表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/25

第十八話 本実験場

帝国第三庁舎。

地下実験区画。

窓のない円形の実験室で。

五つの青晶石が、淡い光を放っていた。

以前のような激しい明滅ではない。

一つの結晶がゆっくりと明るくなれば、少し遅れて、隣の結晶が応える。

やがて五つの光は、互いの存在を確かめ合うように、同じ間隔で明滅を繰り返し始めた。

実験室の中央には、五つの椅子が円を描くように並べられている。


アイラ。

レナ。

カティア。

ミリア。

ソフィア。

五人は目を閉じ。

背筋を伸ばしたまま、決められた呼吸を繰り返していた。

それぞれの指には、細い金属製の指輪が嵌められている。

指輪から伸びた導線は、床を這い、五つの青晶石へつながっていた。

実験室と厚い硝子で隔てられた観察室では、計器の針が、小刻みに揺れている。

「第三段階、安定しています」

計器を担当する研究員が、声を抑えて報告した。

「候補者間の心拍偏差、前回比で四割低下。結晶反応の偏りも許容範囲内です」


アルト・ヴェルナーは。

観察窓の向こうにいる五人から目を離さずに尋ねた。

「維持時間は?」

「十二分を経過しました」

「体温は」

「全員、正常範囲です。ソフィア候補に僅かな上昇がありますが、危険域ではありません」

別の研究員が記録紙を確認する。

「精神波形にも大きな乱れはありません」

アルトは一つずつ数値を確かめた。

心拍。

体温。

呼吸数。

青晶石との接続率。

環を通じて流れる力の量。

どの値にも、実験を中止すべき兆候は現れていなかった。

以前は違った。

一人の不安が、すぐに他の四人へ伝わった。

誰かの心拍が速くなれば、隣に座る者の呼吸まで乱れた。

一つの青晶石が強く輝けば、他の結晶も引きずられるように明滅し、制御装置の針が一斉に危険域へ近付いた。

五人の意識がつながることは、負担を分け合うことではなく。

一人の恐怖を五人へ広げることだと考えられていた。

だが、今は違う。

観察窓の向こうで、ソフィアの指先が僅かに震えた。

それに気付いたのか、隣に座るミリアが、ゆっくりと息を吐く。

レナの呼吸が同じ間隔へ近付き、アイラも続く。

最後に、カティアの肩から力が抜けた。


乱れかけた五人の波形が、再び一つの穏やかな形へ戻っていく。

アルトの視線が、記録計へ移った。

「今の変化は?」

「ソフィア候補の反応が一時上昇しました」

研究員が紙へ数値を書き込みながら答える。

「ですが、他の四名へ拡散した直後に低下しています」

「上昇が伝染したのではないのか」

「違います」

別の研究員が、測定結果へ顔を近付けた。

「一名分の反応が、五名へ均等に分かれています。一人当たりの負荷は、上昇前よりも低い」

その言葉を裏付けるように、カティアの前に置かれた青晶石が、一度だけ強く輝いた。

観察室の空気が張り詰める。

だが、光は一つの結晶へ集中しなかった。

細い光が、床を這う導線を通じて、他の四つへ流れていく。

五つの青晶石が同時に明るくなり。

次の瞬間には、何事もなかったかのように、穏やかな明滅へ戻った。

「分散した……」

若い研究員が、驚きを隠せずに呟いた。

「一人へ集まるはずだった力を、五人が受け取ったのでしょうか」

「まだ断定は出来ない」

アルトは答えた。

「同じ条件で再現出来るかを確認する必要がある」

それでも、声には僅かな変化があった。

力を押さえ込んだのではない、誰か一人へ偏ろうとしたものを、五人が無意識に分け合った。

それが意図的に再現出来るなら、候補者一人へ掛かる負担を、大きく減らすことが出来る。

危険な臨界反応を起こさず、青晶石との接続を維持出来るかもしれない。

きっかけとなったのは、帝都へ出掛けた、あの日の記憶だった。


慣れない私服。

混雑した街路。

店先に並んだ色とりどりの布。

菓子店の窓際に置かれた焼き菓子。

五人で囲んだ小さな卓。

そして、帰り道で見上げた夕暮れ。

実験とは何の関係もないはずの一日。

だが、誰かの意識が沈みかけた時、別の誰かが、その日の記憶を思い浮かべる。

それに気付いた者が、同じ景色を思い出す。

