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第二十二話 赤い指輪 前編

五人が会議室を出た時、廊下の空気は先ほどよりも冷たく感じられた。

雨音は、もうほとんど聞こえない。

厚い壁と扉に遮られ、外の駐屯地の気配は遠くなっている。

代わりに聞こえるのは、軍靴の音。

壁の奥を通る配管の低い振動。

どこかで動き続ける機械のかすかな唸り。


本実験場。

グラウ大佐は、そう言った。

星の力を採掘する場所。

五人の身体を経由し、中心の青晶石へ蓄積する場所。

そのために、赤晶石の指輪は必要な媒介なのだと。

アイラは、自分の手元を見なかった。

見れば、指輪を意識してしまう。

意識すれば、先ほど聞いた言葉が戻ってくる。


媒介。

身体を通す。

採掘。

青晶石へ蓄積。

そして。

ヴェルナー大佐は、何も説明していないのか。

グラウ大佐の声が、まだ耳に残っていた。

「こちらです」

案内役の軍人が、廊下の途中で足を止めた。

扉が一つ、開かれる。

「ベルク少尉はこちらへ」

アイラは振り返った。

レナが眉を寄せる。

カティアが視線だけを動かす。

ミリアは何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。

ソフィアは静かにアイラを見ていた。


「個別か」

アイラが問う。

「初期確認は個別に行います」

案内役は答えた。

決まっていることを伝えるだけの声だった。

「所定の手順です」

所定の手順。

それだけで、五人を分けるには十分だった。

アイラは短く息を吐く。

「分かった」

それ以上、ここで抗議しても意味はない、そう判断した。

軍人として、だが、納得したわけではなかった。


「後で合流出来るのよね」

レナが言った。

「検査終了後、指示があります」

「答えになっていないわ」

案内役は、何も言わなかった。

その沈黙が答えだった。

アイラは、レナへ視線を向ける。

「従うぞ」

「分かってる」

レナは短く返した。

分かっている。

けれど、受け入れてはいない。

その感情は、声に出さなくても伝わった。

いや、伝わった、気がした。

アイラは一瞬だけ指先に熱を感じた。


赤晶石の指輪。

見ないようにしていたものが、そこにある。

「ベルク少尉」

再び呼ばれ、アイラは部屋へ入った。

扉が閉じる。

四人の気配が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。

一人になった、そう思った瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。

検査室は狭かった。

椅子。

机。

壁際の計測器。

腕を置くための台。

赤晶石の反応を見るためと思われる、小さな金属板。

軍医らしい白衣の男と、記録係が一人。

それだけだった。


「手をこちらへ」

指示に従い、アイラは右手を台に置いた。

赤晶石の指輪が、計測器の近くで鈍く光る。

「緊張していますか?」

軍医が尋ねる。

「していない」

答えた瞬間、自分でも嘘だと分かった。


緊張ではない。

怒り。

警戒。

不信。

そのどれかに近い。

だが、どれか一つではない。

アルト大佐は、どこまで知っていたのか。

赤晶石の意味を知っていたのか。

自分達の身体を通すことを知っていたのか。

星の力を採掘すると知っていたのか。

知っていたなら、なぜ言わなかったのか。

不安にさせないため。

段階を踏むため。

守るため。

もしそう言われたら、自分は納得出来るのか。

アイラは、唇を引き結んだ。

命令なら、命令でよかった。

危険な任務なら、そう言えばよかった。

帝国のために必要だと言われれば、軍人として受け止める覚悟はあった。

だが。

信じさせてから、知らされる。

それは違う。

そう思った瞬間、指輪が微かに熱を持った。


同時に、別の感情が流れ込んでくる。

苛立ち。

鋭く、焼けるような怒り。

レナだ。

根拠はない、けれど、分かった。

ふざけるな。

どうして黙っていた。

何が守るためだ。

言葉にならない怒りが、胸の内側を叩く。

続いて、冷たい思考が重なった。


情報が足りない。

判断材料が偏っている。

だが、説明されなかった事実は消えない。

カティアのものだ。

さらに、不安が広がる。

信じていたのに。

大佐なら大丈夫だと思っていたのに。

それは、ミリアの震えに似ていた。

そして最後に、痛みが来た。

静かな痛み。

誰かを責めたいのに、責めきれない。

それでも怖い。

ソフィアの感情だった。

アイラは、思わず手を引きそうになった。

「動かないでください」

軍医が言う。

アイラは手を戻した。

「反応値が上がっています」

記録係が小さく言った。

「精神反応の同期傾向あり」

「一人でも出るのか」

軍医が呟く。

一人ではない。

アイラはそう思った。


部屋には一人だ。

だが、完全な一人ではない。

赤晶石の奥で、五人の感情が細い糸のように絡んでいる。

言葉はない。

声もない。

それでも、互いの不安が分かる。

怒りが分かる。

失望が分かる。

まるで、会議室で聞かされた言葉が、五人の中で何度も反響しているようだった。

アルト大佐は。

本当は、何を考えていたのか。

レナは、検査室の椅子に座らされたまま、ずっと機嫌の悪い顔をしていた。

「腕を動かさないでください」

「動かしてないわ」

「指先に力が入っています」

「入るでしょうね」

記録係が困ったように視線を落とす。


レナは構わなかった。

腹が立っていた。

グラウ大佐にも、中央にも、この施設にも。

そして、アルト大佐にも。

一番腹が立つのは、そこだった。

嫌いな相手なら簡単だった。

最初から信用していない相手なら、騙されたとも思わない。

けれど、アルト大佐は違った。

少なくとも帝都では、五人を人として扱っていた。

レナが反発しても、力で黙らせなかった。

疑問をぶつければ、答えられる範囲で答えた。

命令だけで押し切らなかった。

だから、信じた。

完全ではないにしても。

