第十九話 春の火と遠雷
アルシア王国。
王都神殿。
夜明け前。
礼拝堂のさらに奥。
一般の神官が立ち入ることを許されていない観測区画では。
夜を通して、地脈の監視が続けられていた。
部屋の中央には。
アルシア王国と周辺諸国の地脈を示す、円形の観測盤が置かれている。
盤面を走る細い銀線は。
王都。
国境。
山脈。
河川。
そして。
周辺諸国へ続く地脈の流れを表していた。
異常が最初に確認されたのは、数か月前だった。
観測盤の北東側に、ごく小さな揺らぎが現れた。
一度反応したかと思えば、すぐに消える。
数日後に再び現れた時には、僅かに位置がずれている。
反応は弱く、王都神殿だけでは、発生源を特定出来なかった。
帝国方面から届いているようにも見えた。
だが、国境周辺の地脈が乱れているだけとも考えられた。
遠方で起きた地震。
青晶石の大規模な採掘。
季節による地脈の変化。
あるいは、観測盤そのものの誤差。
どの可能性も否定出来なかった。
過去の魔王出現時に残された記録と似た部分もあった。
しかし、反応があまりにも弱い。
一致しない特徴も多く、魔王の兆候と断定するには、根拠が足りなかった。
それでも、ゼヴランは観測を止めさせなかった。
北東方面を監視する神殿と観測所へ。
僅かな変化も定刻ごとに報告するよう命じた。
時刻。
強さ。
地脈の流れる方向。
周辺で発生した地震。
青晶石の採掘記録。
魔物の移動。
確認出来るものは全て照合させた。
観測結果は、月ごとの経過報告として、王宮へも提出されていた。
国王。
軍務を預かる将軍。
王城警備を統括する将校。
限られた者だけが。
北東方面で原因不明の反応が続いていることを知っていた。
また、水面下の情報として各国に極秘扱いで伝達された。
だが発生源も、危険性も。
そもそも一つの現象なのかさえ分からない。
王宮が下した判断は監視の継続だった。
軍は動かさない、民にも知らせない。
変化があれば、直ちに王宮へ報告する。
それから数か月。
反応は現れては消えた、僅かに強まる夜もあったが。
危険と判断出来るほどではない、完全に失われることもなく。
不確かな何かが、地脈の奥へ留まり続けていた。
その夜も、二人の神官が観測盤の前に座り。
弱い揺らぎを記録していた。
「前刻と変化はありません」
若い神官が告げる。
「反応強度は、これまでの範囲内です。発生方向も確定出来ません」
「北東観測所からは?」
「同様です。不確定反応を確認していますが、位置を絞れるほどではありません」
もう一人の神官が、記録紙へ時刻を書き込む。
数か月の間、何度も繰り返されてきた報告だった。
今夜も何も分からないまま夜が明ける。
そう思われた時、観測盤の中心に置かれた針が。
突然、大きく振れた。
金属が盤面を叩く、鋭い音が静かな観測室へ響いた。
二人の神官が同時に顔を上げる。
北東側を走る銀線が、それまでとは比較にならないほど強く輝いていた。
数か月間続いていた、淡く、消え入りそうな光ではない。
地脈の奥から押し上げられるように赤黒い光が、銀線を侵食しながら広がっていく。
「反応増大!」
若い神官が立ち上がった。
「前刻の十二倍です!」
「観測盤の異常ではないのか」
「予備盤も反応しています!」
壁際に置かれた小型の観測盤でも。
同じ方角の銀線が激しく明滅していた。
観測区画の警鐘が鳴る。
一度。
長く尾を引く音が消えるより先に、二度目の鐘が重なった。
休息していた神官達が、次々に観測区画へ駆け込んでくる。
「各観測所へ緊急照会!」
「既に北東観測所から封印通信が届いています!」
伝令役の神官が、書面を手に走り込んできた。
「国境神殿でも反応が急増。カレス分院、東部山岳観測所からも、同時刻の報告です!」
書面が机の上へ広げられる。
それぞれの観測所が記録した。
反応の強さ。
方向。
発生時刻。
神官達は、地図の上へ線を引いていく。
王都神殿から北東へ。
国境神殿から北へ。
東部山岳観測所から西へ。
これまで、弱さと誤差によって交わらなかった線が、一つの地域へ集まり始めた。
王国領内ではない、国境周辺でもない。
「発生源を再計算しろ」
観測室へ入ってきたゼヴランが命じた。
神官達が道を空ける。
「過去数か月分の記録を全て重ねろ。今朝の反応だけで判断するな」
「承知しました」
保管されていた記録が運び込まれる。
数か月前に確認された最初の揺らぎ。
その後、断続的に現れた弱い反応。
僅かに強さを増した時刻。
消えたように見えた期間。
全てが、今朝の増大した反応を中心に、改めて計算されていく。
反応が移動していたのではない、弱過ぎたため。
地脈を伝わる間に、方向を正確に捉えられなかったのだ。
急激に増大したことで、初めて複数の観測所から発生源を逆算出来るようになった。
「算出が終わりました」
神官の一人が。
地図上の一帯を指した。
指先は、王国と帝国の国境を越え、帝国領内へ置かれていた。
「発生域は、帝国内です」
観測室が静まり返る。
「誤差範囲は」
ゼヴランが尋ねる。
「広範囲です。正確な地点までは特定出来ません」
神官は複数の記録を確認する。
「ですが、王国領内や国境付近である可能性はありません。反応の発生源は、明らかに帝国国内です」
ゼヴランは地図から観測盤へ視線を移した。
赤黒い光はまだ消えていない。
一度強くなっただけでもない。
脈を打つように、僅かずつ強さを増していた。
「過去の魔王出現記録との照合は」
「進めています」
「数か月前の最初の反応から全て含めろ」
「既に」
奥の扉が開き、古い記録を抱えた神官が入ってきた。
「過去六度の魔王出現記録と照合しました」
机の上へ、古びた記録紙が置かれる。
「これまでの弱い反応では、一致率は半数にも届きませんでした。しかし、今朝の増大後は……」
神官は一度言葉を詰まらせた。
「八割を超えています」
「一致していない部分は」
「反応の中心が、完全には収束していません」
地図上の帝国領を示す。
「過去の記録では、一つの地点を中心に影響が広がっています。今回は発生域が広く、中心が定まりません」
「複数の反応が重なっている可能性は」
「否定出来ません」
ゼヴランは答えず。
数か月分の記録へ目を通した。
最初から兆候がなかったわけではない。
神殿も。
王宮も。
不確定な反応が存在することは知っていた。
だが危険と断定出来る根拠がなかった。
それが今、急激な増大によって魔王出現時の反応と重なり。
発生源が帝国領内にあることまで明らかになった。
監視を続けるだけでよかった段階は既に終わっていた。
「帝国側の神殿から連絡は」
ゼヴランが尋ねる。
「ありません」
「通常報告もか」
「昨夕の定刻報告を最後に、届いていません」
一人の神官が答える。
「通信障害の可能性もあります」
「帝国政府からは」
「何も」
帝国が異変を把握していないのか。
把握していて、情報を止めているのか。
それも分からない。
「この区画を封鎖しろ」
ゼヴランが告げた。
「数か月分の経過記録と、今朝の観測結果を複製する。原本は地下記録庫へ移せ」
