」

その言葉に、軍医が僅かに顔を上げる。

中庭にいる者の中で、体調不良だけを理由に意識を失った者は、まだいない。

だが、急速に悪化している者はいた。

胸を押さえ、呼吸を乱している者。

自分では歩けなくなった者。

目を開けていることさえ辛そうな者。

このまま悪化すれば、何が起きるか分からなかった。

「全員へ伝えます」

ユリウスは答えた。


◇

夜は、長く続いた。

余震が来るたび、砦のどこかで石が落ちた。

その音が響くたびに、兵士達が身を固くする。

動ける者は少ない。

それでも、救助と手当ては止められなかった。

ユリウスは、崩れた場所を回り続けた。

声を掛け。

負傷者を運び。

火を起こし。

残っている毛布を集めた。

時折、帝国側へ目を向ける。

傾いた監視塔。

崩れた街道。

濁流となった川。

どこにも、人の動きは見えなかった。

救助の火も。

合図の灯りもない。

ただ、帝国のさらに奥。

カルドラ山麓がある方角で。

雲の下が、時折、青白く明滅していた。


雷とは違う。

光っても、音は届かなかった。

あの場所で、何が起きたのか。

白い光の原因はなにか、ユリウスには分からない。

だが、災害は帝国側から来た。

その先では、この砦よりも大きな被害が出ている。

そう考えずにはいられなかった。


◇

異変が起きてから、数時間が経った。

頭痛を訴えていた兵士が、ゆっくりと身体を起こす。

「まだ痛むか?」

軍医が尋ねる。

「少し」

兵士は答えた。

「ですが、先ほどよりは」

吐き気を訴えていた者も、水を一口ずつ飲めるようになっていた。

手の震えが治まった者。

自分で立ち上がれるようになった者。

症状は、少しずつ弱まり始めていた。

「毒ではなかったのでしょうか」

衛生兵が尋ねる。

「分からん」

軍医は答えた。

「毒でないとも言えない。何を吸ったのかも分からないのだからな」

「ですが、治ってきています」

「今は、だ」

軍医は、横たわる者達を見た。

「再び悪化しないとは限らない。朝までは動かすな」


ユリウスは、その会話を少し離れた場所で聞いていた。

安堵することは出来ない。

地震による負傷者は、まだ大勢いる。

助けられなかった者もいる。

街道は崩れ、王都との連絡も取れない。

南の監視所が、無事なのかも分からなかった。

そして、川の向こう。

帝国側からは、今も何の反応も届いていない。

ユリウスは、崩れかけた門の近くへ立つ。

外へ出ることは出来ない。

地面には亀裂が走り、街道の一部が沈んでいる。

増水した川は、夜の暗闇の中で、低く、激しい音を立てていた。

帝国へ続く道は、途切れていた。

それでも、ユリウスは、その先を見た。

白い光が生じた方角。

地面の波が押し寄せてきた場所。

王都へ戻らなければならない。

この砦の被害を伝えなければならない。

だが、国境の向こうにも、助けを必要としている者がいる。

今すぐには、どちらへも行けない。


「伍長」

背後から声がした。

三本脚の藁馬を持っていた騎兵だった。

右脚へ添え木を当て、二人の兵士に支えられている。

「横になっていろ」

ユリウスは言った。

「少し、外の空気を」

「無理をするな」

「はい」

騎兵は、崩れた門の向こうを見た。

「帰れますか」

誰のところへとは、言わなかった。

ユリウスも、尋ねなかった。

「道を確かめる」

ユリウスは答えた。

「早急にだ」

騎兵は頷く。

胸元には、小さな包みが残っている。

三本脚の馬は、まだ四本目の脚を待っていた。


雲の向こうに、星は見えない。

春を迎える火も、もう消えている。

それでも、夜が終わらないわけではない。

ユリウスは、崩れた街道の先へ目を向けた。

王都へ戻る道。

帝国へ続く道。

そのどちらも失われた国境で。

新しい朝を待った。


翌朝。

空は、まだ厚い雲に覆われていた。

日の光は見えない。

それでも、夜の暗さは、少しずつ薄れている。

崩れた砦の全体が、灰色の光の中へ浮かび上がっていた。

城壁には、幾つもの亀裂が走っている。

北側の監視塔は傾き、中庭には、崩れた石と木材が積み重なっていた。

夜の間に起きた余震によって、新しく崩れた場所もある。

だが、砦は残っていた。

中庭へ集められた兵士達も、少しずつ動けるようになっていた。

頭痛。

吐き気。

眩暈。

手足の震え。

負傷とは別に現れた症状は、完全には消えていない。

それでも、自分で水を飲み、支えがあれば立てる者が増えている。


「動ける者を集めました」

兵士が報告する。

砦の責任者は、中庭に広げられた地図へ視線を落とした。