少なくとも、この人は自分達を悪いようにはしないのだと。

そう思ってしまった。


「最悪ね」

「何か?」

「独り言」

レナは吐き捨てるように言った。

赤晶石の指輪が熱い。

熱いのは、指輪なのか。

自分の怒りなのか。

それすら分からない。

その熱の奥から、アイラの抑えた緊張が来る。


カティアの冷たい疑念が来る。

ミリアの傷付いた気配が来る。

ソフィアの痛みが来る。

五人が同じことを考えている。

アルト大佐は、知っていたのか。

レナは奥歯を噛んだ。

知っていたなら、許せない。

知らなかったなら、それはそれで何なのか。

責任者だったのではないのか。

守ると言うなら、何から守るつもりだったのか。


「数値、上がっています」

「そうでしょうね」

レナは低く言った。

「怒ってるもの」

記録係の手が止まった。

レナは笑わなかった。

冗談にする気にもなれなかった。

カティアは、検査室の機器を見ていた。

見たことのない型だが、構造の意図はある程度分かる。

赤晶石の反応。

脈拍。

体温。

精神反応。

おそらく、地脈との接続値。

そして、五人同士の同期傾向。


「説明はありますか?」

カティアが尋ねる。

「検査項目の詳細は、終了後に責任者へ報告されます」

「私にではなく?」

「そのように指示されています」

カティアは黙った。

予想通りだった。

情報は上へ集められる、本人には戻されない。

そういう設計だ、計画としては合理的。

人間相手としては不誠実。

アルト大佐なら、少なくとも訓練時には測定内容の一部を説明した。

反応の意味。

安定の仕方。

危険な兆候。

何に注意すべきか。

その説明があったから、カティアは協力出来た。


だが、ここでは違う。

自分達は測定される側であり、判断する側ではない。

「大佐は……」

言いかけて、止める。

どちらの大佐か。

グラウ大佐か。

アルト大佐か。

それすら、今はひどく遠い。

アルト大佐の仮説。

信頼関係。

疑心。

不安。

絶望。

それらが、意思疎通の強度を上げる可能性。

もしそれが本当なら。

帝都で築かれた五人の関係は、実験条件だったのか。

カティアは、感情を切り離そうとした。


事実だけを見る。

まだ証拠は足りない。

グラウ大佐の説明には誘導がある、アルト大佐の意図は確認されていない。

結論を急ぐべきではない。

そう考えた。

考えたはずなのに。

胸の奥から、不安が上がってくる。

自分のものではない不安。

ミリアのもの。

ソフィアのもの。

レナの怒り。

アイラの緊張。

それらが、指輪を通して混ざっていく。

「同期値、上昇」

誰かが言った。

カティアは指輪を見た。

赤晶石が、微かに光っている。

「……なるほど」

小さく呟く。

理論としては興味深い。

だが。

今それを興味深いと思ってしまった自分に、カティアは嫌悪を覚えた。

自分達は、いま実験されている。

その事実だけは、疑いようがなかった。

ミリアは、一人になってから、ようやく笑えなくなった。

検査室に入るまでは、何とか軽口を探していた。

レナに言えば、きっと何か返してくれる。

ソフィアなら、困ったように笑ってくれる。

アイラなら、短くたしなめてくれる。

カティアなら、真面目に訂正してくれる。

そういうやり取りで、いつも少しだけ楽になれた。

けれど今は、一人だった。


白い壁。

無機質な椅子。

赤晶石を見る計測器。

知らない技術兵。

知らない記録係。

誰も、ミリアをミリアとして見ていない。

候補者五名の一人。

適性保持者。

媒介。

そのどれかだ。

「痛みはありますか?」

「ありません」

「違和感は?」

「少し」

「どのような?」

「……指輪が重いです」

技術兵は、記録係へ視線を向けた。

「圧迫感、あり」


違う。

そういう意味ではない。

ミリアは言いたかった。

でも、言わなかった。

指輪が重い。

昨日までは、ただの訓練具だった。

大佐から渡されたものだった。

これを着けていれば、反応が安定する、測定がしやすくなる、訓練に必要だ。

そう言われて、ミリアは疑わなかった。

疑わなかった自分が、今は悔しかった。

「大佐は……」

声が漏れる。

「はい?」

「何でもありません」

大佐は、どんな顔でこれを渡したのだろう。

あの時、何を知っていたのだろう。

ミリア達が笑って受け取るのを、どう思って見ていたのだろう。


胸の奥が痛くなる。

その痛みに、別の感情が重なった。

レナの怒り。

アイラの抑えた声。

カティアの冷たい思考。

ソフィアの静かな怯え。

みんな、同じように苦しんでいる。

そう分かった瞬間、少しだけ安心してしまった。

一人ではない。

でも、その安心すら指輪が運んできたものなら。

それも実験の一部なのか、ミリアは、膝の上で手を握った。

赤晶石が熱い。

大佐。

私達がこうして互いを感じることも。

本当に、必要だったんですか?。

ソフィアは、検査の間、何度も呼吸を整えた。

吸って。

吐く。

ゆっくり。

焦らない。


自分が落ち着けば、他の四人にも少しは伝わるかもしれない。

そう思った。

本当に伝わるのかは分からない。

けれど、先ほどから胸の奥に、四人の感情が触れている。

アイラの緊張。

レナの怒り。

カティアの疑念。

ミリアの不安。

そのどれもが痛かった。

だから、ソフィアは自分だけでも落ち着こうとした。

落ち着きたかった。


「気分は悪くありませんか?」

「少し、胸が重いです」

「痛みは?」

「痛みではありません」

「圧迫感として記録します」

ソフィアは、静かに頷いた。


違う。

そう思っても、訂正する言葉が見つからない。

胸が重いのは、身体の問題だけではない。

アルト大佐のことを考えるたびに、息が詰まる。

大佐は優しかった。

少なくとも、そう感じていた。

五人を不必要に怖がらせないようにしてくれていた。

訓練が終わった後、無理はないかと確認してくれた。

ミリアの冗談にも、レナの反発にも、カティアの質問にも、アイラの報告にも、きちんと向き合ってくれた。

それが全部、嘘だったとは思いたくない。

