第二十五話 春灯祭 後編
春灯祭の当日になっても、空は晴れなかった。
朝から雲は低く垂れ込み、雨は降ったりやんだりを繰り返している。
風も落ち着かない。
王都の通りでは、祭りの準備が進められていたが、軒先に吊るされた藁細工は、時折吹く風に小さく揺れていた。
北東の空では、相変わらず白い光が走る。
雷鳴は遅れて届くこともあれば、届かないこともあった。
春を迎える日には似つかわしくない空だった。
王宮の一室では、朝早くから王城の官吏と神殿の関係者が集められていた。
大きな机の上には、王国周辺の地図が広げられている。
西には西方諸侯連合。
南には南同盟都市。
北には北方連合。
南東には南東公国。
そして、東。
カルドラ山系を越えた先に、広大な帝国領が広がっている。
地図上の帝国国境付近には、いくつもの小さな印が置かれていた。
王国側の監視地点。
国境沿いの砦。
近隣諸国の部隊が確認された場所。
そのどれもが、ここ数日で増えている。
「帝国からの正式な通達は、依然としてありません」
報告役の神官が言った。
「こちらの照会に対する返答も、国境経由の説明も届いておりません」
部屋の空気が、わずかに重くなる。
帝国内で魔王出現に類する反応がある可能性。
王国はその情報を、帝国へ直接伝えてはいない。
不用意に伝えれば、王国が帝国内の異変を監視していたと受け取られかねない。
確証のない段階で帝国を刺激することも避けなければならなかった。
だから王国は、周辺諸国へ極秘の警戒情報として流した。
帝国内で、魔王出現に似た反応が確認されている可能性がある。
位置は不明。
断定は避ける。
ただし、国境付近の警戒を強めるように。
だが、いくつもの国が動けば、帝国がそれに気付かないはずがない。
「帝国側にも、すでに何らかの形で伝わっていると考えるべきでしょう」
セヴランが地図を見下ろしながら言った。
「周辺国がこれだけ動いている。知らないまま沈黙しているとは考えにくい」
「帝国国内の観測機関も、何かを掴んでいる可能性があります」
神官が続ける。
「ただし、それを公にする動きは見られません」
「公に出来ないのか」
「あるいは、公にしたくないのか」
誰もすぐには答えなかった。
窓の外で、雨が細く硝子を叩く。
「北方連合側では、帝国北境へ通じる街道沿いの駐屯地に増員が確認されています」
王城の士官が報告書をめくった。
「補給車列の往来も増えています。単なる見回りではなく、継続的な警戒に入ったと見るべきです」
「南東公国は?」
「帝国南東部の国境付近へ、偵察部隊を出しています。沿岸寄りの街道と、山麓側の境界線、その両方で動きがありました」
「南同盟都市は、交易路の警備を強めています」
別の官吏が言った。
「名目上は治安維持ですが、帝国からの人や物資の流れを見ているのでしょう」
「西方諸侯連合は?」
「王国西部と帝国方面へ続く街道沿いに、騎兵を増やしています。表向きは商隊護衛の強化ですが、連合内でも情報は共有されていると見てよいかと」
報告だけを並べれば、どれも小さな動きだった。
一国だけなら、季節の変わり目の警戒で済む。
だが、北も、南東も、南も、西も。
周辺国がそれぞれ帝国へ意識を向け始めている。
それは、偶然ではなかった。
「国境で警戒中の部隊から、決定的な報告は?」
セヴランが尋ねる。
「ありません」
士官は首を横に振った。
「帝国軍の大規模移動は確認されておりません。国境封鎖も、正式な布告もありません。ただ、帝国側の街道を通る商人は明らかに減っています。悪天候の影響だけとは言い切れません」
「カルドラ山方面は」
その名が出た瞬間、部屋の空気が少し張った。
カルドラ山。
帝国の中心部に広がる巨大なカルデラ地帯。
その周囲には山麓の街道と軍施設が点在し、北寄りの山麓には、第三山岳国境警備隊の駐屯地がある。
王国から直接見通せる場所ではない。
だが、神殿が観測している異常の方角と、完全に無関係とも言い切れなかった。
「天候が悪化しているため、遠見による確認は難しくなっています」
士官が答える。
「昨夜から今朝にかけて、帝国側の山麓街道で輸送隊らしき動きがあったという報告はあります。ただし、軍のものか民間のものかは判別できていません」
「第三山岳国境警備隊の駐屯地については?」
「情報なしです。帝国領内の施設ですから、確認には限界があります」
沈黙が落ちる。
見えているものは少ない。
だが、見えないものが大きくなっている。
その感覚だけが、部屋にいる者達の間で共有されていた。
「神殿の観測は」
セヴラン視線を向ける。
報告役の神官は、少しだけ表情を硬くした。
「北東方面の地脈反応は、弱まっていません」
「強まっているのか」
「日ごとに不安定さを増しています」
神官は慎重に言葉を選んだ。
「ただし、王都直下の反応ではありません。王都の地脈そのものが乱れているというより、遠方で生じた揺らぎが、細く長く伝わってきている状態に近い」
「細く長く、か」
「今はまだ」
その一言に、官吏の一人が眉を寄せた。
「今は、ということは、今後は分からないのだな」
神官は否定しなかった。
「規模が読めません」
部屋の空気が、さらに重くなる。
王都では、春灯祭の準備が進んでいる。
中央広場には焚き上げのための薪が組まれ、家々や店先には願いを込めた藁細工が飾られている。
人々は空模様を気にしながらも、春を迎える祭りの日を過ごそうとしていた。
そこへ、確証のない不安を広げることは出来ない。
だが、何もしないわけにもいかない。
「祭りを中止する根拠は無い」
低く言った。
「だが、警備は増やす。中央広場、主要街路、城門周辺。人が集まる場所にはすべて配置を増やせ」
「既に手配しています」
「火の管理もだ。風がある」
「消防隊にも連絡済みです。広場の焚き上げ周辺には、水桶と砂を多めに配置します」
「神殿は」
神官が頷く。
「祭礼そのものは通常通り行います。ただし、神官団の一部は観測室に残します。反応が変化した場合、すぐ王宮へ伝達します」
「王女殿下の外出は」
その言葉に、部屋の者達の視線が一度止まった。
フィーナは、春灯祭を楽しみにしている。
王城の中へ藁細工作りを持ち込んだのも、彼女だった。
城で働く者達の中にも、今年初めて、自分の願いを藁細工に込めた者がいる。
それを思えば、完全に閉じ込めるような判断はしたくない。
だが、天候と異変が重なっている以上、普段通りというわけにもいかなかった。
「昼間の祭りへの参加は認めない」
「人出が多すぎる。天候も読めない」
「殿下は残念がられるでしょうね」
「それでもだ」
官吏は少しだけ声を落とした。
「ただし、夜の焚き上げについては、遠目からであれば許可を出す方向で調整している。中央広場の中へは入れない。王城側の見晴らし台、あるいは警備しやすい外縁部から短時間だけだ」
「警護は」
「増員する。目立たぬ形でな」
誰も、祭りを奪いたいわけではなかった。
ただ、分からないものが近付いている。
それだけは、もう否定できなかった。
窓の外で、風が鳴った。
薄暗い空の奥が、一瞬だけ白く光る。
雷鳴は届かない。
遠すぎるのか。
それとも、音がまだ追いついていないだけなのか。
神官の一人が、窓の外を見た。
「帝国内で魔王出現に類する反応があるという話は、帝国にも伝わっているのでしょうか」
「伝わっていると見るべきだ」
セヴランが答えた。
「どこからかは分からない。だが、周辺国がこれだけ動いている。帝国が何も知らないはずがない」
「それでも沈黙している」
「帝国内で魔王が現れたなどと、帝国が自ら認めるはずもない」
その言葉に、誰も反論しなかった。
魔王。
その名は、まだ公には出せない。
王都の民にとって、今日は春灯祭だ。
願いを火に託し、冬を終わらせる日。
そこへ、魔王の影を落とすわけにはいかなかった。
「今日一日、表向きは通常通りだ」
官吏が告げた。
「ただし、異常があれば即時に対応する。神殿は観測を続けろ。国境からの報告は、どれほど小さなものでも回せ」
「承知しました」
「祭りの火は、止めない」
その言葉が、静かに部屋へ落ちた。
重い雲の下で。
遠い雷の下で。
不確かな異変の気配を抱えたまま。
王都は、春灯祭を迎えることになった。
◇
同じ頃。
王宮の別室では、フィーナが窓辺に立っていた。
窓の外には、春灯祭の日の王都が広がっている。
通りには人が増え始めていた。
露店の布。
