第二十話 雨のカルドラ山麓
列車が、再び速度を落とした。
車輪が線路の継ぎ目を踏む音が、次第に間延びしていく。
窓の外では、灰色の雨が、斜めに流れていた。
山間部へ入ってから、列車が徐行するのは、これで三度目だった。午前中には、倒木の確認を理由に、ひとつ手前の駅で長く停車している。
その後も、霧で信号が見えない。
雨で線路の状態を確認する必要がある。
前方を走る貨物列車が遅れている。
理由を変えながら、列車は予定から、少しずつ遅れ続けていた。
「また止まりそうね」
レナが、窓の外を見たまま言った。
「止まらなくても、この速さなら歩いた方が早い区間もありそうだ」
向かいに座るアイラが答える。
「それは言い過ぎではありませんか?」
ソフィアが、穏やかに口を挟んだ。
「アイラなら、本当に歩きかねないけれど」
ミリア・フォークナーが笑う。
「荷物を背負って、この天気の中を?」
「任務なら歩く」
アイラは迷わず答えた。
「やっぱり歩くんだ」
五人が乗っているのは。
一般客用の客車から離れた、小さな軍用車両だった。
両側へ向かい合わせの座席があり、頭上の棚には、それぞれの荷物が収められている。
帝都を出た時には、窓から春の日差しが差し込んでいた。
だが、山地へ近付くにつれて空は暗くなり。
今では、昼を過ぎたばかりとは思えないほど薄暗い。
車体が大きく揺れた、棚の上に置かれていた革鞄が、僅かに横へずれる。
カティアが手を伸ばし、落ちる前に押さえた。
「線路の状態も、あまり良くなさそうですね」
「雨が続いているからでしょうか」
ソフィアが尋ねる。
「それだけならよいのですが」
カティアは窓へ目を向けた。
雨粒がガラスを伝い、外の景色を歪ませている。
「この数日、気温と風向きの変化が大き過ぎます。朝と昼で、別の季節のようです」
「帝都でも変だったわね」
ミリアが言った。
「出発する時は晴れていたのに、駅へ着いた途端に雨が降ってきたもの」
「すぐに止んだけれど」
レナが続ける。
「その後は風。今度は霧。落ち着きがないにもほどがあるわ」
「カルドラ周辺なら、天候の急変は珍しくない」
アイラが答えた。
だが、言い切った後で、僅かに言葉を止める。
「ただ、ここまで広い範囲で続くのは、私もあまり経験がない」
車輪の音が、更に遅くなる。
やがて列車は小さな軋みを残して停止した。
五人は誰からともなく、窓の外を見た。
駅ではない。
線路の左右には、背の低い針葉樹と、雨に濡れた岩肌が続いている。
暫くして前方の車両から、一人の軍人が入ってきた。
「この先で、線路への土砂の流入が確認されました」
「線路が埋まったの?」
レナが尋ねる。
「一部だけです。現在、除去作業と安全確認を行っています」
「どのくらい掛かる?」
アイラが尋ねた。
「現時点では分かりません」
軍人は申し訳なさそうに答えた。
「少なくとも、すぐに動くことはありません」
それだけ告げると、男は次の車両へ向かった。
扉が閉じる。
車内には雨が屋根を叩く音だけが残った。
「予定通りには着きそうにないわね」
レナが腕を組む。
「予定というものが、まだ残っていればですが」
カティアが言った。
「出発前に示された到着時刻は、既に一度変更されています」
「二度目になるかもしれないね」
ミリアはそう言いながら荷物の中から、小さな包みを取り出した。
「待っている間に食べる?」
「何ですか?」
「帝都で買った焼き菓子。昨日の残り」
包みを開くと。
少し形の崩れた菓子が、五つ並んでいた。
「丁度五つです」
ソフィアが微笑む。
「初めから五つ残すつもりだったの?」
レナが尋ねる。
「偶然」
「本当に?」
「半分くらいは」
「それは、半分くらい偶然ではないということでは?」
ソフィアが首を傾げる。
「細かいことは気にしないで」
ミリアは、菓子を一つずつ配っていった。
列車は動かない。
外では作業員らしい者達が、雨具を着て、線路の先へ歩いていく。
レナが菓子を一口食べた後。
不意に口を開いた。
「大佐は、今頃どこまで進んでいるのかしら」
誰も、すぐには答えなかった。
アルトは、五人とは別に移動している。