自分達が何を着ていたのか。

誰がどこに座っていたのか。

どの菓子を選び。

誰が最初に笑ったのか。

五人が持つ少しずつ異なる記憶が重なり、意識を現在へつなぎ止めていた。

「十五分まで継続する」

アルトが告げた。

「数値の維持だけを目的にするな。僅かでも異常が出れば、予定時間を待たずに停止する」

「了解しました」

研究員が記録用紙へ書き込む。

実験室の中では、五人が静かに呼吸を続けていた。


カティアの額に薄く汗が浮かぶ。

レナの右手が、椅子の縁を一度だけ握り締める。

それでも、誰も大きく姿勢を崩さない。

五つの波形は、僅かに揺れながらも、同じ範囲に収まっている。

「十四分三十秒」

残り時間が読み上げられる。

以前なら、この頃には誰かが限界を迎えていた。

実験を止めた後も頭痛や吐き気が残り、その日の夜まで眠れない者もいた。

だが今日の五人には、苦痛へ耐えている様子がない。

互いの存在を頼りにしながら、自分達の意思で、同じ場所へ留まっていた。

「十五分経過」

研究員が告げた。

アルトは全ての計器へ目を通した。

まだ続けられる、そう判断出来る値だった。

しかし、予定を超えてまで進める理由はない。

「終了する」

アルトが静かに手を上げた。

「接続を急に切るな。第三段階から第一段階まで、時間を掛けて落とせ」

研究員達が一斉に装置へ手を伸ばす。

青晶石の光が、少しずつ弱くなっていく。

五人の指に嵌められた指輪からも、ゆっくりと熱が失われていった。

やがて、五つの結晶は、薄い残光だけを残して沈黙した。


最初に目を開けたのはレナだった。

次にアイラ。

カティアは深く息を吸い、自分の両手を確かめる。

ミリアはすぐに隣へ顔を向けた。

ソフィアも目を開き。

ミリアへ小さく頷いた。

それから、五人は互いの様子を確かめるように顔を見合わせた。

「気分の悪い者は?」

通話装置を通じて。

アルトが尋ねる。

「問題ありません」

レナが答えた。

声に震えはない。

アイラも首を横へ振った。

「以前より、身体が軽く感じます」

「途中で、一度だけ強い反応がありました」

カティアが言った。

「ですが、こちらへ力が押し寄せてくるような感覚ではありませんでした」

「広がっていく感じでした」

ミリアが言葉を探しながら続ける。

「薄くなるというより……皆で同じものを持ったような」

「誰か一人が支えたわけではないのです」

ソフィアが自分の指を見る。

指輪を外した跡が、薄く赤く残っていた。

「皆がいたから、怖くありませんでした」

アルトの肩から、僅かに力が抜けた。

五人の言葉と、計器に残された記録が一致している。

偶然の可能性はある、次も同じ結果が得られるとは限らない。

だが、進むべき方向は見え始めていた。


出力を上げるのではなく、まずは今日の状態を再現する。

五人が共有しやすい記憶を整理し、接続する順番を調整する。

実験前後の休息を増やし、一人ずつの負担を、より細かく確認する。

時間を掛ければいい、急ぐ必要はない。

五人が安全に力を扱えるようになるまで、一つずつ確かめればいい。

初めて、実験を進めることと五人を守ることが、同じ方向へ向かい始めたように思えた。

「今日の記録を整理した後、明日の実験は中止する」

アルトは研究員達へ告げた。

「一日空けて、身体と精神の変化を確認する。次回も同じ条件から開始する」

「出力は上げないのですか?」

若い研究員が尋ねる。

「上げない」

アルトは即座に答えた。

「一度成功しただけだ。成果を急いで失敗するより、再現出来るものを一つずつ増やす」

観察窓の向こうで、レナが僅かに微笑んだ。

ミリアも張り詰めていた息を吐く。

この実験が始まってから、次の予定を聞いて安堵する五人の姿をアルトは初めて見た気がした。

そうして、研究員達が今日の成果について話し始めた時だった。


実験区画の外から、重い金属音が響いた。

室内にいた全員の動きが止まる。

地下区画へ続く扉が、外側から開かれていた。

金属同士が擦れる低い音が長い廊下を伝ってくる。

この区画へ入るには。

入口の衛兵。

第三庁舎の管理官。

そして、計画責任者であるアルト。

