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第二十六話 国境の前夜

春灯祭前日。

アルシア王国北東部。

帝国との国境に置かれた砦では、朝から雨が降り続いていた。

細い雨ではない。

風に煽られた大粒の雨が、石壁と監視塔を絶え間なく叩いている。

空が白く光るたび。

少し遅れて、重い雷鳴が山間へ響いた。

雨と風は、国境へ到着した日から、日に日に強くなっている。


初めは短い雨だった。

降ったかと思えばやみ。

雲の切れ間から青空が見えることもあった。

それが昨日からは、ほとんど途切れていない。

風向きは一定せず。

冷たい雨が降った直後に、生暖かい風が吹く。

雷も遠ざかることなく。

時間が経つほど、砦へ近付いているように感じられた。


昼を過ぎた頃。

巡回へ出ていたユリウス達が、砦へ戻ってきた。

濃紺の外套は雨を吸い。

裾から絶えず水が落ちている。

軽鎧にも泥が跳ね。

馬の脚は、膝近くまで濡れた土で汚れていた。

門へ続く道には、幾つもの深い蹄跡が残っている。

地面が水を吸い切れず。

馬が通るたび、泥水が周囲へ跳ねた。


「開門!」

先頭の騎兵が声を上げる。

門を守る兵士達が、重い扉を押し開いた。

強い風が門の間を抜け。

砦の内側へ、雨が一気に吹き込んでくる。

ユリウスは馬を引きながら門をくぐった。

「お帰りなさい」

兵士が雨に負けないよう、声を張る。

「状況は?」

「北側の境界標に異常はありません」

ユリウスは濡れた手袋を外した。

指先まで冷えている。

「だが、川の水位が昨日より上がっている。流れも速い」

国境線の一部に沿って流れる川は。

普段なら、底の石が見えるほど浅い。

だが今日は。

濁った水が岸近くまで広がり。

折れた枝や、上流から流された木片が、激しい勢いで通り過ぎていた。


「南側の斜面も危険だ」

ユリウスは続ける。

「巡回路へ、小規模な土砂の流出があった。道はまだ塞がれていないが、この雨が続けば崩れる可能性がある」

「通行を止めますか」

「南の監視所へ伝えろ。次の巡回から、斜面下の道は使わない」

「承知しました」

兵士が記録所へ走っていく。

別の騎兵が、泥に汚れた外套を絞りながら言った。

「北の川沿いも、馬では危険です」

「分かっている」

ユリウスは答えた。


巡回中。

一頭の馬が、泥へ脚を取られかけていた。

速度を落としていたため、転倒には至らなかった。

だが、このまま雨が続けば。

明日には、今日と同じ経路を通れる保証はない。

国境の異変を確かめるために来た。

それなのに、天候そのものが、巡回を妨げ始めている。


「帝国側の様子は?」

門番が尋ねる。

「監視所の灯りは確認した。兵士の姿もある」

激しい雨によって、遠くを見ることは出来なかった。

時折、風が雨を払った僅かな間だけ。

帝国側の監視塔と、そこに立つ人影が見えた。

軍が移動している様子はない。

避難する人々も。

国境へ向かう荷車も確認出来なかった。

「こちらは朝から、帝国側から来た者が一人もいません」

兵士が言った。


ユリウスは顔を上げた。

「一人もか」

「はい」

国境を越える者は、この数日で少しずつ減っていた。

それでも。

行商人。

荷を運ぶ御者。

王国に親族を持つ者。

一日に数人は、必ず帝国側から街道を通ってきた。

今日はまだ、誰も来ていない。

この雨ならば。

移動を控えていても、不自然ではない。


増水した川。

崩れやすくなった斜面。

泥に沈む街道。

旅を中止する理由は、幾つもあった。

だが、天候だけが原因なのか。

確かめる方法はなかった。

「帝国側から説明は?」

「ありません。」

軍の移動はない。

国境の閉鎖もない。

町が襲われたという報告もない。

あるのは。

悪化し続ける雨と風。

増水する河川。

不安定になった斜面。

時折、地面を気にする馬。

そして。

国境を越えてくる者が、いなくなったことだけだった。


「記録しておけ」

ユリウスは言った。

「正午までの越境者、零。河川の増水。南側巡回路への土砂流出。」

「承知しました」

兵士が記録所へ向かう。

その直後。

空が白く光った。

間を置かず、腹の底へ響くような雷鳴が落ちてくる。

