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第二十一話 知らされなかった計画

列車が、ようやく駅へ入った。

車輪が濡れた線路の上を軋ませ、速度を落とし。

短い汽笛の後、軍用車両は低い振動を残して停止した。

窓の外には、小さな駅舎が見える。


石造りの壁。

低い屋根。

雨に濡れた軍用標識。

一般の乗客が利用する駅というより、物資や兵員を降ろすための施設に近かった。

ホームに立つ兵士達も、全員が雨具を着込んでいる。

「着いた、のよね?」

ミリアが窓の外を覗き込む。

「予定より、かなり遅れています」

カティアが懐中時計を確認した。

「ただ、動き続けられただけ、まだ良い方かもしれません」

「良い方、ね」

レナは肩を回した。

「体は全然そう思っていないけれど」

ソフィアが、膝の上に置いていた荷物を持ち上げる。

「皆さん、足元に気を付けてください。かなり濡れているようです」


アイラは、すぐには立たなかった。

窓の外。

駅舎の向こうに見える山道。

低い石壁。

雨に煙る尾根。

遠くに見える監視塔。

見覚えがある。

いや、見覚えがあるどころではない。

何度も通った場所だった。

補給物資を受け取る時。

負傷者を後方へ送る時。

新しく配属された兵を迎える時。

第三山岳国境警備隊にいた頃、この駅は何度も使っている。


「アイラ?」

ミリアが呼ぶ。

「どうしたの?」

アイラは、短く息を吐いた。

「ここは、第三山岳国境警備隊の最寄り駅だ」

「第三山岳……」

ソフィアが言葉を繰り返す。

「アイラさんが以前いた部隊ですよね」

「ああ」

アイラは頷いた。

「間違いない」

以前、行程表で駅名を見た時にも、可能性は考えた。

だが、その時はまだ、この駅から別の街道へ入る可能性もあると思っていた。

カルドラ山麓には、軍用の道が幾つもある。

地下施設へ向かう道。

資源採掘場へ続く道。

古い補給路。

見せかけの行程表である可能性も否定出来なかった。

だが、列車が停まった場所は、間違いなく。

かつて自分が何度も降りた駅だった。


「本実験場って」

レナが声を低くする。

「まさか、あなたの元いた基地ってこと?」

「まだ断定は出来ない」

アイラは答えた。

「だが、可能性は高くなった」

「高くなった、って」

ミリアが苦笑する。

「もうほとんどそう言っているようなものじゃない?」

アイラは返事をしなかった。


列車の扉が開く。

冷たい雨混じりの風が、車内へ入り込んできた。

ホームにいた軍人が一人、車両の前へ立つ。

「帝都からの移送対象、五名。降車してください」

その呼び方に、五人の間で、僅かに空気が変わった。


候補者でも。

訓練生でも。

帝都にいた時のような扱いでもない。

移送対象。

それは、人を数えるための言葉だった。

何のために呼ばれたのか。

どこへ運ばれるのか。

それを言わずに済ませるための言葉でもあった。


アイラが最初に立ち上がった。

「行くぞ」

荷物を持ち、車両を降りる。

雨で濡れたホームは滑りやすい。

ソフィアが足元を確かめながら降り。

ミリアがその後ろに続いた。

レナは外套の襟を立て、カティアは鞄を胸元へ抱えている。

迎えに来た軍人は、五人を順に確認した。

「アイラ・ベルク少尉」

「はい」

「レナ・クロフト中尉」

「はい」

「カティア・ローゼン少尉」

「はい」

「ミリア・フォークナー少尉」

「はい」

「ソフィア・エーレン軍曹」

「はい」

軍人は書類へ短く印を付ける。

「送迎車両を用意しています。駐屯地まで移動します」

「駐屯地?」

レナが聞き返した。

軍人は表情を変えない。

「第三山岳国境警備隊駐屯地です」

その名が出た瞬間。

ミリアとソフィアが、同時にアイラを見た。

カティアも、僅かに眉を動かす。

レナは小さく息を吐いた。

「当たり、みたいね」

アイラは、雨の向こうにある山道を見た。

まさか。

そう思っていた言葉が、胸の内で形を持つ。

本当に、元の基地へ戻ることになるとは。


駅舎の脇には、軍用車両が三台停まっていた。

中央の車両には、荷台に覆いが掛けられている。

その前後に、護衛用の車両が一台ずつ。

前の車両には、駅で出迎えた軍人と、書類を抱えた関係者らしい者達が乗り込んでいく。

後ろの車両には、護衛の兵士達が乗っていた。

目的を知っている者が、どれほどいるのかは分からない。

少なくとも、駅で手続きを行っている兵士達の顔に、特別な理解はなかった。

命令された通りに確認し。

命令された通りに送る。

それだけの顔だった。


中央の車両の運転席から、一人の兵士が降りてきた。

年は三十を少し越えたくらい。

山岳兵らしく、雨具の下でも動きやすい装備をしている。

その兵士は、五人を見て。

最後に、アイラの顔で視線を止めた。

「……ベルク少尉?」

アイラも、その顔を見た。


数秒。

雨音だけが間に落ちる。

「ロイ軍曹」

アイラが言った。

「まだここにいたのか」

「それはこちらの台詞です」

男は驚きを隠せないまま、敬礼した。

「帝都へ異動したと聞いていました」

「異動ではない」

アイラは短く答える。

「今は別任務だ」

ロイ軍曹は、一度だけ他の四人へ視線を向けた。

それ以上は聞かなかった。

聞いてよい任務ではないと判断したのだろう。

あるいは、そもそも、彼自身も詳しいことを知らされていないのかもしれない。


「駐屯地まで送ります」

「目的は聞いているのか」

アイラが尋ねた。

ロイは僅かに眉を動かした。

「帝都から来る五名を、指定区域まで送るようにとだけ」

「それだけか」

「はい」

ロイは声を落とした。

「駐屯地内でも、詳しい説明はありません。上からの特別任務だとしか」

アイラは短く頷いた。

一般兵にも知らされていない。

おそらく駐屯地の大半の兵士にも。

知らされているのは、通す場所と、近付いてはならない区域だけ。

それだけで十分なのだろう、命令を動かす側にとっては。


「道は」

アイラが尋ねる。

「悪いです」

ロイは即答した。

「ですが、通れます」

アイラはその答えに、小さく頷いた。

昔と変わらない。

この部隊の兵士は、危険を軽くは言わない。

通れると言ったなら、通れるだけの確認はしている。

ただし、楽に行けるという意味ではない。

五人は中央の車両へ乗り込んだ。

雨具の水が、床へ落ちる。

車内は狭く、向かい合わせに座ると、荷物を抱えるだけで余裕がなくなった。


ロイ軍曹が運転席へ戻る。

車両が低く震え、ゆっくりと動き出した。

五人を乗せた車両の前後には、別の軍用車両が一台ずつ付いている。

前の車両には、駅で出迎えた軍人と、書類を抱えた関係者らしい者達。

後ろの車両にも、護衛の兵士が乗っていた。


護送。

という言葉が、自然と頭に浮かぶ並びだった。

「ずいぶん丁寧なお迎えね」

レナが窓の外を見ながら言った。

「道が悪いからではありませんか?」

ソフィアが言う。

「それもあるでしょう」

カティアは前方の車両を見ていた。

「ですが、単なる送迎にしては、配置が厳重です」

「逃げないのにね」

ミリアが小さく呟く。

誰も、すぐには返事をしなかった。

駅を出ると、すぐに山道へ入った。

雨はまだ降り続いている。


ミリアが小声で言う。

「知り合い?」

「元同僚だ」

アイラが答えた。

「同じ駐屯地にいた」

「それってもう」

レナが言いかけて、窓の外を見た。

ロイ軍曹が運転席へ戻る。

車両が低く震え、ゆっくりと動き出した。

駅を出ると、すぐに山道へ入る。

雨はまだ降り続いている。

道の両側には、濡れた針葉樹が並び、その向こうに、灰色の岩肌が見えた。

アイラは窓の外を見ていた。

補給路。

見張り台へ続く分岐。

訓練で走らされた坂道。

すべて覚えている。

覚えているからこそ。

疑いようがなくなっていく。

この道は、第三山岳国境警備隊の駐屯地へ続いている。


本実験場。

その言葉が、頭の中で重く沈んだ。

なぜ、ここなのか。

なぜ、自分がいた場所なのか。

偶然だと考えるには、あまりにも出来過ぎている。

「アイラ」

ソフィアが静かに呼んだ。

「大丈夫ですか」

「問題ない」

アイラは即答した。

だが、その視線は、窓の外から離れない。

車両は雨の山道を進んでいく。

かつての任地へ。

そして五人がまだ知らない、本実験場へ近付いていた。



車両が低く震え、ゆっくりと動き出した。

駅を出ると、すぐに山道へ入る。

雨はまだ降り続いている。

道の両側には、濡れた針葉樹が並び、その向こうに、灰色の岩肌が見えた。

アイラは窓の外を見ていた。


補給路。

見張り台へ続く分岐。

訓練で走らされた坂道。

すべて覚えている。

覚えているからこそ、疑いようがなくなっていく。

この道は、第三山岳国境警備隊の駐屯地へ続いている。

本実験場。

その言葉が、頭の中で重く沈んだ。

なぜ、ここなのか。

なぜ、自分がいた場所なのか。

偶然だと考えるには、あまりにも出来過ぎている。


そこまで考えた時、アイラは、ふと別のことを思い出した。

第三山岳国境警備隊で勤務していた頃。

駐屯地の中で、何度か工事が行われていた。

最初に聞かされた名目は、老朽化した施設の補修。

その次は、防備強化。

山岳地帯では、落石や雪崩で外壁が傷むこともある。

地下水が染み込み、倉庫や通路の一部が使えなくなることも珍しくない。