「各地の神殿へは、どのように伝えますか」
「観測を継続させろ」
ゼヴランは、観測盤で脈打つ光を見た。
「ただし、通常の通信文へ魔王の名を記載するな。北東地脈反応の急増とだけ伝えろ」
「魔王反応と判断されたことも、伏せるのですか」
「この情報が途中で漏れれば」
ゼヴランは答えた。
「帝国で何が起きているのかを確認する前に、王国側で混乱が始まる」
避難。
買い占め。
街道の封鎖。
根拠のない噂。
魔王を討とうとする者が、勝手に国境を越える可能性もある。
「今後の報告は全て封印通信を使用しろ。反応に変化があれば、時刻を問わず私へ直接知らせるように」
「承知しました」
「王宮へ提出する緊急報告をまとめろ」
ゼヴランは外套を手に取った。
「国王陛下へ報告する」
◇
王城、国王執務室。
ゼヴランが到着した時、空はようやく白み始めていた。
王都神殿の緊急印が押された書状を確認した王城警備兵は、内容を尋ねることなく、奥へ伝令を走らせた。
程なく、ゼヴランは国王の執務室へ通される。
室内には、国王、軍務を預かる将軍。
王城警備を統括する将校。
そして、急遽呼び出された数名の側近が集まっていた。
国王は、机上に置かれた一冊の報告書へ手を置いていた。
数か月前から、王都神殿が提出してきた、北東地脈異常経過報告。
「例の反応か」
国王が尋ねた。
「はい」
ゼヴランは答えた。
「今朝未明、急激に増大しました」
持参した観測記録を、これまでの経過報告の隣へ広げる。
弱く、断続的だった数か月分の記録。
そして今朝、大きく振れた観測値。
将軍は二つを見比べた。
「これまでの範囲を超えたのか?」
「比較になりません」
ゼヴランは答えた。
「反応強度は前刻の十二倍。王都神殿だけではなく、北東方面の複数の観測所が、同一時刻に増大を捉えています」
「発生源は」
国王が尋ねる。
「帝国領内です」
室内の空気が変わる。
ゼヴランは複数の観測結果を重ねた地図を広げた。
「これまでは反応が弱く、方向を特定出来ませんでした。しかし、今朝の増大によって、各観測所の記録が一つの地域へ収束しました」
帝国領内へ、広い円が描かれている。
「正確な地点までは特定出来ていません。ですが、王国領内でも、国境周辺でもありません」
「帝国内で間違いないのだな?」
「観測上は」
ゼヴランは頷いた。
「帝国からは何か届いているか?」
国王の問いに、側近の一人が首を横へ振った。
「帝国政府からの通達はありません」
「帝国側の神殿からも」
ゼヴランが答える。
「昨夕以降、定刻報告が途絶えています」
将軍の表情が険しくなる。
「例の反応が、魔王によるものだと判明したのか」
「断定は出来ません」
ゼヴランは答えた。
「姿を確認した者はいません。誰かが魔王を名乗ったという報告もありません」
「だが、以前より可能性は高まった」
国王が言った。
「はい」
ゼヴランは過去の記録を今朝の観測結果の横へ置く。
「これまでの弱い反応では、過去の魔王出現記録との一致率は半数以下でした」
新しい記録へ指を移す。
「増大後は、八割を超えています」
「一致していない部分は?」
将軍が尋ねる。
「反応の中心が定まっていません」
「魔王が移動しているのか」
「分かりません」
ゼヴランは首を横へ振った。
「複数の反応が重なっている可能性もあります。あるいは、まだ完全に出現しておらず、地脈への影響だけが広がっている可能性もあります」
国王は、これまで提出されてきた経過報告へ視線を落とした。
数か月前、最初に弱い反応が確認された時。
神殿は観測強化を求めた、王宮もそれを承認した。
だが発生源も危険性も分からないまま、兵を動かすことは出来なかった。
今朝まで、それは監視すべき異常でしかなかった。
だが今は、帝国領内で魔王出現時と似た反応が増大している。
「帝国へ照会するか」
側近の一人が尋ねた。
ゼヴランは、すぐには答えなかった。
数か月前。
弱い反応が初めて確認された段階で、警戒情報は既に各国へ伝えられている。
王宮と主要神殿だけを宛先とした、最高機密の封印通信。
発生源は不明。
魔王出現時の反応と類似する部分はあるが、断定には至らない。
各国は民間へ公表せず、自国内の地脈と魔物の動向を監視すること。
それが、最初に共有された内容だった。
帝国にも、同じ警戒情報が届けられている。
「帝国は、この反応が存在すること自体は知っています」
ゼヴランが答えた。
「発生源が不明だった時点で、他国と同じ警戒情報を送付しています」
「受領したとの返答は」
国王が尋ねる。
「正式な受領通知は届いています」
「その後、帝国から独自の報告はなかったのか」
「ありません」
室内に、短い沈黙が落ちる。
帝国は数か月前から、魔王出現の可能性を示す、不確定な反応について知らされていた。
それにもかかわらず、自国内で何らかの異常を確認したという報告は、一度も届いていな
い。
「帝国では、反応を捉えられなかった可能性もある」
将軍が言った。
「あります」
ゼヴランは頷いた。
「我が国でも、複数の観測所の記録を重ねるまで、発生方向を特定出来ませんでした」
「だが今は、帝国内と判明した」
国王が言う。
「はい」
「帝国側の神殿からの定刻報告も途絶えている」
「昨夕以降、届いていません」
帝国が異常に気付いていないのか。
気付いていながら、報告するほどのものではないと判断したのか。
あるいは。
何が起きているのかを把握した上で、意図的に情報を止めているのか。
現時点では、そのどれとも判断出来なかった。
「直接照会すれば」
側近が言った。
「帝国が何を把握しているのか、返答を求めることは出来ます」
「正直に答える保証はありません」
ゼヴランが答えた。
「仮に帝国政府が何らかの計画へ関与している場合、こちらが発生源まで特定したと知らせることになります」
将軍の目が細くなる。
「計画だと?」
「可能性の一つです」
ゼヴランは、帝国領内へ描かれた円を見た。
「大規模な青晶石の採掘。地脈へ干渉する研究。軍事設備の稼働。それらが反応の原因である可能性も、まだ排除出来ません」
魔王そのものが出現したのではなく。
帝国の何らかの行為が、魔王出現時と同じ反応を引き起こしている可能性。
それもまた、王国にとっては無視の出来ない危険だった。
「照会を行えば、帝国側が証拠を隠す時間を与えることになるかもしれません」
ゼヴランは続けた。
「反対に、帝国が本当に何も把握していないのであれば、根拠の定まらない疑いを向けたことになります」
国王は机上に置かれた最初の警戒報告へ視線を落とした。
帝国を含む各国へ送られたものと、同じ文面だった。
「では、各国へはどうする」
「警戒段階を引き上げます」
ゼヴランは答えた。
「最初の警戒情報と同じ経路を使い、反応が急激に増大したことを極秘に再通達します」
「発生源が帝国内と判明したことも伝えるのか」
「各国の王宮及び主要神殿には、伝えるべきです」
ゼヴランは明確に答えた。
「ただし、軍の動員を求める内容にはしません。自国内の観測強化と、帝国方面からの異常に注意するよう要請します」