繋がれていた馬達が一斉に身を震わせた。

数頭が、地面を蹴る。

「馬を厩舎へ!」

ユリウスが声を上げる。

「外に繋ぐな。身体を拭いて、脚を確認しろ!」

騎兵達が動き始める。


濡れた馬を、一頭ずつ厩舎へ入れる。

ユリウスも自分の馬を奥へ連れていった。

鞍を外し、濡れた背を乾いた布で拭く。

四本の脚を確認する。

傷はない。

蹄にも異常はなかった。

だが、馬は落ち着かない様子で。

何度も帝国側へ耳を向けていた。

雷へ反応しているだけかもしれない。

風の音を警戒しているのかもしれない。

「お前にも、何か分かるのか」

馬は答えない。

低く鼻を鳴らしただけだった。


厩舎の隅では。

若い騎兵が、乾いた藁を短く折っていた。

飼料用とは別に保管されていたものらしい。

紐で結び、小さな鳥の形を作ろうとしている。

翼らしいものが、左右に一本ずつ伸びていた。

「何をしている」

ユリウスが尋ねる。

若い騎兵は、少し気まずそうに手元を隠した。

「明日は春灯祭ですので」

「この雨の中で、火を焚くつもりか」

「やめば、ですが」

騎兵は、外で鳴る雨音へ耳を向けた。

「砦の者達も、毎年、小さな火を焚くそうです。見張りに支障が出ない範囲で」

言い訳をするような口調だった。


ユリウスは藁の鳥を見る。

片方の翼が短く、頭は大きい。

鳥というより、翼の付いた丸い塊に見えた。


王城を出る前。

窓の向こうに、リアナとフィーナがいたことを、ユリウスは知らない。

二人が、自分達の帰りを願う鳥を作ったことも。

その尾羽を、帰る道が見えるようにと長くしたことも知らなかった。


「使う藁は、係の者に確認しろ」

ユリウスは言った。

「馬用の飼料を勝手に減らすな」

若い騎兵は顔を上げた。

「作ってもよいのですか」

「任務に支障がなければな」

「ありがとうございます」

騎兵は小さく笑い。

再び藁を束ね始めた。


「伍長は作らないのですか」

「濡れた装備を先にどうにかする」

「それが終わったら?」

「見張りの予定を確認する」

「そうですか」

少し残念そうな声だった。

ユリウスは厩舎を出た。


外では雨が、石畳を白く煙らせるほど強く降っている。

排水路から溢れた水が。

砦の低い場所へ流れ込んでいた。

兵士達が板を置き。

土嚢を運んでいる。


春灯祭までには帰れる。

出立した時には、誰もがそう思っていた。

だが、帰還命令はまだ届いていない。

雨は日ごとに強まり。

帝国側から来る者は途絶え。

巡回出来る範囲さえ、少しずつ狭くなっている。

帝国で起きているはずの異変も。

探さなければならない者も。

何一つ見つかっていなかった。


◇

夕刻。

雨脚は、さらに強くなった。

国境を流れる川は、昼の巡回時よりも、また僅かに水位を上げていた。

南側の監視所からは、斜面の一部が崩れ、巡回路へ土砂が流れ込んだという報告が届いた。

人的被害はない。

監視所も無事だった。

だが、南側の道は完全に通れなくなった。

帝国側から国境を越えてきた者は。

結局、一人もいなかった。

報告書の上だけを見れば。

国境の向こうでは、今日も何も起きていない。


だが。

窓の外では、雨が横向きに流れている。

風に煽られた木々が。

今にも折れそうなほど、大きく揺れていた。


◇

夕食の時間になっても。

雨も風も、弱まる気配はなかった。

砦の食堂には、王都から来た騎兵と、ここで勤務する兵士達が集まっていた。

全員が入れるほど広くはない。

先に見張りを終えた者から食事を取り。

食べ終わった者が、次の者と入れ替わる。

壁際には、濡れた外套が幾つも掛けられていた。

床には、そこから落ちた水が小さな溜まりを作っている。


石造りの壁の向こうでは。

雨が激しく窓を叩き。

時折、風に押された扉が、低い音を立てて揺れた。

食事は、豆と根菜を煮込んだスープ。

硬いパン。

少量の塩漬け肉だった。

豪華ではない。

だが、一日中雨に打たれた身体には。

湯気の立つスープだけでも十分にありがたかった。


ユリウスは、王都から来た兵士数人と。

砦の兵士達が座る長机へ着いていた。

誰もが最初は、黙って食事を口へ運んでいた。

冷えた身体が温まるにつれ。

少しずつ、会話が戻り始める。

「結局」

