第二十五話 春灯祭 前編
春灯祭の本番まで、あと数日になっていた。
王都のあちこちでは、軒先や窓辺に藁細工が並び始めている。
鳥。
馬。
鹿。
兎。
牛。
それから、作った本人にしか分からない、不思議な形のもの。
願いを込めた藁細工は、祭りの日まで飾られ、最後には中央広場の春の火へ投げ入れられる。
冬を追い払い、新しい季節へ願いを届けるために。
王城の一室にも、その春灯祭の空気が入り込んでいた。
いつもなら勉強用の本や書類が置かれている広い部屋に、今日は細い藁と紐と小さな布切れが並んでいる。
部屋の奥では、侍女達が鹿の形を作っている。
窓辺では、厨房から来た者達が丸々とした牛を編んでいた。
厩舎から来た者は馬を。
庭園を管理する者は、枝のような角を持つ、不思議な獣を作っている。
仕事を放り出して集まったわけではない。
セシルが各所と相談し、支障が出ないよう、参加する時間を分けていた。
最初は遠慮していた者達も、フィーナが藁を握り、楽しそうに形を作り始めると、一人、また一人と用意された席へ加わっていった。
今では広い部屋のあちこちから、藁を束ねる音、紐を引く音、互いの形を見て笑う声が聞こえている。
王城にはなかったはずの春灯祭の習慣が。
フィーナの思い付きと、セシルの提案によって、今年は城内にも持ち込まれていた。
「セシル、ここを持っていてください」
フィーナが言った。
小さな手には、丸く曲げた藁束が握られている。
「ここですか?」
セシルは、藁の端を押さえた。
「はい。そこを離すと、また戻ってしまいます」
フィーナは真剣な顔で、藁の重なった部分へ細い紐を通そうとしていた。
けれど、紐は途中で引っ掛かる。
「む……」
もう一度通そうとする。
また引っ掛かる。
「むむ……」
セシルが少しだけ笑った。
「フィーナ様。締めすぎです」
「でも、ゆるいとほどけてしまうでしょう?」
「ほどけない程度で十分です。願いごとは、力任せに縛るものではありませんから」
「……それは、藁細工の話?」
「藁細工の話です」
フィーナは少し疑うようにセシルを見た。
だが、すぐに藁へ視線を戻す。
「では、少しだけゆるくします」
「はい。少しだけです」
フィーナは言われた通り、ほんの少し力を抜いた。
今度は紐が通った。
「通りました!」
「お見事です」
「まだ完成ではありません。ここからが大事なのです」
フィーナは、真剣な顔のまま藁細工を持ち上げた。
二人が作っているのは、翼を広げた鳥だった。
丸くした藁束が身体。
細く束ねたものが首と尾羽。
左右の翼には、淡い黄色の紐が巻かれている。
だが、フィーナが作った鳥は、身体が少し丸く、片方の翼だけが大きかった。
尾羽も、見本よりずっと長い。
「……やっぱり、尾羽が長すぎるかしら」
フィーナは鳥を少し離して眺めた。
「飛ぶ時に邪魔になりませんか?」
「願いを運ぶ鳥ですから、尾羽が長い方が遠くまで届くかもしれません」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
フィーナは少し不満そうにする。
セシルは涼しい顔で答えた。
「私は鳥ではありませんので」
「それはそうですけれど」
フィーナはもう一度、自分の鳥を見た。
大きさの違う翼。
丸い身体。
見本よりも長い尾羽。
不格好ではあったが、初めに作ろうとしていたものより、ずっと意味のある姿になっていた。
「これは、きっと遠くへ飛ぶ鳥です」
フィーナはそう決めた。
「遠くへ行った人にも、春の火の願いを届ける鳥です」
「良いと思います」
セシルが頷いた。
「では、国境まで飛べるかしら」
「かなり遠いですね」
「尾羽が長いから、大丈夫です」
今度はフィーナがそう言った。
セシルは少しだけ目を細める。
「それなら、きっと大丈夫でしょう」
フィーナは満足そうに頷き、鳥の尾羽をもう一本足そうとした。
「フィーナ様」
「何ですか」
「それ以上足すと、尾羽だけの鳥になります」
フィーナは手を止めた。
部屋の端で、侍女の一人が小さく笑った。
フィーナは少し頬を膨らませる。
「尾羽だけにはしません」
「では、これで完成に近いですね」
「近い、です。まだ最後の形を整えます」
フィーナは鳥を机に置き、左右の翼を指で整えた。
その時だった。
窓の外が白く光った。
一瞬だけ、部屋の中の影が揺れる。
藁を結ぶ手が、何人か止まった。
フィーナも顔を上げる。
音は、すぐには来なかった。
「……また光りました」
フィーナは椅子から降り、窓の方へ歩いた。
セシルがすぐ後ろにつく。
「フィーナ様、窓辺は冷えます」
「少しだけです」
窓の外には、厚い雲が広がっていた。
春灯祭が近いというのに、空はどんよりと重い。
雨は降ったりやんだりを繰り返している。
さっきまで細かい雨が窓を叩いていたが、今は止んでいた。
けれど風は強く、庭の木々がざわざわと揺れている。
遠く、王都の北東の空で、細い稲光がまた走った。
「春灯祭の前って、いつもこんな空でしたか?」
フィーナが尋ねる。
セシルは少し考えた。
「春先ですから、天気が崩れることはあります」
「でも、何日もです」
「そうですね。今年は少し落ち着きません」
フィーナは窓に近付きすぎないようにしながら、遠くの空を見た。
光っている場所は、王都からずっと遠い。
雷鳴はほとんど聞こえない。
ただ、雲の奥で白い光だけがちらちらと動く。
「リアナ様なら、分かるでしょうか」
フィーナが言った。
セシルは、すぐには答えなかった。
「何をですか?」
「この空が、ただの嵐なのか」
フィーナは少しだけ声を小さくする。
「それとも、何か変なのか」
セシルはフィーナの横顔を見た。
不安そうではある。
けれど、大人のように深く考え込んでいるわけではない。
ただ、見えないものが気になって仕方がない子どもの顔だった。
「明日、天気が落ち着いていれば、リリエへ行く予定でしたね」
「はい。鳥を見せるのです」
フィーナはすぐに振り返った。
「リアナ様なら、これが鳥に見えると言ってくれると思います」
「鳥には見えると思います」
「セシルは、さっきから少し言い方が慎重です」
「気のせいです」
「気のせいではありません」
フィーナは机へ戻り、自分の藁の鳥をそっと持ち上げた。
丸い身体。
片方だけ大きな翼。
長い尾羽。
不格好だけれど、飛ぼうとしている。
フィーナには、そう見えた。
もう一度、窓の外が白く光る。
今度は、少し遅れて低い音が聞こえた。
部屋の中の笑い声が、少しだけ小さくなる。
フィーナは藁の鳥を胸の前で抱えた。
「……この子、ちゃんと遠くまで飛べるかしら」
「飛べます」
セシルは今度は迷わず答えた。
「フィーナ様がそう願うなら」
フィーナは鳥を見下ろす。
「では、もう少しだけ形を整えます」
「尾羽を増やすのではなく?」
「増やしません」
「それなら安心しました」