三者の許可が必要だった。

実験終了直後とはいえ、許可なく外部の者が入ることはない。


アルトは観察窓から視線を外した。

開いた扉の向こうに、帝国軍の制服を着た二人の男が立っている。

先頭の男は、将校用の黒い外套を身に着けていた。

胸元には、中央司令部の銀色の徽章が留められている。

その後ろには、革製の書類鞄を抱えた文官。

さらに、第三庁舎の管理官が続いていた。

管理官はアルトと目が合うと、何かを言おうと口を開き。

結局、僅かに視線を逸らした。

その様子だけで、彼も、何が起きるのかを十分に知らされていないのだと分かった。

「星巫女運用計画責任者」

先頭の男が、室内へ足を踏み入れる。

「アルト・ヴェルナー大佐で間違いないか」

「そうだ」

アルトは答えた。

「用件があるなら、管理棟で伺う。ここは実験区画だ」

「本日の実験が終了したことは確認している」

男の視線が、観察室をゆっくりと巡る。

計器。

記録紙。

青晶石。

そして、硝子の向こうにいる五人。

人間を見ているというより、引き渡される機材と数量を確認しているような目だった。


「本日付の移行辞令及び執行命令を通達する」

文官が書類鞄を開く。

中から取り出された封書には、赤い封蝋が施されていた。

刻まれているのは、帝国中央評議会と中央司令部。

二つの印。

研究員達の間に小さな動揺が走った。

どちらか一方だけなら、研究方針か、軍務上の指示に過ぎない。

二つの機関が連名で命令を出すということは、第三庁舎の内部だけでは処理出来ない決定が、既に下されているということだった。

「ここで確認してもらう」

アルトは封書を受け取った。

紙は薄い。

だが、手にした時の重さは、先ほどまで抱えていた研究報告書の束よりも重く感じられた。

封蝋を割る。

中から現れたのは、一枚の辞令書だけではなかった。

計画移行命令書。

人員移送表。

機材搬出一覧。

資料引渡目録。

施設管理権移譲書。

候補者五名の氏名と身体記録番号を記した別紙。

さらに。

第三庁舎所属者の同行可否を示す一覧まで揃えられている。

アルトの目が細くなった、今日の結果を受けて作られたものではない。

人員も。

機材も。

書類も。

既に全て分類されている。

少なくとも数日前から、アルト達へ知らされないまま、準備が進められていた。


「正式な通達として読み上げる」

中央司令部の男が告げた。

文官が辞令書を開く。

研究員達は、互いの顔を見た。

誰も座ろうとしない。

誰も作業へ戻らない。

実験室側にも声が届くよう、通話装置は開かれたままだった。

五人も、観察窓の向こうから、こちらを見ている。

「帝国暦第四一七年、中央評議会及び中央司令部共同決定」

無機質な声が、地下区画へ響く。

「星巫女運用計画は、第三庁舎予備実験区画における基礎検証を完了したものと認定する」

一人の研究員が思わず顔を上げた。

基礎検証は終わっていない、今日確認されたのは僅か十五分間の安定反応。

それも、初めて得られた一度だけの結果だった。

再現性もない、長時間維持した場合の負担も不明。

接続後に遅れて異常が出る可能性も、まだ否定出来ていない。

それでも命令書の中では、既に完了したことになっていた。


「同計画を、予備検証段階より実地運用検証段階へ移行する」

書記官の手から記録用のペンが滑り落ちた。

床へ当たり乾いた音を立てて転がっていく。

誰も拾おうとしなかった。

実地運用。

それが何を意味するのか、この場にいる者は全員理解していた。

管理された小規模設備で、僅かな反応を確かめる段階ではない。

より大きな装置。

より高い出力。

そして、目に見える成果を求められる実験へ移るということだった。


「候補者五名」

文官は読み上げを続ける。

「アイラ・ベルク、レナ・クロフト、カティア・ローゼン、ミリア・ファークナー、ソフィア・エーレンを、特別指定実験要員として再登録する」

観察窓の向こうで、ミリアの表情が強張った。

レナは正面を見たまま椅子の肘掛けを強く握っている。

カティアは何かを確認するように自分の指と、外された環を見比べた。

アイラの顔からは、軍人としての硬い表情以外、何も読み取れない。