荷車。
雨に濡れないよう軒下へ寄せられた藁細工。
遠くからでは細かな形までは分からない。
けれど、王都全体が祭りの日へ向かって少しずつ動いていることは、フィーナにも分かった。
「やっぱり、昼は駄目なのですね」
フィーナが言った。
声には、少しだけ沈んだ色があった。
セシルは隣で静かに頷く。
「はい。人出が多く、天候も安定しておりません。昼間の広場へお連れする許可は下りませんでした」
「少しだけでも?」
「少しだけでも、です」
「リリエの近くも?」
「今日は難しいかと」
フィーナは小さく息を吐いた。
分かってはいた。
先日、リリエへ行けただけでも、かなり特別な許可だった。
空模様は悪い。
王宮も神殿も、何かを警戒している。
昼間の祭りへ出られないことくらい、最初から予想できた。
それでも、残念なものは残念だった。
「フィーナ様」
セシルが、少しだけ声を柔らかくした。
「ですが、夜の焚き上げは、遠目からであればご覧になれます」
フィーナはぱっと顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい。中央広場の中へは入りません。人の輪から離れた場所で、警護を付けて短時間だけ、という条件です」
「遠くからでも、春の火は見えるのですね」
「見えるはずです」
フィーナは窓の外を見る。
昼の広場には行けない。
露店を歩くことも、人々の藁細工を間近で見ることも出来ない。
けれど、夜空へ上がる炎なら、遠くからでも見られる。
リリエに置いてきた鳥。
花を抱えた兎の隣に並んでいた、不格好な鳥。
サラの春抱き獣も、きっと今頃どこかで春灯祭を待っている。
「私の鳥も、燃えるところが見えるでしょうか」
フィーナが尋ねる。
セシルは少しだけ困ったように答えた。
「形までは、遠目では分からないと思います」
「尾羽が長くても?」
「尾羽が長くてもです」
「そうですか」
フィーナは少し肩を落とした。
けれど、すぐに顔を上げる。
「でも、火が見えるなら」
「はい」
「私の鳥も、その火の中にいると思えます」
セシルは少しだけ目を細めた。
「そうですね」
「なら、見に行きます」
フィーナはきゅっと手を握った。
「遠くからでも、ちゃんと見ます」
「そのためにも、昼間は無理をなさらないでください」
「分かっています」
「本当に?」
「本当にです」
セシルはまだ少し疑うようにフィーナを見る。
フィーナは胸を張った。
「今日は、窓から王都を見ます。あと、王城の藁細工も見に行きます」
「それなら問題ありません」
「それから、夜までに鳥へお願いすることを考えます」
「もうお願いは込めたのでは?」
「少し増えました」
セシルは一瞬だけ黙った。
「尾羽を増やさなくてよかったですね」
「もうリリエにありますから、増やせません」
「それは幸いでした」
「セシル」
フィーナは少し頬を膨らませた。
けれど、すぐに窓の外へ視線を戻す。
空は暗い。
春灯祭の日だというのに、雲はまだ厚く、時々遠くで白く光る。
それでも王都の人々は、祭りの準備を続けていた。
薪が運ばれ。
露店の布が結ばれ。
誰かが作った藁細工が、雨に濡れないよう軒下へ寄せられている。
フィーナは、その全部を遠くから眺めた。
少し悔しい。
けれど、少し嬉しい。
夜になれば、春の火が見られる。
人々の輪の外からでも。
遠目からでも。
自分の鳥が願いを運ぶところを、見届けられる。
「セシル」
「はい」
「夜までに、空が少しでも良くなるといいですね」
「そうですね」
セシルはそう答えた。
けれど窓の外の雲を見て、ほんのわずかに表情を曇らせた。
フィーナはそれに気付かなかった。
ただ、遠くの王都を見ていた。
春の火が灯る場所を。
まだ見えない炎を。
そして、そこへ向かって飛んでいくはずの、不格好な鳥の姿を思い浮かべていた。
◇
同じ頃。
リリエの店先では、エマが軒下の藁細工を見上げていた。
花を抱えた兎。
その隣には、フィーナが置いていった鳥が並んでいる。
片方だけ少し大きい翼。
丸い身体。
見本よりも長い尾羽。
風が吹くたびに、その尾羽が小さく揺れた。
「今日も、よく揺れるわね」
エマが言った。
「尾羽が長いからでしょうか」
リアナは店先の花鉢を少し奥へ寄せながら答えた。
「それもあるけど、風よ。春灯祭の日なのに、落ち着かない風だわ」
エマの声には、いつもの明るさがありながら、少しだけ心配も混じっていた。
通りには、朝から人が増えている。
祭りの日らしく、露店の準備をする者。
家族で藁細工を運ぶ者。
火に入れる前にもう一度願いを込めるように、軒先の飾りへ手を添える者。
だが、空は暗かった。
雨は強くない。
それでも、降ったりやんだりを繰り返し、風が吹くたびに通りの人々は空を見上げた。
春を迎える日というより、何かを待っている日のようだった。
リアナは北東の空へ目を向ける。
遠くで、また白い光が走った。
音は届かない。
けれど、足元の奥には、細く張り詰めたものが残っている。
昨日よりも、さらに近い。
近い、というより、こちらへ届きやすくなっている。
そんな感じだった。
「リアナ」
エマが声を掛ける。
「また怖い顔」
「すみません」
「謝ることじゃないけど」
エマは少しだけ笑う。
「でも、お客さんの前では少しだけ柔らかくね。春灯祭なんだから」
「はい」
リアナは頷いた。
その時、通りの向こうから一人の男が歩いてくるのが見えた。
派手な服ではない。
町の者に紛れるような、落ち着いた外套姿だった。
だが、歩き方はまっすぐで、視線に迷いがない。
昨日、フィーナの外出前に報告へ来た者とは別の人物だったが、王城の使いだとすぐに分かった。
男はリリエの前で足を止め、軽く頭を下げた。
「リアナ・エルム様」
「はい」
リアナは店先へ出た。
エマも少しだけ姿勢を正す。
男は声を低くした。
「王城より参りました。フィーナ様の件で、ご連絡がございます」
リアナの胸の奥が、ほんの少しだけ強張った。
「フィーナ様に、何か?」
「ご心配には及びません。フィーナ様ご自身はお変わりなくお過ごしです」
その言葉に、リアナは小さく息を吐いた。
「ただし、本日の春灯祭について、昼間の市中参加は見送られることになりました」
エマが小さく「あら」と声を漏らす。
リアナは静かに頷いた。
「天候のためですか」
「はい。天候不良に加え、人出も多くなっております。王城としては、安全を優先する判断となりました」
男は言葉を選んでいた。
天候。
人出。
安全。
どれも嘘ではない。
だが、それだけではない。
リアナには分かっていた。
王城も神殿も、別のものを警戒している。
それを民間の花屋へすべて話すわけにはいかないだけだ。
「フィーナ様は、残念がられているでしょうね」
エマが言った。
男は少しだけ表情を和らげた。
「はい。ですが、夜の焚き上げについては、遠目から短時間だけご覧になる許可が出ております」
「遠目から」
リアナが繰り返す。
「中央広場には近付かず、警護しやすい位置から春の火をご覧になる予定です」
「そうですか」
リアナは軒下の鳥を見た。
フィーナは、あの鳥が燃えるところを見たいと言っていただろうか。
遠くからでは、形までは分からないかもしれない。
けれど、火は見える。
願いがそこへ入っていくことは、きっと分かる。
「それで」
男は少しだけ姿勢を改めた。
「フィーナ様より、こちらの藁細工について伝言を預かっております」
「鳥のことですか」
「はい」
男の視線が、軒下の鳥へ向く。
その顔に、ほんのわずかな戸惑いが浮かんだ。
長い尾羽を見たせいかもしれない。
だが、すぐに真面目な表情へ戻る。
「リリエの藁細工と共に、春の火へ届けてほしい、とのことです」
リアナは鳥を見つめた。
昨日、フィーナが大事そうに抱えてきた鳥。
尾羽が潰れないよう、慎重に包まれていた鳥。
戻ってくる鳥。
遠くへ願いを届けて、ちゃんと帰ってくる鳥。
「承りました」
リアナは静かに答えた。
「リリエの兎と一緒に、必ず春の火へ持っていきます」
エマも頷く。
「大切に預かっています、と伝えてください」
「かしこまりました」
男は頭を下げる。
それから少し迷ったように、もう一度鳥を見た。
「フィーナ様は、その鳥の尾羽が折れていないかも気にされておりました」
エマが微笑む。
「大丈夫ですよ。今のところ、立派に揺れています」
「立派に、ですか」
男は少しだけ困ったような顔をした。