フィーナは少しだけ頬を膨らませたまま、椅子へ戻った。
外の空はまだ重い。
遠くの稲光も消えない。
けれど、部屋の中には藁を束ねる音が戻っていく。
フィーナは鳥の翼を指で整えながら、心の中でそっと願った。
どうか、遠くまで届きますように。
国境にいる人にも。
雨の向こうにいる人にも。
そして、リアナ様にも。
この小さな鳥が、春の火までに迷わず飛べますように。
◇
その日の夕方、リリエの店先では、軒下に吊るされた藁細工が風に揺れていた。
今年、リリエで作った藁細工は、花を抱えた小さな兎だった。
丸い身体に、少し大きな耳。
前足には、藁で作った小さな花束を抱かせてある。
身体の形を決めたのはエマで、花束を持たせようと言ったのはリアナだった。
ただ、耳が予定より大きくなったのは、どちらのせいでもない。
作っているうちに、いつの間にかそうなっていた。
「やっぱり、耳が大きすぎたかしら」
戸板を片付けながら、エマが言った。
リアナは軒下の兎を見上げる。
「春の足音をよく聞き取れそうで、いいと思います」
「そう言われると、直しにくいわね」
エマは笑った。
外は、また細かい雨が降り始めていた。
昼間に一度止んだはずなのに、夕方になると、また雲が降りてきた。
石畳は濡れ、風が吹くたびに、軒先の藁細工が小さく揺れる。
春灯祭が近い王都は、本来ならもっと明るい。
店先には藁細工が並び、子ども達が互いの作ったものを見せ合い、大人達が春の火へ託す願いを話し合う。
今年も、その光景は確かにあった。
けれど空だけが重かった。
晴れようとして、晴れない。
雨が終わろうとして、また戻ってくる。
そんな落ち着きのなさが、ここ数日ずっと続いている。
「今日も北東の空が光っていたわね」
エマが言った。
「お客さんも何人か話していたわ。王都の上は降っていないのに、遠くで雷だけ見えるって」
「はい」
リアナは短く答えた。
遠い雷。
そう言ってしまえば、それで済む。
けれど、地面の奥に耳を澄ませると、それだけでは終わらないものが混じっていた。
大きな揺れではない。
はっきりとした異変でもない。
ただ、深い場所で張った糸が、少しずつきつくなっていくような感覚。
数日前よりも、今日はそれが濃い。
「フィーナ様は、明日いらっしゃるのよね?」
エマが話題を変えるように言った。
「はい。天気が落ち着いていれば、完成した藁細工を持ってきてくださるそうです」
「ああ、この前、王城で一緒に作っていた鳥ね」
「はい」
リアナは少しだけ笑った。
大きさの違う翼。
丸い身体。
見本よりも長い尾羽。
最初は形がなかなか定まらず、フィーナは何度も首を傾げていた。
けれど作っているうちに、ただ見本通りの鳥ではなくなっていった。
不格好ではあったが、初めに作ろうとしていたものより、ずっと意味のある姿になっていた。
「あの尾羽が、さらに伸びていなければいいのですが」
リアナが言うと、エマが声を立てて笑った。
「伸びてもいいじゃない。願いを遠くまで運ぶ鳥なのでしょう?」
「フィーナ様も、同じようなことを仰りそうです」
「なら、きっと大丈夫ね」
エマは軒下の兎を見上げた。
「うちの兎と並べたら、にぎやかになりそう」
「兎が花を持って、鳥が願いを運ぶ」
「春灯祭らしいわね」
「はい」
リアナは頷いた。
明日、フィーナがあの鳥を大事そうに抱えてくる姿が目に浮かぶようだった。
鳥に見えるかどうか。
尾羽が長すぎないか。
翼の大きさが違っても飛べるか。
きっとまた、ひとつひとつ真剣に尋ねてくる。
その時には、ちゃんと答えようと思った。
あの鳥は、きっと遠くまで飛べる。
そう言えば、フィーナは少し得意そうに頷くはずだ。
その時、北東の空が白く光った。
軒下の影が、一瞬だけ薄くなる。
少し遅れて、低い音が届いた。
エマも手を止める。
「またね」
「……はい」
リアナは空を見た。
通りの人々は、雷に少し顔を上げるだけで、すぐに足を速める。
雨の中、誰もが祭りの準備と夕餉の支度へ戻っていく。
それはいつもの王都だった。
けれど、リアナには足元の奥から届くものが気になって仕方がなかった。
「リアナ?」
エマが声を掛ける。
「顔色が悪いわよ」
「すみません。少し、空が気になって」
「あなたがそう言うと、ただの天気に聞こえないのよね」
エマは困ったように笑った。
けれど、その目は少し真剣だった。
「今すぐ何かあるの?」
「少なくとも、今この場所が危ないという感じではありません」
「それ、安心していい答え?」
「半分くらいは」
「もう半分は?」
リアナは少し迷った。
「私にも、まだ分かりません」
正直に答えると、エマは小さく息を吐いた。
「分からないなら、分からないでいいわ。でも、一人で抱え込みすぎないでね」
「はい」
「本当?」
「……気を付けます」
「その答え、少し怪しいわね」
エマはそう言って、最後の戸締まりを確認した。
リアナも店の中の灯りを落とし、軒下の兎が雨に濡れない位置へ少し寄せる。
店じまいが終わると、エマは奥へ戻った。
リアナはそのまま、店の奥にある階段を上がる。
リリエの二階。
そこに、リアナが間借りしている小さな部屋があった。
部屋へ入ると、雨音が少し遠くなる。
窓を開けると、湿った風が頬に触れた。
北東の雲の奥で、また光が瞬く。
音はほとんど届かない。
けれど、地面の奥では、細い震えのようなものがまだ続いていた。
リアナは窓辺に立ったまま、意識の奥へ呼び掛けた。
『アイリス』
すぐには返事がなかった。
雨が窓枠を叩く音だけが聞こえる。
しばらくして、静かな声が返ってきた。
『何だ』
いつも通りの短い返答。
けれど、リアナには少し遅れたように感じられた。
『不安定さが増しています』
リアナは北東の空を見たまま言った。
『前に話してくれた発芽者の影響ですか』
アイリスはすぐには答えなかった。
その沈黙は、もう否定ではなかった。
リアナは小さく息を吐く。
『やはり、進んでいるのですね』
『進んではいる』
ようやく返ってきた声は、慎重だった。
『ただし、発芽者だけで説明できる段階ではなくなっている』
リアナは眉を寄せた。
『それは、以前は聞いていません』
『以前は、まだそう言えるほど見えていなかった』
『今は見えているのですか』
『一部だけだ』
アイリスの声は落ち着いている。
けれど、いつものように言い切る強さがない。
そこが、リアナには引っかかった。
『天候が乱れています。地脈も落ち着かない。人の感情も、少しざわつきやすくなっているように感じます』
『発芽者の影響としては、おかしくない』
『それは前に聞きました』
リアナは静かに返した。
『本人に自覚はなく、中心にいる本人ほど何も分からない。周囲だけが歪んでいく。天候も、大地も、人の感情も』
『なら、改めて聞く必要はない』
『あります』
リアナの声に、わずかな強さが混じった。
『あの時より、揺らぎが強いからです』