思いたくないのに。

説明されなかったことが、多すぎる。


「……怖いです」

小さく呟いた。

記録係が顔を上げる。

「何がですか?」

ソフィアは答えなかった。

星の力が怖い。

この施設が怖い。

グラウ大佐が怖い。

でも、それ以上に。

信じていたものが、違う形に見えてしまうことが怖い。

赤晶石が、微かに光った。

ソフィアは、指輪へ視線を落とす。


五人が繋がっている。

それは本来、心強いことのはずだった。

でも今は、その繋がりすら、誰かに利用されている気がした。


その日の夜、五人は合流出来なかった。

検査が終わると、それぞれ別の待機室へ移された。

食事も個別に運ばれた、質問しても、明確な返答はない。

「明日、指示があります」

「現在は待機してください」

「許可のない移動は認められません」

その繰り返しだった。


眠れた者はいなかった。

少なくとも、深く眠れた者はいない。

赤晶石の指輪は、夜の間も外されなかった。

外していいとは言われなかった。

外そうとした者もいなかった。

外した時に何が起こるのか、誰も説明されていなかったからだ。

夜の静けさの中で、五人は時折、互いの感情に触れた。

眠れない焦り。

怒りの余熱。

考え続ける疲労。

泣きそうになる気配。

それを押し殺す呼吸。

言葉は交わせない。

顔も見えない。

それでも、互いが近くにいることだけは分かった。


本実験場のどこかに。

壁を隔てたどこかに。

五人は、ばらばらに置かれている。

一人ずつに分けられているのに。

完全には切り離されていない。

そのことが、救いなのか。

それとも、鎖なのか。

誰にも分からなかった。


翌朝。

検査は再開された。

体温。

脈拍。

血圧。

赤晶石の反応。

精神反応。

簡易接続値。

同じような項目を、何度も測られる。

五人は昨日から一度も顔を合わせていない。

声も聞いていない。

ただ、指輪の熱だけが、互いの存在を知らせていた。


午前中が終わる頃には、疲労がはっきりと身体に残っていた。

大きな負荷を掛けられたわけではない。

だが、測られ続けること、説明されないこと、一人にされること。

それだけで、心は少しずつ削られていく。


午後。

ようやく、指示が変わった。

「会議室へ移動してください」

最初にそう告げられた時、アイラは顔を上げた。

「五人全員か」

「はい」

短い返答。

それだけで、胸の奥にわずかな緊張が走る。

五人は、それぞれ別の廊下から案内された。

合流したのは、会議室へ向かう途中だった。


アイラが最初に気付く。

レナ。

カティア。

ミリア。

ソフィア。

四人とも、昨日より少し疲れた顔をしていた。

「……全員、いるな」

アイラが言った。

「いるわよ」

レナが答える。

その声には、いつもの鋭さが残っていた。

だが、少しだけ掠れていた。

「大丈夫ですか」

ソフィアが尋ねる。

「そっちこそ」

ミリアが笑おうとして、うまく笑えなかった。

カティアは五人の指輪を順に見た。

「反応は、まだ続いていますね」

「分かるの?」

ミリアが聞く。

「分かります」

カティアは短く答えた。

「自分のものではない感情が混ざっている」

誰も否定しなかった。


廊下の先に、会議室の扉が見える。

昨日、グラウ大佐から説明を受けた部屋だった。

重い扉。

曇りガラスの窓。

その奥にある、赤線の引かれた地図。

五人は、自然と歩みを遅くした。

昨日の言葉が戻ってくる。

採掘。

媒介。

青晶石。

赤晶石。

ヴェルナー大佐は、何も説明していないのか。

扉の前で、案内役が足を止めた。


「中へ」

扉が開く。

五人は、会議室へ入った。

そこに、アルトがいた。

長い机の向こう側ではない。

部屋の中央に立っていた。

いつもと同じ軍服。

同じ姿勢。

同じ表情。

けれど、五人がその姿を見た瞬間。

赤晶石の指輪が、五つ同時に熱を持った。


安心ではなかった。

怒り。

疑問。

不安。

失望。

それでも、まだ完全には捨てきれない信頼。

その全てが一度に揺れて、五人の間を走った。

アルトは、その変化に気付いたように見えた。


目が、わずかに痛むように細められる。

「……五人とも」

彼は言った。

声は静かだった。


アイラは一歩前に出る。

「アルト大佐」

その呼び方は変わらない。

けれど、そこにあった温度は変わっていた。

アルトは、それを聞き取った。

聞き取ってしまった。


「話をさせてほしい」

アルトは言った。

五人は、すぐには答えなかった。

昨日までなら、その言葉だけで、少なくとも耳を傾けようとはしたはずだった。

大佐が話すなら。

大佐が説明するなら。

そう思えたはずだった。

けれど今は、その前に別の感情が立ち塞がる。


何を。

どこまで。

今さら。

なぜ昨日ではなく、今なのか。

「座れと言われていませんが」

アイラが言った。

アルトは、一瞬だけ言葉に詰まった。

「……座ってくれ」


五人は、昨日と同じ側に並んで座った。

アイラ。

レナ。

カティア。

ミリア。

ソフィア。

その並びは変わらない。

だが、机の向こうに立つアルトを見る目は、帝都にいた頃とは違っていた。

アルトは、椅子には座らなかった。

立ったまま、五人を見る。

まるで、座る資格を失ったことを自分で理解しているようだった。


「まず、謝らせてほしい」

アルトは言った。

「君達に十分な説明をしなかった」

レナが、小さく息を吐いた。

笑いではなかった。

「十分な説明?」

その声には、鋭い棘があった。

「説明が足りなかった、で済む話なんですか?」

アルトはレナを見る。

「済むとは思っていない」

「なら、何ですか」

レナは机の上に手を置いた。

「赤晶石の指輪が媒介だったことも。私達の体を通して星の力を青晶石へ送ることも。星の力を採掘するなんて言葉も。全部、説明が足りなかっただけですか?」

アルトは答えられなかった。

その沈黙に、赤晶石が微かに熱を持つ。


レナの怒りが、他の四人へ広がる。

アイラはそれを感じながら、表情を動かさなかった。