リアナは小さく笑う。
「フィーナ様には、尾羽も翼も無事です、とお伝えください」
「承知しました」
男はもう一度礼をし、通りへ戻ろうとした。
だが、そこで足を止める。
「それと」
リアナは顔を上げた。
男の声が、少しだけ低くなる。
「本日は、天候が急変する可能性があります。王城から市中にも注意喚起が出る予定です。焚き上げの際は、広場の指示に従い、無理をなさらぬようにとのことです」
「分かりました」
「祭りを楽しみにしている方々へ、不安を広げる意図はありません。ただ、火を扱う行事でもありますので」
「はい」
リアナは男の言葉を遮らずに聞いた。
火だけではない。
おそらく、彼も全てを知っているわけではない。
それでも、王城から伝えられる範囲で、注意を届けに来たのだろう。
「お気遣いありがとうございます」
リアナがそう言うと、男は少しだけ目を伏せた。
「フィーナ様が、こちらを大切に思っておられますので」
その言葉に、リアナは一瞬黙った。
エマも、優しい目で鳥を見る。
「そうですか」
リアナは静かに答えた。
「では、なおさら無事に届けないといけませんね」
「よろしくお願いいたします」
男は頭を下げ、今度こそ通りの人混みに紛れていった。
その背中が見えなくなるまで、リアナは見送った。
エマが小さく息を吐く。
「昼間は出られないのね」
「はい」
「残念でしょうね」
「きっと」
リアナは軒下の鳥へ手を伸ばし、尾羽の向きを少しだけ整えた。
藁の感触は軽い。
けれど、フィーナの願いが込められていると思うと、少し重く感じた。
「夜の火は見られるそうです」
「遠くからでも、あの子には嬉しいでしょうね」
「はい」
リアナは鳥を見ながら頷いた。
「この鳥が火に入るところまでは、見えないかもしれません。でも、火は見える」
「なら、ちゃんと飛ばしてあげないとね」
エマが言った。
「遠くからでも、分かるくらいに」
「尾羽が長いので」
リアナがそう言うと、エマは笑った。
「そこは役に立つのね」
「たぶん」
二人の間に、ほんの少しだけ穏やかな空気が戻った。
だが、すぐに北東の空がまた白く光る。
今度は、少し遅れて低い音が届いた。
通りの人々が顔を上げる。
誰かが「今日も鳴るな」と呟いた。
また別の誰かが、「夜までには止むといいが」と言う。
日常の会話。
祭りの日の心配。
そのすぐ下に、まだ名前の付かない不安が流れている。
リアナは鳥から手を離し、空を見た。
「リアナ」
エマが静かに呼ぶ。
「はい」
「夜、広場へ持っていく時は、私も一緒に行くわ」
「店は?」
「早めに閉める。春灯祭の日だもの」
エマは軒下の兎を見る。
「それに、その子達を火へ預けるのは、一人より二人の方がいいでしょう」
リアナは少しだけ目を細めた。
「ありがとうございます」
「お礼を言うところじゃないわ」
エマは軽く肩をすくめる。
「私も、うちの兎を見送りたいの」
その時、店の奥から小さな物音がした。
昨日の夕方から一時的に置かれている、サラの春抱き獣が、台の上で少し傾いている。
エマがそちらを見る。
「……あれは、結局どうなったのかしら」
「サラさんが、ラルカ亭の店長さんと交渉すると言っていました」
「まだ迎えに来てないわね」
「交渉が長引いているのかもしれません」
「それとも、負けたのかもしれないわ」
リアナは春抱き獣を見た。
四本の脚。
翼。
片方だけ長い角。
腹に抱えた、温かいもの。
不思議な形ではある。
だが、フィーナが言ったように、願いは分かる。
「もし夜までにサラさんが来なければ」
リアナは言った。
「一緒に連れていきましょうか」
エマはしばらく春抱き獣を見つめた。
「……春の火が驚かないかしら」
「春の火なら、受け入れてくれると思います」
「そうね。春灯祭の火だもの」
エマは苦笑した。
「どんな形でも、願いが込められていれば燃やしてくれるわね」
リリエの軒下では、兎と鳥が風に揺れている。
店内では、春抱き獣が台の上で妙な存在感を放っている。
外では、祭りの準備が続いている。
空は暗く。
遠くでは雷が光り。
地面の奥には、細い不安定さが残っている。
それでも、願いを火へ託す準備は、少しずつ進んでいた。
リアナは軒下の鳥をもう一度見た。
「夜まで、無事に待っていてくださいね」
小さくそう呟く。
風が吹いた。
長い尾羽が、かさりと揺れる。
まるで、分かっていると答えるように。
昼を過ぎる頃には、王都の通りはすっかり祭りの色に染まっていた。
空は相変わらず重い。
雨も、思い出したように細く降る。
けれど、それで人の流れが止まることはなかった。
むしろ人々は、空模様も春灯祭の一部だと言わんばかりに、外套の襟を立て、屋台の軒布の下へ潜り込み、笑いながら通りを行き交っていた。
「そっち、濡れるぞ」
「大丈夫、大丈夫。串焼きが冷める方が困る」
「子どもを見てて。あ、こら、走らない!」
「お父さん、あれ見たい!」
「順番だ、順番」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
中央広場へ続く大通りには、朝から屋台が並んでいた。
焼いた肉の匂い。
甘く煮た果物の匂い。
揚げ菓子の油の匂い。
香草を浮かべた温かいスープの湯気。
湿った風に混じって、それらが通りいっぱいに広がっている。
屋台の布屋根は、風で膨らんだりしぼんだりしていた。
そのたびに、吊るされた小さな飾りが揺れる。
鳥。
魚。
麦の束。
丸い牛。
ひょろ長い馬。
何の動物か分からないが、作った者が大事そうに飾ったらしいもの。
どの屋台にも、それぞれ藁細工が置かれていた。
串焼きの屋台には、牙の大きな猪。
肉がよく売れるように、という願いらしい。
菓子の屋台には、丸々とした兎が三匹並んでいた。
甘いものを食べて、子ども達が笑うように。
布を売る屋台には、細い藁で作られた羊が飾られている。
少し形は崩れていたが、背中に小さな布切れが結ばれていた。
香草茶の屋台には、翼を広げた鳥。
雨除けのために屋台の奥へ引っ込められていたが、客が来るたびに店主が誇らしげに指差して説明している。
「今年のは妻が作ったんだ。去年より鳥に見えるだろう」
「去年は何だったの?」
「鳥だ」
「去年も?」
「去年も鳥だ」
近くで聞いていた客が笑う。
店主も笑う。
雨粒が屋台の布を叩く音に、笑い声が重なった。
子ども達は、濡れた石畳を避けるように跳ねながら進んでいる。
時々、水たまりを踏んで叱られる。
叱られた後も、すぐに別の屋台へ目を輝かせる。
大人達は、買ったものを紙包みに入れたり、濡れないよう外套の内側へしまったりしながら、それでも足を止めない。
空は暗い。
風も冷たい。
それでも、王都は確かに祭りの日だった。
リリエも、昼過ぎにはいつもより早く店を閉める準備に入っていた。
祭りの日は、花を買う客も多い。
午前中は、春の火へ向かう前に花を飾りたいという客が何人も訪れた。
小さな花束。
窓辺へ置く鉢植え。
藁細工のそばへ添える一輪。
エマは忙しく動き回り、リアナも花を束ね続けた。
ようやく客足が落ち着いた頃、エマは腰に手を当てて息を吐いた。
「祭りの日は、やっぱり忙しいわね」
「はい」
リアナは最後の花束を包み終える。
「でも、皆さん楽しそうでした」
「空が悪い分、余計に楽しもうとしているのかもしれないわ」
エマは店先を見た。
軒下では、花を抱えた兎と、フィーナの鳥が並んでいる。
長い尾羽は、風を受けて何度も揺れていた。
まるで、本当に飛び立つタイミングを待っているようだった。
「さて」
エマは手を叩いた。
「そろそろ、この子達も準備しましょうか」
リアナは頷き、藁の兎へ手を伸ばした。
その時。
店の奥から、ごとり、と小さな音がした。
二人は同時に振り向く。
台の上に置かれていた春抱き獣が、また少し傾いていた。
四本の脚で踏ん張っているのに、どこか不安定だった。
エマが目を細める。
「……この子、自己主張が強いわね」
「連れていってほしいのかもしれません」
「サラは結局、迎えに来なかったわね」
「ラルカ亭の方も忙しいでしょうから」
「それとも、交渉に負けたのかしら」
リアナは少しだけ考えた。
春抱き獣の腹には、温かいスープの気持ちが入っている。
焼きたてのパンの匂いも。
客が笑って帰る時の嬉しさも。
ならば、春の火へ連れていかない理由はなかった。
「一緒に持っていきましょう」
リアナが言うと、エマは笑った。