責任者の任を解かれ、本実験場では、技術顧問として同行する。
それ以上の説明は、五人にも与えられていなかった。
同じ目的地へ向かってはいる。
だが出発した時刻も、通る道も違う。
「車両で移動すると聞いている」
アイラが答えた。
「この天候なら、街道も影響を受けているはずだ」
「鉄道より早いとは限りませんね」
カティアが言う。
「雨量によっては、山道の方が危険です」
「だからといって、私達に出来ることはないけれど」
レナは窓へ視線を戻した。
「向こうには護衛もいるわ」
「そうですね」
ソフィアが答える。
「大佐なら、無理をして進ませることはしないと思います」
「本人に決定権が残っていればね」
レナの言葉に、車内が少し静かになった。
本実験場へ移ると告げられた日、アルトは、普段と変わらない顔をしていた。
だが五人を守るための権限が、もう自分にはないことを、理解していた。
誰よりも、五人自身が、そのことに気付いている。
「大佐は」
ソフィアが、手元の菓子を見ながら言った。
「私達と同じ場所へ来られるのでしょうか」
「目的地は同じだと聞いているわ」
レナが答えた。
「同じ建物へ入れるかどうかは、別でしょうけれど」
「本実験場ですからね」
カティアが言う。
「第三庁舎とは、管理体制も違うはずです」
帝都にいた間は。
座学。
検査。
訓練。
アルトを交えた討論。
決められた範囲ではあったが、五人が同じ部屋へ集まり、一緒に食事をすることも出来た。
一度だけ、全員で帝都の街へ出たこともある。
だが、これから先も、同じとは限らない。
「部屋も別々になるのでしょうか」
ミリアが尋ねる。
「可能性はある」
アイラが答えた。
「訓練内容によっては、行動も分けられるだろう」
「嫌ね」
レナが即座に言った。
「それには同意します」
カティアも続ける。
「五人を同時に運用する計画でありながら、意思疎通を制限するのは合理的ではありません」
「合理的かどうかで決めてくれる人達ならいいけれど」
ミリアが苦笑する。
誰も反論しなかった。
五人は互いを信じ始めていた。
それが帝国にとって望ましい変化なのか。
扱いにくい変化なのかは分からない。
「離されたとしても」
ソフィアが言った。
「また集まればよいのではありませんか」
レナが彼女を見る。
「簡単に言うのね」
「簡単ではないと思います」
ソフィアは穏やかなまま答えた。
「ですが、離されたからといって、五人でなくなるわけではありません」
短い沈黙の後、ミリアが頷いた。
「そうだね」
「連絡する方法は考えます」
カティアも言った。
「施設内の通信設備が分かれば、制限の範囲も調べられます」
「勝手に調べて怒られないでよ」
レナが言う。
「必要な確認です」
「あなたの場合、その言葉で何でも調べそうだから言っているの」
車内に僅かな笑いが戻った。
その時、雲の切れ間から淡い光が差し込んだ。
雨はまだ降っている。
だが、遠くの景色だけが、一時的に明るくなる。
ミリアが窓の外を見た。
「あれが、カルドラ山?」
雨に霞んだ山々の向こう。
一際大きな山塊が低い雲の中から姿を見せていた。
ひとつの鋭い峰ではない、幾つもの峰と尾根が重なり。
巨大な壁のように、空と大地を分けている。
上部には春になっても雪が残っていた。
白いはずの雪は、厚い雲の影を受けて、灰色に見える。
「ああ」
アイラが答えた。
「カルドラ山だ」
五人ともその名は知っている。
遥か昔。
この地にあった巨大な火山が崩れ、周辺には広大なカルデラ盆地が生まれた。
帝国は、その盆地と周囲の土地に築かれ。
豊富な地下資源や地熱を利用しながら発展してきた。
歴史や地理を学べば、必ず一度は耳にする名だった。
だが、実際にこれほど近くから見たことがあるのは。
五人の中では、アイラだけだった。
「思っていたより大きいですね」
ソフィアが呟く。
「山というより、幾つもの山が繋がっているように見えます」
「その認識で間違っていない」
アイラは、窓の外を見ながら答えた。
「カルドラ山と呼ばれているが、単独の峰ではない。周辺の山々や谷を含めた、広い山岳地帯だ」
「向こう側まで、全部?」