カティアは視線を伏せず。

ミリアは膝の上で手を握り。

ソフィアは静かに息を整えていた。

「説明するつもりはあった」

アルトは、ようやく言った。

「段階を踏む必要があった。急に全てを伝えれば、君達を不安定にさせる」

「昨日、十分に不安定になりました」

ソフィアが言った。

柔らかい声だった。

けれど、そこに逃げ場はなかった。


「知らされないままここへ来て、グラウ大佐から初めて聞かされました。私達の体を通すのだと。指輪は媒介なのだと」

ソフィアは、自分の指輪を見た。

「大佐からいただいたものだと思っていました」

アルトの顔が、わずかに歪む。

「安定させるためのものでもあった」

「でも、それだけではなかった」

カティアが続けた。

「大佐は、それを知っていましたか?」

アルトは、カティアを見た。

カティアの声は冷静だった。

怒っていないように聞こえる。

だが、赤晶石を通して伝わる感情は違っていた。


冷たい疑念。

失望。

それでも答えを求める、最後の理性。

「赤晶石が媒介に使われることは知っていた」

アルトは言った。

「ただし、君達に渡した段階では、主目的は反応の安定と測定だった」

「主目的」

カティアが繰り返す。

「では、副次的な目的としては、既に媒介としての運用が想定されていたと」


アルトは黙った。

カティアは目を逸らさない。

「大佐。私達は技術用語の言い換えを聞きたいのではありません」

アルトの手が、わずかに握られる。

「……想定はされていた」

その言葉が落ちた瞬間、五人の間に走ったものは、はっきりと痛みだった。

想定されていた。

つまり、最初から。

少なくとも、いつかはそうなると分かっていたと。

ミリアの顔が歪んだ。

「じゃあ、あの時」

声が震える。

「帝都で指輪を渡された時も、大佐は知っていたんですか?」

「ミリア少尉」

アルトは、名前を呼んだ。

その呼び方は、以前と変わらない。

だからこそ、ミリアは余計に傷付いた。


「名前で呼ばないでください」

小さな声だった。

だが、部屋の中で確かに響いた。

アルトは息を止めた。

ミリア自身も、自分がそう言ったことに驚いたようだった。

けれど、言葉はもう戻せない。

「すみません」

ミリアは俯いた。

「でも、今は……そう呼ばれると、分からなくなるんです」

赤晶石が熱を持つ。

ミリアの混乱が、五人へ伝わる。


名前を呼ばれたことへの揺らぎ。

まだ信じたい気持ち。

それを許したくない気持ち。

全部が混ざっていた。

アルトは、何か言おうとして、やめた。

「君達を道具として扱うつもりはなかった」

ようやく出てきた言葉は、それだった。

レナの目が鋭くなる。

「つもりはなかった」

グラウ大佐が言った言葉と同じだ。


つもり。

アルト自身も、それに気付いたのだろう。

苦しげに口を閉じる。

アイラは、その顔を見ていた。

苦しんでいる、それは分かる。

嘘を言っていないのも、おそらく分かる。

だが、だからといって、何もなかったことにはならない。

「大佐」

アイラが言った。

アルトは、ゆっくりとアイラを見る。

「大佐は、最終的に私達をどうするつもりだったのですか?」


部屋の空気が止まった。

「ベルク少尉」

「答えてください」

アイラの声は静かだった。

「私達は、星の力を採掘するために集められた。赤晶石の指輪を渡され、訓練を受け、互いの反応を高めるように調整された」

一つずつ、確認する。

逃げ道を塞ぐためではない。

自分達がどこに立たされているのかを知るために。

「私達は、ただの星の力を採掘するための道具だったのですか?」

「違う」

アルトは即座に言った。


今度は迷わなかった。

だが、その声に痛みがあることを、五人は感じ取ってしまう。

痛みがある。

それは、完全には否定出来ないものがあるからではないのか。

そう思ってしまう。

「違うなら」

レナが言った。

「どう違うんですか」

アルトは言葉を探した。

「君達は適性者だ。だが、それだけではない。私は、君達を生かしたまま、安全に力を扱う方法を探していた」

「生かしたまま」

レナの声が低くなる。


「それ、褒められる話ですか?」

「クロフト中尉」

「死なせないつもりだったから、道具じゃないって?」

アルトは目を伏せなかった。

だが、返す言葉もすぐには出てこない。

「私達は軍人です」

アイラが言った。

「危険な任務に就く覚悟はあります。国のために必要だと言われれば、命を懸ける覚悟もあります」

その言葉は、五人全員の中に沈んだ。


そうだ。

それは本当だ。

帝国軍人として、その覚悟はある。

「ですが、知らされないまま利用される覚悟をした覚えはありません」

アルトの表情が、はっきりと変わった。

アイラは続ける。

「命令なら、命令でよかった。危険なら、危険だと言えばよかった。軍人として扱うなら、そう扱えばよかった」

静かな声だった。

しかし、その奥には強い怒りがあった。


「私達は、信じることで従わされたのですか?」

赤晶石が熱くなる。

アイラの問いが、五人の中で響く。

信じることで従わされた。

その言葉は、誰の胸にも刺さった。

アルトは、低く息を吸った。

「そうするつもりはなかった」

「また、つもりですか」

カティアが言った。

鋭い声ではない。

だからこそ、重かった。

「大佐がそうするつもりだったかどうかと、計画がそういう構造になっていたかどうかは別です」

アルトは何も言えない。


カティアは続けた。

「候補者同士の信頼関係を高める。互いの感情を共有しやすくする。その後、不安や疑念、絶望のような強い負の感情が加われば、同期反応が増す可能性がある」

アルトの目が揺れた。

ほんの僅かに。

だが、五人には分かった。

「あったんですね」

カティアが言った。

「そういう仮説が」

「……あった」

アルトは答えた。


部屋の中で、誰かが息を呑んだ。

おそらくミリアだった。

「私が初期案として提案した」

アルトの声は低かった。

「だが、それを実行するつもりはなかった。君達を傷付けることで反応を高めるような運用は、認めるつもりはなかった」

「でも、考えたんですね」