「そうね。置いていったら、後でサラが大騒ぎしそうだもの」
二人は兎と鳥と春抱き獣を、それぞれ布に包んだ。
ただし、フィーナの鳥だけは尾羽を潰さないよう、少し大きめに包む。
春抱き獣は、どこを持てばよいのかしばらく迷った。
結局、リアナが腹の下を支え、エマが角と翼を押さえることになった。
「本当に、入口に置かなくてよかったかもしれないわ」
エマが呟く。
「持って歩くだけで、少し目立ちますね」
「少し?」
「……かなり」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
店を閉め、三つの藁細工を抱えて通りへ出る。
すぐに祭りの音が近付いてきた。
普段なら通り過ぎるだけの道にも、今日は小さな屋台が出ている。
子どもが木の笛を吹き、大人がそれを少し迷惑そうにしながらも笑っている。
香辛料をまぶした焼き芋を売る老人の屋台には、藁で作った丸い根菜のようなものが飾られていた。
「それは何ですか?」
近くの客が尋ねる。
老人は胸を張った。
「豊作の芋だ」
「芋なんですか」
「芋だ」
「脚があるように見えますが」
「よく育つ芋は歩く」
周囲の客がどっと笑う。
その横では、若い娘達が髪飾りを選んでいる。
花を模した小さな飾りを髪に当て、友人同士で似合うかどうか言い合っていた。
別の屋台では、子どもが親にねだって木彫りの小鳥を買ってもらっている。
その小鳥を胸に抱えながら、彼は屋台の前に飾られた藁の大鳥を見上げた。
「こっちの方が強そう」
「それは売り物じゃないよ」
店主が笑って答える。
「春の火へ持っていくんだ」
「燃やしちゃうの?」
「願いを運んでもらうためにな」
子どもは少しだけ考えて、それから真剣に頷いた。
「じゃあ、強い方がいい」
「そうだろう?」
店主は満足そうだった。
リアナはその横を通り過ぎながら、包みの中の鳥を少しだけ見た。
フィーナの鳥も、きっと強い。
尾羽が長くて、少し不格好で、けれど願いを遠くまで運ぶ鳥。
そう思うと、腕の中の包みが少しだけ温かく感じた。
大通りに近付くほど、人は増えていった。
肩が触れ合うほどではないが、いつもの王都よりずっとにぎやかだった。
雨のせいで道の端には水たまりができている。
それを避けながら歩く者。
あえて踏んで叱られる子ども。
屋台の布から落ちる雨粒を避けようとして、別の屋台の客とぶつかり、互いに笑って謝る者。
祭りの騒がしさは、綺麗に整ったものではなかった。
あちこちで声が重なり、匂いが混ざり、足音が濡れた石畳に跳ねる。
けれど、その雑多さそのものが春灯祭だった。
冬が終わる。
新しい季節が来る。
そのために、人々は家から出て、願いを手に持ち、火のある場所へ向かう。
空が悪くても。
風が冷たくても。
それは変わらない。
「リアナ、少しこっち」
エマが声を掛ける。
人の流れを避けて、二人は屋台の間へ入った。
そこでは、小さな揚げ菓子が売られていた。
丸く揚げた生地に蜜をかけ、砕いた木の実をまぶしている。
甘い匂いが、雨の匂いを一瞬忘れさせた。
「せっかくだから、少し買いましょう」
「春抱き獣を持ったままですか?」
「だからこそよ。サラの分も」
エマは当然のように言った。
「どうせ広場で会うでしょう」
「そうですね」
リアナは春抱き獣を抱え直した。
屋台の店主が、包みから少しだけはみ出した角を見て、目を丸くする。
「それも藁細工ですか?」
「はい」
リアナが答える。
「春抱き獣です」
店主はしばらく黙った。
「……ご利益がありそうですね」
「あります」
エマが即答した。
「温かいものを運ぶ獣です」
「それはいい」
店主は笑った。
「うちの揚げ菓子も、運んでもらいたいくらいだ」
「この子は、スープ向きらしいです」
「なるほど。では、甘いものは別の獣が必要だな」
店主は冗談めかして言いながら、紙包みに揚げ菓子を入れた。
その屋台の端にも、藁細工が飾られている。
小さな狐のような形だった。
尾が三つあり、それぞれに細い紐が結ばれている。
「その狐も、春の火へ?」
リアナが尋ねると、店主は頷いた。
「ええ。甘いものが売れますように、家族が風邪を引きませんように、それから今年こそ息子が早起きしますように」
「三つの尾は、その願いですか」
「そうです」
エマが笑う。
「最後の願いが一番難しそうね」
「まったくです」
店主は大きく頷いた。
近くで手伝っていた少年が、むっとした顔をする。
「起きてるよ」
「祭りの日だけな」
周囲の客がまた笑った。
リアナは紙包みを受け取り、エマと共に再び大通りへ戻る。
人々の声。
屋台の灯り。
濡れた石畳に映る色。
空は灰色なのに、通りだけは明るかった。
まだ昼だというのに、屋台のいくつかは小さな灯りを吊るしている。
雨雲のせいで暗くなった通りを照らすためだった。
その灯りが、風に揺れる藁細工の影を壁へ映している。
鳥の影が羽ばたき。
鹿の角が伸び。
牛の丸い身体が揺れ。
何か分からない獣が、壁の上で妙に大きく見えた。
「今年は、変わった形が多いわね」
エマが言った。
「サラさんの影響でしょうか」
「それは困るわ」
「でも、皆さん楽しそうです」
「それは良いことね」
エマは通りを見回した。
「形が上手くても下手でも、願いを込めて作ったなら、それで春灯祭だもの」
リアナは頷いた。
その言葉は、この騒がしい通りによく合っていた。
見本通りの鳥。
丸すぎる兎。
歩く芋。
三本尾の狐。
春抱き獣。
どれも形は違う。
けれど、そのどれにも、誰かの願いが入っている。
健康でありますように。
店が賑わいますように。
遠くへ行った人が戻りますように。
子どもが笑いますように。
温かい食事がありますように。
その願いが、王都中から中央広場へ集まっていく。
「リアナちゃーん!」
人混みの向こうから、聞き慣れた声がした。
見ると、サラが手を振っている。
片手には串焼き。
もう片方の手には、湯気の立つ紙杯。
ラルカ亭の給仕服の上に祭り用の前掛けを付け、いつも以上に忙しそうだった。
その後ろには、ラルカ亭の簡易屋台が出ている。
煮込み料理と温かいパンを売っているらしい。
屋台の端には、藁で作った小さな鍋のようなものが飾られていた。
そして、その横には空きスペースがある。
サラはリアナ達の荷物を見て、目を輝かせた。
「春抱き獣!」
「迎えに来なかったので、連れてきました」
リアナが言うと、サラは少しだけ目を逸らした。
「交渉が長引いて」
「負けたの?」
エマが尋ねる。
「負けてない」
サラは串焼きを掲げた。
「お会計の横は許可された。入口はだめだった」
「それは勝ったと言えるのかしら」
「半分勝ち」
サラは胸を張る。
「でも、春の火には連れていくから。ちゃんと願いを運んでもらう」
「では、それまでは?」
「ここ!」
サラは屋台の端の空きスペースを指差した。
「ラルカ亭の屋台で、お客さんを見守ってもらう」
エマは屋台を見た。
入口ではない。
屋台の端。
食べ物を受け取った客が、少し横へずれた時に目に入る位置。
確かに、フィーナが言った通りだった。
食事の前ではなく、温かいものを手にした後に見る場所。
「良い場所ですね」
リアナが言うと、サラは嬉しそうに頷いた。
「でしょ? フィーナちゃんの案、採用」
言ってから、はっと口を押さえる。
「ちゃんって、また言った」
「今日はここにはおられませんから」
リアナが小さく笑う。
「でも、夜の焚き上げは遠くから見られるそうです」
サラの表情が明るくなった。
「本当?」
「はい」
「じゃあ、春抱き獣もちゃんと燃えるところ見せないと」
「遠くからでは、形までは見えないかもしれません」
「大丈夫」
サラは自信満々に言った。
「この子は火に入ったら、たぶん目立つ」
「燃え方で?」
「存在感で」
エマが笑った。
リアナも、少しだけ笑う。
ラルカ亭の屋台では、店長が大鍋をかき混ぜていた。
こちらに気付くと、春抱き獣を見て一瞬だけ眉を上げる。
だが、何も言わない。
サラが慌てて声を上げた。
「店長! ここに置くね!」
「倒すなよ」
「許可出た!」
「倒すなと言っただけだ」
「つまり許可!」
店長はため息を吐いた。
だが、止めなかった。
サラは満面の笑みで春抱き獣を受け取り、屋台の端へ慎重に置いた。
四本の脚。
翼。
片方だけ長い角。
腹の膨らみ。
湯気の立つ鍋の隣に置かれると、不思議と似合って見えた。