「情報が漏れる可能性は」
将軍が尋ねる。
「あります」
ゼヴランは否定しなかった。
「ですが、既に各国は最初の警戒情報を受け取っています。反応が危険な段階へ移ったことを伏せれば、他国の初動を遅らせることになります」
魔王による災害は、一国だけで収まるとは限らない。
過去の記録でも、異変が周辺国へ広がった後に、初めて事態の大きさが認識された例がある。
「帝国への直接照会は、まだ行わない」
国王が言った。
「各国には、警戒情報の更新として極秘に伝達する」
側近達が頷く。
「帝国が既に最初の警告を受け取っていながら、何も報告していない理由を確かめる必要がある」
国王は、帝国との国境線へ指を置いた。
「だが、帝国から答えが来るのを待つつもりもない」
将軍が腕を組む。
「国境へ兵を送るべきです」
「大規模な派兵は避けるべきです」
ゼヴランが答えた。
「帝国から正式な通達がない段階で軍を集中させれば、侵攻準備と受け取られる可能性があります」
「数か月監視し続けた結果が、さらに監視を続けることか」
「先遣隊を派遣します」
ゼヴランは。
国境周辺の地図を開いた。
「王城騎乗隊から少数の騎兵を選抜します。国境警備の一時的な強化を名目とし、現地の偵察と街道警備に当たらせるべきです」
「魔王と戦わせるのか?」
「戦わせません」
ゼヴランは明確に答えた。
「任務は確認です」
帝国軍の動き。
国境へ向かう住民。
地震。
地脈の異常。
魔物の移動。
河川や空の変化。
そして帝国側から、何かが流出していないか。
神殿の観測だけでは、現地で何が起きているのかまでは分からない。
「国境を越えることも、交戦することも禁じます」
ゼヴランは続ける。
「異常を確認した場合は、直ちに報告させます」
「民には何と説明する」
国王が尋ねた。
「以前から監視していた地脈異常が増大したため、国境警備を強化するとだけ」
「魔王の名は伏せるのだな」
「はい」
数か月間、王宮と神殿が情報を制限してきたのも。
根拠のない混乱を避けるためだった。
各国の王宮は知っている。
神殿も警戒している。
だが民へ公表されれば、魔王という言葉だけが、事実より先に広がる。
国境からの避難。
食料の買い占め。
帝国から来た者への疑い。
討伐を名目とした無許可の越境。
現時点で、それを公表する利益はなかった。
国王は地図を見つめた。
やがて、国境線の王国側へ指を置く。
「各国へ、警戒段階の引き上げを極秘に通達する」
国王は告げた。
「帝国への直接照会は保留。王城騎乗隊から二個分隊を派遣する」
将軍が顔を上げる。
「陛下」
「大軍は動かさない」
国王は続けた。
「先遣隊の任務は、偵察及び警備に限定する。国境守備兵には、通常警戒の範囲内で準備させろ」
「承知しました」
「任務の詳細を知る者も限定する」
国王の視線が、室内にいる者達を順に巡る。
「魔王の名を不用意に広めるな。帝国側に、こちらの動きを悟らせることも避けろ」
それから、ゼヴランを見る。
「反応がさらに増大した場合は、時刻に関係なく報告せよ」
「承知しました」
「先遣隊の派遣を許可する」
将軍が一礼する。
側近達は、二つの書面を同時に作り始めた。
一つは。
各国の王宮と主要神殿へ送る、警戒情報の更新。
もう一つは。
帝国国境へ先遣隊を派遣するための命令書。
王城騎乗隊。
二個分隊。
帝国国境。
偵察。
警備。
機密指定。
やがて、二つの書面へ、国王の印が押された。
数か月前、各国へ静かに共有された警告は。
夜明け前の急激な反応増大によって。
初めて国境を越えて国家を動かす警報へ変わった。
◇
その日の昼過ぎ、王城西棟。
庭園に面した広い一室には、乾いた藁の匂いが満ちていた。
床には長さを揃えた藁束。
色の付いた紐。
薄い布。
木の実や乾燥させた花。
まだ形になっていない骨組みが、幾つも並べられている、春灯祭へ向けた藁細工だった。
春灯祭が近付くと、王都では、それぞれの家庭や商店、職場で藁細工を作る。
鳥。馬。鹿。兎。牛。
伝承の中にしかいない、架空の動物。
決まった形があるわけではない。
何を作るかは、そこへ込める願いによって変わる。
家族の健康。
豊作。
商売繁盛。
恋愛成就。
子供の健やかな成長。
そして、大切な者の幸せ。
完成した藁細工は、祭りの日まで家の中や店先へ飾られる。
人々は毎日その姿を見ながら、込めた願いを心の中で繰り返す。
だが、王城の中で藁細工を作る習慣はなかった。
王城は春灯祭の準備を取り仕切り。
祭りの夜には、国王が最初の火を灯す。
それでも、城内で働く者達が集まり、願いを込めた藁細工を作ることはなかった。
侍女や兵士、厨房で働く者達も、作るのであれば、自分の家へ戻ってから。
あるいは家族に任せるのが普通だった。
その習慣を変えたのは、フィーナの一言だった。
王都の者達が春灯祭へ向けて藁細工を作っていると知り。
自分も作ってみたいと言い出したのだ。
最初は、フィーナ一人のために、少量の藁と紐が用意される予定だった。
だが、それを聞いたセシルが提案した。
フィーナが王城の中で作るのなら、希望する侍女や使用人達も、一緒に作れるようにしてはどうか。
王城で働く者の中には、祭りの日まで家へ戻ることが出来ない者もいる。
家族と藁細工を作れない者も。
願いを託す相手が、王城の外にいない者もいた。
フィーナは、その提案をすぐに受け入れた。
そうして、王城で初めての藁細工作りが行われることになった。
部屋の奥では、数人の侍女が鹿の形を作っている。
窓辺には、厨房から来た者達が集まり、丸々とした牛を編んでいた。
厩舎から来た者は馬を。
庭園を管理する者は、角のように枝を広げた架空の獣を作っている。
仕事を放り出して集まったわけではない。
セシルが各所と相談し、支障が出ないよう、参加する時間を分けていた。
初めは遠慮していた者達も、フィーナが藁を握り、楽しそうに形を作り始めると。
一人、また一人と、用意された席へ加わった。
今では広い部屋のあちこちから。
藁を束ねる音、紐を引く音、互いの形を見て笑う声が聞こえている。
王城にはなかったはずの春灯祭の習慣が。
フィーナの思い付きと、セシルの提案によって、その日、初めて城内へ持ち込まれていた。
「リアナ様、ここを持っていてください」
フィーナが言った。
小さな手には、曲げた藁束が握られている。
「ここですか?」
リアナは、藁の端を押さえた。
「はい。手を離すと、また真っ直ぐに戻ってしまいます」
フィーナは、藁の重なった部分へ細い紐を通そうとしている。
だが何度試しても、紐は途中で引っ掛かった。
「少し締め過ぎているのかもしれません」
リアナが言った。
「でも、緩くすると形が崩れます」
「最初から強く縛るのではなく、形を整えながら少しずつ締めるのです」
リアナは、フィーナの手元から藁束を受け取った。
折れないように曲げ、重なった部分へ紐を通す。
一度で締め切らず、全体の形を確かめながら、少しずつ結び目を小さくしていく。
「こうです」
フィーナは、出来上がった輪を覗き込んだ。
「簡単そうに見えます」