だから当時のアイラも、深くは疑わなかった。

駐屯地に資材が運び込まれ、一部の区域が立入禁止になり。

見慣れない技術兵や工兵が出入りするようになっても。

山岳拠点では、そういうこともある、そう判断していた。

だが、今思えば、工事の範囲は、補修にしては広かった。

防備強化というには、外壁や監視塔とは離れた場所も多かった。

特に、山肌に近い古い倉庫群。

使われていない地下通路の入口。

冬期用備蓄庫の奥。

普段の警備任務では、ほとんど用のない場所にまで、資材が運ばれていた。

「……あの工事か」

アイラが小さく呟いた。

「工事?」

隣のミリアが聞き返す。

アイラは窓の外から視線を外さずに答えた。

「私がここにいた頃、駐屯地内で補修工事があった」

「補修?」

レナが眉を寄せる。

「この流れで出てくる補修って、嫌な響きしかしないわね」

「当時は、防備強化だと説明された」

アイラは言った。

「外壁の補強。倉庫の修繕。古い地下設備の確認。そう聞いていた」

カティアが、そこで顔を上げた。

「古い地下設備?」

「ああ」

アイラは頷く。

「カルドラの駐屯地には、昔から使われている地下倉庫や避難路がある。雪や落石で地上施設が使えなくなることがあるからだ」

「それを改修していた、ということですか」

ソフィアが尋ねる。

「そう説明されていた」

アイラは短く答えた。

「だが、今となっては分からない」


車両が、深い轍を越えて大きく揺れた。

ミリアが荷物を押さえる。

「つまり、その時からもう、本実験場を作っていたかもしれないってこと?」

「可能性はある」

アイラは言った。

「私が知っているのは、駐屯地の表側だけだ。立入禁止になった区域の中で何をしていたかまでは知らない」

「上手く隠したものですね」

カティアが低く言う。

「既存の軍施設なら、資材搬入も人員の出入りも、ある程度は説明がつきます。防備強化や補修なら、疑われにくい」

「しかも山の中」

レナが続けた。

「外から見えにくい。人も近付かない。警備も元からある」

「条件は揃っている」

アイラは答えた。

自分で言って、その言葉の重さを感じた。

条件は揃っている。

それはつまり。

この場所が偶然選ばれたわけではない、ということでもある。


「アイラ」

ソフィアが静かに呼んだ。

「大丈夫ですか」

「問題ない」

アイラは即答した。

だが、その視線は、窓の外から離れない。

雨の向こうに、駐屯地へ続く坂道が見え始めていた。

かつて何度も通った道。

任務を終えて戻った道。

夜明け前に出発した道。

その先にあるはずの場所が。

自分の知っている駐屯地のままなのか。

それとも、知らないうちに、別のものへ作り替えられていたのか。

アイラには、まだ分からなかった。

車両は雨の山道を進んでいく。

かつての任地へ。

そして五人がまだ知らない、本実験場へ近付いていた。


やがて、雨の向こうに駐屯地の外壁が見えた。

石造りの壁。

監視塔。

鉄柵の付いた門。

雨に濡れた帝国旗。

第三山岳国境警備隊駐屯地。


アイラが記憶している姿と、大きくは変わっていないように見えた。

門の位置も。

監視塔の高さも。

壁沿いに積まれた土嚢の場所も。

以前と同じだった。

少なくとも、外から見える範囲では。


前方の護衛車両が、門の前で停止する。

続いて、五人を乗せた車両も止まった。

後方の護衛車両も、少し距離を詰めて停車する。

門番の兵士が、雨具を被ったまま近付いてきた。

前の車両から、駅で出迎えた軍人が降りる。

書類を差し出し、短く何かを告げた。

門番は書類へ目を通し。

前方の車両。

五人の乗る車両。

後方の護衛車両。

順に視線を向けた。

ロイ軍曹が運転席の小窓を開ける。

「駅からの移送だ」

「対象は」

「五名。通達通りだ」

門番は五人の顔までは確認しなかった。

窓越しに人数だけを確かめ、書類へ印を付ける。

その表情に、特別な理解はなかった。

命令された車両を通す。

命令された区域へ近付かない。

それだけを知っている兵士の顔だった。

アイラは、その顔を見て理解した。

この兵も知らない。

おそらく、駐屯地にいる一般兵の大半は、本実験場の目的など知らされていない。


特別任務。

上層部命令。

関係者以外立入禁止。

それだけで、軍は動く。

門番が内側へ合図を送る。

重い門が、雨音の中でゆっくりと開いた。

三台の車両は、前後の間隔を保ったまま駐屯地の中へ入っていく。

中の景色も、やはり以前と大きくは変わっていなかった。


兵舎。

車庫。

訓練場。

資材置き場。

雨に濡れた広場。

山岳用の装備を背負った兵士達が、建物の軒下を移動している。

見慣れた配置。

見慣れた動線。

だが、そこにいる兵士達の視線だけは、以前とは違っていた。

五人の乗る車両を見る者。

すぐに目を逸らす者。

何かを知っているのではなく。

何かを知らされていないことだけを、分かっている者達の視線だった。


車両は兵舎の前を通り過ぎた。

本部棟にも向かわない。

訓練場の横を抜ける。

車庫の前も通り過ぎる。

駐屯地の奥へ。

山肌に近い区域へ。

アイラの胸の中で、嫌な確信が形を取り始めた。

「そっちへ行くのか」

小さく呟く。

「何かあるの?」

ミリアが尋ねた。

「工事していた区域だ」

アイラは答えた。

「補修と、防備強化の名目でな」

レナが窓の外を見る。

「当たり、というわけね」

「まだ中は見ていない」

「でも、あなたの顔はもう分かっている顔よ」

アイラは返事をしなかった。

車両は、山肌に近い一角へ向かって進んでいく。


古い倉庫が並んでいた場所。

冬期用の備蓄庫があった場所。

使われていない地下通路の入口があった場所。

かつて、長い間、立入禁止になっていた場所。

補修中。

防備強化中。

危険区域。

そう書かれた札が掛けられていた場所。

やがて、前方の車両が速度を落とした。

五人を乗せた車両も、それに続いて停まる。

そこにあったのは、石造りの大きな建物だった。

外観だけ見れば、古い倉庫を改修したものに見える。

だが、壁は以前より新しい。

窓は少ない。

入口は広くなり、厚い鉄扉が取り付けられている。

扉の両脇には、駐屯地の一般兵とは違う装備の兵士が立っていた。

第三山岳国境警備隊の兵ではない。

少なくとも、アイラの知る通常警備の配置ではなかった。

前方の車両から、書類を抱えた関係者達が降りる。

後方の護衛車両からも兵士達が降り、周囲へ散った。

ロイ軍曹が運転席から降り、五人の乗る車両の扉を開ける。


「到着です」

その声にも、目的を知っている響きはなかった。

命じられた場所へ運んだ。

それだけだった。

アイラは、建物を見上げた。

間違いない。

ここだ。

以前、補修だと説明されていた場所。

防備強化のためだと聞かされていた区域。

その奥で何が行われていたのかを、当時の自分は知らなかった。

知らされていなかった。

そして今。

五人は、その場所へ連れて来られている。

「本実験場……」

カティアが小さく呟いた。

レナは雨の中の建物を睨むように見た。

ミリアは、いつものようには笑わなかった。

ソフィアは、荷物を抱える手に力を込めている。

アイラは短く息を吐いた。

「降りるぞ」

そう言って、最初に車両を降りた。

雨が肩を叩く。

懐かしいはずの駐屯地の空気は。

知らない場所のように冷たかった。


建物の中へ入ると、空気が変わった。

外は、確かに第三山岳国境警備隊の駐屯地だった。

雨の匂い。

濡れた土。

油と鉄の匂い。

山岳兵の軍靴が泥を引きずる音。

アイラが知っている、駐屯地の空気がそこにはあった。

だが、この建物の中には、それとは別のものが混じっていた。


新しい塗料。

磨かれた金属。

消毒液に似た、乾いた匂い。

外観は古い倉庫を改修したように見えた。

けれど中は、記憶にある場所とはまるで違っていた。

床には新しい石材が敷かれ。

壁には配管と導線を隠すための板が張られている。

天井には、見慣れない照明器具。

廊下の角には、用途の分からない計測器らしい箱。

古い軍施設の中へ、別の施設を無理に押し込んだような造りだった。


「こちらへ」

案内役の軍人が、短く告げる。

ロイ軍曹は、入口のところで足を止めた。

「俺はここまでです」

アイラが振り返る。

「中には入らないのか」

「許可がありません」

ロイは答えた。

「ここから先は、指定された者以外立入禁止です」

その声に、含みはなかった。

本当に、それ以上のことは知らされていないのだろう。

アイラは短く頷いた。

「そうか」

ロイは、一瞬だけ迷ったように見えた。

何か言いたいことがある。

けれど、それを言う立場にはない。

そういう顔だった。

やがて、彼は姿勢を正す。

「お気を付けて」

「任務ならな」

アイラが答える。

ロイは僅かに目を見開き。

それから、小さく笑った。

昔のやり取りを思い出したのかもしれない。

だが、その笑みはすぐに消えた。


扉が閉じる。

外の雨音が、少し遠くなる。

その瞬間、五人は完全に駐屯地の内側から切り離されたような気がした。

同じ敷地の中にいるはずなのに。

ここだけが、別の場所だった。

五人は案内役に従い、廊下を進んだ。

前後には護衛が付いている。

武器を向けられているわけではない。

だが、自由に歩けるわけでもない。


「荷物は」

レナが尋ねる。

「後ほど確認します」

案内役は前を向いたまま答えた。