アイリスは黙った。
リアナは続ける。
『あの時、あなたは言いました。今回の発芽者はまだ途中にいる。その先で起きる出来事があり、そこで現れる人物がいると』
雨が、少し強くなる。
『その出来事が近いのですか』
しばらく返事はなかった。
やがて、アイリスが低く答える。
『近い』
短い言葉だった。
しかし、否定ではなかった。
リアナは窓枠に添えた指を軽く握る。
『災害ですか』
『お前がその言葉で呼ぶなら、そうだ』
『止められないのですか』
『今は止められない』
『また、今は、ですか』
『ああ』
リアナは少しだけ目を伏せた。
前にも聞いた言葉だった。
今は止められない。
正確には、今止めてはいけない。
その理由を、アイリスはまだ全て話していない。
『アイリス』
『何だ』
『これまで、あなたはここまで具体的に答えを避けませんでした』
アイリスの気配が、ほんのわずかに揺れた。
リアナは続ける。
『危険が近ければ教えてくれました。私が踏み込むべきではない時も、理由を言って止めてくれました。けれど今回は、発芽者がいることも、帝国で何かが起きることも、救出されるべき人物が現れることも言いながら、一番肝心なところだけ教えてくれない』
『肝心なところを言えば、お前は追う』
『もう追っています』
『今より深く追う』
その返答は早かった。
アイリスは続ける。
『地脈を辿り、北東の奥へ意識を伸ばす。発芽者だけでなく、その周囲にあるものまで見ようとする』
『それが危険なのですか』
『危険だ』
『発芽者が、こちらを見るから?』
『発芽者ではない。少なくとも、発芽者本人の意思ではない』
リアナは黙った。
発芽者本人に自覚はない。
それは前に聞いている。
なら、こちらを見るものがあるとすれば、本人ではない何か。
発芽者を中心に動き始めた、別のもの。
『帝国が何かをしているのですね』
『帝国は、いつも何かをしている』
『そういう言い方をする時は、答えを避けたい時です』
アイリスは返さなかった。
リアナは少しだけ唇を結ぶ。
『私は、全てを知りたいと言っているのではありません。ただ、何が近付いているのか分からないまま待つのが怖いのです』
『怖いか』
『怖いです』
リアナは素直に答えた。
『王都が壊れるかどうかだけではありません。フィーナ様も、エマさんも、リリエに来る人達も、皆、春灯祭の準備をしています。願いを形にして、春の火へ託そうとしている。そのすぐ隣で、何かが近付いているのに、私は何も知らない』
アイリスは長く沈黙した。
雨の音が部屋を満たす。
遠くの稲光が、また一度だけ白く瞬いた。
『言えないのではない』
やがて、アイリスが言った。
『まだ、形が定まっていない』
『あなたにも、見えきっていないのですか』
『そうだ』
その答えは、リアナにとって意外だった。
アイリスが分からないと言うこと。
断言できないと言うこと。
それ自体が、これまでとは違っていた。
『発芽者だけなら、まだ見える。帝国の動きだけなら、まだ読める。だが、そこに別のものが重なっている』
『別のもの?』
アイリスは少し間を置いた。
『封じられた力だ』
リアナは息を止める。
『それは』
『今は、言葉だけ覚えておけ。意味を追うな』
『そんなことを言われて、追わずにいられると思いますか』
『思っていない』
アイリスの返答は、少しだけ苦いように聞こえた。
『だが、それでも言う。今は追うな』
リアナは窓の外を見た。
北東の空。
遠くの雷。
雨に濡れた王都。
そして、足元の奥にある張り詰めた感覚。
『その封じられた力が、災害に関わるのですか』
『関わる』
『発芽者も?』
『関わる』
『帝国も?』
『関わる』
『そして、現れる人物も』
『そうだ』
リアナは静かに息を吐いた。
ようやく、輪郭だけは見えた。
けれど、輪郭が見えたことで、余計に分からなくなる。
『では、本当にいくつものものが重なっているのですね』
『だから、今のお前に一つの答えとして渡すことができない』
『でも、止められない』
『止められない』
『止めてはいけない』
『……そうだ』
その間が、リアナには重かった。
止められないだけではない。
止めてはいけない。
その判断を、アイリスは変えていない。
『救出されるべき人物がいるからですか』
アイリスは黙った。
その沈黙で十分だった。
リアナは目を伏せる。
『その人は、災害が起きなければ現れない』
『今は、そうとしか言えない』
『その人を救うために、災害を止めない』
『違う』
アイリスの声が少し強くなった。
『災害を望んでいるわけではない。被害を軽くする道があるなら、それを選ぶ。だが、起きるべき流れそのものを今断てば、その人物は現れない。そして、その人物が現れなければ、もっと大きなものが失われる』
リアナは何も言えなかった。
大きなもの。
それが何かを、アイリスは言わない。
言えないのかもしれない。
『……あなたがそこまで言うなら、必要なのだと分かります』
リアナは静かに言った。
『でも、納得はできません』
『納得しなくていい』
『それは少し、ずるいです』
『そうだな』
アイリスは否定しなかった。
その素直な返答に、リアナはかえって言葉を失う。
しばらくして、彼女は窓から少し離れた。
『明日、フィーナ様が鳥を持ってきます』
話題を変えるように言った。
『この前、一緒に作った鳥です。片方の翼が少し大きくて、身体が丸くて、尾羽が長い鳥』
『覚えている』
『あの尾羽が、さらに伸びていないといいのですが』
『伸びていても、あの子なら理由をつけるだろう』
リアナは少しだけ笑った。
『願いを遠くまで運ぶため、と言いそうです』
『それなら良い鳥だ』
『はい』
雨音が少し弱まる。
遠くの雷は、まだ消えていない。
けれど、ほんの少しだけ部屋の空気が柔らかくなった。
『明日、フィーナ様の鳥を、リリエの兎の隣に飾ります』
『そうしろ』
『エマさんも喜びます』
『あの店には、そういうものが似合う』
リアナは窓辺の小さな花瓶を見た。
明日、店先に飾るための花。
春灯祭の前に、少しでも通りが明るく見えるようにと、エマが選んだものだ。
『アイリス』
『何だ』
『もし、私が知らなければならない段階になったら、その時は必ず教えてください』
『教える』
返事は早かった。
リアナは少しだけ目を細める。
『本当に?』
『そこは疑うな』
『今のあなたは、少し疑いたくなります』
『正直だな』
『あなたが隠すからです』
アイリスはしばらく黙った。
そして、静かに言った。
『すまない』
リアナは目を伏せた。
アイリスが謝ることは珍しい。
それだけで、この異変がどれほど扱いにくいものなのか分かってしまう。
『謝られると、余計に不安になります』
『だろうな』
『分かっているなら、もう少し安心できることを言ってください』
『今すぐ王都がなくなるような事は無い』