ミリアが言った。


顔を上げていた。

目に涙はない。

けれど、泣いているよりも痛そうだった。

「私達が仲良くなって、大佐を信じて、そのあと怖い思いをすれば、もっと強く繋がるかもしれないって」

「少尉、私は――」

「考えたんですね」

もう一度。

今度は、逃がさないように。

アルトは、沈黙した。


それが答えだった。

ミリアは小さく頷いた。

何かを受け入れたように。

何かを諦めたように。

「私、昨日からずっと考えていました」

声が震える。

「大佐が優しかったのは、本当に優しかったからなのか。それとも、私達を安心させるためだったのか。私達が大佐を信じるようにするためだったのか」

「違う」

「どこが違うんですか」

ミリアの声が、少しだけ強くなった。


「大佐の中では違っても、私達からはもう分かりません」

その言葉は、アルトの胸を深く抉った。

分からない。

それが一番重かった。

善意だった。

守るつもりだった。

傷付けたくなかった。

そう言えば言うほど、五人には分からなくなる。

その善意が、どこまで本物で。

どこから計画の一部だったのか。


「大佐」

ソフィアが静かに言った。

「私達が互いを信じあうことまで、任務の一部だったのですか」

アルトは、答えられなかった。

答えられないことが、答えになった。

ソフィアは目を伏せた。

「そうですか」

「違う」

アルトは、やっと声を出した。

「違う。少なくとも、私にとっては違う」

「でも、計画にとっては?」

ソフィアが尋ねる。


アルトは言葉を失った。

計画にとっては。

中央にとっては。

グラウにとっては。

そして、初期仮説を書いた過去の自分にとっては。

五人の信頼は、反応を高める条件だった。

それを完全に否定することは出来ない。

アイラは、ゆっくりと息を吐いた。

「分かりました」

「少尉・・・」

「大佐の説明は聞きました」

その声は、軍人としてのものだった。

「私達を傷付けるつもりはなかった。段階を踏んで説明するつもりだった。守るつもりだった」

一つずつ、アルトの言葉を並べる。


「ですが、私達が知らされなかったことは変わりません。私達の信頼が計画に利用され得るものだったことも変わりません」

アルトは何も言えなかった。

「今後の命令には従います」

アイラは言った。

「私達は帝国軍人ですから」

その言葉に、レナが唇を噛む。

カティアは目を伏せる。

ミリアは手を握りしめる。

ソフィアは静かに頷く。

「ですが」

アイラは、アルトをまっすぐ見た。

「もう、大佐の優しさだけでは動けません」

赤晶石の指輪が、五つ同時に熱を持った。


その熱は、怒りだけではなかった。

悲しみ。

失望。

それでも、まだ完全に捨てきれない何か。

アルトは、それを感じ取ることは出来ない。

だが、五人の表情を見れば分かった。

自分は、遅すぎたのだと。

扉の外で、足音がした。

案内役の軍人が扉を開ける。

「時間です」

短い通告だった。

アルトは振り返らない。

五人も、すぐには立たなかった。

だが、命令は命令だった。

アイラが最初に立ち上がる。

続いて、レナ。

カティア。

ミリア。

ソフィア。

「本日は、この後も検査があります」

案内役が告げる。

「詳細は追って通達されます」

五人は、アルトの横を通り過ぎる。

誰も、何も言わなかった。

ミリアだけが、一瞬足を止めた。

けれど、振り返らなかった。

そのまま、歩いていく。


扉が閉じる。

部屋に、アルトだけが残された。

長い沈黙が落ちる。

机の上には、昨日と同じ地図がある。

赤い線で示された本実験場。

中央へ向かう五つの経路。

その線が、今は五人の心に入った亀裂のように見えた。

アルトは、目を閉じた。

守るためだった、そう言える。

だが、その言葉はもう。

五人には届かなかった。


扉が閉じてから、しばらくの間、アルトは動かなかった。

五人の足音は、もう聞こえない。

会議室には、昨日と同じ地図が掛けられている。

赤い線で示された本実験場。

中央へ向かう五つの経路。

それは、施設の配置図であるはずだった。


だが今のアルトには、別のものに見えていた。

五人を中心へ追い込むための線。

逃げ道を消していく線。

そして、自分がその線を引く側にいたという事実。

「もう、大佐の優しさだけでは動けません」

アイラの声が、耳の奥に残っている。

怒鳴られたわけではない。

罵倒されたわけでもない。

だからこそ、深く刺さった。

五人はまだ、完全にアルトを拒絶したわけではない。

少なくとも、そう見えた。

だが、信じることはもう出来ない。

その境界線を、はっきりと引かれた。

アルトは、低く息を吐いた。


その時、扉が開いた。

入ってきたのは、オスカー・グラウ大佐だった。

「終わったようだな」

アルトは振り返らなかった。

「見ていたのか」

「全てではない」

グラウは淡々と答える。

「だが、記録は取っている」

アルトはそこでようやく振り返った。


「記録」

「赤晶石の反応。五名の同期値。君との対面前後の精神反応の変化」

グラウは机の端に置かれた記録盤へ視線を落とした。

「興味深い結果だった」

アルトの目が冷える。

「興味深い、か」

「そうだ」

グラウは否定しなかった。

「ある意味、君の構想は証明された」

その言葉に、アルトの表情がはっきりと変わった。

「オスカー」

「候補者同士の信頼関係が十分に構築された状態で、不安、疑念、失望、怒りといった負の感情が加わる。結果として、五名間の同期反応は明確に上昇した」

グラウは静かに続ける。

「彼女達は離されていても互いの感情を拾った。君との対面時には、反応がさらに揃った。特に、君への不信が共有された瞬間の波形は顕著だ」

「黙れ」

アルトの声は低かった。

「これは成果ではない」

「実験上は成果だ」

「五人の結果だ」

「君の仮説通りにな」

アルトは一歩、グラウへ近付いた。


「私は、それを実行するつもりはなかったと言ったはずだ」

「だが、実行されれば反応は出た」

グラウは、まるで机上の数値を読むように言った。

「君が望んだかどうかは、結果には関係ない」