「今は、責任者がお待ちです」

「責任者?」

ミリアが小さく繰り返す。

「大佐ではなく?」

案内役は答えなかった。

その沈黙だけで、十分だった。

アルト大佐ではない。

ここで五人を待っているのは、別の責任者なのだ。


廊下の突き当たりに、重い扉があった。

扉の前には二人の兵士が立っている。

第三山岳国境警備隊の制服ではない。

胸元の徽章も違う。

中央から派遣された兵か。

あるいは、この施設専属の警備兵か。

少なくとも、アイラが知る山岳警備隊の兵ではなかった。

案内役が書類を見せる。

兵士が確認し、扉を開ける。

中は、会議室のような部屋だった。

長い机。

向かい合わせに並べられた椅子。

壁際の棚。

窓はあるが、厚い曇りガラスになっていて、外の景色は見えない。


部屋の奥には、カルドラ山周辺の地図が掛けられていた。

ただし、駐屯地の奥にあたる一部には赤い線が引かれ。

細かな記号が、幾つも書き込まれている。

カティアの視線が、自然とそこへ向いた。

「座ってお待ちください」

案内役が言う。

五人は、机の片側に並んで座った。

アイラ。

レナ。

カティア。

ミリア。

ソフィア。

誰が決めたわけでもないのに、帝都にいた時と同じ並びだった。


扉が閉じる。

部屋の中に、短い沈黙が落ちた。

「会議室、ですね」

ソフィアが静かに言う。

「見た目はね」

レナは椅子の背に軽く手を置いた。

「出入口に兵士が二人。窓は曇りガラス。地図は一部だけ赤線入り。あまり歓迎会という雰囲気ではないわ」

「歓迎会のつもりで来たの?」

ミリアが尋ねる。

「まさか」

レナは即答した。

「でも、お茶くらいは出してほしい気分よ」

「水分補給は大事です」

ソフィアが真面目に頷く。

「そこは乗るのね」

ミリアが小さく笑った。

その笑いは、すぐに消えた。


アイラは、部屋の奥の地図を見ていた。

赤い線が引かれている場所。

山肌に近い区域。

古い倉庫群。

冬期用備蓄庫。

かつて立入禁止になっていた場所。

やはり、そこだった。

「アイラ」

カティアが低く声を掛ける。

「地図の赤線部分は、先ほど話していた区域ですか」

「ああ」

アイラは答えた。

「私が知っている限りでは、昔は倉庫と地下通路の入口があった場所だ」

「今は違う」

レナが言う。

「そう見るべきだろう」


その時、扉の向こうで足音がした。

一人ではない。

護衛か、随行者か。

だが、部屋へ入ってきたのは一人の男だった。

年は四十代半ばほど。

軍服は着ている。

しかし、前線の軍人というよりは、中央の官僚に近い整い方をしていた。

雨に濡れた様子はない。

黒に近い茶色の髪。

細い目。

表情は穏やかだが、温度がない。

男は部屋に入ると、五人を順に見た。

その視線は、人を見るというより。

資料と照合しているようだった。


「到着が遅れたようだな」

男は言った。

「悪天候のためです」

アイラが答える。

男は頷いた。

「報告は受けている。列車も道路も、予定通りには動かなかった。だが、到着したなら問題はない」

問題はない。

その言い方に、レナが僅かに眉を動かした。

男は机の向こう側へ回る。

椅子には座らなかった。

立ったまま、五人を見下ろす位置に立つ。

「まず名乗っておこう」

男は静かに言った。

「私はオスカー・グラウ。本実験場の責任者を任されている」

本実験場。

その言葉が、部屋の中で冷たく響いた。


「大佐は」

ソフィアが口を開いた。

「アルト大佐は、こちらへ向かっているのでしょうか」

グラウは、すぐには答えなかった。

その間が、五人の不安を静かに押し広げる。

「向かっている」

やがて、彼は言った。

「ただし、悪天候により到着は遅れている」

「どのくらい」

レナが尋ねる。

「現時点では不明だ」

「不明?」

「道路状況が悪い。連絡も断続的だ。到着次第、こちらへ合流することになる」

「それまで待つのですか」

カティアが尋ねた。


グラウは、僅かに首を傾ける。

「何を待つ必要がある?」

カティアの目が細くなる。

「大佐は、私達の訓練と調整を担当していました」

「以前は、だ」

グラウの声は変わらない。

「現在の責任者は私だ。アルト・ヴェルナー大佐は技術顧問として、本実験場の運用に参加する。必要な意見は求めるが、手続きそのものは予定通り進める」

アルト・ヴェルナー。

普段、五人が呼ぶことのない名だった。

大佐。

アルト大佐。

帝都では、ほとんどそれだけで通じていた。

だが、この男は違う。

どこか距離を置くように。

あるいは、あえて個人として切り分けるように、その名を呼んだ。


「質問がある」

アイラが言った。

グラウは、そこで初めてアイラへ視線を向けた。

「許可しよう」

その言い方に、アイラの眉が僅かに動いた。

「なぜ、この駐屯地を本実験場にした」

グラウはすぐには答えなかった。

机の上に置いた書類を、指先で軽く揃える。

それから、思い出したように口を開いた。

「その前に、一つ訂正しておこう」

「訂正?」

「私は先ほど、本実験場の責任者とだけ名乗った」

グラウは、穏やかな声のまま続けた。

「オスカー・グラウ大佐だ。以後、質問をする時は、そのつもりで」

部屋の空気が、僅かに硬くなった。

階級を名乗り忘れていた。

そういう形を取ってはいたが。

本当に忘れていたわけではない。

アイラには、そう見えた。

この男は、あえて今それを告げたのだ。


質問する側と、答える側。

命令を受ける者と、命令を出す者。

その位置を、先に示すために。

「失礼しました、グラウ大佐」

アイラは短く答えた。

声に感情は乗せない。

「質問を続けます。なぜ、この駐屯地を本実験場にしたのですか」

グラウ大佐は、わずかに口元を緩めた。

笑みと呼ぶには薄い表情だった。


「理由はいくつかある」

彼は部屋の奥に掛けられた地図へ視線を向けた。

「まず、ここはカルドラ山に近い」

「カルドラ山に近いことが、理由になるのですか?」

ソフィアが尋ねる。

「なる」

グラウ大佐は即答した。

「カルドラ山は、帝国でも特に地脈の流れが強い地域だ。星の力を採掘するには、これ以上ない場所と言っていい」

その瞬間。

五人の意識が、一瞬止まった。


採掘。

今、確かにそう聞こえた。

星の力を。

採掘する。

カティアが、ゆっくりと顔を上げた。

「採掘、とは?」

グラウ大佐は、そこで初めて明確にため息をついた。

呆れたように。

あるいは、手順の遅れを確認したように。

「ヴェルナー大佐は、何も説明していないのか」

その声には、僅かな棘があった。


アルト大佐の名を口にした時だけ、温度が変わる。

アイラはそれに気付いた。

だが、それ以上に。

その言葉は、五人の胸の内へ静かに落ちた。

何も説明していない。

本当に、そうなのか。

アルト大佐は、自分達に話さなかったのか。

それとも、話せなかったのか。

帝都で過ごした日々の中で、アルトは五人をただの研究対象として扱わなかった。

必要のない拘束を避け。

訓練の意味を説明し。

疑問には、可能な限り答えてくれた。

少なくとも、五人はそう思っていた。


だが。

採掘するには、これ以上ない場所

今ここで聞かされた言葉は、初めてだった。

初めてであるはずなのに。

グラウ大佐の口ぶりでは、最初から知っていて当然のことのように聞こえる。

「私達は」

カティアが慎重に言葉を選ぶ。

「星の力を扱う計画だとは聞いています。ですが、採掘という表現は聞いていません」

「では、ここで覚えておくといい」

グラウ大佐は言った。

「星の力は、空から降ってくるだけのものではない。地脈に溜まり、鉱脈に宿り、特定の結晶に偏って残ることがある」

「結晶……」

ミリアが呟く。

声が、いつもより少し硬い。

「青晶石と赤晶石だ」

グラウ大佐は机上の資料を開いた。


「この周辺では、青晶石と赤晶石が同じ地層から確認される。通常であれば、片方だけでも十分に価値がある。だが、カルドラ山麓では、その双方が見つかる」

カティアの表情が変わった。

興味ではない。

警戒だった。

「青晶石は、安定した力の保持に向く」

グラウ大佐は続ける。

「赤晶石は、変換と放出に向く。もちろん、どちらもそのまま使えるものではない。加工、調律、媒介が必要になる」

「媒介」

レナが低く繰り返した。

「嫌な言葉が増えていくわね」

グラウ大佐は、そこで五人の手元へ視線を落とした。

「君達が身に付けるよう言われた赤晶石の指輪」

その言葉に。

五人の視線が、ほとんど同時に自分の手へ向いた。


アイラの指。

レナの指。

カティアの指。

ミリアの指。

ソフィアの指。

そこには、帝都で渡された赤晶石の指輪がある。

訓練時の反応を見るため。

適性を安定させるため。

力の流れを確認するため。

そう説明されてきたものだった。

「それは媒介に必要なものだ」

グラウ大佐は、静かに言い切った。

部屋の空気が止まった。

指輪の赤が、曇りガラス越しの鈍い光を受けて、わずかに暗く光っている。

ミリアが、無意識に指輪へ触れた。

ソフィアは手を握りかけて、途中で止める。

カティアは指輪を見つめたまま、目を細めた。

レナの表情から、冗談めいた色が消える。


アイラは、指輪からグラウ大佐へ視線を戻した。

「媒介とは、どういう意味ですか」

「言葉通りだ」

グラウ大佐は答えた。

「地脈から汲み上げた星の力を、人体に適応させる。あるいは、人体を通じて力を安定させる。その過程で、赤晶石は反応の通り道になる」