王都から来た若い騎兵が、パンをスープへ浸しながら言った。

「私達は、いつまでここにいるのでしょう」


向かいに座っていた砦の兵士が顔を上げる。

「こちらへ聞かれても分からん」

「やはり、そうですよね」

「帰還命令が出るまでだろう」

別の騎兵が答えた。

「それがいつかを聞いているんだ」

若い騎兵は、少しだけ肩を落とした。

冗談めかした言い方だったが。

同じことを考えている者は、他にもいるようだった。


巡回出来る場所は、雨のために狭くなっている。

帝国側から来る者もいない。

それでも、任務を終えるための材料は、何一つ揃っていなかった。

「少なくとも」

砦の兵士が言った。

「この雨では、明日すぐ王都へ発つのは無理だろうな」

「南側の道が崩れたそうですね」

「ああ。王都へ戻る街道そのものは、まだ通れる。ただ、ほかにも崩れれば分からん」

若い騎兵は、小さく息を吐いた。

「祭りには、帰れませんでしたね」

食堂が、少しだけ静かになった。


明日は春灯祭。

王都にいる時には。

誰もが、祭りまでには任務を終えられると思っていた。

国境の様子を確認し。

異常がなければ戻る。

長くても数日。

その程度の任務だと考えていた。

だが、国境へ着いてから、異常がないと断定出来た日は一日もない。

それでいて、任務を終えるほど明確な異常も見つかっていなかった。


「子どもがいるのか」

砦の兵士が、隣に座る騎兵へ尋ねた。

尋ねられた男は、食事の横に置いていた小さな包みへ目を落とした。

中には、藁で作られた馬が入っている。

出立初日の中継所で、一度皆に見せたものだった。

脚は三本。

胴は少し曲がり。

馬と呼ぶには、首が短い。

娘が、父親の無事を願って作ったものだった。


「七歳の娘がいます」

騎兵は答えた。

「出立する直前に、持たされました」

砦の兵士が、三本しかない脚を見る。

「一本足りないな」

「急いで作ったので、間に合わなかったそうです」

騎兵は、藁の馬を掌へ載せた。

「祭りまでに帰ってきたら、一緒に四本目を付けると言っていました」

「それで、持ってきたのか」

「はい」

娘の願いが込められた藁細工を。

国境の砦で燃やすつもりはなかった。

王都へ持ち帰り。

四本目の脚を付けて。

娘と一緒に、春の火へ入れるつもりだった。


だが、明日の夜までに王都へ戻ることは、もう出来ない。

「今頃、怒っているかもしれません」

騎兵が言った。

「祭りまでには帰れるかもしれないと、言ってしまいましたから」

「帰ると約束したのか」

ユリウスが尋ねる。

「いえ」

騎兵は首を横へ振った。

「約束は出来ないと言いました。ただ、娘は帰ってくると思っていたようです」

それは、娘だけではなかっただろう。

出立を見送った家族も。

王城に残った者達も。

そして、ここへ来た騎兵達自身も。

祭りまでには帰れると思っていた。


砦の兵士は、暫く藁の馬を眺めていた。

「ここにいる者は、祭りに帰れない年の方が多い」

騎兵が顔を上げる。

「毎年ですか」

「国境だからな」

砦の兵士はパンをちぎった。

「祭りだからと、見張りを空にするわけにはいかん。家族が近くに住んでいる者なら、交代で顔を出すこともあるが」

王都から来た騎兵達とは違う。

この砦の兵士達にとって。

祭りを任地で迎えることは、珍しいことではない。


「今夜の雨が弱まれば」

砦の兵士は続けた。

「明日は中庭で、小さな火を焚く予定だった」

「この雨では難しそうですね」

「火が無理なら、食堂の炉へ一つずつ入れる。毎年そうしている」

騎兵は、掌の上の藁馬を見た。

「これも、入れた方がよいのでしょうか」

「娘と一緒に入れるつもりだったのだろう」

砦の兵士は答えた。

「なら、持って帰ればいい」

「ですが、今年の春灯祭は明日です」

「春を迎える願いが、一日遅れたくらいで消えるものか」

騎兵は、すぐには答えなかった。


やがて、三本脚の馬を、壊さないよう包みへ戻す。

「持って帰ります」

「ああ」

「四本目を付けてから、燃やします」

その声は、先ほどよりも、少しだけ明るかった。

「まず、ここから無事に帰らなければなりませんね」

「そのための三本脚だろう」

砦の兵士が言った。

「一本足りなくても、ここまで一緒に来た」