「慣れているだけですよ」
「リアナ様は、藁細工を作ったことがあるのですか?」
「ありますよ」
フィーナが顔を上げた。
「本当ですか?」
「リリエで、エマさんと一緒に作ったことがあります」
春灯祭が近付くと、花屋リリエの店先にも、願いを込めた藁細工が飾られる。
リアナ一人で作るのではなく、店主のエマと相談しながら形を決め。
二人で少しずつ藁を束ねていくのが、いつもの作り方だった。
花がよく育つように、店へ来た人が、少しでも明るい気持ちになれるように。
年によって、込める願いも作る形も違っていた。
「だから、上手なのですね」
「上手というほどではありません」
リアナは、フィーナの手元から藁束を受け取った。
折れないように曲げ、重なった部分へ紐を通す。
一度で締め切らず、全体の形を確かめながら、少しずつ結び目を小さくしていく。
「花を束ねる時とも似ています。強く縛り過ぎれば傷みますし、緩過ぎれば形が崩れますから」
「では、藁細工も花屋の技なのですね」
「全部ではありませんが」
リアナは、整えた輪をフィーナへ返した。
「少しは役に立っていると思います」
フィーナは満足そうに頷いた。
二人が作っているのは、翼を広げた鳥だった。
丸くした藁束が身体。
細く束ねたものが首と尾羽。
左右の翼には、淡い黄色の紐が巻かれている。
だが、フィーナが作った鳥は、身体が少し丸く。
片方の翼だけが大きかった。
「これは、何という鳥ですか?」
リアナが尋ねた。
「まだ決めていません」
「決めずに作り始めたのですか?」
「作っているうちに、分かると思ったのです」
フィーナは、左右で大きさの違う翼を持ち上げた。
少し離して眺めた後、首を傾げる。
「ですが、思っていたより丸くなりました」
「よく食べる鳥なのかもしれません」
「春を知らせる鳥なので、長い冬を越すために必要だったのです」
「なるほど」
リアナは頷いた。
「冬の間に、少し蓄え過ぎたようにも見えますが」
「リアナ様まで、そのようなことを言うのですか」
フィーナが不満そうに頬を膨らませる。
リアナは笑いながら、鳥の尾へ、新しい藁を足した。
「形は自由ですから、鳥に見えなくても大丈夫ですよ」
「鳥には見えています」
「それなら大丈夫です」
「見えないものを作る人もいるのですか?」
「いますよ」
リアナは、ラルカ亭で働くサラの藁細工を思い出した。
サラが作るものは、毎年奇想天外だった。
鳥を作ったと言いながら、四本の脚が付いていた年もあれば。
完成するまで、本人以外には何を作っているのか分からない年もあった。
説明を聞いても、なぜその形になったのか、理解出来ないことさえある。
それでも、サラは毎年、自分の作ったものへ真剣に願いを込めていた。
「ラルカ亭のサラさんは、毎年とても変わったものを作ります」
「どのようなものですか?」
「説明するのが難しいです」
「動物ではないのですか?」
「本人は、動物だと言っています」
「では、動物なのですね」
フィーナは素直に納得した。
「何を作ったのか分からなくても、願いが込められていればよいのでしょう?」
「そうですね」
藁細工に、決まった形はない。
鳥。
馬。
鹿。
兎。
牛。
実在しない動物でも。
何に見えるのか分からないものでも。
作った者にとって願いを託せる形であれば、それでよかった。
少し離れた机には、鹿の角と鳥の翼を持ち。
尾の先へ花を結んだ獣が置かれていた。
リアナが、その藁細工へ目を向ける。
「サラさんが見たら、喜びそうです」
「作った方と気が合うのでしょうか」
セシルが尋ねた。
「少なくとも、形について長く話し合うと思います」
「話し合って、分かるのですか?」
フィーナが聞く。
リアナは少し考えた。
「もっと分からなくなるかもしれません」
フィーナは、丸い鳥と、角の生えた獣を交互に見た。
それから、自分の鳥を庇うように、胸元へ引き寄せた。
「私の鳥は、分かりやすい方です」
「はい。鳥には見えます」
「先ほどより、言い方が少し変わっていませんか?」
「気のせいです」
リアナが答えると。
フィーナは少し納得していない顔をしたまま、鳥を机へ戻した。
その時。
セシルが壁際に置かれた時計へ目を向けた。
「厨房から参加している方々は、そろそろ持ち場へ戻る時間です」
窓辺で牛を作っていた者達が、揃って顔を上げる。
まだ胴体しか出来ていないもの、角を付ける途中のもの。
四本の脚の長さが、それぞれ違っているもの。
同じ牛を作っているはずなのに、机の上へ並んだ形は、どれも少しずつ違っていた。
「作りかけのものは、ここへ置いてもよろしいでしょうか」
一人が尋ねる。
「名前を書いた札を付けておきます」
セシルは答えた。
「続きは明日の同じ時間に」
「ありがとうございます」
厨房の者達は、作りかけの藁細工へ名札を添えると。
セシルへ一礼して部屋を出ていった。
入れ替わるように、廊下で待っていた数人の侍女が、遠慮がちに中へ入ってくる。
「空いている席へどうぞ」
セシルが告げる。
「使う藁と紐は、こちらにあります。分からないことがあれば、近くの者へ尋ねてください」
侍女達は頷き、用意された机へ向かった。
初めは、フィーナ一人が作るはずだった藁細工。
それが今では、城内の様々な場所から、人が入れ替わりながら集まる催しになっていた。
「随分と参加する方が増えましたね」
リアナが言った。
「予想していたよりも多くなりました」
セシルは、床へ落ちた藁を拾いながら答えた。
「参加したいと思っていた人が、それだけいたのでしょうか」
「そうだと思います」
王城で働く者達にも、春灯祭は身近なものだった。
王都に家族がいる者。
城下に自分の家を持つ者。
商店を営む親族がいる者。
だが、春灯祭の準備が忙しくなるほど、王城で働く者が家へ戻れる時間は少なくなる。
家族が作った藁細工を見るだけで終わる者もいれば。
祭りの日まで、城内へ泊まり込む者もいる。
「フィーナ様が作ると仰らなければ」
セシルは、部屋の奥へ視線を向けた。
「皆、王城の中で自分達の藁細工を作りたいとは、言い出せなかったでしょう」
「なぜですか?」
フィーナが尋ねる。
「王城は、祭りを支える場所だからです」
中央広場の準備。
春の火に使う薪の管理。
当日の警備。
王都へ集まる人々の誘導。
王城で働く者達は、祭りを楽しむ人々のために動く側だった。
これまで、自分達の願いを形にする場所ではなかった。
「ですが」
セシルは続けた。
「祭りを支える者にも、願いはあります」
フィーナは、机の上に並ぶ藁細工を見回した。
鹿。
牛。
馬。
鳥。
何に見えるのか分からないもの。
作っている者の数だけ、込められる願いも違う。
「お城で働く人も、作ってよいのです」
フィーナが言った。
「はい」
セシルは穏やかに頷いた。
「フィーナ様がそう仰ってくださったからこそ、皆も参加出来たのだと思います」
フィーナは、少し照れたように、自分の鳥へ目を落とした。
「私は、自分でも作ってみたかっただけです」
「始まりは、それでよいのではありませんか」
セシルが答える。