「私達の体を通すということですか」

ソフィアの声は静かだった。

だが、いつもより少し硬い。

「君達は適性を持っている」

グラウ大佐は、否定しなかった。

「適性のない者には出来ない役割だ」

「答えになっていないわ」

レナが言った。

「体を通すのか、と聞いているの」

グラウ大佐はレナを見た。

「必要な段階では、そうなる」


その瞬間。

五人の間に、言葉にならないものが落ちた。

帝都で指輪を渡された時。

それを身に付けるよう言われた時。

アルト大佐は、そこにいた。

少なくとも、五人はそう覚えている。

あの時、大佐は何を知っていたのか。

どこまで理解していたのか。

自分達に、何を言わなかったのか。

「ヴェルナー大佐は」

グラウ大佐が、薄く息を吐く。

「この程度の説明も省いたのか」

その言葉は、静かに五人の胸を刺した。

違う。

そう思いたかった。

アルト大佐は、何もかもを隠していたわけではない。

説明出来ないことがあっただけだ。

責任者を外される前から、全てを自由に話せたわけではない。

そう考えることは出来る。

出来るはずだった。

だが、指輪は今も五人の手にある。

赤晶石の指輪。

訓練のためだと思っていたもの。

自分達を守るための調整具だと思っていたもの。


それが。

自分達を星の力の流れに組み込むための媒介だと、今告げられている。

「大佐は……」

ミリアが小さく呟いた。

その先は、言葉にならなかった。

大佐は。

知っていたのか。

五人の間に、同じ疑問が落ちた。

誰も口には出さない。

だが、沈黙の質が変わった。


帝都での訓練。

第三政庁舎で過ごした時間。

外出を許された日のこと。

候補者だとしても、人として対等に扱ってくれたこと。

必要のない拘束を避けてくれたこと。

五人を五人のままにしてくれたこと。

それらが、一つずつ思い返される。


そして。

その全てに、別の意味が重なり始めた。

信じさせるためだったのか。

従わせるためだったのか。

疑問を抱かせないために、優しくしていたのか。

「……違う」

ソフィアが小さく呟いた。

誰に言ったのか分からない声だった。

アルト大佐が、そんなことをするはずがない。

そう言いたかったのかもしれない。

だが、その言葉は部屋の空気に飲まれた。

赤晶石の指輪が、五人の手元で鈍く光っている。

先ほどまで、ただの装具だったもの。

訓練のための道具だったもの。

それが今は、皮膚に食い込んでいるように重かった。

ミリアが指輪に触れる。

「じゃあ、あの時も……」

声が震えた。

「私達が安心していたのも、全部?」

「決めつけるな」

アイラが言った。

短い声だった。

自分自身に言い聞かせるようでもあった。

「まだ、何も分かっていない」

「でも」

レナの声が低くなる。

「知らなかったとは言わせないわよ。少なくとも、大佐はこの指輪の意味を知っていたはずでしょう」


カティアは、黙って指輪を見ていた。

表情は動かない。

だが、目だけが揺れている。

「情報が足りません」

そう言った声は、いつもより硬かった。

「判断するには、まだ材料が足りません。ですが……」

言葉が止まる。

合理的に考えようとしても。

感情が、それより先に広がっていく。

不安。

怒り。

疑い。

それは本来、少しずつ生まれるはずのものだった。


一つの言葉を疑い。

一つの記憶を疑い。

それでも信じたいものを残しながら、時間を掛けて形になるはずのものだった。

だが、この時は違った。

胸の奥で生まれた小さな亀裂が。

音もなく広がっていく。

一人の不安が、隣の不安を呼び。

一人の怒りが、別の怒りに触れ。

誰かの疑念が、五人全員の中で同時に芽を出す。

まるで、見えない根が、五人の足元で繋がったように。

まるで、まだこの場にいない誰かの内側で芽吹いたものが。

その亀裂を通じて、こちらへ流れ込んでくるように。

赤晶石が、わずかに熱を持った。


ほんの一瞬。

気のせいと言えば、そう言える程度の変化。

だが、ソフィアが指を震わせた。

ミリアが息を止めた。

カティアが指輪を凝視する。

レナの目に、はっきりとした怒りが浮かぶ。

アイラは、無意識に拳を握った。

グラウ大佐は、その変化を見ていた。

止めない。

説明もしない。

ただ、静かに観察している。

その視線に気付き、アイラは奥歯を噛んだ。


「……説明を続けてください」

声は乱れていない。

そう聞こえるように、抑えた。

「私達が何をさせられるのか。大佐が何を知っていたのか。それを判断するためにも、話を続けてください」

グラウ大佐は、薄く目を細めた。

「よろしい」

短い返答だった。

雨音が、曇りガラスの向こうで続いている。

赤晶石の指輪は、もう光っていなかった。

それでも五人には。

指に残った熱だけが、消えずに残っていた。


彼は机の上の資料を一枚めくる。

そこには、簡略化された施設図が描かれていた。

駐屯地の奥。

山肌に接する区域。

その中心部に、大きな円が記されている。

円の周囲には、五つの小さな印。

さらに、その外側へ伸びる線。

カティアの視線が鋭くなる。

「これは、本実験場の配置図ですか」

「概要図だ」

グラウ大佐は答えた。

「詳細な構造は、まだ君達に開示する段階ではない」

「その中央の円は」

「青晶石だ」

グラウ大佐は、図の中心を指差した。

「本実験場の中心部には、大型の青晶石が設置されている。採掘された星の力は、最終的にそこへ蓄積される」

「蓄積……」

ソフィアが小さく繰り返した。

「では、私達は」

カティアが言う。

「その青晶石へ力を送るための経路になる、ということですか?」

「正確には、経路であり、調律器でもある」

グラウ大佐は淡々と答えた。


「地脈から汲み上げた力は、そのままでは不安定だ。流量も、性質も、一定ではない。強すぎれば結晶を破壊し、弱すぎれば蓄積出来ない。そこで適性者の身体を経由させる」

部屋の空気が、さらに冷たくなった。

身体を経由させる。

その言葉は、先ほどの説明よりもなお直接的だった。

ミリアが、自分の指輪から目を離せない。

レナは椅子の肘に指を立てている。

ソフィアの顔色が少し悪くなった。

アイラは、グラウ大佐を見たまま動かない。

「五人の体を通して、星の力を整えるということですか」

カティアが尋ねる。

「そうだ」

グラウ大佐は否定しなかった。

「君達が流れを受け、整え、同期させる。その上で、赤晶石を介して出力を安定させ、中心の青晶石へ送る」

「私達は、人間です」

ソフィアが言った。

静かな声だった。

だが、その言葉は部屋の中で強く響いた。

「導線でも、調整器でもありません」

「分かっている」

グラウ大佐は答えた。

「だからこそ、適性と訓練が必要になる」

「分かっている人間の言い方ではないわね」

レナが低く言った。

グラウ大佐は、レナの言葉を流すように資料へ目を落とす。


「現時点で、採掘可能な力の総量は未知数だ。だが、過去の小規模反応と試算から考えれば、少量でも地方都市一つの一日分のエネルギーを賄える可能性がある」

その言葉に、五人はまた黙った。

地方都市一つ、一日分。

それは、軍事計画という言葉だけでは収まらない規模だった。

灯り。

工房。

暖房。

機関。

輸送。

通信。

都市を動かすあらゆるものが、そこに含まれる。

「成功すれば、帝国のエネルギー事情は大きく変わる」


グラウ大佐は続けた。

「資源の枯渇、輸送路の寸断、冬季の燃料不足。そうした問題に対する解決策になり得る。軍だけではない。民にも利益がある」

「だから、私達の体を利用するのですか?」

アイラが問う。

グラウ大佐は、わずかに視線を向けた。

「君達にしか出来ない」

「便利な言葉ですね」

カティアが言った。

珍しく、声に棘があった。


「君達にしか出来ない。帝国のためになる。民のためになる。そう言えば、どんな危険も正当化出来る」

「危険があることは否定しない」

グラウ大佐は答える。

「だから管理する」

「管理」

レナが笑った。

短く、冷たい笑いだった。

「私達を?」

「実験をだ」

「同じことよ」

レナの声が鋭くなる。

「私達の体を通すんでしょう。なら、実験を管理するってことは、私達を管理するってことじゃない」

グラウ大佐は、すぐには答えなかった。

その沈黙が、肯定に聞こえた。


ミリアが唇を噛む。

「都市一つ分って、すごいことなんでしょうね」

小さな声だった。

「きっと、たくさんの人が助かるんでしょうね」

誰も否定出来ない。

「でも、そのために私達は、何になるんですか」

五人の手元で、赤晶石の指輪が鈍く光っている。

訓練具ではない。

装身具でもない。

守るためのものでもない。

今はもう、それが別のものに見えていた。

自分達の身体を、見えない力の流れへ繋ぐための輪。

本実験場の中心にある青晶石へ、星の力を送り込むための通り道。


「採掘装置の一部」

カティアが、ほとんど無意識に呟いた。

その言葉に、ミリアが息を止める。

ソフィアが目を伏せる。

レナの拳が震えた。

アイラは、静かにグラウ大佐を見据えた。

「私達は、装置ではありません」

「そうだ」

グラウ大佐は答えた。

「君達は、装置ではない。装置だけでは、この計画は成立しない」

慰めにもならない言葉だった。

むしろ、それは。

五人がいなければ成立しないという意味でしかなかった。