王都から来た兵士の一人が、小さく笑った。

「馬としては、随分無理をしていますが」

「うちの馬より根性があるかもしれん」

別の者が続ける。

食堂に、僅かな笑いが広がった。


外では変わらず雨が降り続いている。

雷鳴が響き。

窓枠が小さく震えた。

笑い声は、すぐに消えた。

それでも、先ほどまでの重い沈黙には戻らなかった。

ユリウスは、残っていたスープを口へ運ぶ。

温かさは、喉を過ぎる頃には、もう僅かしか残っていない。

「副長」

若い騎兵が尋ねた。

「本当に、いつまでになると思いますか」

今度は、誰も冗談にしなかった。

ユリウスは、すぐには答えなかった。


明日まで。

数日。

交代要員が来るまで。

異変が収まるまで。

どの答えにも、根拠はない。

「分からない」

ユリウスは答えた。

「だが、帰るためにも、今はここで任務を果たす」

騎兵は、少しだけ俯いた。


それから頷く。

「はい」

食堂の扉が開いた。

次の見張りを終えた兵士達が、雨と共に入ってくる。

入れ替わるように、食事を終えた者達が席を立った。

ユリウスも空になった器を重ね。

壁に掛けていた、まだ乾き切っていない雨具へ手を伸ばした。

次の見張りまで、もう、あまり時間は残っていなかった。


夜。

ユリウスは監視塔へ上がった。

雨具を着ていても。

隙間から冷たい水が入り込んでくる。

風が吹くたび。

塔そのものが、小さく軋んだ。

眼下に伸びているはずの街道は、暗闇と雨の中へ消えていた。

帝国側の監視所も、ほとんど見えない。

時折、空が白く光った瞬間だけ。

塔の形が黒い影となって浮かび上がる。

雷鳴が続く。

一つが消える前に、別の音が重なる。


「昨日より、ひどくなっていますね」

隣にいた兵士が言った。

声を張らなければ、風と雨に掻き消される。

「ああ」

ユリウスは短く答えた。

空が光る、すぐ近くで雷が落ちたような轟音が響いた。

石壁が震え、監視塔の屋根から、大量の雨水が流れ落ちる。

その音に混じって、足元から、ごく低い音が聞こえた。

雷鳴とは違う、石と石が、地中から押されて擦れたような音だった。

ユリウスは監視塔の床へ視線を落とす。

揺れは感じない。

隣の兵士も、何も言わなかった。

聞こえたのは、自分だけなのかもしれない。


「時刻を記録しておけ」

「雷ですか」

「雷鳴のほかに、原因不明の音」

兵士が記録帳を開いた。

ユリウスは、雨の向こうへ目を凝らす。

何も見えない。

王都へ戻る街道も。

帝国へ続く道も。

すべてが、暗い雨の中へ沈んでいる。

明日。

王都では、春を迎える火が焚かれる。

この雨が王都まで届いているのか。

祭りが予定通り行われるのか。

ユリウスには分からない。


風が吹く、監視塔が、もう一度軋んだ。

その遥か下、雨に覆われた地面の奥で。

まだ揺れにはならない何かが。

ゆっくりと、動き始めていた。


◇

翌朝。

春灯祭当日。

ユリウスは、雷鳴で目を覚ました。

眠ったのは、夜明け前だった。

監視塔での見張りを終え。

濡れた雨具を脱ぎ。

寝台へ横になってから、まだ二時間も経っていない。


砦の外では。

昨日から続く雨が、変わらず石壁を叩いている。

窓の隙間から、冷たい風が入り込んでいた。

空が白く光る、殆ど間を置かず。

砦全体を震わせるような雷鳴が響いた。

部屋の中にいた騎兵達が、次々に身体を起こす。

「近いな」

誰かが呟いた。

別の者は、眠そうな顔のまま窓を見た。

「祭りの日まで、この天気ですか」

答える者はいなかった。


王都なら。

春灯祭の朝は、もっと早くから人の声が聞こえる。

店先へ藁細工を並べ。

通りへ屋台が出され。

子ども達が、夜の火を待ち切れずに走り回る。

だが国境の砦に聞こえるのは。

雨。

風。

雷。

そして、厩舎で落ち着きを失っている馬達の声だけだった。


ユリウスは寝台から立ち上がる。

僅かな眠気は残っている。

だが、もう一度横になる気にはなれなかった。

軍服を整え、まだ湿り気の残る軽鎧を身に着ける。

食堂へ向かう途中、壁際に、小さな藁の鳥が置かれているのが見えた。

昨日、若い騎兵が作っていたものだった。

片方の翼は短いまま。

その代わり、尾には、新しい藁が何本か足されていた。