だが膝の上に置かれた両手は、強く組まれていた。

ソフィアは辞令ではなく、他の四人の顔を、一人ずつ確かめていた。

「候補者五名は、環状接続器、青晶石、観測設備及び全ての身体・精神状態記録と共に、カルドラ山麓第一本実験場へ移送する」

「全ての身体記録まで?」

医療担当の研究員が思わず声を漏らした。


文官は止まらない。

「移送準備は、本命令受領時より開始する。出発期限は七十二時間後とする」

今度は、室内の各所から声が上がった。

「七十二時間?」

「機材だけでも間に合わない」

「候補者の移動前検診はどうする」

「搬送用の固定具も調整していません」

次々に重なる声を、中央司令部の男は聞き流した。

「長距離移動の後に実験を行うのであれば、最低でも数日の経過観察が必要です」

医療担当者が、一歩前へ出た。

「五人は今日、十五分間の接続を終えたばかりです。数値が正常でも、遅れて症状が出る可能性があります」

「意見は、移送資料へ記載すればよい」

「紙へ書けば、身体への負担が消えるのですか」

男は答えなかった。

文官が次の項目へ移る。

「計画全体の管理権及び指揮権は、本命令受領時をもって、第三庁舎研究部より中央特別開発部門へ移譲する」

研究員達の声が一斉に止んだ。

実験内容が変更されるのではない。

第三庁舎から、計画そのものが取り上げられる。


「現計画責任者、アルト・ヴェルナー大佐を、同責任者職より解任する」

観察窓の向こうで、五人の視線が、同時にアルトへ集まった。

ミリアが、何かを言おうと口を開く。

だが、声は出なかった。

アルトは、書面から目を上げなかった。

「同人は、これまでの研究実績及び候補者五名への知見に鑑み、カルドラ山麓第一本実験場付技術顧問として、本計画へ同行するものとする」

解任。

その直後に続いた技術顧問という肩書きは、計画から排除されないための配慮にも聞こえた。

しかし。

次の一文が、その意味を明確にした。


「技術顧問は、設備調整、資料説明及び技術的助言を担当する。ただし、人員配置、候補者選定、実験開始、継続、中断及び中止に関する決定権を有しない」

観察室のどこかで、誰かが息を呑んだ。

アルトから奪われたのは、責任者という肩書きだけではない。

五人の状態を見て、危険だと判断した時に、実験を止める権限。

候補者を休ませる権限。

出力を下げる権限。

今日のように。

予定時間で実験を終える権限。

そして、これ以上は続けられないと拒否する権限。

全てだった。

その瞬間。

電源を落としたはずの記録計の針が、僅かに動いた。

誰も触れていない、装置へ青晶石からの力も流れていない。

それでも、細い針は中央から外れ。

一度だけ、右へ揺れた。

若い研究員が、計器へ視線を向ける。

だが、針は既に元の位置へ戻っていた。

見間違いだと思ったのか、何も言わなかった。


観察窓の向こうで、レナが立ち上がった。

「中止する権限がないとは、どういうことですか」

通話装置を通じて、張り詰めた声が観察室へ届く。

中央司令部の男は、初めて五人へ顔を向けた。

「質問は、通達終了後に受け付ける」

「私達の身体に関係する命令です」

レナは退かなかった。

「責任者を交代する理由を、アルト大佐にも私達にも説明しないのですか?」

「レナ中尉」

アイラが、低い声で名前を呼ぶ。

止めようとしているのではない。

これ以上言えば、軍紀違反として処分される可能性があると警告したのだ。

レナも理解していた。

それでも、椅子へ座り直そうとはしなかった。

アルトは、観察窓越しにレナを見る。

落ち着け。

そう伝えるために、小さく首を横へ振った。

その仕草を見て、レナは唇を結ぶ。

だが、その場に立ったままだった。


「第三庁舎所属研究員のうち、本実験場への同行を認める者は、中央特別開発部門が別紙にて指定する」

文官が続ける。

研究員達の表情が変わった。

一人が、机に置かれた別紙へ手を伸ばす。

「全員ではないのですか?」

返事はない。

「指定を受けなかった者は、本日中に計画関連業務から離任すること。保有する鍵、通行証、記録原本、複製資料及び私的な覚書を含む全ての計画関連物を、第三庁舎管理官へ返却するものとする」