雨音が、曇りガラスの向こうで続いている。

外の駐屯地は、以前と変わらないように見えた。

だが、この建物の中心には、巨大な青晶石が置かれている。

そして五人は今。

その青晶石へ星の力を送り込むために、ここへ連れて来られた。

アイラは、ゆっくりと息を吐いた。


「説明を続けてください」

声は冷えていた。

「まだ、終わっていないのでしょう」

グラウ大佐は、わずかに頷いた。

「その通りだ」

「では、次に確認するべきことは二つある」

グラウ大佐は、机の上の資料を揃えた。

「一つは、君達五名の現在の適合状態」

五人の視線が、自然と資料へ向く。


「もう一つは、五名同時運用時の同期反応だ」

「同時運用」

カティアが低く繰り返した。

「私達は、機関部品ではありません」

「部品ではない」

グラウ大佐は答えた。

「だが、役割はある」

同じような言葉を、何度も聞かされている気がした。

部品ではない。

装置ではない。

道具ではない。

そう否定しながら。

説明される内容は、どれも五人を何かの仕組みに組み込むものばかりだった。


「本日は、正式な採掘を行うわけではない」

グラウ大佐は続ける。

「到着確認、身体状態の確認、赤晶石の反応測定、そして簡易的な同期確認までだ」

「簡易的」

レナが言った。

「便利な言葉ね」

「安全域を超えない範囲という意味だ」

「その安全域は誰が決めたの」

「本実験場の基準に基づく」

「つまり、あなた達ね」

グラウ大佐は否定しなかった。

レナは小さく笑った。

だが、そこに明るさはなかった。


「本当に便利」

「拒否権はありますか」

ソフィアが尋ねた。

その声は静かだった。

怒りよりも、不安よりも。

確かめなければならないことを、確かめている声だった。

グラウ大佐は、少しだけソフィアを見る。

「軍務上の命令だ」

それが答えだった。

ソフィアは目を伏せた。

ミリアが唇を噛む。

アイラは、その言葉を聞いても表情を変えなかった。


軍務上の命令。

それは、五人にとって最も分かりやすく。

最も逃げにくい言葉だった。

「では、私達は従うしかないのですね」

カティアが言った。

「君達は帝国軍人だ」

グラウ大佐は淡々と返す。

「そして、帝国は君達の適性を必要としている」

「国のために」

ミリアが小さく言った。

その声に、誰もすぐには返事をしなかった。


国のため。

その言葉は、訓練で何度も聞いた。

任官した時にも。

部隊に配属された時にも。

帝都へ呼ばれた時にも。

帝国軍人である以上、国のために尽くす。

その覚悟は、五人とも持っていた。

持っていたはずだった。

けれど今、その言葉は違う形をしていた。

国のために戦うのではない。

国のために守るのでもない。

国のために、流される力を受ける。

国のために、身体を通す。

国のために、中心の青晶石へ星の力を送る。

それは任務なのか。

それとも。

「……生け贄みたい」

ミリアが、ほとんど息だけで呟いた。


ソフィアが顔を上げる。

カティアの目が僅かに揺れた。

レナは何も言わなかった。

アイラも、すぐには言葉を返せなかった。

グラウ大佐だけが、表情を変えない。

「感傷的な表現だ」

「否定はしないんですね」

レナの声が鋭くなる。

「君達を死なせる計画ではない」

「死ななければいい、という話ではありません」

ソフィアが言った。

その声は柔らかい。

だが、確かに硬かった。


「私達は、自分達が何に使われるのか、今ここで初めて聞かされています」

「必要な説明は行っている」

「必要かどうかを決めているのは、あなた達です」

カティアが続けた。

「私達ではありません」

グラウ大佐は、そこで初めてわずかに沈黙した。

怒ったわけではない。

困ったわけでもない。

ただ、反応を記録するように、五人を見ている。

それが、さらに五人の胸の奥をざわつかせた。


赤晶石の指輪が、再び微かに熱を帯びる。

レナの怒り。

ミリアの不安。

ソフィアの痛み。

カティアの警戒。

アイラの抑え込んだ緊張。

それらが、それぞれ別々の感情であるはずなのに。

同じ水面へ落ちた雫のように、重なっていく。

カティアが指輪を見る。

「また……」

「反応が出ている」

グラウ大佐が言った。

机の端に置かれていた小型の計測器。

その針が、細かく震えていた。

先ほどよりも、大きく。

規則的に。


「到着直後としては、悪くない」

「悪くない?」

アイラが低く言った。

「今の私達を見て、そう言うのですか」

「反応の話だ」

グラウ大佐は答えた。

「感情の是非ではない」

「その感情を利用するのですか」

アイラが問う。

グラウ大佐は、すぐには答えなかった。


ほんの僅かな沈黙。

それだけで、答えの半分は見えた。

「感情は、星の力への接続に影響する」

やがて、彼は言った。

「安定した意識は制御に向く。不安定な意識は、出力を高める場合がある」

「場合がある」

カティアが繰り返す。


「仮説ですか」

「検証中だ」

その言葉に。

五人の間で、また何かが冷えた。

検証。

自分達の不安も。

怒りも。

疑いも。

今この瞬間の苦しさすら、検証の対象として扱われている。

「誰の仮説ですか」

カティアが尋ねた。

グラウ大佐の視線が、わずかに動いた。

本当にわずかだった。

だが、アイラは見逃さなかった。


「計画初期から存在する仮説だ」

「誰が立てたのですか」

「今、君達が知る必要はない」

その答えで十分だった。

名前は出されなかった。

だが、五人の胸の内には、同じ人物の影が浮かんでいた。

アルト大佐。

違う。

そう思いたい。

けれど。

グラウ大佐は、あえて否定しなかった。

否定しないことで、疑念だけを残した。

「……大佐は」

ミリアが呟く。

「本当に、何を知っていたの」

誰も答えない。

答えられる者は、この部屋にいない。

あるいは。

いるのに答えない。

アイラは深く息を吸った。


赤晶石の熱を、意識して無視する。

「グラウ大佐」

「何だ」

「今後の手順を説明してください」

感情を押し殺した声だった。

「私達は軍人です。命令なら従います。ですが、何をされるのかも分からないまま歩かされるつもりはありません」

グラウ大佐は、アイラを見た。

しばらく、何も言わなかった。

やがて、資料を一枚めくる。


「まず五名を個別の検査室へ案内する」

「個別?」

ミリアが反応した。

「一緒ではないんですか」

「初期値は個別に取る必要がある」

グラウ大佐は答える。

「体温、脈拍、精神反応、赤晶石との接続値。五名それぞれの基準値を記録する」

「その後は」

アイラが尋ねる。

「五名を同じ区画へ移し、簡易同期確認を行う」

「具体的には」

「中心青晶石へ接続する前段階の確認だ。実際の採掘は行わない」

「信用しろと?」

レナが言った。

グラウ大佐は、レナを見る。

「信用の問題ではない。手順の問題だ」

「私達には同じことよ」

レナは吐き捨てるように言った。


その時、扉が軽く叩かれた。

外にいた兵士が扉を開け、案内役の軍人が一歩入る。

「準備が整いました」

グラウ大佐は頷いた。

「わかった」

その一言で、五人の体に緊張が走った。

何を。

どこまで。

誰の判断で止まるのか。

誰が、自分達を守るのか。

答えは、まだ何もない。


「立ってください」

案内役が告げる。

五人は、すぐには動かなかった。

アイラが最初に立ち上がる。

椅子の脚が、床を小さく鳴らした。

それに続いて、レナ。

カティア。

ミリア。

ソフィア。

誰も、指輪から完全には意識を離せない。

赤晶石は、もう光っていない。

けれど熱は、まだ指に残っている。

グラウ大佐は、五人を見渡した。


「本実験場へようこそ」

穏やかな声だった。

「君達の適性が、帝国の未来を変えることを期待している」

誰も返事をしなかった。

雨音が、曇りガラスの向こうで続いている。

五人は、兵士達に促されるまま、会議室を出た。

廊下の空気は冷たかった。

その先に何があるのか。

まだ誰も知らない。

ただ一つだけ、分かっていることがある。

もう、帝都にいた時のようには戻れない。

そのことだけは。

五人全員が、同じように感じていた。


数時間後。

アルトを乗せた軍用車両が、ようやく第三山岳国境警備隊駐屯地へ到着した。

雨は、まだ止んでいなかった。

弱まったかと思えば、山肌から吹き下ろす風に押されるように、再び強くなる。

車両の屋根を打つ雨音は、帝都を出た時よりも重く聞こえた。


門の前で停止する。

門番が雨具を被ったまま近付き、書類を確認する。

アルトは車内から、門柱に掲げられた銘板を見た。

第三山岳国境警備隊駐屯地。

その文字は、雨に濡れている。

五人は、ここにいる。

そう思った瞬間、行程の遅れが改めて重くのしかかった。


門が開く。

車両は駐屯地内へ入った。

兵舎。

車庫。

訓練場。

雨に濡れた広場。

通常の駐屯地としての景色は整っている。

だが、その奥山肌に近い区域だけは、明らかに空気が違っていた。

新しい石壁。

窓の少ない建物。

入口に立つ、駐屯地所属ではない警備兵。

既存の軍施設に、別の施設が埋め込まれている。

それを見た時、アルトは小さく息を吐いた。

資料で見ていた配置。

図面で確認した区画。

だが、実際に目にすると、紙の上で理解していたものとは違う重さがあった。

車両が停止する。


扉が開くと、冷たい雨混じりの風が車内へ流れ込んだ。