少し長過ぎるようにも見える。


炉の近くでは、娘から三本脚の藁馬を持たされた騎兵が、包みを確かめていた。

燃やすつもりはない。

王都へ持ち帰り。

娘と一緒に、四本目の脚を付ける。

昨夜、そう決めていた。

「おはようございます」

藁馬を包み直しながら、騎兵が言った。

「ああ」

「祭りの日ですね」

「ああ」

短いやり取りだった。

祝うような声にはならなかった。


◇

朝食の後。

砦の作戦室に、各監視所からの報告が集められた。

南側。

昨夜崩れた斜面から、さらに土砂が流出。

巡回路は通行不能。

監視所そのものに被害はない。

だが、砦との間を馬で移動することは出来なくなった。

北側。

川の水位は、夜の間にも上昇。

岸に近い巡回路の一部が水に浸かっている。

境界標に異常はない。

帝国軍の動きも、確認されていない。


ただし。

激しい雨によって、監視出来る範囲は大きく狭まっていた。

砦の責任者が、広げられた地図を見つめる。

「本日の騎馬巡回は中止する」

集められた者達へ告げた。

「南は斜面が崩れている。北は川が危険だ。この状態で馬を出せば、事故が起きる」

誰も異論を唱えなかった。

昨日の巡回でも、何度か馬が泥へ脚を取られている。

「徒歩による確認も、砦から見える範囲に限定する。監視塔の人員を増やし、川と街道を交代で見張れ」

責任者は答えた。

「返答がなくても、勝手に国境を越えるな」

「承知しました」

「王都へは、天候悪化と巡回中止を報告する。帰還及び交代についても、改めて判断を求める」

帰還。

その言葉に。

王都から来た騎兵達の何人かが、僅かに顔を上げた。


だが責任者は続ける。

「ただし、すぐに返答が来るとは思うな。街道の状態次第では、伝令そのものが遅れる」

期待は口に出されるより先に消えた。

ユリウスは地図を見る。

王都へ戻る道。

国境に沿って続く川。

土砂で塞がれた南の巡回路。

雨が続けば、残されている街道まで、いつ通れなくなるか分からない。

「フェルト伍長」

責任者が呼ぶ。

「北側監視塔を担当してくれ。川の水位に変化があれば、すぐ報告しろ」

「了解しました」

「危険だと判断した場合は、塔からも退避させろ」

「はい」

作戦室を出る。

廊下の窓が、また白く光った。

続いて低い雷鳴が長く響く。


昨日より近い。

そう感じていた。

だが、近付いているのは本当に雷だけなのだろうか。


◇

午前中。

雨は一度もやまなかった。

監視塔から見下ろす川は。

既に普段の姿を失っていた。

茶色く濁った水が、川幅いっぱいに広がっている。

上流から流されてきた木の枝が、何度も岩へぶつかり、折れ。

向きを変えながら下流へ流れていく。

岸に立っていた細い木が、水に削られた土ごと傾いていた。


「昨夜より、また上がっています」

砦の兵士が言った。

「水位標の三つ目が隠れました」

ユリウスは、塔の壁に備え付けられた記録板を見る。

昨夜、今朝。

そして現在。

水位は確実に上がり続けている。

「記録しろ」

「はい」

「下流の監視所にも伝えろ。岸へ近付かせるな」

兵士が階段を下りていく。

ユリウスは帝国側へ目を向けた。

雨によって、国境の向こうは、殆ど見えない。

監視所の塔が、灰色の幕の中に、辛うじて影として浮かんでいる。

やはり、帝国側の監視塔に、動きは見えなかった。


◇

昼を過ぎても。

雨は降り続いていた。

食事は監視塔へ運ばれた。

冷めたスープと。

布で包まれたパン。

ユリウス達は交代で、短い食事を取った。

「人影は見えますか」

砦の兵士が尋ねる。

「いや」

「避難したのでしょうか」

「分からない」

激しい雨を避け。

塔の内部へ入っている可能性はある。

監視所そのものを放棄したと判断するには早い。


だが、昨日まで立っていた兵士の姿が、今日は一度も見えていなかった。

「祭りどころではありませんね」

兵士が、濡れた窓枠を見ながら言った。

「ここではな」

「王都は、晴れているでしょうか」

ユリウスは答えなかった。

王都は遠い、同じ雲が、そこまで続いているのかは分からない。

リアナは。

花屋の者達は。

フィーナ様は。

今頃、どのように祭りの日を過ごしているのだろう。

そう考えた時。