ミリアが尋ねる。
「見えている範囲より、更に奥まで続いている」
「国境警備隊にいた時は、あの山へ入っていたの?」
レナが聞く。
「担当区域によっては入っていた」
アイラは頷いた。
「私が所属していた第三山岳国境警備隊は、北西側の街道と谷を担当していた」
カルドラ山は、帝国にとって、豊かな山だった。
鉱石。
温泉。
地下を流れる熱。
山麓から湧き出す水。
帝都や工業地帯を支える資源の多くが、この山と、その周辺から得られている。
同時に、人の都合には従わない山でもあった。
「冬は危険だ」
アイラは続けた。
「吹雪になれば、道そのものが消える」
「道が消える?」
ミリアが聞き返す。
「積雪で、街道と斜面の境目が分からなくなる。目印も埋まる。地図を持っていても、自分の位置を見失うことがある」
「そんな場所を巡回していたのですか」
ソフィアが心配そうに尋ねる。
「それが任務だった」
アイラは普段と変わらない口調で答えた。
「吹雪だけではない。場所によっては雪崩や落石もある。天候の変化も早い」
「今みたいに?」
レナが窓を指した。
雨。
霧。
その向こうに見える雪。
更に高い場所では、雲が、麓とは反対方向へ流れている。
「今より急に変わることもある」
アイラが答える。
「ただ、カルドラには不思議な場所もある」
「不思議?」
「真冬でも、雪が積もらない場所がある」
カティアが顔を上げる。
「地熱ですか」
「ああ」
雪原の中で、同じ場所だけ地面が露出している。
岩の間から白い湯気が立ち上る。
触れれば温かい水が流れ、寒い時期でも、苔や小さな草が残っている場所もある。
「温泉みたいなもの?」
ミリアが尋ねる。
「似ている。ただし、安全とは限らない」
「入れないの?」
「場所によっては熱過ぎる」
「残念」
「入るつもりだったのか?」
「少しだけ」
アイラは、僅かに呆れた顔をした。
レナが笑う。
「連れていったら、本当に入るわよ」
「その前に止める」
「アイラが?」
「当然だ」
列車の外で、短い汽笛が鳴った。
作業員達が、線路の先から戻り始める。
やがて、止まっていた車輪が、ゆっくりと動き出した。
「進み始めましたね」
ソフィアが言う。
「またすぐ止まらなければよいのですが」
カティアは、窓の外の線路を確認している。
列車は徐行したまま。
雨に濡れた山間を進んでいく。
カルドラ山が少しずつ大きくなる。
近付くほどアイラには、見覚えのある地形が増えていった。
谷の形。
川の流れる方向。
雨に濡れた岩肌の色。
尾根の上に、小さく見える監視塔。
第三山岳国境警備隊に所属していた頃、何度も通った地域だった。
列車が次に停車する駅の名も、出発前に渡された行程表で確認している。
その時には、山麓にある軍用駅のひとつとしか考えていなかった。
だが車窓から見える景色と。
列車が進む方角を重ねるうちに、ひとつの事実へ気付いた。
「あの駅は……」
アイラが、小さく呟いた。
「どうかしたの?」
ミリアが尋ねる。
アイラはすぐには答えず、窓の向こうに見える山道を、目で追った。
到着予定の駅は、かつて自分が所属していた、第三山岳国境警備隊の基地に最も近い駅だった。
偶然かもしれない。
駅から別の街道へ入り、更に山の奥へ向かう可能性もある。
本実験場の正確な位置は今も知らされていない。
それでも胸の中に、小さな疑問が生まれた。
まさか、自分が以前いた基地そのものが目的地ということはないだろう。
「アイラ?」
今度はソフィアが呼ぶ。
「いや」
アイラは答えた。
「この辺りを、以前の任務で通ったことがあるだけだ」
それ以上は、まだ口にしなかった。
列車はカルドラ山へ向かって進んでいく。
雨は弱まり始めていた、だが山頂を覆う雲は、先ほどよりも、更に厚くなっていた。
◇
同じ頃。
アルトを乗せた軍用車両も、カルドラ山麓へ向かう街道を進んでいた。
帝都を出た直後は、道の状態も悪くなかった。
雨は降っていたが、路面は舗装されており、車輪が大きく沈むこともない。
兵士達も、予定より多少遅れる程度で到着出来ると考えていた。
だが首都から離れるにつれ、街道の様子は少しずつ変わっていった。