『それは安心できるようで、少し違います』
『明日、あの子の鳥は見られる』
リアナは顔を上げた。
『それは、天気の話ですか』
『天気も含めてだ』
その返答に、リアナはようやく少しだけ息を緩めた。
『では、明日はリリエで待っています』
『そうしろ』
『あの鳥が、ちゃんと鳥に見えると言ってあげます』
『見えるのか』
『見えます』
『なら問題ない』
リアナは小さく笑った。
窓を閉めると、雨音が少し遠くなる。
それでも、北東の空の光は、まぶたの裏に残っていた。
発芽者。
帝国。
近付く災害。
封じられた力。
救出されるべき人物。
知っている言葉は増えた。
けれど、分からないことはもっと増えた。
リアナは灯りを落とす前に、窓辺の花をそっと整えた。
明日は、フィーナの鳥を見る。
不格好でも、尾羽が長くても、きっと遠くまで飛べると言おう。
そう決めて、リアナはしばらく雨の音を聞いていた。
外ではまだ、春灯祭を待つ王都の上に、重い雲が垂れ込めている。
遠くの空で、音のない稲光がまた一度だけ瞬いた。
翌日になっても、空は晴れなかった。
雨は弱くなっている。
けれど、雲はまだ低いままで、王都の屋根の上に重く広がっていた。
時折、風が通りを抜ける。
軒先に吊るされた藁細工が、かさかさと小さな音を立てた。
リリエの店先では、花を抱えた藁の兎が、雨に濡れない位置で揺れている。
エマは朝から何度も空を見上げていた。
「降るのか、降らないのか、はっきりしない空ね」
「そうですね」
リアナは店先の花鉢を少し奥へ寄せながら答えた。
昨日よりは落ち着いている。
けれど、完全に晴れたわけではない。
地面の奥の不安定さも、消えてはいなかった。
ただ、今すぐ王都に何かが起きるという感じではない。
それは、昨夜アイリスが言った通りだった。
「今日は来られるかしら」
エマが呟く。
その時、通りの向こうから一人の男が歩いてきた。
城の制服ではない。
地味な上着に、雨除けの外套。
通りを歩く者達と大きく変わらない格好だった。
けれど、足運びが少し違う。
周囲を見る目も、ただの買い物客ではなかった。
男はリリエの前で足を止めると、店の中にいるリアナへ軽く頭を下げた。
「リアナ様でいらっしゃいますか」
「はい」
リアナは少しだけ姿勢を正した。
男は声を低くする。
「王城より参りました。フィーナ様の外出許可が下りましたので、ご報告に」
エマが奥で小さく目を丸くする。
リアナは静かに頷いた。
「本日、こちらへ?」
「はい。天候は優れませんが、雨脚は弱く、短時間であれば問題ないとの判断です。すでに出立の準備に入っております」
「分かりました。お待ちしています」
男はもう一度頭を下げる。
「本日のフィーナ様は、通常の外出時とは異なる服装でお越しになります。セシル殿も同様です。念のため、周囲には数名が控えますが、通りの方々に余計な不安を与えないよう、離れて配置されます」
「承知しました」
「店内での対応は、普段通りで構わないとのことです」
男はそこまで告げると、わずかに表情を和らげた。
「フィーナ様は、藁細工を大変楽しみにしておられました」
リアナの口元が少し緩む。
「きっと、大切に持ってこられるのでしょうね」
「はい。今朝も、包み方についてセシル殿と少々揉めておられました」
「揉めて?」
「尾羽が潰れるといけない、と」
リアナは思わず笑いそうになった。
「それは大変です」
「セシル殿も、かなり慎重に包んでおられました」
男はそう言ってから、すぐに真面目な顔へ戻った。
「では、私は先へ戻ります。到着まで、しばらくお待ちください」
「はい。ありがとうございます」
男は軽く礼をし、通りへ戻っていった。
その背中が人の流れに紛れる。
けれど、リアナの目には、少し離れた場所で立ち止まっていた別の男が、彼と視線を交わしたのが分かった。
花を買いに来た客のような顔をしている。
だが、姿勢が崩れていない。
さらに向かいの軒下にも、一人。
新聞売りの横で、雨宿りをしているように見える女も、おそらくそうだ。
エマが小声で言った。
「……ずいぶん自然なのね」
「はい」
「自然すぎて、逆に落ち着かないわ」
リアナは少しだけ笑った。
「いつも通りでいいそうです」
「それが一番難しいのよ」
エマはそう言いながらも、店先の花を整え直した。
リリエの中は、いつも通りだった。
春の花を束ねた小さな花束。
鉢植えの若葉。
雨に濡れた通りを少し明るくするために、入口近くへ置いた黄色い花。
そして軒下には、藁の兎。
その隣に空けてある小さな場所。
フィーナの鳥を飾るために、リアナが朝のうちに用意しておいた場所だった。
それから少しして、通りの先がわずかにざわついた。
大きな声が上がったわけではない。
誰かが道を空けたわけでもない。
ただ、数人の流れが、少しだけ変わった。
リアナは顔を上げる。
灰色の外套を着た少女が、両手で包みを抱えて歩いてきた。
王城で見るような華やかな服ではない。
淡い茶色の上着に、動きやすい丈のスカート。
髪も飾りすぎず、町の裕福な家の子どもと言われれば、そう見える。
だが、歩き方は少しだけ慎重だった。
包みを守るために、両腕に力が入っている。
その横に、同じく目立たない服装をしたセシルが付き添っていた。
セシルも城内でのきっちりした装いではない。
落ち着いた色の外套を羽織り、髪も控えめにまとめている。
それでも、フィーナの歩幅に合わせながら周囲へ目を配る様子は、いつものセシルだった。
「リアナ様!」
フィーナが店先に着くなり、小さく声を上げた。
大きすぎないように気を付けた声だった。
けれど、嬉しさは隠せていない。
「フィーナ様」
リアナは店の前へ出た。
「いらっしゃいませ。雨が強くならなくてよかったです」
「はい。来てもよいと言われました」
フィーナは得意そうに言った。
「ただし、長くは駄目だそうです」
セシルが横から付け加える。
「フィーナ様。そこは最初にお伝えしなくてもよろしいかと」
「でも、本当のことです」
「本当ですが」
リアナは微笑んだ。
「では、短い時間でしっかり見せていただきますね」
フィーナは大きく頷いた。
そして、抱えていた包みを慎重に差し出す。
「尾羽が折れていないか、まだ確認していません」
「それは大切ですね」
「セシルが、とても厳重に包みました」
「尾羽を守るためです」
セシルが静かに言う。
「フィーナ様が、さらに二本足そうとされたため、保護が必要になりました」
「一本です」
フィーナがすぐに訂正した。
「二本目は、少し考えただけです」
「考えた時点で危険でした」
リアナは包みを受け取りながら、笑いをこらえた。
エマも店の奥から顔を出す。
「いらっしゃいませ。まあ、大事そうな包みね」
「エマ様」
フィーナは少し嬉しそうに礼をした。
「今日は、完成した鳥を持ってきました」
「楽しみにしていましたよ」