風が止んだ、突然だった。


窓へ吹き付けていた雨が、真下へ落ち始める。

旗を激しく揺らしていた風も。

木々の枝を押し曲げていた風も。

何の前触れもなく消えた。

雨音だけが残る。

それも、少しずつ弱くなっていった。

「やみますね」

兵士が言った。

朝から降り続いていた雨が。

目に見えて細くなっていく。

やがて、最後の雨粒が、塔の屋根から落ちた。


静かだった。

あれほど続いていた雷鳴も。

いつの間にか聞こえなくなっている。

川の流れる音だけが。

遠く、低く響いていた。

「……急だな」

兵士が呟く。

ユリウスは、空を見た。

雲は消えていない。

灰色の厚い雲が。

帝国側の空を覆ったまま動かずにいる。


風がない。

鳥の声もない。

木の葉一枚、揺れていなかった。

晴れたのではない。

雨と風だけが、何かを待つように、止まっている。

厩舎の方から、馬の嘶きが聞こえた。

一頭ではない。

何頭もの馬が。

ほぼ同時に声を上げていた。

「何だ」

兵士が、砦の内側を振り返る。


ユリウスは帝国側を見る。

雲の下。

それまで雨に隠れていた監視塔が、はっきりと見えていた。

灯りはない。

人影もない。


◇

夕刻。

雨はやんだままだった。

だが空は暗い。

雲の切れ間も。

夕日の色も見えない。

砦の中庭では、兵士達が、小さな火を焚く準備を始めていた。

大きな薪組みではない。

石で囲った場所へ、乾いた枝と、少量の藁を置いただけのものだった。

王都の春灯祭とは比べられない。

それでも、任地で祭りを迎える者達にとっては。

一年の冬を終わらせるための火だった。


昨日作られた藁の鳥も。

炉の近くから、中庭へ運ばれている。

片方だけ短い翼。

長く付け足された尾。

風がないため。

藁は、少しも揺れていなかった。

三本脚の馬だけは、持ち主の荷物の中へ、大切に包まれている。

娘と一緒に、四本目の脚を付けるため。

王都へ持ち帰ると決めたものだった。


「火入れは、日が落ちてからですか」

王都から来た騎兵が尋ねる。

砦の兵士が頷く。

「王都と同じ頃だ」

「時間が分かるのですか」

「毎年のことだからな。多少ずれても、春は怒らん」

騎兵が、小さく笑った。

祭りには帰れなかった。

それでも、同じ頃に火を焚くことは出来る。

王都から遠く離れた国境であっても。

同じ春を迎えることは出来る。


ユリウスは、中庭の端から、その準備を見ていた。

空は、日が落ちる前から、夜のように暗い。

人影も戻らない。

鳥も飛ばない。

風も吹かない。

静か過ぎた。

「副長」

監視塔から下りてきた兵士が、足早に近付いてくる。

「帝国側の空に、光を確認しました」

「雷か」

「分かりません」

兵士は息を整えた。

「雲の中ではなく、その下です。地面に近い場所が、一度だけ青く光りました」

ユリウスは帝国側へ顔を向ける。


砦の石壁。

その向こう、暗い雲に覆われた国境の先。

「監視を増やせ」

ユリウスは言った。

「火入れの間も、塔から人を下ろすな」

「承知しました」

兵士が走っていく。


中庭では。

春の火を灯す準備が続いている。

まだ火は入っていない。

藁の鳥も。

乾いた枝も。

暗い空の下で、静かにその時を待っていた。

遠く離れた王都でも。

人々が同じように。

春の火を待っている頃だった。


◇

日が落ちた。

厚い雲に覆われていたため。

空は、それよりも前から夜の色をしていた。

中庭では、石で囲われた小さな薪組みを、兵士達が取り囲んでいる。

監視塔と城壁には、普段より多くの兵士が残されていた。

祭りのために持ち場を離れた者はいない。

帝国側の監視も。

増水した川の見張りも続いている。

砦の責任者が、火の前へ立った。


「今年も、無事に冬を越えた」

集まった者達へ、静かに告げる。

「任地にある者も。故郷にいる者も。等しく春を迎えられることを願う」

王都のような歓声はない。

楽器の音も。

通りを埋める人々の声も聞こえない。

それでも、兵士達は、それぞれの故郷を思いながら。

火が灯されるのを待っていた。


松明が、乾いた枝へ近付けられる。

小さな炎が移った。

始めは消えそうに揺らぎ。

やがて、枝の間に入れられた藁へ、ゆっくりと燃え広がっていく。