石畳の隙間には水が溜まり。
補修されていない場所では、泥が路面を覆っている。
山地へ近付いてからは、道の左右を流れる雨水が、細い川のようになっていた。
車体が大きく揺れる。
窓枠が軋み。
後部に積まれた木箱が、固定具を鳴らした。
アルトは座席の背へ身体を預けたまま、窓の外を見ていた。
濡れた木々。
崩れかけた斜面。
水の溜まった轍。
景色は、進むほどに険しくなっていく。
向かいには、護衛として同行する二人の兵士が座っていた。
運転席との間にある小窓は開いている。
そこから、前方を確認する兵士達の声が聞こえていた。
「速度を落とせ」
「右側の轍が深い」
車両が更に減速する。
水を含んだ泥を踏み、後輪が一度、横へ滑った。
護衛の一人が反射的に壁へ手をつく。
アルトは動かなかった。
ただ、膝の上に置いていた行程表を、指先で押さえた。
予定では、この時刻には、山麓の中継所を越えているはずだった。
だが現在地は、そこからかなり手前にある。
午前中にも、倒木の撤去で、一時間近く足止めされている。
別の道へ迂回する案も出たが、そちらでは小規模な崩落が確認され。
結局、元の街道を進むことになった。
アルトは懐中時計を取り出した。
蓋を開く。
時刻を確認し、音も立てずに閉じる。
それだけの動作を、帝都を離れてから、既に何度も繰り返していた。
「到着は、どの程度遅れる」
アルトが尋ねる。
声は普段と変わらなかった。
向かいの兵士が、運転席側へ顔を向ける。
少し遅れて、小窓の向こうから答えが返ってきた。
「現状では、二時間ほどかと」
「現状では?」
「この先の道が通行可能なら、です」
雨脚が強くなった。
屋根を打つ音が、車内の会話を遮るほど大きくなる。
アルトは窓の外へ目を戻した。
「列車の状況は分かるか?」
「連絡は入っていません」
護衛の兵士が答える。
「鉄道にも遅れが出ているという報告はあります」
「五人を乗せた列車が、どこにいるかは」
「こちらでは把握しておりません」
「そうか」
それ以上は尋ねなかった。
五人が先に到着する可能性はある。
同じ頃に到着する可能性もある。
こちらより遅れる可能性もある。
分かっていることは、ほとんどなかった。
本実験場へ着けば、新たな責任者が待っている。
五人の扱いも。
今後の訓練も。
既に決められているのかもしれない。
アルトが到着する前に、説明が始まる可能性もあった。
自分は責任者ではない。
技術顧問として、必要な時に意見を求められるだけの立場だ。
到着が多少遅れたとしても、計画そのものが止まることはない。
むしろ、アルトがいなくても進められるように。
今の体制へ変更されたのだろう。
分かっている。
それでも、五人だけを先に到着させることには、抵抗があった。
新しい責任者が、彼女達をどのように扱うのか、まだ何も知らない。
訓練内容。
検査の頻度。
行動の制限。
五人を同じ場所へ置くのか。
別々に分けるのか。
確認すべきことは多い。
だが、確認するためには、まず目的地へ辿り着かなければならなかった。
車両が突然止まった。
身体が僅かに前へ傾く。
「何があった」
アルトが尋ねる。
運転席から兵士が一人、外へ降りた。
雨具を頭から被り、街道の先を確認する。
しばらくして、泥に濡れた姿で戻ってきた。
「前方の路面が崩れています」
「通れないのか」
「車両一台なら、通れる幅は残っています。ただし、地盤を確認する必要があります」
「どの程度掛かる」
「分かりません」
また同じ答えだった。
アルトは行程表へ目を落とした。
紙面に書かれた時刻は、既に意味を失い始めている。
「安全を確認出来次第、出発します」
兵士が言った。
「それまでは、車内でお待ちください」
アルトは返事をしなかった。
兵士は、承諾したものと受け取り、再び外へ出た。
扉が閉じる。
雨音だけが残る。
今のアルトには。
進めと命じる権限も。
別の道を選ばせる権限もない。
運行の判断は護衛隊が行う。
安全確認が必要だという説明も、正しい。
無理に進めば、目的地へ着くどころか、車両ごと斜面へ落ちる可能性もある。
理解していた。