王都へ続く街道。

国境に沿った巡回路。

帝国側へ延びる道。

そのどれにも、新しい印が付けられていた。

崩落。

亀裂。

通行不能。

確認出来ていない場所には。

何も書かれていない。

「王都側の道は」

責任者が尋ねる。

「街道の一部が崩れています」

夜明け前に確認へ出た兵士が答える。

「馬車は通れません。ですが、馬を下りれば越えられる場所があります。その先の状態は分かりません」

「迂回路は」

「北西の旧巡回路が使える可能性があります。ただ、確認出来たのは分岐までです」

責任者は、動ける兵士達を見る。

全員が万全ではない。

顔色の悪い者。

腕へ布を巻いた者。

足を引きずっている者もいる。

それでも、王都へ知らせなければならなかった。


砦の被害。

帝国側から押し寄せた揺れ。

白い光。

原因不明の体調不良。

そして、帝国側との連絡が完全に途絶えていること。

「三名を王都へ向かわせる」

責任者は言った。

「街道が使えなければ、旧巡回路を通れ。危険だと判断した場合は戻らず、最寄りの村へ向かえ。そこから伝令を繋げ」

三人の兵士が前へ出る。

「誰か一人でもよい」

責任者は続けた。

「この報告を王都へ届けろ!」

「承知しました」

記録所から、封をした報告書が運ばれてくる。

砦の被害状況。

負傷者の数。

街道と川の状態。

昨夜起きたことが、分かる範囲で記されていた。

帝国側から大地が波打って見えたことも、ユリウスの証言として加えられている。


三人は残った馬の中から、歩けるものを選ぶ。

鞍を載せ、水と食料を分ける。

馬達も、昨夜よりは落ち着きを取り戻していた。

だが、時折、帝国側へ耳を向け、低く鼻を鳴らしている。

「無理に走らせるな」

ユリウスは言った。

「地面が緩んでいる。亀裂の近くでは必ず下りろ」

「はい」

先頭の騎兵が頷く。

「伍長は」

言葉を止める。

ユリウスの馬には、まだ鞍が載せられていなかった。

「残るのですか?」

騎兵が尋ねる。

「いや」

ユリウスは答えた。

「帝国側へ向かう」

周囲にいた者達が、一斉にユリウスを見る。

「帝国へ?」

砦の責任者が聞き返す。

「はい」

ユリウスは地図の一か所を指した。

国境の向こう、帝国側に置かれた。

第三山岳国境警備隊。

この砦から、最も近い帝国軍の駐屯地だった。


「通常であれば、1日ほどで」

ユリウスは言った。

「街道の状態を考えれば、それ以上になるでしょう。ですが、帝国側の状況を確認出来る場所は、そこしかありません」

「国境を越えるつもりか?」

「緊急事態です」

「それでも、許可なく帝国領へ入れば問題になる」

「帝国側の監視塔は崩れました」

ユリウスは答えた。

「昨夜から、人の動きも合図もありません。向こうにも負傷者がいる可能性があります」

砦の責任者は黙った。

ユリウスは続ける。

「第三山岳国境警備隊が無事なら、帝国側の被害を確認出来ます。救助が必要なら、王国へ支援を求めることも出来る」

「無事でなかった場合は」

「生存者を探します」

「さらに先へ進むのか?」

ユリウスは、すぐには答えなかった。

第三山岳国境警備隊のさらに先。

カルドラ山麓。

昨夜、白い光が生じた方角。

今も、雲の下が僅かに青白く見えている。

「状況を見て判断します」

ユリウスは答えた。

砦の責任者は、地図へ視線を落とす。


王都との連絡はない。

帝国側からの説明もない。

正式な許可を得る方法そのものが失われていた。

責任者は言った。

「動ける者は、負傷者の救助と砦の維持に必要だ」

「一人で向かいます」


ユリウスは答えた。

砦の責任者は、すぐに首を振る。

「認めない」

「ですが、動ける者は砦の維持に必要です」

「だからといって、お前一人を行かせる理由にはならん」

責任者は、地図の帝国側を指で叩いた。

「他国へ、王国の軍人を一人で入らせるわけにはいかない。この状況で何者かに見つかれば、救助に来たのか、偵察に来たのかも説明出来ん」

「身分証と報告書を持っていきます」

「それを信用する相手がいればな」

責任者の声は厳しかった。

「それに、お前は帝国側の土地勘がない」

「第三山岳国境警備隊の位置は、地図で確認しています」

「地図の通りに道が残っているなら、誰も苦労はしない」

ユリウスは黙った。

昨夜の地震によって、街道は崩れ、斜面も形を変えている。

川の流れさえ、以前と同じとは限らない。

地図に記された道を辿るだけでは、辿り着けない可能性があった。

「砦の者を付ける」

責任者は言った。

「国境沿いの地形を知る者を二名選ぶ。帝国領の奥まで知っているわけではないが、お前よりはましだ」