「これで、春ですね」

若い騎兵が言った。

手には、昨日作った、不格好な藁の鳥が握られていた。

片方だけ短い翼。

長く付け足された尾。


「飛べるのか、それは」

隣にいた兵士が尋ねる。

「帰る場所さえ分かれば、飛び方は鳥に任せます」

若い騎兵は答え、藁の鳥を、春の火へ入れた。

長い尾の先から、火が移る。

炎は尾を伝い、片方だけの短い翼を包み込んだ。

別の騎兵は、娘から持たされた三本脚の藁馬を、胸元の包みに入れたまま。

燃えていく鳥を見ていた。


その馬は燃やさない。

王都へ持ち帰り。

娘と一緒に、四本目の脚を付ける。

そう約束したものだった。

「来年は、王都で見たいですね」

「来年と言わず、帰れば自分で火を焚け」

「祭りが終わってから帰っても、よいのですか」

「冬を越した祝いだ。多少遅れても、春は待ってくれる」

小さな笑いが起きた。

ほんの僅かな間だけ。

砦を覆っていた緊張が和らいだ。


ユリウスは、その様子を中庭の端から見ていた。

火は真っ直ぐに立っている。

煙も、殆ど風のない空へ、細く昇っていた。

昼過ぎに雨がやんでから。

風は一度も戻っていない。

雲も動かず、空気そのものが、止まっているようだった。

不意に厩舎の中で、一頭の馬が嘶いた。

続けて、別の馬が、仕切り板を蹴る音が響く。

「またか」

兵士が厩舎へ顔を向ける。


その時。

帝国側の空が白くなった。

雷のような、一瞬の光ではなかった。

暗闇の中で、地平の一部が、白く膨れ上がった。


次の瞬間。

光は帝国側の山々を越え。

低く垂れ込めていた雲のすべてを、下から照らした。

夜が消えた。

砦の石壁が白く浮かび上がり。

中庭にいた兵士達の影が、王国側へ長く伸びる。

監視塔も。

濁流となった川も。

帝国へ続く街道も。

昼間のような明るさの中へ晒された。


兵士達は、何が起きたのかも分からないまま、帝国側を見ていた。

「雷……?」

誰かが呟く。

だが雷の光とは比べものにならなかった。

空の一部が光ったのではない。

帝国側の大地そのものが。

巨大な光源になったかのようだった。

あまりの眩しさに、何人もの兵士が腕で目を覆う。

ユリウスも顔を背けかけた。

それでも細めた目で、光の中心を探した。

雲の中ではない。

空から落ちた光でもない。

白い光は、帝国側の地面に近い場所から、空へ向かって広がっている。

先ほど報告された一度だけの青い光とは違う。


白く。

冷たく。

どこまでも強い光だった。

「全員、持ち場へ戻れ!」

ユリウスが声を上げる。

「帝国側を監視! 厩舎の馬を押さえろ!」

兵士達が動き出す。

だが光が生じているにもかかわらず。

音は聞こえなかった。

爆発音も。

雷鳴もない。

砦の中庭では。

薪が燃える音だけが続いている。


その静けさが光そのものよりも、不自然だった。

ユリウスは城壁へ続く階段を駆け上がった。

途中で白い光が、急速に弱くなる。

帝国側の山々が、再び暗闇へ沈んでいく。

光が消えた後も目の奥には、白い残像が残っていた。


「何が見える!」

ユリウスは城壁上へ出ると、監視兵へ尋ねた。

「分かりません!」

兵士は帝国側へ目を凝らしている。

「光が強過ぎて……何も……」

その言葉が終わる前に。

音が来た。

遠くで何かが爆発した音ではなかった。

雷が落ちた時の空気を引き裂くような音でもない。

低く。

重く。

長く響く音だった。

帝国側の地の底から。

巨大な何かが唸り声を上げたかのように。

途切れることなく。

山間を満たしながら、砦へ押し寄せてくる。

城壁の石が、僅かに鳴った。

監視塔の屋根が軋む。

砦に掛けられていた金具が。

誰も触れていないのに、小さく震え始めた。


音は耳から入ってくるだけではない。

胸の奥へ響き。

骨を震わせ。

足の裏から身体へ伝わってくる。

兵士が、城壁の縁へ手を置いた。

「何の音ですか……」

ユリウスにも分からなかった。

爆発とも違う。

雷鳴とも違う。

岩山が崩れる音とも違う。

聞いたことのない音だった。


地面の遥か下で生まれた響きだけが。

大地を伝い、この砦まで届いている。

足元で小石が一つ、跳ねた。

それに続いて、城壁の上に溜まっていた細かな砂が、小刻みに震え始める。