エマが言うと、フィーナの顔がぱっと明るくなった。
リアナは店内の小さな台へ包みを置く。
フィーナ、セシル、エマが見守る中、布をゆっくりほどいた。
中から現れたのは、藁で作られた鳥だった。
丸い身体。
左右で少し大きさの違う翼。
そして、やはり長い尾羽。
昨日より少し整えられている。
だが、見本通りではない。
不格好ではある。
けれど、ただ真似て作ったものより、ずっと生きているように見えた。
フィーナは少し緊張した顔でリアナを見る。
「……鳥に見えますか?」
リアナは、すぐに頷いた。
「見えます」
「本当に?」
「はい。遠くまで飛びそうな鳥です」
フィーナの表情が、ぱっと明るくなった。
「やっぱり、尾羽が長いからですね」
「翼も、片方が少し大きいので、風をよく受けられそうです」
「そうなのです」
フィーナは嬉しそうに鳥を見た。
「少し曲がって飛ぶかもしれませんが、きっと戻ってこられます」
「戻ってくる鳥なのですね」
リアナが尋ねると、フィーナは少し考えた。
「はい。願いを届けて、ちゃんと戻ってくる鳥です」
その答えに、リアナは少しだけ目を細めた。
店の外では、風がまた通りを抜ける。
軒下の兎が揺れた。
遠くの空はまだ重い。
けれど、リリエの中だけは、少し明るくなったようだった。
エマが軒下の兎の隣を指差す。
「ここに飾りましょうか」
「兎の隣ですか?」
フィーナが聞く。
「ええ。うちの兎は花を持っています。フィーナ様の鳥は願いを運ぶ。並べると、ちょうどよさそうです」
フィーナは少しだけ真剣に考えた。
それから、満足そうに頷く。
「では、お願いします」
リアナは藁の鳥をそっと持ち上げた。
尾羽を潰さないように。
片方だけ大きい翼を曲げないように。
軒下の兎の隣へ、丁寧に置く。
花を抱えた兎。
願いを運ぶ鳥。
二つの藁細工が、雨の当たらない場所で並んだ。
フィーナはそれを見上げて、小さく笑った。
「ちゃんと春灯祭みたいです」
「はい」
リアナも頷いた。
「とても春灯祭らしいです」
その時、遠くの空がまた白く光った。
リリエの中の空気が、一瞬だけ静かになる。
フィーナは窓の外を見た。
北東の雲の奥。
昨日と同じように、稲光が細く走っていた。
「……今日も光っています」
フィーナが言った。
リアナは、隣に立つ小さな横顔を見る。
不安そうだった。
けれど、怖がって泣き出すような顔ではない。
何かが気になって、確かめたくて仕方がない顔だった。
「リアナ様」
「はい」
「これは、ただの雷ですか?」
その問いに、リアナはすぐには答えなかった。
セシルが静かにフィーナを見守っている。
エマも、花を整える手を止めたまま、言葉を挟まない。
店の外では、通りの人々が傘を傾けて歩いている。
誰も、まだ異変とは思っていない。
リアナは北東の空を見た。
今、ここで大きな危険が迫っているとは感じない。
少なくとも、すぐに王都の人々を避難させなければならないようなものではない。
けれど、だからといって、安全だと言い切ることも出来なかった。
何が、どのくらいの大きさで、どこまで届くのか。
リアナ自身にも、まだ掴み切れていない。
だからこそ、言葉を選ばなければならなかった。
フィーナを安心させたい。
でも、嘘はつきたくない。
「今すぐ、ここから逃げなければいけないようなものとは感じません」
リアナは静かに言った。
フィーナはじっとリアナを見る。
「では、怖がらなくてもいいのですか?」
「怖がりすぎなくてもいい、という方が近いです」
「……少しは怖がった方がいいのですか?」
フィーナは真剣に聞いた。
その聞き方があまりにまっすぐで、リアナは少しだけ表情を緩める。
「少し気にしておく、くらいでしょうか」
「少し」
「はい。空を見て、雨が強くなったら無理をしない。地面が揺れたら、慌てずに安全な場所へ移動する。そういうことです」
「それは、いつもの注意ですね」
「そうです。いつもの注意を、少し丁寧にするだけです」
フィーナは難しい顔で頷いた。
「でも、ただの雷とは言わないのですね」
リアナは答えに詰まった。
フィーナは、そういうところを聞き逃さない。
「……ただの雷だと、言い切るには少し気になります」
「リアナ様でも、分からないことがあるのですか?」
「ありますよ」
リアナは素直に答えた。
「たくさんあります」
フィーナは目を丸くした。
「たくさん?」
「はい。分からないことの方が、多いくらいです」
「それは、少し困ります」
「私も困っています」
リアナがそう言うと、フィーナはなぜか少し安心したように息を吐いた。
「では、私が困っても普通ですね」
「普通です」
セシルが静かに言った。
「フィーナ様は、困った時ほど、まず落ち着いてください」
「落ち着いています」
「先ほど、鳥の尾羽を握りしめておられました」
フィーナは自分の手を見る。
もう鳥は軒下に置かれている。
けれど、包みを持っていた時の癖で、まだ少し手に力が入っていたらしい。
「……尾羽を守っていたのです」
「もう置いてあります」
「そうでした」
そのやり取りに、エマが小さく笑った。
リアナも少しだけ表情を緩める。
外の空は重い。
遠くの稲光も消えていない。
けれど、藁の鳥は兎の隣で、長い尾羽を揺らしていた。
その時だった。
店の扉が、勢いよく開いた。
「リアナちゃーん」
聞き慣れた声が、雨の匂いと一緒に入ってくる。
振り返ると、サラが立っていた。
ラルカ亭の給仕服の上に外套を羽織り、髪の端が少し濡れている。
いつもなら店に入ってくるなり明るい声を出すはずのサラは、今日は妙に肩を落としていた。
頬を膨らませているような。
納得いかないような。
それでいて、少し落ち込んでいるような。
両腕には、大きな布包みを抱えている。
「サラさん?」
リアナが声を掛けると、サラは深いため息をついた。
「聞いてよ。ひどいの」
エマがすぐに反応する。
「あら、どうしたの。お店で何かあった?」
「あった」
サラは重々しく頷いた。
「今年の春灯祭のために、私が心を込めて作った藁細工が――」
そこまで言いかけて、サラの視線が止まった。
フィーナを見た。
そして、ぱちぱちと瞬きをする。
「あれ」
フィーナも顔を上げた。
「サラ様」
「さ、様?」
サラは布包みを抱えたまま、少し後ろへ引いた。
「え、待って。私、今、様って呼ばれた?」
「はい」
フィーナは不思議そうに頷く。
「前に道でお会いした時、リリエのことを教えてくださいましたから」
「ああ!」
サラは思い出したように手を打とうとして、布包みが邪魔で出来なかった。
「前にリリエを探してた子だ。そうそう、あの時の」
「その節はありがとうございました」
フィーナは丁寧に頭を下げる。
サラは困ったように笑った。
「いや、私、結局ちゃんと案内できてないんだけどね。荷物置きに走って、戻ったらもうリアナと会ってたし」
「でも、リリエを知っていると教えてくれました」