「本日中に?」

書記官が立ち上がる。

床へ落ちたペンは、まだ足元に転がったままだった。

「引き継ぎが終わっていません。候補者ごとの反応には、数値へ残らない経過があります」

「指定形式の引継資料を作成するよう命じられている」

「紙だけで引き継げるものではありません」

別の研究員も、抑え切れずに声を上げた。

「今日の反応だって、五人が何を思い出していたのか、誰が最初に不安を感じたのか。それを見ていた者でなければ判断出来ない」

「必要と認められた者は、同行者として指定される」

中央司令部の男が答えた。

「指定されなかった者は、計画の遂行に不可欠ではないと判断された」

若い研究員の顔から血の気が引いた。

何かを言い返そうとして、言葉を失う。

五人の状態を見守ってきた時間、一つずつ危険を避けるために重ねた工夫。

実験の後に交わした会話。

表情や声の僅かな違い。

その全てが、中央の判断で必要のないものとされた。

室内の空気が、急に重くなったように感じられた。

誰もが怒りや不安を抱いている。

無理もない。

アルトはそう考えた。

しかし、研究員達の動揺は、命令を受ける前よりも、明らかに強くなっていた。

机の端に置かれた紙が、風もないのに僅かに震える。


誰かが荒い息を吐く、それを聞いた別の研究員が苛立ったように振り返る。

「静かにしろ」

「何も言っていないだろう」

普段なら、言い争いにならないような言葉だった。

アルトが二人へ視線を向けると、どちらも気まずそうに口を閉じた。

文官は、何事もなかったように最後の項目を読み上げる。

「候補者五名は、移送準備期間中、中央特別開発部門の直接管理下に置く」

ソフィアが、ゆっくりと顔を上げた。

「外出、外部通信、私的面会及び計画関係者以外との接触は、新計画責任者またはその代理人の許可を必要とする」

「それは……」

ミリアの声が震える。

「軟禁ではありませんか」

通話装置が、その小さな声を拾った。

中央司令部の男は否定しなかった。

「重要計画に従事する特別指定要員への標準措置だ」

「昨日までは、そんな扱いではありませんでした」

ミリアの指が、椅子の縁を掴む。

「私達は、囚人ではありません」

ソフィアが、隣にいるミリアの手へ、そっと自分の手を重ねた。

落ち着かせるような動きだった。

だがソフィア自身の指も、僅かに震えている。

アイラは、中央司令部の男を正面から見た。

「私物の持ち込みは認められますか」

男は、少しだけ意外そうにアイラを見る。

「別途、制限一覧が通達される」

「候補者同士の接触は、新責任者の判断による」

アイラの目が、僅かに細くなった。

五人が同じ場所にいられる保証すらない。

今日、五人が互いの存在によって実験を安定させた直後に。

その関係を維持出来るかどうかまで、見知らぬ責任者の判断へ委ねられた。

「以上」

文官が辞令書を閉じる。


紙が重なる乾いた音が、地下区画へ響いた。

少し前まで、この場所では今日の成果を喜んでいた。

次の実験について話し合うはずだった。

五人が使った記憶。

環の改良。

休息時間。

再現性の確認。

明日を休みにすること。

確かめるべきことは。

いくらでもあった。

だが、その予定は全て数枚の紙によって消えた。

アルトは、手元の移行命令書から顔を上げた。

「これは、今日の結果を確認して出された命令ではないな」

中央司令部の男を見る。

「人員移送表も、搬出一覧も既に作成されている。候補者の身体記録番号まで別紙へ記載されている」

男は答えない。

「少なくとも、数日前から決定されていたはずだ」

「回答する義務はない」

「では、基礎検証の完了認定は何を根拠にした」

「これまで提出された中間報告だ」

「中間報告には、現段階で本実験へ移行すべきではないと明記した」

アルトの声は、低く、落ち着いていた。

怒鳴ってはいない、だが、その場にいた全員が言葉の奥に押し込められたものを感じていた。