「一人が作り始めたことで、他の者も願いを形に出来たのですから」
フィーナは返事をせず、丸い鳥の翼を、指先で整えた。
まだ、その鳥へ何を願うのかは決めていない。
形だけが先に出来始めていた。
「リアナ様は、今年は何を作るのですか?」
フィーナが尋ねた。
「リリエの藁細工ですか?」
「はい」
リアナは少し考えた。
エマとは既に、今年の藁細工について話し始めている。
だが、何を作るのかは、まだ決まっていなかった。
去年は、花を背負った小さな鹿を作った。
一昨年は、大きく開いた花の中から、鳥が顔を出しているものだった。
エマは毎年、花屋らしいものにしたいと言う。
それでも、作り始めると途中で考えが変わり。
最初に描いた形とは、全く違うものになることが多かった。
「まだ決まっていません」
リアナは答えた。
「エマさんと相談しているところです」
「今年も一緒に作るのですね」
「はい。店へ飾るものですから」
「何を願うのですか?」
「それも、まだ」
花が元気に育つように。
店が穏やかに続くように。
訪れた者が、少しでも明るい気持ちになれるように。
これまでにも似た願いを込めてきた。
だが今年は、同じ願いだけでよいのか。
リアナ自身にも、まだ分からなかった。
「フィーナ様は決めたのですか?」
リアナが尋ね返す。
「まだです」
フィーナは答えた。
「ですが、作り終わるまでには決めます」
「先に願いを決めてから作るものではないのですか?」
「形を作りながら考えてもよいと、書庫の本に書いてありました」
フィーナは少し得意そうに言った。
「本当に書いてありましたか?」
「似たようなことが書いてありました」
「似たようなこと」
「願いと形は、作る者の心に従うものだと」
言葉は少し違うかもしれない。
だが、意味は大きく外れていないらしい。
「随分と詳しくなりましたね」
リアナが言うと。
フィーナは、さらに胸を張った。
「リアナ様から春灯祭の話を聞いた後、色々な人へ尋ねました」
セシル。
侍女。
厨房で働く者。
庭師。
城門を守る兵士。
王都で生まれ育った者によって。
祭りの思い出も、藁細工へ込める願いも違っていた。
フィーナは、その話を一つずつ聞いた。
書庫に残された春灯祭の由来や。
過去に行われた祭りの記録まで調べた。
「春の火についても調べたのですか?」
リアナが尋ねる。
「もちろんです」
フィーナは、待っていた質問が来たように頷いた。
「藁細工は、祭りの日まで家や店に飾ります。その間、見るたびに同じ願いを込めるのです」
祭り当日の夜。
人々は、願いを込めた藁細工を持ち、中央広場へ集まる。
家族で作ったもの。
商店や職場で作ったもの。
一人で作ったもの。
子供が不格好に結んだ、小さな動物も。
職人達が何日も掛けて作った、大きな獣も。
全てが、広場の中央で焚かれる、巨大な火へ投じられる。
「願いは、春の火に乗って天へ届くと言われています」
フィーナは続けた。
「燃え上がる炎は冬を払い、新しい一年を迎える灯になるのです」
「よく調べましたね」
リアナが言った。
フィーナは嬉しそうに笑う。
「祭りを見るだけではなく、どうして行うのかも知りたかったのです」
リアナは、作りかけの鳥へ目を落とした。
自分達の手で形を作り。
祭りの日まで大切に飾り。
最後には、自ら炎の中へ投じる。
形を残すためではない。
手元へ置き続けるためでもない。
「願いを春の火へ預けて」
リアナは呟いた。
「自分の手から離すために作るのですね」
フィーナは少し考え。
それから頷いた。
「自分達だけで持っていた願いを、春へ渡すのだそうです」
「せっかく作ったものが、なくなるのは少し寂しいですが」
「私も最初は、そう思いました」
フィーナは、丸い鳥を両手で包む。
「ですが、なくなるのではありません」
藁は燃える。
翼も。
尾羽も。
結んだ紐も。
炎の中で形を失う。
それでも。
込めた願いまで消えるわけではない。
「願いが春の火に乗って、天へ届くのです」
フィーナは言った。
リアナも、鳥へ視線を落とした。
「だから、燃やす時まで大切にするのですね」
「はい」
フィーナは頷いた。
「見るたびに、何を願ったのか忘れないようにするのです」
何を願うのか、リアナはまだ決められなかった。
静かに暮らしたい。
花を育てたい。
明日も店へ立ちたい。
エマと藁細工を作り、ラルカ亭へ行けば、サラの奇妙な作品について笑う。
そんな日々が続けばよい。
だが、それは願いというよりも。
今あるものを、失いたくないという気持ちだった。
「フィーナ様は」
リアナは尋ねた。
「その鳥へ、何を願うのですか?」
「私は――」
フィーナが答えかける。
その時。
窓の外から、複数の馬の嘶きが聞こえた。
続いて、蹄が石畳を打つ音。
一頭や二頭ではない。
揃った音が王城の内庭を進んでくる。
部屋にいた者達の幾人かが、手を止め、窓の方へ顔を向けた。
「騎乗隊でしょうか」
フィーナは椅子から立ち上がった。
作りかけの鳥を持ったまま、窓際へ向かう。
リアナとセシルも、その後を追った。
窓の下には、王城の門へ続く広い通路が見える。
濃紺の外套を羽織った騎兵達が、二列に並び、ゆっくりと進んでいた。
人数は多くない。
だが全員が、普段の巡回より、多くの荷を積んでいる。
鞍の後ろには。
毛布。
水袋。
食料を収めた革袋。
長距離の移動に備えた装備が、まとめて括り付けられていた。
「いつもの巡回ではありませんね」
リアナが言った。
先頭の騎兵が、門を守る兵士へ書面を示す。
確認が終わると、重い城門が、ゆっくりと開き始めた。
「どこへ行くのでしょう」
フィーナが呟く。
リアナは、騎兵達の中に、見覚えのある姿を見つけた。
軽鎧。
背に負った長い槍。
花屋へ来た時、店の近くへ繋いでいたものと同じ馬。
「ユリウスです」
フィーナも気付いた。
ユリウスは、列の中央より少し前を進んでいる。
隣の騎兵へ何かを告げ。
その後で、後ろに続く隊列を確認した。
表情は、王城の窓からでは、はっきりと見えない。
それでも普段の巡回へ向かう姿とは違って見えた。
声を掛けることも出来ない、ユリウスがこちらへ気付く様子もなかった。
フィーナが、傍らのセシルを見上げる。
「急な任務なのですか?」
「国境方面の警備が強化されると聞いております」
「国境?」
「それ以上のことは、私にも知らされておりません」
セシルは、騎乗隊を見送ったまま答えた。
「選ばれた騎兵が、先遣として出立するとだけ」
「先遣」
フィーナは、聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返した。
「先に現地へ向かい、状況を確かめる者達です」
セシルが説明する。
「何かが起きたのですか?」
「詳しいことは分かりません」
セシルの答えは、それだけだった。
フィーナは、遠ざかっていく騎兵達を見つめる。
「春灯祭には、戻って来られるでしょうか」
セシルは、すぐには答えなかった。
「任務が短く済めば」
それ以上は誰にも分からない。
リアナも視線をユリウスから離せずにいた。
国境。