通りが騒がしいからか。
祭りだからか。
それとも、春抱き獣自身が、ようやく居場所を得たからか。
少なくとも、昨日リリエの台の上に置かれていた時より、少し誇らしげに見えた。
「ほら」
サラが得意そうに言う。
「やっぱり、ラルカ亭の子だ」
「よかったですね」
リアナが答える。
その横を、客が通りかかった。
春抱き獣を見て、足を止める。
「これは?」
サラがすぐに胸を張った。
「春抱き獣です。温かいものを運びます」
客は少し考えた。
「……じゃあ、煮込みを一つ」
「はい!」
サラの顔が輝く。
「ほら! 売れた!」
店長が鍋をかき混ぜながら言った。
「祭りの日だからだ」
「春抱き獣のおかげもある!」
「はいはい」
そのやり取りを聞いて、周囲の客が笑った。
ラルカ亭の屋台の前には、また数人が並び始める。
温かい湯気。
笑い声。
藁細工。
雨の匂い。
リアナはその光景を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
天候は悪い。
空は重い。
けれど王都の人々は、ただ不安に沈んでいるわけではなかった。
雨なら雨で、軒下へ寄る。
風なら風で、飾りを結び直す。
寒ければ、温かいものを飲む。
それでも祭りを楽しむ。
それが、この街の人々だった。
「リアナ、広場へ行きましょう」
エマが言った。
「兎と鳥を、春の火の近くへ預けに」
「はい」
リアナは頷いた。
サラが手を振る。
「後で行く! 春抱き獣も連れていくから!」
「忙しそうですが、大丈夫ですか?」
「大丈夫。店長がいる」
「サラ、お前も働け」
「働いてる!」
サラの声を背に、リアナとエマは再び中央広場へ向かって歩き出した。
人の流れは、広場へ向かうほど太くなる。
誰もが手に、あるいは腕に、願いを抱えていた。
藁細工。
花。
小さな灯り。
子どもの手。
年老いた親の腕。
祭りの熱気は、湿った空気を押し返すように広がっていた。
遠くから、太鼓の音が聞こえ始める。
春の火が組まれた中央広場は、もう近かった。
中央広場へ近付くにつれて、太鼓の音ははっきりとしたものになっていった。
どん。
どん。
少し間を置いて、またどん、と低く響く。
祭りの始まりを知らせる音ではない。
夜の焚き上げへ向けて、人々の気持ちを少しずつ広場へ集めるための音だった。
通りの先が開ける。
石畳の大通りを抜けた先に、中央広場が見えた。
普段は市場や集会に使われる広い場所が、今日は春灯祭のためにすっかり姿を変えている。
広場の中心には、大きな薪組みがあった。
丸太を井桁に組み、その周りに細い枝と乾いた藁束が重ねられている。
雨に濡れないよう、上には布が掛けられていたが、火入れの前には外されるのだろう。
薪組みの周囲には、縄が張られている。
火の近くへ人が入りすぎないようにするためだ。
その外側に、藁細工を預けるための長い机が並んでいた。
「すごい数ですね」
リアナが呟く。
机の上には、すでにたくさんの藁細工が置かれていた。
鳥。
鹿。
馬。
兎。
牛。
魚。
麦束。
家の形をしたもの。
小さな船。
何かの道具。
どの分類にも入らない、不思議な形のもの。
それらが、隙間なく並んでいる。
係の者達が一つずつ受け取り、家名や店名を確認しながら、焚き上げの順に分けていた。
「こちらは商店通りの分ですね」
「家族用はあちらへお願いします」
「濡れないよう、布の下へ」
「紐がほどけかけていますよ。少し直しましょう」
広場の一角では、祭りの手伝いをする若者達が忙しく動いている。
濡れた外套の袖をまくり、藁細工を受け取り、並べ、時々落ちそうになった飾りを慌てて支える。
それでも皆、どこか楽しそうだった。
「毎年こうなのよ」
エマが言った。
「昼間は預けに来る人でいっぱいになるの。夜になったら、あれを少しずつ春の火へ入れていくのよ」
「全部、燃やすのですね」
「ええ。形は残らないけど、願いは残るって言われているわ」
リアナは腕の中の包みを見る。
フィーナの鳥。
リリエの兎。
二つとも、今は布の中で静かにしている。
「では、預けましょうか」
「そうね」
二人は列へ並んだ。
前にいた親子は、小さな鹿を抱えていた。
子どもが両手で大事そうに持っている。
鹿の角には赤い紐が巻かれていて、片方だけ少し曲がっていた。
「ちゃんと燃える?」
子どもが不安そうに尋ねる。
父親が笑う。
「燃えるよ」
「角も?」
「角も」
「曲がってても?」
「曲がってる方が、火が入りやすいかもしれない」
「そうなの?」
「たぶん」
子どもは少し考え、それから納得したように頷いた。
「じゃあ大丈夫」
それを聞いて、エマが小さく笑った。
リアナも少しだけ表情を緩める。
春灯祭の日の王都には、そんな会話がいくつもあった。
曲がった角。
丸すぎる身体。
長すぎる尾。
左右で違つもあった。
曲がった角。
丸すぎる身体。
長すぎる尾。
左右で違う翼。
上手く出来なかったところも、いつの間にかその人だけの意味になっていく。
やがて、リアナ達の番が来た。
係の若者が顔を上げる。
「リリエさんですね」
「はい」
エマが布をほどく。
まず、花を抱えた兎が現れた。
若者は笑顔になる。
「今年は兎ですか」
「花束付きよ」
「いいですね。耳が大きい」
「そこは、よく聞く兎なの」
エマはすぐに答えた。
若者は納得したように頷く。
「春の足音を、ですか」
「そういうこと」
エマは少し得意そうだった。
リアナは、もう一つの包みを慎重にほどいた。
フィーナの鳥が現れる。
長い尾羽が、布の中からふわりと出た。
係の若者は、一瞬その尾羽を見て、それから顔を上げる。
「こちらも、リリエさんの?」
「預かりものです」
リアナは答えた。
「大切な方が作られた鳥です。リリエの兎と一緒に、春の火へ届けてください」
「分かりました」
若者は真面目に頷いた。
それから、鳥を両手でそっと受け取る。
尾羽を潰さないように、少し持ち方を変えた。
「よく飛びそうな鳥ですね」
リアナは少しだけ笑った。
「はい。遠くまで飛ぶ鳥です」
「では、兎の隣へ置いておきます」
若者は、机の上に布を敷き、兎と鳥を並べた。
花を抱えた兎。
長い尾羽の鳥。
二つは、リリエの軒下にあった時と同じように、広場の机の上で並んだ。
少し離れた場所には、他の店の藁細工もある。
菓子屋の三匹兎。
香草茶の鳥。
歩く芋。
三本尾の狐。
見知らぬ誰かが作った小さな家。
それらの間に、リリエの兎とフィーナの鳥が加わる。
王都中の願いの中に、そっと混ざっていった。
リアナはしばらく、それを見ていた。
「大丈夫よ」
エマが隣で言う。
「あの子の鳥、ちゃんと目立ってる」
「尾羽が長いので」
「ええ。とても」
二人は顔を見合わせて、少し笑った。
広場の反対側では、屋台がさらに賑わっている。
楽器を持った者達が、太鼓に合わせて笛を吹き始めた。
細く高い音が、湿った空の下を抜ける。
子ども達が足を止める。
大人達も、買い物の手を止めてそちらを見る。
簡単な踊りが始まった。
輪になるほど広くはない。
屋台と人の間にできた小さな空間で、若者達が足を踏み鳴らし、手を打ち、笑いながら踊っている。
見ていた子どもが真似をする。
すぐに失敗して、周囲が笑う。
別の子どもが加わる。
大人が手拍子を始める。
雨粒が少し落ちてきたが、誰もすぐには逃げなかった。
屋台の布の下へ半分入りながら、それでも踊りを見続ける。
「今年は天気が悪いのに、いつもより騒がしいかもしれないわね」
エマが言った。
「そうなのですか?」
「こういう日は、静かにしていると余計に空を見てしまうでしょう」
エマは広場を見回した。
「だから、みんな騒ぐのかもしれないわ」
リアナも人々を見る。
確かに、誰も空を忘れているわけではない。
風が強く吹けば、皆が一度は顔を上げる。
遠くで光れば、何人かがそちらを見る。
けれど、すぐに笑い声へ戻っていく。
不安がないのではない。
不安だけにしないようにしている。
それが、この広場の熱気だった。
「リアナちゃん!」
背後からまた声がした。
振り返ると、サラが人混みをかき分けてやって来るところだった。
両手で春抱き獣を抱えている。
ラルカ亭の屋台はどうしたのかと思ったが、後ろから店長が大鍋を別の者に任せて歩いてきていた。
どうやら、焚き上げに出すための時間をもらえたらしい。
「間に合った!」
サラは息を弾ませて言った。
「春抱き獣も、ちゃんと預ける!」