「揺れている」

兵士が呟く。

揺れは弱い、立っていられないほどではない。

だが止まらない。

細かな震えが、石造りの城壁全体へ伝わっている。


中庭から、兵士達の声が聞こえた。

春の火を囲んでいた石の間で。

水の入った桶が、小さな波紋を作っている。

炎も風がないにもかかわらず。

細かく左右へ震えていた。

厩舎では、馬達が一斉に暴れ始めている。


仕切り板を蹴り。

繋がれていた縄を引き。

逃げ場を求めるように何度も嘶いた。

「馬を外へ出すな!」

ユリウスは中庭へ向かって叫んだ。

「扉を閉めろ! 中で押さえろ!」

微かな揺れは続いている。

収まる様子はなかった。

むしろ、少しずつ強くなっている。

ユリウスは城壁に片手を置き。

帝国側へ目を凝らした。


白い残像が薄れ、暗闇の中に、地面の輪郭が戻り始めていた。

帝国側の監視塔。

国境へ続く街道。

その脇に並ぶ木々。

最初、目が眩んでいるのだと思った。

遠くの地面が、上下に動いているように見えた。

だが違った。

帝国側の街道が、緩やかに持ち上がった。

盛り上がった地面は、そのまま元の高さへ沈んでいく。

その後ろで別の場所が持ち上がる。

街道沿いの木々が根元から傾き。

順番に大きく揺れていた。


一つの波だった。

大地そのものが水面のようにうねっている。

帝国側の奥から。

国境へ向かって。

巨大な波が押し寄せてくる。

「地面が……」

隣の兵士が、息を呑んだ。

帝国側の監視塔が傾く。

次の波を受けて、大きく横へ揺れた。

石積みの上部が崩れ。

白い粉塵が暗い空へ噴き上がる。


だがその粉塵さえ。

次々と持ち上がる大地に隠されていく。

地面の波は、帝国側の監視所を越え。

国境へ迫っていた。

ユリウスは目を見開く。

川沿いの木々が遠いものから順に傾いていく。

まるで見えない巨大な手が。

地面ごと持ち上げているようだった。


「城壁から離れろ!」

ユリウスが叫ぶ。

「全員、伏せろ! 大きな揺れが来る!」

城壁上の兵士達が動く。

階段へ向かおうとした者が。

既に強くなり始めた揺れに、足を取られた。

ユリウスはその腕を掴み。

石床へ引き倒す。


次の瞬間。

波が川へ届いた。

増水していた水面が、下から突き上げられたように膨らむ。

濁った水が岸を越え、倒れかけていた木々を、一度に押し流した。

川岸が割れる。

湿った土が崩れ。

大量の泥と水が、裂け目へ呑み込まれていく。

そして大地の波が、王国側へ到達した。

砦全体が、下から殴りつけられたように跳ね上がった。

石と石がぶつかる轟音が響く。

ユリウスの身体が、僅かに宙へ浮いた。

すぐに横から強く引き倒されるような揺れが襲う。


城壁が大きく軋んだ。

監視塔から石材が剥がれ落ち。

中庭へ向かって砕けながら落下する。

「壁から離れろ!」

叫び声が重なる。

兵士達が頭を守り。

揺れる床へ伏せる。


中庭では、春の火を囲んでいた石が崩れた。

燃えていた枝が地面へ散らばる。

水の入った桶が倒れ、流れ出した水と泥が、炎を呑み込んでいく。

昨日作られた藁の鳥は、片方の翼を燃やしたまま地面へ落ち。

次の揺れで転がった石の下へ消えた。


厩舎から。

板の割れる音が響く。

馬の嘶き。

兵士達の怒鳴り声。

崩れる石。

砕ける木。

そのすべてを、地の底から続く、正体の分からない響きが覆っていた。

ユリウスは城壁へ片腕を押し付け。

身体を支える。

立ち上がることは出来ない。

視界そのものが、激しく左右へ振られている。

それでも帝国側から目を離さなかった。


白い光が生じた場所。

その方角では今も大地が波打っている。

帝国側から来た巨大なうねりが。

国境を越え、王国の大地へ広がっていく。

遠く離れた王都を襲っている揺れと。

今、この砦を襲っている揺れ。

その始まりを、ユリウスは確かに見ていた。

それは帝国側から来た。


だがその規模も。

何が起きたのかも。

まだ誰にも分からなかった。

ただ大地の波は止まらない。

砦は、春を迎えるための火を失い。

崩壊の音の中へ呑み込まれていった。


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