その言葉が胸の奥へ、重く沈んでいく。
以前からあった芽が、動き始めた、アイリスが告げた言葉が蘇る。
リアナには、その芽がどこにあるのか分からない。
誰なのかも何が起きようとしているのかも。
ただ、今はまだ、何もしなくてよい。
そう告げられている。
騎乗隊が門を抜けていく。
その先は、王都から北東へ続く街道だった。
帝国との国境へ向かう道。
リアナは無意識に窓枠へ指を触れた。
石壁を通して、その下にある地面へ意識を向ける。
王都を歩く人々。
荷馬車の車輪。
騎乗隊の蹄。
建物を支える地盤。
そのさらに深い場所で。
遠くから何かが伝わってくるような気がした。
弱く。
形も分からない。
本当に地脈が揺れているのか。
ユリウスが国境へ向かったことで、自分がそう感じようとしているだけなのか。
リアナにも判断出来なかった。
『追わなくていい』
胸の奥で、アイリスの声がした。
リアナは、窓枠から手を離した。
「リアナ様?」
フィーナが見上げている。
「どうかしましたか?」
「いいえ」
リアナは答えた。
「少し、風が冷たいと思っただけです」
窓は閉じられていた。
それでもフィーナは、疑うことなく、外へ目を戻した。
濃紺の外套が少しずつ小さくなっていく。
やがてユリウスを含む騎乗隊は、城壁の陰へ入り見えなくなった。
フィーナは暫く窓の外を見つめていた。
それから手にしていた藁の鳥へ目を落とす。
「願いを決めました」
リアナがフィーナを見る。
「何を願うのですか?」
フィーナは丸い鳥の身体を、両手で包んだ。
「遠くへ行く人達が、無事に帰って来られるように」
それがユリウス一人へ向けた願いなのか。
今出ていった全ての騎兵へ向けたものなのか。
尋ねる必要はないように思えた。
「では」
リアナは机へ戻った。
「帰る道を見失わない鳥にしましょう」
「どのようにすればよいですか?」
「尾羽を長くしてみるのはどうでしょう」
「長いと、帰る場所が分かるのですか?」
「分かりません」
リアナは正直に答えた。
「ですが、空から見ても目立つと思います」
フィーナは少し考え。
新しい藁束を手に取った。
「では、長くします」
二人は鳥の尾へ藁を足していく。
大きさの違う翼、丸い身体、見本よりも長い尾羽。
不格好ではあったが、初めに作ろうとしていたものより、ずっと意味のある姿になっていた。
「祭りの日まで」
フィーナが言った。
「毎日、この願いを込めます」
「はい」
「そして、春の火へ入れます」
その時、鳥は炎に包まれ、形を失う。
煙と火の粉だけが、夜空へ昇っていく。
願いが本当に天へ届くのか、リアナには分からない。
それでも、誰かの帰りを願うフィーナの気持ちは。
今、確かにその鳥の中へ込められていた。
部屋の中では、止まっていた藁を束ねる音が、少しずつ戻り始める。
だが、先ほどまで聞こえていた笑い声は、僅かに減っていた。
窓辺にいた侍女が、作りかけの鹿へ、白い布を結ぶ。
厩舎から来た者が残していった馬の隣には。
まだ誰のものでもない藁束が置かれている。
出立した騎兵達の中には、この部屋へ来る予定だった者もいたのかもしれない。
セシルは窓から離れると、部屋の入口に置かれた名簿へ目を落とした。
それから何も言わず。
騎乗隊のために用意されていた席を、消さずに残した。
祭りの日までに帰れば、続きを作ることが出来る。
そう考えたのかもしれなかった。
リアナもフィーナもそのことには触れなかった。
二人はただ、帰る道を見失わない鳥を作るため。
長い尾羽を、一本ずつ結んでいった。
◇
王城を出てから、一刻ほどが過ぎていた。
二個分隊の騎兵は、帝国との国境へ続く北東街道を進んでいる。
空はまだ明るい。
春を迎えた王都周辺には、畑を耕す者や、荷車を引く商人の姿もあった。
街道沿いの家々には、春灯祭で使う、小さな灯籠が吊るされ始めている。
軒先に藁細工を飾っている家もあった。
鳥。
鹿。
牛。
まだ何を作っているのか分からない、藁の塊。
騎乗隊に気付いた子供達が、道端から手を振っていた。
何人かの騎兵が、軽く片手を上げて応える。
ユリウスも一度だけそちらへ顔を向けたが、すぐに隊列へ視線を戻した。
「前との間隔を詰め過ぎるな」
緩やかな下り坂へ差し掛かる。
「足元が乾いて見えても、轍の中はまだ柔らかい。馬を取られるぞ」
後方の騎兵達が、僅かに手綱を引いた。
王都から国境までは、順調に進んでも、一日半。
先を急ぐ必要はある、だが、到着する前に馬を疲れさせてしまえば意味がない。
休憩。
水。
飼料。
蹄と脚の確認。
荷紐の緩み。
副長であるユリウスが気に掛けることは多かった。
「副長」
後方から声を掛けられる。
若い騎兵が、鞍の後ろへ振り返っていた。
括り付けた毛布が、少しずつ横へずれている。
「荷紐が緩んだようです」
「次の水場で結び直す」
「このままでも持つと思います」
「落としてからでは遅い」
ユリウスは答えた。
「速度を上げるな。次の休憩までに更にずれたら、すぐに知らせろ」
「承知しました」
騎兵が隊列へ戻る。
国境方面の警備強化。
部下達へ伝えられている任務は、それだけだった。
帝国軍の動き。
国境を通過する人々。
地震。
魔物。
河川や地面の異常。
王国側から確認出来る範囲を見回り、報告する。
国境は越えない。
帝国側へ接触しない。
異常を発見しても、独断で行動しない。
簡単に言えば、国境砦の目と耳を増やすための派遣だった。
ただ、ユリウスを含む一部の指揮官だけは、それとは別の説明を受けていた。
帝国領内で、過去に魔王が出現した際と、極めてよく似た反応が感知された。
断定はされなかった。
本当に魔王が現れたのか。
何者かが、似た力を使っただけなのか。
神殿にも分からない。
それでも、数十年ぶりとなるかもしれない反応を、見過ごすことは出来なかった。
だからこそ、昼を過ぎてから突然召集され。
最低限の準備を整えた二個分隊が、先遣として送り出された。
ユリウスは、王城を出る直前に聞いた、その言葉を思い出す。
魔王。
歴史書や物語の中でしか知らない存在。
町を焼いた。
一つの軍を退けた。
国を滅亡寸前まで追い詰めた。
人の姿で現れたとも。
巨大な獣だったとも。
空を覆う黒い竜へ変じたとも記録されている。
だが、どこまでが事実なのか、今となっては分からない。
魔王を実際に見た者など、現在では、ほとんど残っていなかった。
「水場が見えました」
先頭の騎兵が声を上げる。
街道の脇に、小さな泉と、馬を休ませるための空き地が見えた。
分隊長が片手を上げる。
隊列が速度を落とした。
「半刻休憩!」
命令が後方まで伝わっていく。
騎兵達は次々に下馬し。
鞍を緩め。
汗を拭い。
馬へ少量ずつ水を与え始めた。
ユリウスも、自分の馬の首筋へ手を当てる。
呼吸は少し速い、だが、まだ余裕はある。
四本の脚を確認し、蹄へ石が挟まっていないことを確かめる。
先ほどの若い騎兵は、ずれた毛布を括り直していた。
「その紐は替えろ」
ユリウスが言う。
「切れてはいません」
「一度緩んだ紐は、また緩む」
「ですが、予備は――」
「使うために持ってきた」