その言葉は、アルトの胸を抉った。

望んでいない。

だが、考えた、記録した。

そして今、別の者がそれを使っている。

五人は傷付いた。

その傷が、数値として評価されている。


「本日以降」

グラウは続けた。

「本格的な接続試験へ移行する」

アルトは答えなかった。

グラウは机の上に資料を広げる。

「本日は追加検査と基礎接続。明日以降、段階的な採掘試験を行う。五名同時接続による流量確認、赤晶石の負荷確認、中心青晶石への蓄積率測定」

「早すぎる」

「数日以内に運用を開始する」

「無理だ」

アルトは即座に言った。


「五人の精神状態は安定していない。赤晶石の反応も予測範囲を超えている。そんな状態で本格運用へ移れば、制御不能になる」

「だから君がいる」

「私は止めるためにいる」

「違う」

グラウはアルトを見た。

「君は成功させるためにいる。中央からの命令は変わらない」

アルトは拳を握る。

「中央は現場を見ていない」

「現場を見るために私がいる」

「君は数値を見ているだけだ」

「数値を見ずに、何を根拠に運用する?」

「人間だ」

アルトは言った。

「五人は人間だ」

「何度も聞いた」

グラウの声は冷たい。

「だが、人間であることは、計画を止める理由にはならない」


その時、窓の外で雷が鳴った。

先ほどよりも近い。

低く、長く、山肌を這うような音だった。

二人は、ほとんど同時に窓へ視線を向けた。

外は、さらに暗くなっていた。

昼過ぎのはずなのに、空は夕方のように沈んでいる。

雨は弱まるどころか、細かな幕のように降り続き、風に煽られて斜めに走っていた。

山肌から流れ落ちる水が、敷地内の排水溝へ濁った筋を作っている。

遠くの斜面では、土が崩れたような茶色い跡が見えた。

「天候も悪化している」

アルトが言った。

「周辺河川は増水しているはずだ。ここへ来る道も不安定だった。土砂崩れの危険もある」

「報告は受けている」

グラウは答えた。

「第三山岳国境警備隊が周辺警戒に出ている。河川の氾濫危険区域には近付かないよう通達済みだ」

「本実験場にも影響が出る」

「施設は山岳基地の基準で補強されている」

「地脈の異常と天候が連動している可能性を考えているのか」

グラウは、そこでわずかに沈黙した。


「可能性はある」

「なら、なおさら試験は延期すべきだ」

「延期はない」

短い返答だった。

「オスカー」

「王国が動いた。周辺国が国境に兵を置いた。帝国内の観測所は反応を拾っている。天候異常も進んでいる」

グラウは窓の外を見る。

「だからこそ、延期はない」

アルトはその横顔を見た。

グラウは焦っていないように見える。


だが、急いでいる。

中央も同じだ。

魔王反応。

周辺国の動き。

帝国内観測所の異常。

悪化する天候。

増水する河川。

崩れ始める山肌。

それら全てが、計画を止める理由ではなく、進める理由として扱われている。

「この状況で運用試験を行えば、事故の危険は上がる」

アルトは言った。

「承知している」

「承知して進めるのか」

「そうだ」

グラウは答えた。

「帝国が何も持たないまま、魔王と周辺国の動きを見ているだけで済む段階ではない」

「だから五人を使う」

「五人しかいない」

その言葉は、あまりにも簡潔だった。

五人しかいない。

だから使う。

それが中央の論理であり、グラウの判断だった。


アルトは、窓の外の雨を見た。

山の水が増えている。

地面が緩んでいる。

空は荒れている。

そしてこの施設の地下では、星の力を引き出す準備が進んでいる。

全てが、危険な方向へ傾いている。

それでも、計画は止まらない。

「五人には、次の段階で新しい赤晶石を渡す」

グラウが言った。

アルトは振り返る。

「新しい赤晶石?」

「これまでの指輪は試験用だ。反応傾向を確認するには十分だったが、本格運用には耐えない」

「まさか」

「高出力対応のものを用意している」

アルトの顔色が変わった。

「まだ早い」

「君は何を聞いても早いと言う」

「本当に早いからだ」

「だから君は外された」

その一言で、空気が凍った。


グラウは、淡々と続ける。

「高出力対応の赤晶石は、本格運用の前提だ。中心青晶石へ十分な流量を送るには、現行の指輪では制御幅が狭い」

「五人の身体が耐えられる保証はない」

「そのために段階試験を行う」

「数日で?」

「数日でだ」

アルトは、机の上の配置図を見た。

五つの測定点。

中央の青晶石。

赤い線。

その全てが、急速に現実へ変わっていく。

五人はまだ、自分との会話の傷も消えていない。

昨日の説明も消化出来ていない。

眠れてもいない。


それなのに。

新しい指輪。

本格試験。

数日以内の運用開始。

「君は、五人を壊す」

アルトは言った。

「壊さないために、君が調整する」

グラウは返す。

「それが技術顧問としての君の役割だ」


役割。

また、その言葉だった。

アルトは目を閉じた。

自分の役割。

五人の役割。

グラウの役割。

中央が決めた線の上で、全員が動かされている。

その線の先に何があるのか。

誰も本当には見ていない。

いや。

見ようとしていない。

窓の外で、また雷が鳴った。

今度は、建物の壁が微かに震えた。

雨はさらに強くなる。

遠くで警笛が鳴った。

駐屯地の兵士が、増水した側溝へ土嚢を運んでいるのが見える。

山の方角から、濁った水が流れ込んでいた。


アルトはその光景を見て、低く呟いた。

「……山が拒んでいるようだな」

グラウは振り向かない。

「山ではない」

彼は言った。

「星だ」

その言葉に、アルトは黙った。

グラウは机の上の資料を閉じる。

「準備に入る。君にも記録室で全数値を確認してもらう」

「五人には?」

「予定通り通達する」

「私も同席する」

「許可しよう」

グラウは扉へ向かう。

その背中に、アルトは言った。

「オスカー」

グラウが足を止める。

「このまま進めば、取り返しがつかなくなる」

グラウは振り返らなかった。

「取り返しがつく段階は、もう過ぎている」

そう言って、扉を開けた。