理屈の上では、全て理解出来る。
それでも、窓の外で慎重に地面を調べる兵士達を見ていると。
胸の内に、重いものが溜まっていく。
アルトは再び懐中時計を取り出した。
蓋を開く。
先ほど確認してから、まだ、それほど時間は経っていない。
針が遅れているわけでもない。
それでも、確かめずにはいられなかった。
「大佐」
向かいの護衛が呼んだ。
アルトが顔を上げる。
「何だ」
「本実験場には、今日中に到着出来るはずです」
励ます意図だったのかもしれない。
アルトは僅かに間を置いた。
「予定通りに着けないことを気にしているわけではない」
「失礼しました」
兵士は姿勢を正した。
アルトは窓へ目を戻す。
今の言葉が、どこまで事実なのかは自分でも分からなかった。
到着時刻そのものに、意味はない。
一時間遅れようが。
二時間遅れようが。
五人が無事なら、それでよい。
だが、無事かどうかを確認出来ない時間が、少しずつ長くなっている。
それが、アルトを苛立たせていた。
雨の向こうで、地盤を確認していた兵士が、片手を上げた。
運転手が機関を動かす。
低い振動が車体へ伝わった。
「通過します」
小窓の向こうから声がした。
車両は、泥の中へゆっくりと進み始めた。
右側には山肌、左側には、雨で水量を増した川が流れている。
道幅は狭く、崩れた場所では、車輪のすぐ脇まで地面が失われていた。
アルトは窓の外から視線を逸らさなかった。
車体が傾く。
後輪が泥へ沈み、空転する音が響いた。
運転手が出力を上げる。
泥が跳ね、車両は僅かに前へ進む。
もう一度、車輪が空転した。
向かいの兵士が、壁へ手をつく。
アルトの指先が、膝の上の行程表を、強く押さえていた。
紙の端に、小さな皺が出来る。
やがて後輪が硬い地面を捉えた。
車体が大きく揺れ、崩れた区間を抜ける。
誰も声を上げなかった。
運転手も速度を上げない。
路面の状態を確かめながら、慎重に進んでいく。
アルトは皺の付いた行程表へ目を落とした。
指を離し、紙を伸ばそうとする。
だが一度付いた折れ目は、完全には消えなかった。
「大佐」
護衛が尋ねる。
「何か問題が?」
「ない」
アルトは行程表を畳んだ。
「先へ進め」
命令する権限はない。
それでも、口から出た言葉は、以前と同じ、指揮官のものだった。
護衛は何も言わず、運転席へ視線を送った。
車両は、更に荒れた山道へ入っていく。
帝都から遠ざかるほど道は悪くなり、雨は強くなる。
目的地へ近付いているはずなのに、予定された到着時刻だけが、少しずつ遠ざかっていった。
それからも、車両は何度も速度を落とした。
完全に通れない道はなかった。
だが、進めることと、予定通りに走れることは違う。
泥に沈んだ轍。
雨で削られた路肩。
道を横切る水の流れ。
崩れた斜面から転がり落ちた石。
その度に兵士が降り、地盤を確かめ、木の枝や石をどかし。
車両は、慎重に前へ進んだ。
アルトは窓の外を見ていた。
雨は止まない。
一度弱まったかと思えば、山肌へ近付いた途端、再び強くなる。
遠くで雷が鳴る。
雲は低く垂れ込め。
空全体が、濡れた灰色の布で覆われているようだった。
懐中時計を取り出す。
蓋を開く。
時刻を確認する。
閉じる。
それだけの動作を、もう何度繰り返したか分からない。
予定された到着時刻は、とっくに過ぎていた。
二時間遅れ。
三時間遅れ。
そして、四時間を越えた。
「この先を抜ければ、駐屯地です」
運転席から声がした。
アルトは短く答える。
「分かった」
声は変わらない。
だが、行程表を押さえる指先には、僅かに力が入っていた。
さらに車両は進んだ。
山道を抜け、最後の坂を越えた時。
雨に霞んだ視界の先に、石造りの外壁が見えた。
山の斜面を利用して築かれた、横に長い施設。
高い監視塔。
鉄柵の付いた門。
雨に濡れた帝国旗。
壁の内側には、兵舎らしい建物と車庫が並び。
その奥には、山肌へ張り付くように造られた、窓の少ない別棟が見える。
軍用車両は、門の前で停止した。
門番の兵士が、雨具を被ったまま近付いてくる。
運転席の兵士が書面を差し出した。
確認には、少し時間が掛かった。
門番は書面を読み。