若い騎兵は、少し恥じるように頷いた。
「承知しました」
街道の向こうから、一台の荷馬車が近付いてきた。
王都方面へ向かっている。
幌には泥が跳ね、車輪の縁にも、乾き切っていない土が付着していた。
荷台は軽い、ほとんど商品が残っていないのか。
最初から大して積んでいなかったのかは分からない。
御者は騎兵達を見ると、馬車の速度を落とした。
「何かあったのですか?」
御者が尋ねる。
「警備の増員だ」
分隊長が答えた。
「現時点で、街道の通行に制限はない」
「そうですか」
御者は安心するより先に、帝国方面を振り返った。
「帝国から戻ってきたのか?」
ユリウスが尋ねる。
「ええ。国境を越えた先の町で商売をしていました」
「何を売っていた」
「乾物と酒です」
御者は、僅かに顔をしかめた。
「ですが、ろくに客も来ませんでした。これ以上いても宿代が掛かるだけなので、早めに戻ることにしたのです」
「町で何か起きていたのか?」
「大きなことは何も」
店は開いていた。
兵士も通常通り巡回していた。
国境を閉じるという話も聞かなかった。
人々が避難している様子もない。
ただ、天候の悪い日が続いていたという。
雨が降ったと思えば、突然晴れる。
風が止んだ直後に、強い突風が吹く。
朝から濃い霧が出て、昼を過ぎても、町の外が見えない日もあった。
「天気が悪ければ、客が来ないのも当然なのですが」
御者は言った。
「それだけではない気もしました」
「何があった」
「皆、少し苛立っているようで」
市場で肩が触れた。
荷車が道を塞いだ。
酒場で注文の順番が前後した。
その程度のことで、怒鳴り声が上がることが増えていた。
殴り合いになるほどではない。
兵士が動くほどの騒ぎでもない。
どこの町でも起こり得る、些細ないざこざ。
「以前より多くなった気がするというだけです」
御者は付け加えた。
「天気が悪くて、皆疲れていたのかもしれません」
ユリウスは腰の記録帳を取り出した。
時刻。
場所。
帝国内で天候の安定しない日が続く。
客足が少なく、商売を早く切り上げた。
町で些細な争いが増えたように感じた。
証言者の主観。
断定出来ず。
見聞きした内容だけを、簡潔に書き留める。
「国境近くで、馬の様子に変化はなかったか」
「馬ですか?」
御者は、自分の馬を見た。
「帝国側では、何度か足を止めました。泥を嫌がったのだと思っていましたが」
「他には」
「耳を伏せて、急に地面を嗅ぐことがありました」
今は、何事もなかったように立っている。
悪路に疲れていただけかもしれない。
遠くの雷に反応した可能性もある。
ユリウスは、それも記録へ加えた。
「話を聞かせてくれて感謝する」
「いえ」
「王都までの道は通れる。だが、夜の移動は避けた方がいい」
「そうします」
御者は一礼し、再び荷馬車を進ませた。
泥の付いた車輪が、乾いた街道の上で軋む。
分隊長がユリウスの横へ来た。
「どう見る」
「証言だけでは何とも言えません」
ユリウスは記録帳を閉じる。
「天候が悪ければ、商売は滞ります。人が苛立つこともあるでしょう」
「馬の反応は」
「偶然かもしれません」
「全てに理由は付けられるということか」
「今のところは」
異常が起きている、そう断定するには弱い。
何も起きていない、そう判断するにも、不自然な点が残る。
それが、最も扱いに困る状態だった。
◇
日が沈み、辺りがもう暗くなった夜、隊は街道沿いの中継所へ到着した。
石造りの小さな建物と、馬を収容するための厩舎。
王城の伝令や商人が利用する場所だった。
全員が建物の中へ入れるほど広くはない。
騎兵の多くは、外で夜を越すことになる。
「馬の状態を優先して確認しろ」
分隊長が命じる。
「異常のある馬は厩舎へ。問題のない馬は壁際に繋ぐ。見張りは二人一組、交代制だ」
騎兵達が動き始める。
ユリウスは、一頭ずつ馬の状態を確認した。
脚。
蹄。
呼吸。
食欲。
王都から半日も進んでいない。
今のところ、問題のある馬はいなかった。
夜になると、中継所の前で、二つの焚き火が燃えた。
配られた食事は。
硬いパン。
干し肉。
薄い豆のスープ。
明日も馬を走らせるため、騎兵達は黙々と口へ運んでいた。
時折、小さな笑い声も上がる。
誰かが荷物から取り出した藁細工を、周囲の者が覗き込んでいた。
馬らしい。
だが、脚が三本しかなかった。
「娘が出立前に持たせてくれました」
騎兵が言った。
「急いで作ったので、一本足りなかったそうです」
「三本で走れるのか」
「祭りまでには直すと言っていました」
「願いは何だ」
尋ねられると、騎兵は藁の馬へ目を落とした。
「無事に帰るように、と」
それまで笑っていた者達が、僅かに静かになった。
「では、帰らなければならないな」
「はい」
騎兵は藁細工を壊さないように包み、荷袋へ戻した。
ユリウスは、焚き火の向こうにある暗い街道を見た。
春灯祭までには戻れる。
出立した時には、誰もがそう思っていただろう。
ユリウス自身も、長くても数日、国境周辺を確認し。
問題がなければ、王都へ帰還する任務だと考えていた。
それが正しいかどうかは、明日、国境へ着けば分かる。
◇
深夜。
見張りに立っていたユリウスは、繋がれていた馬が、低く鼻を鳴らす音を聞いた。
一頭だけではない。
別の馬も、前脚で地面を掻き始める。
「どうした」
ユリウスが近付く。
馬達は林ではなく、足元を気にしているように見えた。
獣の気配に反応している様子ではない。
ユリウスは膝をつき、手袋を外して地面へ触れた。
揺れは感じない。
耳を澄ませても、地中から音が響いてくるわけではない。
暫くすると、馬達は何事もなかったように静かになった。
「時刻を記録しておけ」
ユリウスは、共に見張りへ立つ騎兵へ言った。
「複数の馬が同時に反応。原因は不明」
「地震でしょうか」
「分からない」
分からないことが、また一つ増えただけだった。
◇
翌朝。
空が明るくなり始める前に、先遣隊は中継所を出発した。
薄い霧が、街道の低い場所に残っている。
午前中は、特に大きな問題もなく進んだ。
幾つかの村を通り。
王都方面へ向かう荷馬車とすれ違う。
帝国から来た者にも話を聞いたが、証言は昨日の御者と大きく変わらなかった。
天気が安定しない。
客が少ない。
人々が苛立っているように感じる。
それ以上のことは、誰も知らなかった。
昼を過ぎる頃。
帝国方面の空を覆っていた雲が、王国側へも広がり始めた。
冷たい風が吹く、すぐに風向きが変わり。
今度は、生暖かい空気が馬の間を抜けていく。
大粒の雨が、一度だけ、ユリウスの頬へ落ちた。
だが、続く雨はなかった、遠くで雷が鳴る。
空を見上げた騎兵が、眉を寄せる。
「雲の動きが読めません」
「雨具を出せるようにしておけ」
ユリウスが告げる。
「荷紐も確認しろ。道が濡れる前に緩みを直しておけ」
命令が後方へ伝わっていく。
降るのか。
晴れるのか。
近付いてくるのか。
遠ざかっているのか。
空だけを見ても、判断出来なかった。
◇
夕刻。
丘を越えた先に、王国側の国境砦が見えた。
高い石壁。