廊下の冷たい空気が、部屋へ流れ込む。

グラウは出ていく。

扉が閉じる。

アルトは一人、会議室に残された。

雨音が、さらに強くなる。

雷が、遠くで低く鳴り続けている。

五人は、この施設のどこかにいる。

赤晶石の指輪を嵌めたまま。

互いの不安を拾いながら。

そして外では。

山も、川も、空も。

これから始まるものを拒むように、荒れ始めていた。


その日の夕刻。

五人は再び、会議室へ集められた。

昼間と同じ部屋だった。

長い机。

曇りガラスの窓。

壁に掛けられたカルドラ山周辺の地図。

赤い線で示された本実験場の区画。

変わらないはずの部屋なのに、昨日よりも空気が重く感じられた。


五人は、同じ並びで座った。

アイラ。

レナ。

カティア。

ミリア。

ソフィア。

だが、誰もすぐには口を開かない。

午後にアルト大佐と話した。

その会話は、何かを解決するものではなかった。

むしろ、分からなかったことが、よりはっきり分からなくなっただけだった。

大佐は嘘をついていないのかもしれない。

本当に守ろうとしていたのかもしれない。

けれど、隠されていたことは消えない。

考えられていたことも消えない。

私達が互いを信じたことまで、任務の一部だったのですか。

その問いに、大佐は答えられなかった。

その沈黙が、まだ五人の間に残っていた。


扉が開いた。

入ってきたのは、グラウ大佐だった。

その後ろに、アルトもいる。

五人の視線が、一瞬だけアルトへ向かった。

だが、すぐに戻る。

見続けるには、まだ痛かった。

グラウ大佐は、五人の向かい側に立った。

アルトは少し離れた位置に立つ。

昨日までなら、五人の近くに立っていたかもしれない。

けれど今は、その距離が当然のように見えた。


「本日より、本格運用に向けた接続試験を開始する」

グラウ大佐は、挨拶も前置きもなく言った。

ミリアが、僅かに目を見開く。

レナの眉が動く。

「本日より?」

カティアが尋ねた。

「昨日、説明を受けたばかりです」

「昨日説明し、本日検査を行った」

グラウ大佐は答える。

「必要な初期値は取得している」

「それだけで、次に進むのですか?」

ソフィアの声には、珍しく戸惑いがあった。

「段階は踏む」

「その段階が早すぎると言っているのよ」

レナが低く言った。

グラウ大佐は、レナの言葉を受け流すように机へ視線を落とした。


「本日、基礎接続。明日以降、段階的な採掘試験。五名同時接続による流量確認と、中心青晶石への蓄積率測定を行う」

「明日以降?」

カティアが繰り返す。

「数日以内に、本格運用へ移行する予定だ」

その言葉に、五人の間で感情が揺れた。

早すぎる。

昨日、知らされたばかりで、今朝まで、一人ずつ検査された。

午後には、アルト大佐と話した。


そして今。

もう本格運用という言葉が出ている。

心が追いつかない。

理解も、納得も、覚悟も。

どれもまだ途中だった。

それなのに、計画だけが先へ進んでいく。

「待ってください」

ミリアが言った。

声が少し震えていた。

「私達、まだ何も……何も、ちゃんと分かっていません」

「必要なことは説明する」

グラウ大佐は言った。

「全てを理解してから進める時間はない」

「なぜですか」

アイラが問う。

短い問いだった。


だが、五人全員が知りたかったことだった。

なぜ、ここまで急ぐのか。

なぜ、昨日から今日へ。

今日から明日へ。

数日以内の運用へ。

なぜ、こんなに退路を塞ぐように進めるのか。

グラウ大佐は、しばらく沈黙した。

そして、静かに言った。


「魔王の出現が確認された」

部屋の空気が、止まった。

魔王。

その言葉は、帝国軍人である五人にとっても軽いものではなかった。

戦場の脅威とも違う。

隣国との緊張とも違う。

伝承であり、災厄であり、歴史の奥に刻まれた名。

「魔王……」

ソフィアが小さく呟く。

「どこで確認されたのですか?」

カティアが尋ねた。

グラウ大佐は、即答しなかった。

「詳細は開示出来ない」

「開示出来ない?」

レナが顔を上げる。

「私達には本格運用に参加しろと言っておいて?」

「情報の扱いは中央の判断だ」

「都合がいいですね」

レナの声に怒りが混じる。


グラウ大佐は表情を変えない。

「確かなことは、帝国にとって重大な脅威が現れたということだ」

帝国内での反応だと、その言葉は出なかった。

王国が周辺国へ伝達したことも。

帝国内の観測所が反応を拾っていることも。

周辺国の軍関係者らしき部隊が国境周辺に展開していることも。

五人には告げられない。

ただ、魔王の出現が確認された。

帝国にとって脅威である。

それだけが、置かれた。


「君達の働きは、これまで以上に重要になった」

グラウ大佐は続けた。

「星の力を安定して採掘し、青晶石へ蓄積する。それが可能になれば、帝国は魔王に対抗する手段を得る」

「兵器運用のためですか」

カティアが言った。

グラウ大佐は、わずかに目を細める。

「防衛手段だ」

「言い方を変えただけでは」

「国を守るための力だ」

その言葉に、五人は黙った。

国を守る。

帝国を守る。

そのために、自分達が必要だと言われている。

軍人として、その言葉を無視することは出来ない。


グラウ大佐は、それを分かっている。

分かった上で、言葉を選んでいる。

「君達の成果次第では、多くの国民の命が助かるだろう」

静かな声だった。

責める声ではない。

命じる声でもない。

だが、その言葉は五人の退路を塞いだ。

多くの国民の命。

冬の寒さに耐える町。

燃料不足に苦しむ地方都市。

魔王という名に怯える人々。

それらが、五人の前に並べられる。

断れるのか。

自分達が怖いから。

説明が足りなかったから。

信じていた人に失望したから。

だから出来ませんと。

そう言えるのか。

ミリアの手が震えた。

ソフィアがそっと自分の手を握る。

レナは唇を噛んだ。

カティアは目を伏せ、計算するように息を整える。


アイラは、グラウ大佐を見ていた。

「私達に拒否権はありますか」

アイラが問う。

グラウ大佐は、少しも迷わなかった。

「軍務上の命令だ」