「二名も出せば、こちらの救助が」

「誰を残し、誰を出すかは俺が決める」

言葉を挟む余地のない口調だった。

「お前の役目は、第三山岳国境警備隊へ到達し、状況を確認することだ。途中で道が途切れていれば、土地を知る者の判断に従え」

「承知しました」

「駐屯地に帝国兵が残っていた場合は、救助と状況確認が目的だと伝えろ。武器には不用意に触れるな」

「はい」

「駐屯地が無事でなかった場合も、勝手な判断で奥へ進むな」

ユリウスは、僅かに間を置いた。

「状況を見て判断します」

「それを、勝手な判断と言うんだ」

責任者は、疲れたように息を吐く。

「第三山岳国境警備隊までだ。まずはそこへ辿り着け。それより先のことは、生存者と得られた情報を見て決める」

「分かりました」

「正式な越境許可を取る手段はない」

責任者は続ける。

「この砦の責任者として、緊急時の救助及び状況確認を命じる。記録にも残す」

「承知しました」

責任者は、近くにいた兵士へ顔を向けた。

「国境沿いの巡回経験が長い者を二名選べ。軍医に確認させ、症状が治まっている者にしろ」

「はい」

「馬も三頭だ。途中で乗れなくなることを考え、縄と携行食を多めに持たせろ」

兵士が走っていく。

責任者は再びユリウスを見る。

「一人なら早いとは考えるな」

低い声だった。

「一人で消息を絶てば、何を見つけたのかも、どこで倒れたのかも分からない」

ユリウスは、短く頷いた。

「必ず報告を持ち帰ります」


◇

王都へ向かう三人が、先に砦を出た。

馬の蹄が、亀裂を避けながら、ゆっくりと街道を進んでいく。

誰も振り返らなかった。

戻ることより、報告を届けることを優先している。

ユリウスは、三人の姿が見えなくなるまで見送った。


王都。

リアナ。

フィーナ様。

花屋の者達。

昨夜の揺れが、どこまで届いたのか分からない。

無事なのかも、今は確かめられない。

報告を託し、王都からの知らせを待つしかなかった。


「伍長」

背後から声がした。

右脚へ添え木を当てた騎兵だった。

三本脚の藁馬を持っている男だ。

「今度は、どこへ行くのですか?」

「帝国側だ」

「一人で?」

「砦の兵士が二人付く」

騎兵は、僅かに安心したような顔をした。

「それでも、三人ですか」

「大人数で入れば、救助とは見られないかもしれない」

「そうですね」

騎兵は、胸元の包みへ手を当てる。

「伍長も戻って来てください」

「ああ」

ユリウスは答えた。

「先に王都へ戻っていろ。四本目の脚を付けなければならないだろう」

「待っています」

短い言葉だった。

ユリウスは頷く。


◇

同行する二人は、どちらも砦に長く勤める兵士だった。

一人は、北側の境界と川沿いの道を担当している。

もう一人は、山側の旧巡回路を何度も歩いていた。

帝国側の地形を、詳しく知っているわけではない。

だが、山の形。

川の曲がる場所。

遠くから見える監視塔の位置。

地図だけでは分からない目印を知っていた。


三人は、残った装備を分ける。

水。

食料。

縄。

布。

簡単な治療具。

そして、砦の責任者が作成した書面。

王国軍による侵入ではなく、緊急時の救助と状況確認であることが記されている。

「馬で進めるのは、途中まででしょう」

同行する兵士が言った。

「川沿いは危険です。初めは高い巡回路を使います」

「第三山岳国境警備隊まで繋がっているのか」

ユリウスが尋ねる。

「直接は繋がっていません」

兵士は答えた。

「帝国側の街道へ下りる場所があります。ただ、その斜面が残っているかは分かりません」

「分かった」

三頭の馬が、崩れた門の前へ並ぶ。

どの馬も、帝国側へ身体を向けることを嫌がった。

足を止め、耳を伏せる。

ユリウスは、自分の馬の首へ手を当てる。

「分かっている」

低い声で言った。

「俺達も、何があるかわからない」

馬が、小さく鼻を鳴らす。

「だから、確かめに行く」

手綱を引く、始めは動かなかった馬が。

やがて、一歩だけ前へ出る。

続いて、同行する二人の馬も歩き始めた。

雨は降っていない。

風もない。

雲だけが、帝国側の空へ重く垂れ込めている。

三人は、崩れた街道を避け。

国境沿いの高い巡回路へ向かった。

背後では、王都へ向かった伝令達の蹄音が、既に聞こえなくなっている。

前方にも、人の声はない。

鳥も飛んでいない。

第三山岳国境警備隊。

そのさらに奥にある。

白い光が生じた場所。

ユリウス達は、帝国へ続く道へ踏み出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。