「それでお礼を言われると、なんか私がすごく役に立った人みたいになる」
「違うのですか?」
「役には立った」
サラは即答した。
エマが奥で小さく笑う。
リアナも少しだけ表情を緩めた。
フィーナはにこにことサラを見ている。
サラもつられて笑いかけたが、そこで何かが引っかかったように首を傾げた。
「……あれ?」
「どうしました?」
「いや、そういえばあなたって……」
サラは眉を寄せる。
前に会った時。
身なりの良い少女。
付き添いの女性。
少し離れたところにいた護衛らしい人達。
いや、護衛まではよく覚えていない。
その時は、リリエを探している子がいる、リアナに会いたいらしい、たぶん自分のせいで噂が広がった、エマさんに怒られる。
そのあたりで頭がいっぱいだった。
だが、後からリアナに聞いた。
あの子は。
たしか。
「えっと、たしか……」
サラが重要なことを思い出しかけた、その時だった。
フィーナが少しだけ姿勢を正した。
「改めまして。フィーナ・アウグストです」
店内が、一瞬だけ静かになった。
サラは動かなかった。
瞬きもしなかった。
布包みを抱えたまま、固まっている。
数秒。
それから、ゆっくりとフィーナを見た。
「……アウグスト」
「はい」
「フィーナ」
「はい」
「王女様」
サラの声が、急に小さくなった。
フィーナは少し困ったように笑う。
「今日は、あまり目立たないようにと言われています」
「目立たないように」
サラは繰り返した。
そして、自分の腕の中にある布包みを見下ろす。
大きい。
妙な形に膨らんでいる。
ところどころ、藁の先が布から飛び出している。
ラルカ亭の店長に、入口に飾ることを却下されたばかりのもの。
通りすがりのお客さんが三歩下がるかもしれないと言われたもの。
それを。
王女様の前に。
サラは無言で、布包みを背中へ回した。
リアナが瞬きをする。
「サラさん?」
「何でもない」
サラは真顔で言った。
「私は今日、何も持ってきていない」
「持っています」
フィーナが素直に指摘した。
「背中に」
「これは背中」
「背中ではありません」
セシルが静かに言った。
サラはびくりとする。
サラはさらに布包みを隠そうとする。
だが、大きすぎて隠れない。
むしろ藁の角のようなものが、布の端からぴょこんと出た。
フィーナの目が輝いた。
「角があります」
「ありません」
「あります」
「気のせい」
「動きました」
「風です」
「店内です」
フィーナが真剣に返す。
サラは助けを求めるようにリアナを見た。
「リアナちゃん」
「はい」
「王女様にこんなの見せたら、不敬?」
「こんなの、とは」
「いや、違うの。私の中では大事な子なの。でも、店長に入口は駄目って言われたし、お客さんが三歩下がるかもって言われたし、王女様が見たら、これは春灯祭に対する不敬です、みたいなことに」
「なりません」
セシルが静かに言った。
サラはすぐに背筋を伸ばした。
「本当ですか」
「少なくとも、願いを込めて作った藁細工を見ること自体は、不敬ではありません」
「見ること自体は」
サラはその言い方に引っかかった。
「中身はまだ審査されてない感じですね」
「中身を見ていませんので」
「ですよね」
フィーナは一歩近付いた。
「見たいです」
「駄目です」
サラは即答した。
「なぜですか?」
「私の心の準備が出来ていないからです」
「サラ様の?」
「はい。王女様に見せる準備です」
フィーナは少し考えた。
それから、真面目な顔で言う。
「私は、春灯祭の藁細工を見たいです」
サラは固まったまま、フィーナを見た。
「王女様として?」
「いえ」
フィーナは少しだけ首を振る。
「今日は、リリエへ鳥を持ってきたフィーナとして」
その言い方に、サラは少し困ったような顔をした。
真っ直ぐすぎる。
そういう言われ方をすると、逃げにくい。
リアナは軒下に並んだ藁細工へ目を向けた。
花を抱えた兎。
長い尾羽の鳥。
そして、サラの背中に隠されている、説明の難しそうな何か。
「サラさん」
リアナは静かに言った。
「見せてもいいと思います」
「本当に?」
「入口に飾るかどうかは別として」
「そこは別なんだ」
「はい」
エマが笑いながら頷いた。
「ここなら大丈夫よ。リリエの中なら、通りすがりのお客さんが三歩下がる前に、私達が説明できるもの」
「説明できる?」
リアナが小さく呟く。
エマは聞かなかったことにした。
サラはしばらく迷っていた。
それから、ようやく布包みを前に戻す。
「では」
妙に改まった声だった。
「春を呼び、悪いものを追い払い、お客さんの胃袋を温め、ついでにラルカ亭の売り上げも上げてくれる、縁起の良い獣です」
「すごいです」
フィーナが素直に言った。
「まだ見ていませんが、すごいです」
「見る前に褒められると、少し怖い」
サラはそう言いながら、リリエの小さな台に布包みを置いた。
全員が見守る中。
ゆっくりと、布をほどいていく。
まず見えたのは、藁で作られた太い脚だった。
一本。
二本。
三本。
四本。
そこまでは、まだ獣と言えなくもなかった。
次に、翼のようなものが出てきた。
左右に広がっている。
ただし片方は鳥の翼のようで、もう片方はどちらかというと葉に近い。
その上に、角があった。
角は二本。
しかし片方だけ妙に長い。
さらに尾があった。
尾の先には、小さな輪が三つ結ばれている。
腹のあたりには、なぜか丸い膨らみがあり、そこにも細い紐が巻かれていた。
全体として。
何かを守っているようにも見える。
今にも走り出しそうにも見える。
転びそうにも見える。
そして、見れば見るほど、最初に何の動物として考えたのかが分からなくなっていった。
店内が静かになる。
雨音だけが聞こえた。
サラは胸を張っている。
フィーナは目を輝かせている。
セシルは表情を崩さないようにしている。
エマは口元を押さえていた。
リアナは、言葉を選んだ。
「……今年も、力強いですね」
「でしょう?」
サラはぱっと顔を上げた。
「力強いって、店長にも言われた」
「そうなんですね」
「でも、そのあとに、入口はやめようって言われた」
「なるほど」
リアナは頷いた。
「力強すぎたんですね」
「そういうことなの?」
サラは少しだけ不満そうに藁細工を見る。
「私は、お客さんを迎えるのにぴったりだと思ったんだけど」
「かなり迎える気持ちはあります」
エマが言った。
「ただ、初めて見る人は、何に迎えられているのか考えるかもしれないわね」
「そこがいいんじゃないですか」
「そうね。常連さんなら喜ぶかもしれない」
「入口は?」
「中の方がいいわね」
エマは即答した。
サラは肩を落とした。
「やっぱりみんな入口はだめって言う」
フィーナは、真剣な顔で藁細工を見つめていた。
右から見る。
左から見る。
少ししゃがんで見る。
セシルがそっと声を掛ける。
「フィーナ様。近付きすぎです」