四隅に立つ監視塔。
その上で翻る、アルシア王国の旗。
王都を出てから、一日半。
予定より僅かに遅れただけで、先遣隊は目的地へ到着した。
門の前では、砦を預かる兵士達が待っていた。
先頭の分隊長が書面を差し出す。
「王城騎乗隊、二個分隊です」
「国境周辺の状況確認と、警備支援の命を受けています」
砦の責任者は書面へ目を通し、騎兵達の後ろへ視線を向けた。
五十を過ぎた頃の男だった。
日に焼けた顔、厚い外套の上からでも分かる、頑丈な体格。
「遠路、ご苦労だった」
責任者は言った。
「帝国側に動きはありますか?」
分隊長が尋ねる。
「軍の移動は確認されていない」
「国境の閉鎖は」
「ない。帝国兵の数も、こちらから見える範囲では普段と変わらん」
「では、異常はないと?」
「そうとも言い切れない」
責任者は、帝国方面へ顔を向けた。
丘の向こうには、灰色の雲が低く垂れ込めている。
「帝国側から来る者が減っている」
「いつ頃からですか」
ユリウスが尋ねる。
「数日前からだ」
国境を越えてきた者からも、天候が安定しないという話を聞いている。
客が来ず、商売にならなかった。
街の中で、些細な怒鳴り合いが増えたように感じた。
だが、大きな災害を見た者はいない。
軍が動いたという証言もない。
住民が集団で避難している様子もなかった。
「今朝」
砦の責任者は続けた。
「厩舎の馬が、一斉に帝国側へ顔を向けた」
「地震は」
「感じなかった」
「馬は地面へ反応していましたか」
「分からん。風かもしれない。雷かもしれない」
昨夜の中継所でも、同じような反応が起きている。
だが、それだけで地脈に異常があるとは断定出来ない。
「明朝から、砦の兵と共に確認へ出てもらいたい」
責任者が言った。
「範囲は国境線の王国側。街道、林、河川、境界標、監視塔から見える地域だ」
「帝国側へは?」
「入らない」
責任者は明確に答えた。
「こちらから接触もしない。何かを見つけても、まず報告だ」
ユリウス達の任務は、帝国国内を調べることではない。
王国側に、異常が及んでいるかを確かめることだった。
帝国で何が起きているのか、国境を越えてきた者の話以上に知る方法はない。
空。
川。
地面。
動物。
行き交う者の数。
確認出来るものは、それだけだった。
◇
翌日。
先遣隊は、砦の北側にある国境線を巡回した。
境界標に異常はない。
川の水位は少し高い。
だが、堤を越えるほどではなかった。
帝国兵の巡回も、遠目に見える範囲では、普段通りに行われている。
昼を過ぎた頃、突然、濃い霧が発生した。
数歩先も見えないほどの霧だった。
騎兵達は隊列を狭め、馬から下りて、互いの位置を確かめた。
だが、半刻もしないうちに霧は何事もなかったように消えた。
後には薄い青空が広がっている。
原因は分からない。
記録へ残す以外に、出来ることはなかった。
二日目。
国境の南側を確認した。
鳥の声が、砦周辺より少ないように感じられた。
だが、天候や時間帯の影響かもしれない。
帝国方面から来た商人は二人どちらも、天気の悪さと客の少なさを話した。
大きな事件は見ていない。
三日目。
王都へ送った報告に対する返答が届いた。
――引き続き、国境周辺の監視を継続せよ。
帰還命令ではなかった。
増援や交代要員の到着日も、まだ決まっていない。
「あと何日になると思いますか?」
若い騎兵が尋ねた。
「分からない」
ユリウスは答えた。
「状況が変われば、命令も変わる」
だが、翌日になっても決定的な変化は起きなかった。
悪化したとも言えない。
収まったとも言えない。
帝国側で雷が鳴り。
暫くすると、王国側へ強い風が吹く。
砦では雨が降っているのに、国境線の南では晴れている。
往来は少ない、それでも、一日に何人かは国境を越える。
帝国軍は動かない。
避難民も来ない。
魔物の群れも現れない。
「この程度なら」
騎兵の一人が、巡回から戻った後に呟いた。
「王都へ戻ってもよいのではないでしょうか」
不満というよりも、疲れが口から零れただけだった。
ユリウスにも、その気持ちは分かった。
何も起きていない場所で、何かが起きるかもしれないという理由だけで、待ち続けている。
「戻る理由がないわけではない」
ユリウスは答えた。
「だが、今ここを離れてよい理由もない」
騎兵は黙った。
帰ろうと思えば、道はまだ残っている。
王都まで戻れないわけではない。
だが、異変が収まったという証拠はない。
何かが始まったという証拠もない。
交代の者も来ていない。
ここで引き返した直後に、国境で何かが起きる可能性もある。
前へは進めない。
国境を越える権限はない。
だが、後ろへ戻る命令も出ない。
騎兵達は、国境線を巡回し。
同じ川を見て。
同じ境界標を確かめ。
同じような報告を書き続けた。
春灯祭までの日数だけが、少しずつ減っていく。
◇
その夜。
ユリウスは、砦の監視塔に立っていた。
帝国側の丘も。
国境を示す川も。
闇の中へ沈んでいる。
時折、低い雲の奥で、白い光が瞬いた。
雷鳴は届かない。
随分遠い場所で鳴っているらしい、何も起きていない。
今日も、異常と断定出来るものは見つからなかった。
ユリウスは、王都で聞いた言葉を思い出す。
魔王に極めて近い反応。
数十年ぶりに、魔王が現れた可能性。
そう聞いた時には、国境へ着く前から、大きな異変が起きるのだと思っていた。
空が赤く染まる。
町が燃える。
軍勢が国境を越えてくる。
物語の中で語られるような。
誰の目にも分かる災厄を想像していた。
だが、現実にあるのは。
不安定な天候。
減った往来。
時折落ち着きを失う馬。
突然発生する霧。
それだけだった。
本当に、魔王の反応など感知されたのだろうか。
昼過ぎに突然召集され、慌ただしく準備を整え。
王城を出たあの日のことさえ、国境で似た日を繰り返すうちに。
遠い出来事のように感じられ始めていた。
「副長」
交代の騎兵が塔へ上がってくる。
「異常はありますか」
ユリウスは、暗い国境線を見渡した。
「ない」
今日、何度目になるか分からない答えだった。
異常がないことは、本来なら喜ぶべきことのはずだった。
それでも、ユリウスは塔を下りる前に、もう一度だけ、帝国側へ目を向けた。
雲の奥で、白い光が瞬く、少し遅れて低い雷鳴が届いた。
足元の石壁が僅かに震えたような気がした。
「今、揺れなかったか」
「揺れですか?」
交代の騎兵が、足元を見る。
暫く待っても次の揺れは来ない。
「私は何も感じませんでした」
「そうか」
風かもしれない。
雷の振動かもしれない。
疲労による錯覚かもしれない。
ユリウスは記録帳を取り出した。
時刻。
天候。
帝国方面で雷鳴。
監視塔にて、僅かな振動を感じる。
他の者は感知せず。
断定はしない、自分が見たものと感じたものだけを残す。
記録帳を閉じる。
魔王が、本当に国境の向こうへ現れたのか。
自分達は何かが始まる直前にいるのか。
それとも存在しない災厄を待ち続けているだけなのか。
答えはまだ見えない。
戻るに戻れないまま。
国境での一日がまた終わろうとしていた。