「ラルカ亭は大丈夫ですか?」
リアナが尋ねると、サラは胸を張った。
「店長が、五分だけ行ってこいって」
後ろの店長が言う。
「五分で戻れ」
「ほら」
「ほらじゃない」
店長は呆れたようにため息を吐いた。
だが、その手には小さな藁細工があった。
藁で作った鍋だった。
ラルカ亭の屋台に飾られていたものだ。
「店長も出すんですね」
エマが言うと、店長は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「店のものだからな」
「私の春抱き獣も店のものです」
サラがすかさず言う。
「お前のは、お前のだ」
「ラルカ亭の子でもある」
「まあ、そこは否定しない」
サラの顔がぱっと明るくなった。
「聞いた? 否定しないって!」
「よかったですね」
リアナが答える。
春抱き獣は、サラの腕の中で堂々としている。
少なくとも、そう見えた。
預け台の係は、春抱き獣を見て、少しだけ動きを止めた。
「……これは」
「春抱き獣です」
サラが胸を張る。
「温かいものを運び、悪いものを追い払い、お客さんの胃袋を温め、ラルカ亭の売り上げを上げます」
係の若者は、真剣に聞いていた。
少しだけ困ったような顔をしながらも、頷く。
「願いが多いですね」
「はい」
「分かりました。大切に預かります」
若者は春抱き獣を受け取ろうとして、どこを持つべきか迷った。
リアナはその気持ちが分かった。
サラが慣れた手付きで、腹の下と翼の根元を示す。
「ここを持つと安定します」
「ありがとうございます」
若者は慎重に春抱き獣を受け取り、机の上へ置いた。
一瞬、周囲の藁細工が少しだけ押される。
慌てて位置を整える。
結局、春抱き獣はリリエの兎とフィーナの鳥から少し離れた場所に置かれた。
けれど、同じ列の中にはいた。
サラは満足そうに頷く。
「よし」
「ちゃんと預けられましたね」
リアナが言う。
「うん。これでフィーナちゃんにも見せられる」
「遠くからですが」
「大丈夫。存在感で届く」
サラは相変わらず自信満々だった。
その時、広場の中央で太鼓の音が大きくなった。
どん。
どん。
どん。
人々のざわめきが、少しずつ中心へ向く。
広場の係が、薪組みの上に掛けられていた布を外し始めた。
周囲から歓声が上がる。
まだ火は入っていない。
けれど、太い薪と藁束が姿を現しただけで、祭りが夜へ向かって動き始めたのが分かった。
「そろそろ、焚き上げの準備ね」
エマが言った。
「火入れは夕暮れからでしたよね」
「ええ。暗くなり始めた頃に神官さんが来て、春の火を灯すの」
「まだ少し時間がありますね」
「その前に、何か温かいものを飲みましょう」
サラが言った。
「ラルカ亭のスープ!」
「働きに戻るのでは?」
リアナが尋ねる。
「戻るよ。戻って売るの」
店長が後ろから言った。
「なら早く戻れ」
「はーい」
サラは返事だけは良かった。
四人は人の流れに乗って、広場の端へ戻っていく。
太鼓の音。
笛の音。
屋台の呼び声。
雨を弾く布の音。
人々の笑い声。
すべてが混ざって、中央広場は昼よりもさらに熱を帯びていた。
空は暗いままなのに、広場は明るかった。
誰かが灯した小さなランプが、屋台の軒下に並んでいく。
濡れた石畳に、その灯りが映る。
赤。
橙。
黄色。
揺れる光の中で、藁細工達が静かに夜を待っていた。
リアナは一度だけ振り返った。
机の上。
王都中の願いの中に、フィーナの鳥がある。
尾羽はやはり長く、少し離れていても分かった。
火が灯れば、あの鳥も燃える。
願いを運ぶために。
遠くで見ているフィーナへ届くように。
リアナはそう思いながら、広場の熱気の中へ戻っていった。
夜になっても、空模様は変わらなかった。
雲は低く、王都の上に厚く垂れ込めている。
雨は強くはない。
けれど、細い糸のように降ったりやんだりを繰り返し、風が吹くたびに屋台の布屋根がばさりと鳴った。
それでも、中央広場の熱は昼よりも増していた。
屋台の灯りが、広場を囲むように並んでいる。
焼き物の煙。
揚げ菓子の甘い匂い。
香草入りの温かいスープの湯気。
濡れた石畳に映る橙色の灯り。
その間を、人々が肩を寄せ合うように歩いていた。
「こっち、まだ空いてるぞ」
「子どもを前に入れてやって」
「火が見える場所、取れた?」
「父さん、あれ燃えるの?」
「ああ、もうすぐだ」
「私の兎、どこにあるかな」
「ちゃんと係の人が持っていってくれるよ」
あちこちで声が重なる。
笑い声。
呼び込みの声。
笛の音。
太鼓の音。
雨音すら、その騒がしさの中に混ざっていた。
天候が悪いことを、誰も忘れてはいない。
時折、北東の空が白く光れば、人々は一瞬だけそちらを見る。
けれどすぐに、誰かが冗談を言い、子どもが屋台を指差し、店主が大声で客を呼ぶ。
不安を押し消すというより。
その上に、祭りの熱気を重ねているようだった。
広場の中心では、昼間まで布を掛けられていた薪組みが、すでに姿を現している。
太い丸太。
細い枝。
乾いた藁束。
その周囲には、昼の間に預けられた藁細工が、焚き上げの順に並べられていた。
係の者達が、雨に濡れないよう布を掛けたり外したりしながら、最後の確認をしている。
リリエの兎も。
フィーナの鳥も。
サラの春抱き獣も。
その中にあった。
リアナは広場の端から、それを見ていた。
人混みの向こうなので、細かな形までは見えない。
けれど、フィーナの鳥の長い尾羽だけは、灯りの中でかすかに分かった。
あの尾羽は、やはり目立つ。
「見える?」
隣でエマが尋ねる。
「はい。尾羽だけ」
「充分よ。あの子も遠くからなら、火は見えるでしょうし」
リアナは頷いた。
フィーナは昼の祭りには来られなかった。
けれど、夜の焚き上げだけは、王城側から遠目に見ることを許されたと聞いている。
この広場のどこかではない。
人々の輪の外。
警護に囲まれた、離れた場所。
それでも、春の火は見えるはずだった。
「リアナちゃん、エマさん!」
人混みを抜けて、サラが駆け寄ってきた。
片手に紙杯を二つ。
もう片方の手にも紙杯を一つ。
肩で息をしながら、器用にこぼさず運んでいる。
「温かいスープ、持ってきた!」
「仕事は?」
エマが尋ねる。
「今、店長が鍋の前にいる」
「つまり抜けてきたのね」
「焚き上げ前だから、特別!」
サラはそう言って、紙杯を差し出した。
湯気が立つ。
香草と肉の匂いが、冷たい風の中でふわりと広がった。
リアナは両手で受け取る。
温かさが指先に伝わる。
「ありがとうございます」
「春抱き獣の本番だからね」
サラは広場中央を見た。
「ちゃんと見届けないと」
「形は見えますか?」
リアナが尋ねると、サラは目を細めて人混みの向こうを見る。
「……たぶん、あの辺」
「見えていませんね」
「存在は感じる」
エマが笑った。
「それは分かる気がするわ」
サラは満足そうに頷いた。
広場の太鼓が、一段大きく鳴った。
どん。
どん。
どん。
さっきまでばらばらに揺れていた人の声が、少しずつ静まっていく。
屋台の呼び込みも、小さくなる。
子ども達が親に抱き上げられ、背の低い者は前へと促される。
広場の中心。
薪組みの前に、神殿の神官達が進み出た。
白と淡い灰色の祭礼衣。
雨を避けるための外套を羽織っているが、その胸元には春灯祭の印が掛けられている。
若い神官達が左右に並び、中央には年配の神官が立った。
その後ろには、王城からの使者も控えている。
手には、巻かれた祝辞の書状があった。
太鼓が止む。
一瞬、広場が大きな器のように静かになった。
雨音だけが残る。
年配の神官が、一歩前へ出た。
「王都に集う皆様」
声は大きすぎず、けれど不思議と広場の隅まで届いた。
「今年も、春灯祭の夜を迎えました」
人々が静かに聞いている。
屋台の灯りが風に揺れる。
薪組みの上の藁束が、まだ火を待っている。
「冬は、長く、冷たく、時に厳しい季節です。土は眠り、木々は葉を落とし、人は家の灯りを頼りに日々を越えます」
神官はゆっくりと言葉を続けた。
「けれど、春は必ず訪れます。雪や霜が去り、土は息を吹き返し、芽は土を割り、花は開く。私達はその訪れを祝い、また、新しい年の歩みを始めるために、この火を灯します」
誰かが、胸に手を当てた。
子どもが母親の袖を握る。
広場に集められた藁細工達が、灯りの中で静かに並んでいる。
「皆様が作られた藁細工には、それぞれの願いが込められています」