アルトは外へ出る。

軍靴が、ぬかるんだ地面を踏む。

出迎えに来た士官が敬礼した。

「アルト・ヴェルナー大佐ですね」

「そうだ」

「お待ちしておりました」

その言葉に、アルトの眉が僅かに動いた。

待っていた。

だが、計画は止まっていなかった。

五人は、すでに到着している。

それも数時間前に。

「五人は」

アルトは問う。

「到着しております」

士官は答えた。

「到着後、責任者より説明を受け、所定の確認手続きへ移っています」

説明。

確認手続き。

その二つの言葉が、雨音の中で鋭く残った。

「責任者?」

アルトは聞き返した。

「本実験場の責任者です」

「名前は」

士官は、一度だけ手元の書類へ視線を落とした。

「オスカー・グラウ大佐です」

その名を聞いた瞬間。

アルトの表情が、ほんの僅かに止まった。


オスカー・グラウ。

知っている名だった。

忘れるはずもない。

士官学校の同期。

同じ時期に任官し、同じように中央へ呼ばれ。

同じように計画畑へ進んだ男。

だが、歩き方は違った。

アルトが現場と候補者の安全を重視したのに対し。

グラウは、常に成果と運用効率を見ていた。

感情を否定するわけではない。

人を軽んじるわけでもない。

ただ、感情を計画の外に置く。

必要であれば、感情すら条件の一つとして扱う。

そういう男だった。


責任者が誰なのか。

アルトには、ここへ来るまで共有されていなかった。

本実験場の所在地。

施設の概要。

搬入経路。

警備体制。

そこまでは知っていた。

だが、責任者の名だけは伏せられていた。

あるいは、意図的に遅らされていたのかもしれない。

「……そうか」

アルトは短く答えた。

士官は、アルトの僅かな変化に気付いたようだった。

だが、何も聞かない。

聞ける立場ではない。


「グラウ大佐のもとへ案内しろ」

アルトが言った。

「承知しました」

士官が敬礼する。

アルトは、雨に濡れた別棟を見た。

五人は、すでに彼の説明を受けた。

何を。

どこまで。

どういう言葉で。

赤晶石の指輪のことを話したのか。

採掘のことを話したのか。

媒介という言葉を使ったのか。

そして、アルトの名をどう扱ったのか。

考えるほど、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。

あまりいい流れではない。

アルトは、オスカー・グラウという男を知っている。

だからこそ、そう思った。


案内された先は、五人が通された会議室ではなかった。

長い机のある部屋でも。

曇りガラスの窓がある説明用の部屋でもない。

本実験場の奥。

山肌に近い側へ伸びる廊下の先。

二重の扉を抜けた先にある、責任者用の執務室だった。

廊下には、五人が見たであろう配管や導線が走っていた。

壁には新しい板が張られ、床には軍施設らしからぬ滑らかな石材が敷かれている。

途中、いくつかの扉の前を通った。

検査室。

記録室。

調整室。

表示された名札は簡潔だったが、その奥で何が行われるのかを想像するには十分だった。

アルトは歩きながら、扉の一つ一つを見た。

五人は、ここを通ったのか、あるいは、別の廊下を通されたのか。

今、どこにいるのか。

「五人は現在どこにいる」

アルトが尋ねる。

案内役の士官は、少しだけ言葉を選んだ。

「各自、初期確認を受けています」

「個別か」

「はい」

アルトの足が、一瞬だけ鈍った。


だが、すぐに歩き出す。

「誰の判断だ」

「グラウ大佐の指示です」

予想していた答えだった。

だからこそ、苛立ちが増した。

五人を分けるな。

アルトは、これまで何度もそう主張してきた。

五人は単独で扱うべきではない。

彼女達の安定は、互いの存在に依存している。

信頼関係も。

訓練時の反応も。

精神の均衡も。

分ければ、数値は取れる。

だが、それで失うものもある。

それを、オスカー・グラウが知らないはずはなかった。

知った上で、やっている。


執務室の前で、案内役が足を止めた。

扉の前には二人の兵士が立っている。

案内役が名を告げると、兵士の一人が扉を叩いた。

「入れ」

中から声がした。

扉が開く。

部屋の中は、会議室よりも狭かった。

だが、置かれているものは多い。

大きな机。

壁一面の書棚。

カルドラ山周辺の地図。

本実験場の内部配置図。

青晶石を中心に置いた円形図。

赤い線で結ばれた五つの測定点。

窓は一つだけ。

そこからは、雨に煙る山肌と、本実験場の中心部へ続く別棟の屋根が見えた。


机の向こうに、オスカー・グラウ大佐が立っていた。

雨に濡れた様子はない。

軍服に乱れもない。

まるで、外の悪天候など存在しない場所にいたかのようだった。

グラウはアルトを見ると、薄く口元を緩めた。

「久しぶりだな、ヴェルナー」

階級ではなく。

姓だけでもなく。

同期だった頃の呼び方だった。


アルトは扉の前で足を止めた。

「グラウ大佐」

「おや」

グラウは、少しだけ目を細める。

「随分と他人行儀になった」

「ここでの責任者だと聞いた」

「つい先ほどか?」

アルトは答えなかった。

グラウの口元に、薄い笑みが残る。

「なるほど。君には知らされていなかったわけだ」

その言い方に、わずかな満足感があった。


アルトは部屋の中へ入る。

背後で扉が閉じた。

案内役の士官は外へ下がる。

部屋の中には、アルトとグラウだけが残された。

雨音が、窓の向こうで続いている。

「五人に何を説明した」

アルトが問う。

グラウは机の上の資料を一枚閉じた。

「必要なことを」

「具体的に言え」

「本実験場の目的。カルドラ山麓が選ばれた理由。青晶石と赤晶石。星の力の採掘。赤晶石の指輪が媒介に必要であること」

アルトの目が、はっきりと鋭くなった。

「そこまで話したのか」

「話すべき内容だ」

「今話すべきではなかった」

「いつ話すつもりだった」

グラウの声は静かだった。


だが、その奥には、長く沈んでいた棘があった。

「ヴェルナー大佐。君は、いつ彼女達に説明するつもりだった」

アルトは答えなかった。

答えられないのではない。

答えれば、それが言い訳になると分かっていた。

「段階を踏む必要があった」

ようやく、アルトは言った。

「五人の精神的安定を優先するべきだった」

「安定」

グラウはその言葉を繰り返す。

「実に君らしい」

「何が言いたい」

「君は、いつもそうだ」

グラウは机から離れた。

「人を守るような顔をしながら、結局は自分の立てた仮説から目を逸らさない」

アルトの表情が動いた。

わずかに。

だが、確かに。

「オスカー」

「候補者同士の信頼関係を構築させる。その後、疑心、不安、絶望といった負の感情が加われば、意思疎通の強度が増す可能性がある」

グラウは、淡々と続けた。

「計画初期の記録にあったな」

アルトは沈黙した。


雨音だけが部屋に残る。

「君の仮説だ」

グラウは言った。

「違うか?」

グラウの問いに、アルトはすぐには答えなかった。

否定は出来る。

仮説に過ぎない。

実行するつもりはなかった。

五人を傷付けるために考えたわけではない。

そう言うことは出来る。

だが、それは全て、言い訳に聞こえる。

少なくとも、今この場では。


「……仮説として提案したことは認める」

アルトは言った。

「だが、それを実行するつもりはなかった」

「つもり」

グラウは静かに繰り返した。

「君は昔から、その言葉が好きだったな」

「何が言いたい」

「君は、候補者を守るつもりだった。精神的安定を優先するつもりだった。段階を踏むつもりだった」

グラウは机の上の資料へ手を置く。

「だが、中央が必要としているのは、君のつもりではない。成果だ」

アルトの目が細くなる。

「だから私を外したのか」

「正確には、最初から想定されていた」

その言葉に、部屋の空気が変わった。


雨音が、一瞬遠くなったように感じられる。

「最初から?」

アルトが低く問う。

グラウは頷いた。

「星巫女計画には、君の案を基礎とした進行案とは別に、平行して用意された運用案があった」

「聞いていない」

「当然だ」

グラウは淡々と言った。

「君に知らせれば、君は反対しただろう」

アルトは黙った。

反対する。

間違いなく。

五人を候補者として扱う以上、精神的安定を無視した進行には反対した。

強引な移送にも。

分離管理にも。

説明不足のまま媒介として組み込むことにも、反対した。


だから知らされなかった。

それは、あまりにも分かりやすい答えだった。

「中央は、君の性格をよく見ていた」

グラウは続けた。

「候補者の安全を優先する。疑問があれば立ち止まる。危険性があれば再検証を求める。彼女達との信頼関係を築く一方で、その信頼を壊す運用には踏み込まない」

「それが問題だと?」

「計画進行上は、遅延要因になり得る」

アルトの拳が、わずかに握られた。

グラウはそれを見ても、声を変えない。

「実験状況、成果、反応値、進捗。それらを総合して、君の判断では計画が停滞すると見なされた場合、責任者を移行させる。そういう案があった」

「移行先が君か」

「そうだ」

短い返答だった。

迷いも、遠慮もない。


「本実験場の整備も、その案に基づいて進められていた。第三山岳国境警備隊駐屯地内の改修。地下設備の再編。青晶石の設置。赤晶石の調律。君が帝都で候補者達を訓練している間に、こちらでは受け入れ準備が進んでいた」