予想していた答えだった。

だからこそ、重かった。

「ただし」

グラウ大佐は続けた。

「これは君達にしか出来ない任務でもある」

アイラの目が、わずかに細くなる。


命令。

適性。

国民の命。

帝国の防衛。

どれも、五人をこの場に留めるための鎖だった。

一つだけなら、まだ反論出来たかもしれない。

だが、全てを重ねられると、軍人である五人には逃げ場がない。


「本格運用に先立ち、装備を更新する」

グラウ大佐が合図を送る。

扉の横に控えていた士官が、金属製の小箱を机の上に置いた。

箱が開かれる。

中には、五つの指輪が並んでいた。

赤晶石。

だが、今までのものとは違う。

色が深い。

光が重い。

小さな石の中に、火を閉じ込めたような輝きだった。

ミリアが息を呑む。

ソフィアの顔が強張る。

レナが低く呟いた。

「また指輪」

「これまでの赤晶石指輪は試験用だ」

グラウ大佐は言った。

「反応傾向を確認するには十分だったが、本格運用には耐えない」

その言葉に、五人の心が沈んだ。


試験用。

では、今まで身に付けていたものは、やはりそこまでのものだった。

そして今渡されるものは、次の段階へ進むためのもの。

本格運用を目的としたもの。

「これは高出力対応の赤晶石だ」

グラウ大佐は続ける。

「中心青晶石へ十分な流量を送るため、制御幅を広げてある。今後の接続試験および採掘試験では、こちらを使用する」

カティアが指輪を見た。

制御幅。

流量。

高出力。

言葉は技術的だった。

だが、意味は単純だった。

より多くの力を通す。

より強い負荷を受ける。

より深く、星の力の流れへ組み込まれる。


「私達は」

ミリアが小さく言った。

「やっぱり、装置の一部なんですね」

グラウ大佐は、すぐには答えなかった。

その沈黙だけで、ミリアには十分だった。

アルトが一歩前に出ようとする。

だが、止まった。

何を言えばいいのか。

言える言葉が、もう見つからなかった。

「君達は装置ではない」

グラウ大佐は言った。

昨日と同じような言葉だった。

「だが、君達がいなければ、この運用は成立しない」

慰めではなかった。

否定ですらなかった。

必要だから使う。

それだけだった。


アイラは、机の上の指輪を見た。

今までの赤晶石は、訓練用だと思っていた。

大佐から渡されたものだと思っていた。

少なくとも、五人を安定させるためのものだと思っていた。

だが、今は違う。

目の前の指輪は、明らかに五人を本格運用へ進ませるためのものだった。

「装着してください」

士官が言った。

五人は動かなかった。

レナがグラウ大佐を睨む。

「ここで?」

「ここでだ」

「昨日までの指輪は?」

「回収する」

「外して問題ないんですか」

カティアが尋ねる。

「交換手順に従えば問題ない」

「その手順を昨日まで説明しなかったのは?」

グラウ大佐は答えない。

カティアはそれ以上聞かなかった。

聞いても、答えは同じだと分かっていた。


アイラが最初に手を伸ばした。

「アイラ」

ソフィアが小さく呼ぶ。

「命令だ」

アイラは短く言った。

「そして、私達にしか出来ないと言われた」

その声には、諦めではなく、怒りを押し殺した硬さがあった。

アイラは古い指輪を外した。

一瞬、指先が軽くなる。

だが、その軽さはすぐに消えた。

新しい指輪を嵌める。

赤晶石が、微かに光った。

熱い。

以前のものよりも、はっきりと。

指輪が肌に触れた瞬間、奥まで沈み込むような感覚があった。

レナが舌打ちして、指輪を取る。

カティアは無言で観察しながら嵌める。

ミリアは一度だけ躊躇い、ソフィアがそっと頷いたのを見てから指を通す。

ソフィアは最後に、静かに指輪を嵌めた。

五つの赤晶石が、同時に鈍く光った。


その瞬間。

五人の間に、また感情が流れた。

不安。

怒り。

怖さ。

諦め。

それでも、任務として立たなければならないという意志。

それらが混ざり合い、赤晶石の奥で一つの波になる。

アルトは、その様子を見ていた。

五人の表情を見て。

グラウ大佐の記録係が、すぐに数値を取っているのを見て。

自分がここにいる意味を、改めて思い知らされた。

止めるためではない、成功させるために呼ばれている。

壊さないために調整しろ。

そう命じられている。

だが、五人にとっては、それすら同じことなのかもしれない。


「これより、第一段階の基礎接続試験を行う」

グラウ大佐が告げた。

「五名は案内に従い、接続室へ移動する。現段階では中心青晶石への本格流入は行わない。赤晶石の出力確認、五名同時接続時の同期率、身体負荷を測定する」

「現段階では」

レナが言った。

「便利な言い方ですね」

「段階を踏むと言った」

グラウ大佐は答える。

「段階を踏んで、数日で本格運用」

レナは笑った。

「ずいぶん親切な段階ね」

グラウ大佐は反応しない。

「君達の働きは帝国を守るために必要だ」

彼は再び言った。


「魔王という脅威を前に、帝国が無力でいるわけにはいかない」

その言葉に、五人は返せなかった。

返せないように、言葉が選ばれている。

アイラは、それを理解していた。

理解していながら、軍人として立ち上がるしかなかった。

「行くぞ」

アイラが言った。

レナが無言で立つ。

カティアが続く。

ミリアは一度だけ自分の指輪を見た。

ソフィアが隣に立つ。

五人は会議室を出た。

廊下の向こうでは、機械の低い唸りが続いている。

外では雷が鳴っていた。

雨は、さらに強くなっている。

遠くで警笛が聞こえた。

周辺河川の増水を知らせるものか。

土砂崩れの危険を知らせるものか。

あるいは、この施設の中で始まろうとしている何かに、誰かが気付いたのか。

五人には分からない。

ただ、分かっていることが一つだけあった。

昨日まで、自分達は知らなかった。

今日、知らされた。

そして今。

もう、進むしかない場所へ連れて行かれている。

赤晶石の指輪が、五人の手元で静かに熱を持っていた。





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