車内へ視線を向け。
もう一度、書面へ目を落とす。
やがて敬礼し、門の内側へ合図を送った。
重い鉄門が、軋む音を立てて開く。
アルトは、門柱に掲げられた銘板を見た。
第三山岳国境警備隊駐屯地。
本実験場が、この駐屯地の一角に設けられていることは知っていた。
元は計画責任者だったからだ。
建設場所。
搬入経路。
警備体制。
施設の概要。
その資料には、何度も目を通している。
だが、雨に濡れた銘板を実際に目にした時。
アルトの視線は、僅かに止まった。
第三山岳国境警備隊。
アイラ・ベルクが、かつて所属していた部隊。
山岳任務に慣れ。
地形と天候を読む力を持ち。
五人の中で、最も軍人としての判断を崩さない少女。
そのアイラがいた場所へ、今、五人は連れて来られている。
偶然か、それとも。
上層部は、その経歴も含めて、この場所を選んだのか。
資料の上では、条件の合う軍施設だった。
カルドラ山麓にあり。
既存の警備体制があり。
外部から隔離しやすく。
地下資源と地熱に関する設備も近い。
理由はいくらでも並べられる。
だが、そこにいる一人の名を知っている以上。
アルトには、その一致をただの地図上の都合として片付けることは出来なかった。
車両は門を抜け、ぬかるんだ敷地内を進んだ。
車輪が泥を跳ね上げる。
兵士達が雨の中を走り、到着した車両へ向かってくる。
予定より五時間近く遅れての到着だった。
空は暗い。
まだ夕刻には早いはずなのに、厚い雲のせいで、夜が近いように見える。
晴れる気配はどこにもなかった。
車両が兵舎前で停止する。
扉が開くと、冷たい雨混じりの風が車内へ入り込んだ。
アルトは行程表を畳み、懐へしまった。
外へ出る。
ぬかるんだ地面が、軍靴の下で鈍い音を立てた。
出迎えに来た士官が敬礼する。
「アルト大佐ですね」
「そうだ」
「悪天候の中、ご苦労様です」
士官の声には、形式的な丁寧さがあった。
だが、その奥にある緊張までは隠し切れていない。
この場所で、何かが既に始まっている。
あるいは、始められてしまっている。
「五人は到着しているか?」
アルトは尋ねた。
士官は手元の書類へ視線を落とす。
「はい。列車にも遅れが出ましたが、こちらより四時間ほど早く到着しています」
アルトは表情を変えなかった。
だが、雨音の中で、その言葉だけが、妙にはっきりと耳に残った。
四時間。
五人は既に、アルトのいない場所で、四時間を過ごしている。
移動の疲労。
到着後の手続き。
施設の説明。
身体検査。
新しい責任者との面会。
どこまで進んでいるのか分からない。
「今どこにいる」
「到着後、別棟へ案内されました」
士官は、駐屯地の奥へ目を向けた。
山肌に沿って建つ、窓の少ない建物。
通常の兵舎とは違う。
入口には警備の兵が立ち。
雨の中でも、周辺を行き来する者の数が多い。
「本実験場として整備された区画です」
士官が答えた。
「現在は、施設責任者の指示に従い、到着後の確認を行っています」
「確認とは何だ」
「詳細は、私の権限では」
「誰の権限なら答えられる」
士官は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「施設責任者です」
アルトは、士官から視線を外した。
雨に濡れた別棟を見据える。
五人は、あそこにいる。
既に四時間、アルトの知らない手順の中へ組み込まれている。
自分は責任者ではない。
技術顧問に過ぎない。
何度もそう言い聞かせてきた。
だが、その言葉は今、何の慰めにもならなかった。
「施設責任者のもとへ案内しろ」
アルトが言った。
「承知しました」
士官が敬礼する。
雨は、まだ止まない。
山頂を覆う雲は厚く、空のどこにも、晴れる気配はなかった。
第三山岳国境警備隊駐屯地。
アイラ・ベルクが、かつて所属していた場所。
そして今は、星巫女計画の本実験場として使われる場所。
アルトは濡れた前髪を払うこともせず。
駐屯地の奥へ向かって歩き出した。
予定より五時間近く遅れた。
その間に五人は、四時間も先へ進んでしまっている。
ここから先だけは、もう、遅れるわけにはいかなかった。