アルトは、雨に煙る窓の外を見た。

五人が連れて来られた場所。

アイラ・ベルクがかつて所属していた駐屯地。

その奥に作られた本実験場。

全てが、今になって繋がっていく。


「私は、計画から外されたのではない」

アルトは言った。

「最初から、外される可能性ごと組み込まれていた」

「そういうことだ」

グラウは答えた。

「君は有能だ。候補者の適性を見出し、訓練し、互いの信頼関係を築かせた。その点で、君の役割は大きかった」

「役割」

「そうだ」

グラウは机の上の配置図へ視線を落とす。

「だが、役割には終わりがある」

アルトは、グラウを見た。

「五人を信頼させるところまでが、私の役割だったと?」

「少なくとも、中央はそう評価した」

その言葉は、静かだった。

静かだからこそ、冷たかった。


アルトの脳裏に、五人の顔が浮かぶ。

アイラの冷静な判断。

レナの強い反発。

カティアの分析する眼差し。

ミリアの明るさ。

ソフィアの穏やかな気遣い。

彼女達は、少しずつ互いを信じるようになった。

アルトにも、疑問を向けながら、それでも言葉を聞こうとしてくれた。

それが、中央から見れば、段階の一つだった。

次へ進めるための条件だった。


「ふざけるな」

アルトの声は低かった。

グラウは眉一つ動かさない。

「感情的になるな」

「感情の話ではない」

「では何だ」

「責任の話だ」

アルトは一歩前へ出た。

「五人は人間だ。訓練対象でも、適性保持者でも、媒介でもない。彼女達には、自分達が何に関わるのか知る権利がある」

「だが彼女たちは軍人だ」

「軍人であることは、説明を奪う理由にはならない」

グラウは、わずかに目を細めた。


「君は本当に変わらないな」

「君もだ」

アルトは言った。

「人を条件として見る」

「条件を見なければ、計画は動かない」

「条件だけを見れば、人が壊れる」

「壊さないために管理する」

「管理で防げるものではない」

二人の声は、どちらも大きくならなかった。

だが、部屋の空気は明らかに張り詰めていた。


雨音が窓を叩く。

遠くで雷が低く鳴る。

グラウは、机の上に置かれた小型の記録盤を手に取った。

「実際、成果は出ている」

「何の話だ」

「彼女達は説明を受けた直後、強い同期反応を示した。赤晶石の反応も想定値を上回っている」

アルトの表情が変わった。

「何をした」

「事実を説明した」

「オスカー」

「星の力の採掘。五人の体を経由した調律。中心青晶石への蓄積。赤晶石の指輪が媒介であること」

グラウは記録盤を机に置く。

「そして、君がその全てを十分には説明していなかったこと」

アルトは息を呑んだ。


「君は」

「疑念は、私が作ったものではない」

グラウは静かに言った。

「君が隠した空白に、彼女達自身が意味を見つけただけだ」

「それを利用した」

「反応を観察した」

「同じことだ」

「違う」

グラウは即座に返す。

「利用とは、意図的に壊すことだ。私は事実を告げた。壊れるものがあったなら、それは事実に耐えられなかっただけだ」

アルトの拳が震えた。

怒りではない。

いや、怒りもある。

だが、それ以上に、自分自身への嫌悪があった。

五人に説明しなかった。

段階を踏むつもりだった。

守るつもりだった。

だが、説明しなかった事実は残る。

その空白を、今、グラウが使っている。


「五人に会わせろ」

アルトは言った。

「今は検査中だ」

「中止しろ」

「その権限は君にはない」

「オスカー」

「ヴェルナー大佐」

グラウは、あえて階級を付けて呼び直した。

「ここでの責任者は私だ。君は技術顧問として参加する。必要な意見は聞く。だが、運用は止めない」

「五人を分けるな」

「個別基準値の取得は必要だ」

「彼女達の安定を崩す」

「既に崩れている」

その言葉に、アルトは動きを止めた。


グラウは続ける。

「だからこそ、反応が出ている」

「君は、それを成果と呼ぶのか」

「実験上はそうだ」

アルトは、グラウを見据えた。

「五人が壊れてもか」

「壊さない」

「その境界を、誰が決める」

「責任者である私だ」

短い沈黙が落ちる。


同じ階級。

同期。

だが、この場所での権限はグラウにある。

アルトはそれを理解していた。

理解しているからこそ、苛立ちが深くなる。

「中央は」

アルトが言った。

「私がこうすることも予想していたのか」

「していただろう」

グラウは答えた。

「君は候補者に情を移す。計画の速度を落とす。危険性を理由に検証を求める。必要なら上層部と衝突する」

「だから、君を用意した」

「そうだ」

グラウは表情を変えない。


「君の慎重さも、彼女達への配慮も、中央にとっては想定内だった」

その言葉は、アルトの胸に深く沈んだ。

自分が五人を守ろうとすることすら。

計画の中に組み込まれていた。

慎重に進めようとすれば、遅延要因として扱われる。

止めようとすれば、別の者に移される。

五人を守るために築いた信頼関係は、次の段階へ進むための条件として使われる。

あまりにも、出来過ぎていた。

そして、あまりにも遅かった。

アルトは、低く息を吐いた。

「五人に会う」

「検査後だ」

「検査の内容を確認する」

「技術顧問としてなら許可しよう」

「今すぐだ」

グラウは少しだけ考えるように沈黙した。


それから、机の上の呼び鈴に手を伸ばす。

「いいだろう。記録室へ案内させる」

「五人のところではないのか」

「検査中だと言ったはずだ」

「オスカー」

「まず記録を見ろ、ヴェルナー」

グラウの声は静かだった。

「君が避けてきたものが、数値として出ている」

アルトは答えなかった。

避けてきたもの。

その言葉だけが、耳に残る。

扉の外で足音が近付く。

雨音は、まだ続いている。

五人は、この施設のどこかで個別に検査を受けている。

その手には、赤晶石の指輪がある。

そして、その胸の中には。

今、アルトへの疑念が芽を出している。

アルトは、ようやくその事実を直視した。

守るために遅らせた説明が。

守るために避けた言葉が。

五人を守る前に、五人との間に亀裂を作ってしまったのだと。


だが、グラウはそこで話を終えなかった。

「それと、もう一つ」

静かな声だった。

だが、その響きだけで、アルトは嫌な予感を覚えた。

「重要な報告がある」

「何だ」

「先日、中央から極秘で通達があった」

グラウは机の引き出しから、封の切られた書類を取り出した。


表紙には、帝国軍中央の印。

閲覧者を限定する赤い線。

通常の実験報告ではない。

「王国が、周辺国へ情報を伝達した」

「情報?」

「帝国内で、魔王が出現した可能性がある、と」

その瞬間。

アルトの表情が変わった。

「王国が、そう判断したのか?」

「少なくとも、そういう反応を観測したのだろう」

グラウは答えた。