神官は、並べられた藁細工へ視線を向けた。
「家族の健やかさ。店の繁盛。遠くにいる者の無事。新しい命の誕生。良き出会い。良き帰り道。今日の食卓が温かいこと。明日の朝を、穏やかに迎えられること」
サラが、少しだけ春抱き獣の方を見ようと背伸びした。
エマは静かに笑う。
リアナは、フィーナの鳥を思い浮かべた。
願いを遠くへ届けて、ちゃんと戻ってくる鳥。
「願いとは、必ず叶うと約束されたものではありません」
神官の声が続く。
「ですが、願うことは、明日を信じることです。誰かの無事を願うことは、その人を大切に思うことです。店の繁盛を願うことは、そこで笑う人々の顔を思い浮かべることです。春を願うことは、冬を越えた自分達を労うことでもあります」
広場は静かだった。
けれど、冷えた静けさではない。
たくさんの人の息遣いが、一つの火を待っている。
そんな静けさだった。
「これより、皆様の願いを春の火へ託します」
神官は両手を広げた。
「炎は藁を焼き、形を空へ返します。煙は願いを天へ運び、火の明るさは冬の名残を払うでしょう」
風が吹いた。
薪組みの周りに置かれた小さな灯りが揺れる。
「どうか、この火が皆様の新しい季節を照らしますように」
神官は深く頭を下げた。
広場から拍手が起こった。
最初は控えめに。
やがて、それは広がっていく。
雨の中、手を打つ音がいくつも重なった。
続いて、王城の使者が前へ出る。
広場の空気が、少し改まったものになった。
使者は巻かれた書状を開く。
紙が湿らないよう、隣の者が小さな覆いを差しかけた。
「国王陛下より、春灯祭に寄せるお言葉を賜っております」
その声に、人々はさらに静まった。
使者は書状に目を落とし、読み上げ始めた。
「王都に暮らすすべての民へ」
広場の灯りが、濡れた石畳に揺れている。
「今年もまた、春灯祭の日を迎えられたことを、王として心より喜ばしく思う」
リアナは、周囲を見回した。
屋台の店主。
子どもを抱いた母親。
外套を濡らした老人。
仕事の合間に来た兵士。
肩を並べる若者達。
ラルカ亭の店長も、腕を組んで聞いていた。
「長い冬を越え、今日ここに集う者も、家で火を待つ者も、それぞれに耐え、それぞれに努めて、この春を迎えた」
使者の声は、雨音の中に落ち着いて響く。
「王都の通りに灯る明かり、店先に並ぶ藁細工、家々より集められた願いは、この国を支える日々の営みそのものである」
サラは紙杯を胸の前で持ち、真面目な顔で聞いていた。
いつもなら途中で何か言いそうなのに、今は黙っている。
「願いは小さくともよい。家族の健康を願う者。明日の仕事を願う者。誰かの帰りを願う者。花の咲く日を願う者。食卓の温かさを願う者。その一つ一つが、国の明日を形作る」
エマが、そっとリアナを見る。
リアナは視線に気付き、小さく頷いた。
リリエの兎。
フィーナの鳥。
春抱き獣。
どれも、小さな願いだった。
けれど、ここにある多くの藁細工と同じように、確かに誰かの明日へつながっている。
「春の火が、皆の願いを空へ運ぶことを祈る」
使者は最後の一文へ進んだ。
「そして、この王都に、この王国に、穏やかで実り多き春が訪れることを願う。アルシア王国国王、レオニス・アウグスト四世」
読み上げが終わる。
一拍置いて。
広場から大きな拍手が上がった。
今度は先ほどより大きい。
歓声も混ざった。
「陛下に春を!」
誰かが声を上げる。
「王都に春を!」
別の誰かが続ける。
その声は、自然と広がっていった。
「春を!」
「春を!」
太鼓が再び鳴る。
どん。
どん。
どん。
今度の音は、火を呼ぶ音だった。
神官達が薪組みの前へ戻る。
若い神官が、雨除けの覆いの下から小さな火種を取り出した。
神殿で守られてきた火だと、エマが小さな声で教えてくれる。
「毎年、あれで春の火を灯すのよ」
リアナは頷いた。
火種は小さい。
手のひらほどの灯り。
けれど、広場中の視線がそこに集まっていた。
雨はまだ降っている。
風もまだ止まない。
それでも、人々は火を待っていた。
冬を越えたことを確かめるために。
願いを空へ送るために。
新しい季節を迎えるために。
神官が火種を掲げる。
広場が、再び静かになる。
薪組みの下。
乾いた藁束の前へ、火が近付いていく。
リアナは無意識に息を止めた。
遠くのどこかで、北東の空が白く光った。
だが今、広場の人々の目は、目の前の小さな火だけに向けられていた。
春の火が、まもなく灯る。
その時だった。
『リアナ!』
意識の奥で。
アイリスの声が、これまでにない鋭さで響いた。
『来るぞ!』
リアナの表情が変わる。
次の瞬間。
立っていた地面の下。
足元のさらに深い場所から。
何か、とてつもなく大きなものが。
一直線に駆け抜けていった。
見えない。
形も分からない。
けれど、分かった。
それはただの揺れではない。
地の奥を、膨大な力が走ったのだと。
リアナの身体が、びくりと強張る。
持っていた紙杯の中で、スープが大きく揺れた。
「リアナちゃん?」
サラが声を上げる。
だが、リアナはすぐには答えられなかった。
視線は、北東へ向いていた。
帝国方面の空。
夜であるはずの空が。
一瞬にして、昼のように白く染まっていた。
雲の輪郭まで浮かび上がるほどの眩しさだった。
ただの稲光ではない。
雷の閃きのように、一筋だけ走る光でもない。
空の向こう側そのものが、内側から燃え上がったような白さだった。
広場のあちこちで、人々が息を呑む。
「……何だ、あれ」
「今の、雷か?」
「違うだろ」
「帝国の方じゃないか?」
誰かが叫ぶ。
子どもが泣きそうな声を上げる。
屋台の店主が、思わず空を見上げたまま動きを止めた。
神官も。
火種を掲げたまま、北東の空を見ている。
その白い光と、ほとんど同時に。
遠くから、音が来た。
爆発音とは違う。
雷鳴とも違う。
何か巨大なものが、空と地の間で軋み、裂け、押し潰されるような。
低く。
重く。
腹の底へ響く音だった。
ごう、とも。
ぐら、とも。
言葉にし難い音が、長く尾を引きながら王都まで届く。
エマが、小さく呟いた。
「何……今の」
サラは春抱き獣のある方を見て、それからまた空を見る。
「やだ、ちょっと待って。今の、すごく嫌な音なんだけど」
リアナは答えなかった。
答えられなかった。
足の裏に、まだ残っている。
あの感覚が。
地の奥を走り抜けた、巨大な力の気配が。
『始まった』
アイリスの声が低く響く。
『帝国で、動いた』
リアナは唇を引き結んだ。
広場の人々はまだ、何が起きたのか理解していない。
ただ、見上げ。
ざわめき。
隣の者と顔を見合わせている。
「なんの音だ?」
「山の方じゃないのか?」
「まさか崩れたのか?」
「いや、あんな光が出る崩れ方があるか?」
「神殿の方は何か知っているのか?」
不安が、ざわめきに変わっていく。
火を待っていた静けさは、もうない。
人々の目が。
笑っていたはずの顔が。
少しずつ落ち着きを失っていく。
その時。
足元が、かすかに震えた。
最初は、小さな揺れだった。
荷車の重みが遠くを通った時のような。
気のせいと思えば、そう思えるほどの揺れ。
だが、リアナは即座に分かった。
気のせいではない。
「下がってください」
思わず、声が出た。
エマとサラが、はっとリアナを見る。
「リアナ?」
「広場の中央から離れて」
その言葉が終わる前に。
二度目の揺れが来た。
今度は、はっきりと分かる。
石畳が震える。
屋台の吊り灯りが揺れる。
紙杯の中のスープが、縁を越えてこぼれた。
「地震……?」
誰かが言った。
その声には、まだ半信半疑が混じっている。
だが。
次の瞬間。
揺れは、さらに強くなった。
地面の奥で何かが唸る。
石畳の継ぎ目が、かすかに鳴る。
屋台の柱が軋み。
吊るされた藁細工が、大きく左右へ振れ始める。
広場の悲鳴が、一斉に上がった。
『離れろ』
アイリスの声が、頭の奥で低く響いた。
『リアナ。この場から離れろ』
リアナは息を呑んだ。
離れろ。
どこへ。
誰を。
何から。
問いが浮かぶより早く、地面がまた大きく揺れた。
石畳が鳴る。
広場全体が、下から突き上げられたように震えた。
「きゃっ!」
近くで誰かが悲鳴を上げる。
屋台の灯りが激しく揺れ、吊るされた小さなランプが壁へぶつかった。
火入れを待っていた神官達が、薪組みのそばで体勢を崩す。
まだ春の火は灯っていない。
けれど、火種は神官の手の中にある。