「もう少しで分かりそうなのです」
「何がでしょうか」
「この獣が、何をしようとしているのかです」
サラの顔が明るくなった。
「分かる?」
「まだ分かりません」
「分からないんだ」
「でも、何かを運んでいるように見えます」
フィーナは藁細工の腹の膨らみを指差した。
「ここに、大事なものが入っているのではありませんか?」
サラは目を見開いた。
「そう!」
声が少し大きくなった。
すぐにセシルがちらりと見る。
サラは慌てて声を落とした。
「そうなの。ここにはね、ラルカ亭の温かいスープの気持ちが入ってる」
「スープの気持ち」
フィーナは真剣に繰り返した。
「はい。寒い日に飲むと、ほっとするものですね」
「そう。それと、焼きたてのパンの匂いと、お客さんが『今日もおいしかった』って言ってくれる時の嬉しさ」
サラは藁細工の腹をそっと撫でた。
「そういうのを、全部入れた獣」
店内の空気が、少しだけ変わった。
形は奇妙だった。
説明も奇妙だった。
けれど、その願いは分かりやすかった。
ラルカ亭へ来る人が、温かいものを食べられるように。
笑って帰れるように。
春が、ちゃんと店の中まで来るように。
フィーナは小さく頷いた。
「なら、良い獣です」
サラは一瞬、ぽかんとした。
「良い?」
「はい」
フィーナはまっすぐ答える。
「形は、少し難しいですが」
「少し?」
セシルが小さく息を止めた。
エマの肩が震える。
リアナは視線を少し横へ逃がした。
フィーナは気付かず続ける。
「でも、願いは分かります。温かいものを運ぶ獣なのですね」
サラはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ照れたように笑う。
「王女様にそう言われると、なんかすごいもの作った気がしてきた」
「すごいものだと思います」
「本当に?」
「はい。ただ」
フィーナは藁細工をもう一度見る。
「入口にあると、少し驚くかもしれません」
サラは固まった。
「王女様もそっち派?」
「驚くことと、悪いことは違います」
フィーナは真剣だった。
「ですが、お店に入ろうとした人が、まず何の獣かを考えてしまうと、お腹が空いていることを忘れるかもしれません」
「それは困る」
サラは即答した。
「ラルカ亭としては困る」
「ですから、中に飾るのが良いと思います」
フィーナは少し得意そうに言った。
「入って、食事をして、温かくなってから見れば、きっともっと楽しいです」
サラは目を瞬かせた。
「……それ、店長より納得できる」
「そうなのですか?」
「店長は、三歩下がるって言っただけだったから」
「三歩下がる理由が分かりました」
フィーナは頷いた。
サラは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「なるほど。つまり入口じゃなくて、食べ終わった後に見る場所」
「はい」
「お会計の横とか?」
「よいと思います」
「お客さんが、帰る前にこれを見て、また来ようって思う」
「はい」
「売り上げが上がる」
「それは、私には分かりません」
フィーナは正直に言った。
サラは笑った。
「そこは分からないんだ」
「分からないことは分からないと言うようにしています」
「えらい」
サラは感心したように頷く。
「王女様って、もっと全部分かる感じなのかと思ってた」
「私も、分からないことはたくさんあります」
フィーナは少しだけ胸を張った。
「今も、この獣の名前は分かりません」
「名前」
サラは考えていなかったらしく、藁細工を見下ろした。
「名前か」
「名前がないのですか?」
「毎年、作ってから考えるから」
「私もです」
フィーナは嬉しそうに言った。
「私の鳥も、作っているうちに意味が決まりました」
「戻ってくる鳥だっけ」
「はい」
サラは藁の鳥を見る。
長い尾羽が、風に揺れている。
「いいなあ。ちゃんと意味がある」
「サラさんの獣にもあります」
「でも名前がない」
「では、今考えましょう」
フィーナは当然のように言った。
サラは少し驚いた顔をした。
「今?」
「はい。春灯祭までには必要です」
「そう言われると、必要な気がしてきた」
エマが笑いながら、台の近くへ花を一本置いた。
「では、名付け会議ね」
「会議ですか」
フィーナの目がまた輝く。
「はい。参加します」
セシルが静かに言った。
「フィーナ様。お時間が限られております」
「短い会議にします」
「そういう問題では」
「名前を決めるだけです」
フィーナは藁細工を見つめる。
「温かいものを運ぶ獣」
「春を呼ぶ」
サラが加える。
「悪いものも追い払う」
「胃袋を温める」
「売り上げも上げる」
「最後の願いが少し強いですね」
リアナが言うと、サラは真剣に返した。
「大事だよ」
「大事ですね」
エマが頷いた。
「では、全部入れると長くなります」
フィーナは考え込んだ。
「春を呼ぶ、温かい、獣……」
「春温獣?」
サラが言う。
「少し硬いです」
フィーナは即座に首を振った。
「じゃあ、ぬくぬく獣」
「少し可愛いです」
「売上獣」
「それはやめた方がいいと思います」
セシルが静かに言った。
サラは残念そうにする。
「だめかあ」
「駄目です」
リアナは藁細工を眺めた。
「春を運ぶ、温かいものを抱えた獣なら……春抱き獣、でしょうか」
「はるだきじゅう」
フィーナが繰り返す。
「少し、不思議な名前です」
「この子に合ってるかも」
サラは藁細工を見る。
「春を抱えてる獣」
「はい。お腹に、スープの気持ちが入っていますから」
フィーナが言う。
サラは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、春抱き獣」
「決まりですね」
フィーナは満足そうだった。
セシルが小さく息を吐く。
「命名までしてしまいましたね」
「短い会議でした」
「確かに短くはありました」
エマは笑いながら、店の奥から小さな札を持ってきた。
「名前を書く?」
「書く!」
サラが即答した。
「でも、私の字だと勢いが出すぎるかも」
「勢いはもう十分あります」
リアナが言った。
サラは少し考えて、フィーナを見る。
「王女様」
「はい」
「書いてもらうのは、さすがに不敬?」
フィーナは目を瞬かせた。
「私が?」
「うん。名前を決めてくれたし」
セシルが少しだけ困った顔をする。
リアナも、すぐには口を挟まなかった。
フィーナは小さな札を見た。
それから、自分の藁の鳥を見る。
リリエの兎。
サラの春抱き獣。
全部が同じ春灯祭のものとして、店の中に並んでいる。
「書きます」
フィーナは言った。
「よろしいのですか」
セシルが確認する。
「はい。今日は、リリエへ鳥を持ってきたフィーナとしてです」
サラは少しだけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