「王国は、帝国に直接伝達していない。不要な誤解や混乱を避けるためか。あるいは、帝国側の反応を警戒したためか。理由は分からない」

「だが、周辺国には伝えたと」

「そうだ」

グラウは書類を机に置く。

「そして、その情報は別の経路で帝国にも届いた」

アルトは黙った。

王国が帝国に直接告げなかった。

その判断は理解出来る。

帝国内で魔王反応。

それを帝国へ直接突き付ければ、軍事的挑発とも取られかねない。

帝国が隠蔽していると疑われる可能性もある。

あるいは、帝国側が王国の観測を虚偽と断じる可能性もある。

だが、周辺国へ共有した以上。

情報はいずれ帝国にも回る。

それは当然だった。


「帝国内の観測所は」

アルトが尋ねた。

グラウは、わずかに目を細めた。

「反応を観測している」

「どこで」

「一か所ではない」

その答えで十分だった。

アルトの胸の奥が冷えた。

一か所なら誤差と言える。

機器の異常とも。

地脈の乱れとも。

だが、複数の観測所が同じ反応を拾っているなら。

それはもう、偶然ではない。


「公表は?」

「していない」

グラウは即答した。

「公にすれば、帝国内で混乱が起きる。魔王出現などという言葉は、それだけで人を動かす」

「中央はどう判断している」

「最悪を想定している」

グラウは言った。

「魔王そのものか。あるいは、魔王に類する規模の星の反応か。いずれにせよ、帝国内で大規模な異常が起きていると見ている」

外で雷が鳴った。

雨音が、一瞬だけ強くなる。


アルトは窓の外へ視線を向けた。

カルドラ山の稜線は、厚い雲に隠れて見えない。

「国境は?」

「動きがある」

グラウは続けた。

「周辺国の軍関係者と思われる部隊が、帝国国境周辺に展開している。名目は警戒、調査、避難誘導、いくらでも付けられるだろう。だが、実質的には様子見だ」

「帝国に対する備えか」

「あるいは、魔王に対する備えか」

どちらでも同じだった。

帝国内に異常がある。

周辺国が動く。

王国が情報を流す。

帝国中央がそれを把握する。

その全てが、一つの方向へ進んでいる。

悠長に、安全確認を重ねる段階ではない。

少なくとも、中央はそう判断したのだ。


「中央からの命令は」

アルトは聞いた。

聞く前から、答えは分かっていた。

それでも、聞かなければならなかった。

グラウは書類を開く。

「即時実践運用への移行」

短い言葉だった。

部屋の空気が、さらに冷える。

「星巫女計画本実験場は、準備段階を終了し、可能な範囲で実践運用に入る。採掘された星の力を中心青晶石へ蓄積し、同時開発中の兵器系統への供給試験を行う」


アルトは、はっきりとグラウを見た。

「兵器運用試験まで進めるつもりか」

「中央からの通達だ」

「五人の安定確認も終わっていない」

「だから急いでいる」

「順序が逆だ」

「状況が変わった」

グラウの声は変わらない。

「王国が動いた。周辺国が動いた。帝国内の観測所も反応を捉えている。魔王という言葉が、すでに国境の外へ広がっている」

「だから、五人を急がせるのか」

「帝国が対応手段を持たないまま、周辺国に包囲される方がよいと?」

アルトは答えなかった。

答えられなかった。

グラウの言葉は冷たい。

だが、全てが間違いではない。


魔王反応。

周辺国の展開。

帝国内観測所の一致。

情報が公になれば、軍も民も動揺する。

帝国中央が焦る理由はある。

だからこそ厄介だった。

「採掘した星の力を兵器に回すなど、まだ早すぎる」

アルトは言った。

「蓄積量も安定性も未知数だ。五人の負荷も読めない。青晶石の保持限界も――」

「そのための運用試験だ」

「試験で済まない可能性がある」

「全ての実験には危険がある」

「五人が死ぬぞ」

その言葉に、グラウは一瞬だけ黙った。

だが、表情は変わらなかった。


「死なせないために管理する」

「それで管理出来る段階ではない」

「ならば、技術顧問として意見を出せ」

グラウは静かに言った。

「止めるのではなく、成功させるために」

アルトは、拳を握った。

止めるのではなく。

成功させるために。

その言葉が、何より重かった。

もう、計画は止められる段階ではない。


責任者はグラウ。

命令は中央。

背景には、魔王反応と周辺国の動き。

五人はすでに本実験場に入り。

赤晶石の指輪を身に付け。

疑念と不安による同期反応まで示している。

アルトがここで反対しても、計画は止まらない。

止められないなら。

せめて、五人を壊さない形へ変えるしかない。

それは、あまりにも遅い理解だった。


「中央は」

アルトは低く言った。

「五人を、実戦運用可能な兵器系統の一部として見るつもりか」

「適性保持者だ」

グラウは答えた。

「帝国が持つ、現時点で唯一の接続手段でもある」

「言い換えるな」

「事実だ」

「彼女達は兵器ではない」

「兵器ではない」

グラウは即座に返した。


「だが、兵器を動かすために必要な人員だ」

その違いに、どれほどの意味があるのか。

アルトには、もう分からなかった。

いや。

分かっていた。

五人から見れば、同じだ。

国のため。

帝国のため。

魔王に対抗するため。

そう言われて、逃げ道を塞がれる。

それは、任務という名の生け贄に近い。

「五人に説明する」

アルトが言った。


「まだだ」

「今すぐだ」

「検査後だと言った」

「兵器運用試験へ移行するなら、なおさら説明が必要だ」

グラウは書類を閉じた。

「説明はする。だが、順序はこちらで決める」

「私が話す」

「許可はする」

その返答に、アルトは一瞬だけ目を細めた。

「意外だな」

「君の言葉が、彼女達の反応にどう影響するか見たい」

アルトの表情が冷えた。

「観察対象にするな」

「既に対象だ」

グラウは言った。


「君も含めてな、ヴェルナー」

雨音が、窓を叩く。

遠くで、また雷が鳴った。

アルトは、机の上の極秘通達を見た。

魔王。

王国。

周辺国。

観測所。

即時実践運用。

兵器運用試験。

全ての言葉が、五人の上に重なっていく。

もう、遅れた分を取り戻すだけの話ではない。

遅れたことで、選択肢そのものが奪われていた。

アルトは静かに息を吸った。

「記録を見せろ」

「ようやく技術顧問らしい言葉になったな」

グラウが言った。

アルトは反応しなかった。

今は、怒る時間すら惜しい。

五人が何を聞かされたのか。

どれほど動揺しているのか。

赤晶石がどの程度反応したのか。

中心青晶石との接続準備はどこまで進んでいるのか。

兵器系統への供給試験とは何を指すのか。

全てを確認しなければならない。

止められないなら。

せめて、壊さない。

それが今のアルトに残された、ほとんど唯一の選択肢だった。

だが、その選択肢すら。

既に誰かの計画の中に組み込まれているのかもしれなかった。


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