リアナはそれを見た。
火。
人混み。
薪。
屋台。
布屋根。
藁細工。
揺れ。
それらが一瞬で頭の中につながる。
「エマさん、サラさん、下がってください!」
リアナが叫んだ。
声は広場の騒ぎに半分呑まれた。
だが、エマとサラには届いた。
エマがすぐにリアナの腕を掴む。
「リアナ、こっち!」
「待って、春抱き獣が――」
「今は駄目!」
エマが強く言った。
その声に、サラがはっとする。
次の瞬間。
さらに大きな揺れが来た。
足元の石畳が、波打つように軋んだ。
本当に地面が上下しているのか。
それとも、そう錯覚するほどの揺れなのか。
リアナにも一瞬分からなかった。
ただ、広場を支えている硬い地面が、硬いものではなくなったように感じた。
人々の足元が崩れる。
誰かが膝をつく。
子どもを抱えた母親が、近くの男に支えられる。
屋台の棚から皿が落ち、割れる音がした。
木箱が滑り、果物が石畳へ転がる。
馬車につながれた馬が嘶き、御者が必死に手綱を引いた。
「地震だ!」
誰かが叫んだ。
その一言で、広場の空気が変わった。
驚きが、恐怖へ変わる。
ざわめきが、悲鳴へ変わる。
「離れろ!」
「火のそばから離れろ!」
「子どもを抱えろ!」
「押すな、押すな!」
声が飛び交う。
だが、その声が秩序を作る前に、中央の薪組みが軋んだ。
太い丸太の組み目がずれる。
乾いた枝がばらばらと落ちる。
上に重ねられていた藁束が崩れ、縄の内側へ滑り出した。
「危ない!」
神官の一人が叫ぶ。
火種を持った年配の神官が後ろへ下がろうとする。
だが、足元が大きく揺れ、身体が傾いた。
若い神官が慌てて支える。
火種の小さな炎が、大きく揺れた。
雨の中で守られていた火が、今はあまりにも頼りなく、同時にあまりにも危うく見えた。
薪組みが、さらに崩れた。
がらり、と大きな音が広場に響く。
歓声のために積まれていたものが、今は恐怖の中心になっている。
周囲の人々が一斉に後ずさった。
だが後ろにも人がいる。
誰かが倒れる。
倒れた人を起こそうとして、別の人が足を取られる。
「押さないで!」
「こっちに来るな!」
「子どもがいる!」
悲鳴が重なる。
リアナは歯を食いしばった。
広場の中心へ向かって走り出しそうになる身体を、必死に止める。
今、力を伸ばせば。
地面へ意識を沈めれば。
何が起きているのか、もっと分かるかもしれない。
揺れの流れを掴めるかもしれない。
だが。
『駄目だ』
アイリスが鋭く言った。
『深く見ようとするな。引かれる』
「でも」
『今は人を逃がせ』
その声で、リアナは我に返った。
そうだ。
原因を探る時ではない。
今、この広場にいる人達を、少しでも危ない場所から遠ざける時だ。
「屋台から離れてください!」
リアナは声を張った。
「火と薪の近くへ行かないで! 建物の壁際にも寄らないでください!」
その言葉に、近くの数人が反応した。
エマもすぐに声を重ねる。
「広場の端へ! でも走らないで! 転ぶわ!」
サラも叫んだ。
「ラルカ亭の人達、鍋から離れて! 火を消して!」
サラの声はよく通った。
祭りの騒ぎで鍛えられた声だった。
ラルカ亭の店長がすぐに屋台へ向かって怒鳴る。
「火を落とせ! 鍋を押さえるな、離れろ!」
あちこちの屋台でも同じような声が上がった。
だが、揺れはまだ収まらない。
むしろ、大きくなっている。
屋台の木柱が軋む。
布屋根が風と揺れでばさばさと鳴る。
吊るされた藁細工が揺れ、いくつかは紐が切れて落ちた。
菓子屋の三匹兎が転がり、歩く芋が本当に石畳の上を転げた。
普段なら笑いが起きただろう。
けれど今は、誰も笑わない。
広場に面した建物から、甲高い音が響いた。
硝子が割れたのだ。
二階の窓から砕けた破片が落ち、下にいた人々が悲鳴を上げて逃げる。
別の店では、棚が倒れたのか、陶器の割れる音が続けて聞こえた。
犬が吠え、馬が嘶き、子どもが泣く。
祭りの熱気は、一気に崩れた。
さっきまで春を呼ぶために集まっていた広場が。
今は、逃げ場を探す人々で埋め尽くされている。
「リアナ!」
エマが叫んだ。
見れば、足元で老人が倒れかけていた。
リアナはすぐに手を伸ばす。
サラも反対側から支えた。
「大丈夫ですか」
「す、すまない」
「立てますか?」
「足が、少し」
揺れの中で、老人の身体は不安定だった。
リアナは周囲を見る。
屋台からは離れている。
だが、建物の壁に近い。
さらに上から何か落ちてくる可能性がある。
「広場の中央から少し外れた、何もない場所へ」
リアナが言った。
「でも薪からは離れて」
「こっち!」
サラが老人の腕を肩に掛ける。
エマが人を避けるように前へ出た。
「道を開けて!」
その声に、近くの人々が慌てて場所を空ける。
揺れの中で、数歩進むだけでも難しい。
石畳が足の下でずれるように感じる。
リアナは老人を支えながら、歯を食いしばった。
足元から、まだ力が走っている。
帝国方面から流れ込んできた何かが、王都の地脈を叩いている。
地面そのものが悲鳴を上げているようだった。
『まだ来る』
アイリスが言った。
短い言葉だった。
だが、それだけで充分だった。
リアナは顔を上げる。
広場の向こう。
崩れかけた薪組み。
その近くに、預けられた藁細工の机があった。
机は大きく傾き、布が半分落ちている。
藁細工がいくつも地面へこぼれていた。
リリエの兎。
フィーナの鳥。
サラの春抱き獣。
どこにあるのか、一瞬では分からない。
だが、その方へ人が流れそうになっている。
崩れた薪から逃げる人。
倒れた屋台を避ける人。
泣く子どもを抱えた親。
その流れが、傾いた机と崩れた薪組みの間へ押し寄せようとしていた。
「そっちは駄目です!」
リアナは叫んだ。
「薪が崩れています! 戻って!」
声が届いた数人が立ち止まる。
しかし、後ろから押される。
人波は一度動き出すと、簡単には止まらない。
その時、王城の警備兵らしき男達が、人混みの中から飛び出した。
祭りの客に紛れていた警護だ。
彼らは縄の外側へ走り、崩れた薪組みから人を遠ざけるように腕を広げた。
「こちらへ来るな!」
「広場の外へ抜けろ! 走るな、押すな!」
「怪我人を先に!」
神官達も動き始めていた。
火種は若い神官の一人が雨除けの箱へ戻している。
別の神官は倒れた者を起こし、係の若者達は藁細工の机を諦め、人の誘導へ回っていた。
春の火は、まだ灯っていない。
願いを空へ運ぶはずだった炎は、今は封じられたまま。
その前で、人々は火ではなく、地面から逃げている。
また揺れが強くなった。
広場全体が、低く唸る。
石畳の一部が盛り上がったように見えた。
実際には、目の錯覚かもしれない。
けれど、その瞬間、広場にいた誰もが同じ恐怖を感じた。
足元が、信じられない。
「しゃがんで!」
リアナは叫んだ。
「倒れそうなら、しゃがんでください!」
近くの人々がその場に膝をつく。
子どもを抱えた母親が、外套で子どもの頭を覆った。
男が倒れた屋台の柱を避け、這うように離れる。
サラは老人を支えたまま、涙目になりながらも声を張っていた。
「こっち、空いてる! こっちに来て! 押さないで!」
エマは転んだ子どもの手を引き、母親の元へ戻している。
「大丈夫、大丈夫よ。お母さんはそこ!」
その声に、子どもが泣きながら走る。
リアナは二人の動きを見て、胸の奥が強く締め付けられた。
守りたい日常。
騒がしくて、不格好で、温かかったもの。
その全部が、今、揺れの中で崩れそうになっている。
『リアナ』
アイリスの声が、今度は少しだけ低くなった。
『抑えるな。今のお前が受け止めるには大きすぎる』
「分かっています」
リアナは小さく答えた。
声に出ていたかどうか、自分でも分からない。
それでも、足元へ意識が伸びそうになるのを押し止める。
今は、抑えない。
探らない。
受け止めない。
ただ、この場で出来ることをする。
リアナは顔を上げた。
広場は混乱していた。
屋台は軋み、灯りは揺れ、割れた硝子が石畳に散っている。
薪組みは崩れ、春の火はまだ灯らない。
だが、人々は完全には散り散りになっていなかった。
誰かが誰かを支えている。
店主が客を逃がしている。
兵士が人波を止めている。
神官が火種を守りながら怪我人を起こしている。
春灯祭は壊れかけている。
けれど、この街そのものは、まだ踏みとどまっていた。
その足元で。
帝国から届いた揺れは、さらに大きく王都を揺さぶった。