エマが筆を用意する。
フィーナは小さな札の前に立った。
少し緊張したように背筋を伸ばす。
筆先に墨を含ませ、慎重に文字を書く。
春抱き獣。
最後の一画が少し太くなった。
フィーナはそれを見て、少しだけ首を傾げる。
「少し、強そうになりました」
「いいじゃない」
サラは札を覗き込む。
「強そうな方が、この子に合う」
「では、よかったです」
リアナは札を受け取り、藁細工の前にそっと立てた。
花を抱えた兎。
戻ってくる鳥。
春抱き獣。
三つが並ぶと、リリエの一角はすっかり春灯祭らしくなった。
いや。
少しだけ、春灯祭から横へそれた何かも混じっていた。
けれど、それも含めて、悪くなかった。
フィーナは三つを見比べて、満足そうに笑った。
「にぎやかです」
「かなりにぎやかですね」
リアナが答える。
「春も迷わず来られそう」
サラが言った。
「これだけ目印があるんだから」
その時、遠くの空がまた白く光った。
店の中の明るさが、一瞬だけ変わる。
全員が、少しだけ窓の方を見た。
北東の雲は、まだ重い。
雷鳴は聞こえない。
ただ、遠くで何かが光っている。
サラが首を傾げた。
「今日も変な空だね」
その言葉は、さっきまでの騒がしさから少し離れていた。
「ラルカ亭のお客さんも言ってた。春灯祭の前なのに、なんか落ち着かないって」
フィーナがリアナを見る。
リアナはすぐには答えなかった。
笑い声の残りが、店の中から少しずつ薄れていく。
外では雨が細く降っている。
軒下の藁細工が風に揺れた。
願いを運ぶ鳥の尾羽が、小さく震える。
リアナはその動きを見てから、静かに言った。
「空も、地面も、少し落ち着きがありません」
「やっぱり?」
サラの声が少し低くなる。
「リアナちゃんがそう言うと、本当にそうなんだって思っちゃう」
「怖がらせたいわけではありません」
「分かってる」
サラは藁細工をそっと押さえた。
「でも、変なものは変だもんね」
フィーナは、先ほどより少しだけ真剣な顔になっていた。
「春灯祭は、予定通り行われるのでしょうか」
エマが優しく答える。
「今のところ、中止の話は聞いていませんよ」
「そうですか」
フィーナは少し安心したように頷いた。
けれど、完全には晴れない。
それは空と同じだった。
セシルが静かに時計を見る。
「フィーナ様」
その一言で、フィーナは時間を思い出した。
「……もうですか」
「はい。長くは駄目だと、出発前にお約束しています」
「分かっています」
フィーナは名残惜しそうに、軒下の鳥を見る。
「鳥は、ここに置いていってよいのですよね」
「はい」
リアナは頷いた。
「春灯祭の日まで、大切に飾ります」
「兎の隣に」
「はい」
「春抱き獣の近くにも」
「少し離した方が、鳥が驚かないかもしれません」
サラが真剣に言った。
「でも、仲良くなれるかも」
フィーナも真剣に返す。
「では、少しずつ近付けます」
リアナが言うと、サラとフィーナは同時に頷いた。
セシルは何も言わなかった。
言わない方がよいと判断したのかもしれない。
フィーナは店の外へ出る前に、もう一度リアナを見た。
「リアナ様」
「はい」
「空がもっと変になったら、教えてください」
リアナは一瞬だけ言葉に迷った。
フィーナを安心させたい。
けれど、何もないとは言えない。
「私に分かることがあれば」
そう答える。
「必ずお伝えします」
フィーナはそれで納得したように頷いた。
「では、私も空を見ます」
「はい」
「でも、見すぎて歩く時に転ばないようにします」
「それは大事です」
セシルがすぐに言った。
「特にお願いいたします」
フィーナは少しだけ頬を膨らませた。
「分かっています」
サラが手を振る。
「またね、フィーナちゃん」
言ってから、はっとする。
「ちゃんって言った」
フィーナは少し驚いた後、嬉しそうに笑った。
「はい。また」
セシルは一瞬だけサラを見たが、何も言わなかった。
おそらく、今日は見逃すことにしたのだろう。
フィーナは外套の前を整え、セシルと共に店を出た。
通りに出ると、少し離れていた者達が、自然に歩き始める。
誰も声を上げない。
誰も特別な道を作らない。
フィーナは町の子どものような服装のまま、雨の弱い通りへ戻っていった。
けれど、何度か振り返る。
リリエの軒下。
花を抱えた兎。
長い尾羽の鳥。
そして店内の台の上に置かれた春抱き獣。
それらを見てから、フィーナは小さく手を振った。
リアナも手を振り返す。
やがて、フィーナの姿は人の流れに紛れて見えなくなった。
サラはしばらく扉の外を見ていた。
「王女様って、思ってたより普通に笑うんだね」
「はい」
リアナは静かに答えた。
「よく笑います」
「あと、私の藁細工をちゃんと見てくれた」
「そうですね」
「いい子だね」
「はい」
リアナは軒下の鳥を見る。
「とても」
外の空は、まだ重い。
遠くの光も消えていない。
けれど、フィーナの鳥は兎の隣で揺れている。
サラの春抱き獣も、店内の台の上で、妙な迫力を放っている。
エマが小さく息を吐いた。
「さて」
現実に戻すような声だった。
「サラ、その獣、いつまでうちに置いていくの?」
「え」
サラは春抱き獣を見る。
「春灯祭まで?」
「ラルカ亭は?」
「お会計の横に置く案を店長に相談する」
「却下されたら?」
サラは真剣に考えた。
「リリエの子になる」
「なりません」
リアナとエマの声が、ほぼ同時に重なった。
サラは少しだけ肩を落とす。
「じゃあ、交渉してくる」
「頑張ってください」
リアナが言う。
「ただし、店長さんを困らせすぎないように」
「困らせないよ」
サラは春抱き獣を見る。
「たぶん」
「たぶん?」
「たぶん」
エマが笑いながら、店の扉を開ける。
サラは外へ出ようとして、ふと振り返った。
「リアナちゃん」
「はい」
「本当に、空、大丈夫?」
今度は冗談の声ではなかった。
リアナはサラを見る。
サラは明るくて、勢いがあって、よく騒ぐ。
けれど、人の不安には意外と敏い。
リアナが何かを隠している時も、深くは聞かずに、ただ気付く。
「今は、まだ」
リアナは言った。
「いつも通りにしていてください」
「今は、まだ、か」
サラは少しだけ眉を寄せた。
けれど、すぐに笑う。
「分かった。いつも通りにする」
「はい」
「つまり、店長に交渉する」
「それはいつも通りなんですか?」
「かなり」
サラは胸を張った。
その背中を見送りながら、リアナは小さく息を吐く。
店の中に残った春灯祭の気配。
軒下で揺れる兎と鳥。
雨に濡れた王都。
遠くの稲光。
そのすべてが、同じ時間の中にあった。
守りたい日常は、思っているより騒がしくて。
思っているより不格好で。
けれど、確かに温かかった。
だからこそ。
リアナは、北東の空から目を離せなかった。
あと、サラは春抱き獣を持ち帰るのを忘れ、リリエに残されたのだった。