「候補者間の反応が安定したのは、今日が初めてだ。再現性は確認していない。高出力時の影響も、長時間接続後の症状も分かっていない」

「技術的な懸念は、現地で新責任者へ提出してもらう」

「新たな責任者は誰だ?」

「現地で通達する」

「本実験の計画書は?」

「同様に、現地で開示する」

「五人に異常が出た場合、中止を命じるのは誰だ?」

中央司令部の男はアルトを正面から見た。

「中央特別開発部門より任命される、新計画責任者だ」

「その者が、中止を認めなければ?」

短い沈黙があった。

男は答えを避けなかった。


「技術顧問には、意見を上申する権利が認められている」

止める権利ではない、意見を述べる権利だけだった。

アルトの指が、命令書の端を強く掴む、紙が小さく音を立てた。

その瞬間、実験室の中に置かれた五つの青晶石がごく僅かに光った。

最初に気付いたのはソフィアだった、彼女は隣の結晶へ顔を向ける。

だが、光はすぐに消えた。

装置は停止している。

指輪も既に外されている。

研究員達の注意は、アルトと中央司令部の男へ集まっていた。

誰も、異常を報告しなかった。


「七十二時間では」

アルトは続ける。

「候補者の移動前検診も、機材の再調整も間に合わない」

「間に合わせることも命令に含まれている」

「無理に移動させれば、到着後の実験へ影響が出る」

「その判断も、現地責任者が行う」

何を言っても、同じ場所へ戻ってくる。

アルトには、助言することしか許されない。

五人の状態を、誰よりも理解しているにもかかわらず。

五人を守るための決定からは、完全に外される。

「候補者への通達は」

男が続けた。

「本日中に、現責任者から行うよう命じられている」

現責任者。

既に解任された人間へ使われる言葉が、ひどく皮肉に聞こえた。

責任者として残された最後の仕事が、自分の権限を奪われたことと。

五人を本実験場へ連れていくことを、本人達へ告げることだった。

「受領の署名を」

文官が。

確認書とペンを差し出した。

アルトは動かなかった。

署名を拒んでも、命令そのものは消えない。

拒否すれば命令への抵抗と見なされる。

アルトだけが計画から排除され、五人は中央の人間だけに連れられていくかもしれない。

技術顧問という立場であっても、同行出来るなら五人の側に残ることは出来る。

危険だと訴えることも、異常に最初に気付くことも出来る。

決定権がなくても、完全に離されるよりはいい。

そう考える以外に選択肢はなかった。

アルトはペンを取る。


確認書へ。

アルト・ヴェルナー、自分の名前を書く。

最後の一文字を書き終えても、すぐにはペンを離せなかった。

インクが紙へ滲み、線の一部が太くなる。

アルト自身はただ、指へ力が入っただけだと思った。

だがその瞬間、観察室の照明が、一度だけ暗くなった。

研究員達が天井を見上げる。

「電圧が落ちたか?」

「設備系統は正常です」

確認する声が飛ぶ。

中央司令部の男だけが、苛立ったように眉を寄せた。

「署名は終わったのか?」

アルトはペンを置いた。

「終わった」

文官が確認書を受け取る。

「確かに受領した」

中央司令部の男は、室内全体へ向けて告げた。


「本時刻より、計画関連区画、資料保管庫及び通信設備は、中央特別開発部門の管理下に置く。指定を受けていない者は、管理官の指示に従え」

その言葉を合図に、廊下で待機していた兵士達が入ってきた。

二人。

四人。

さらに、その後ろにも続いている。

資料庫の扉。

機材室。

通信室。

各区画の入口へ。

武装した兵士が立つ。

研究員達は、呆然とその光景を見ていた。

自分達が働いてきた施設へ、まるで外部の人間であるかのように立ち入りを制限されていく。

管理官がようやく声を絞り出した。

「各員は……自席へ戻り、携行品以外の資料へ触れないように」

誰も返事をしなかった。

中央司令部の男と文官は踵を返す。

重い扉が閉じた後も兵士達は残った。

地下実験区画へ、再び静けさが戻る。

だが、少し前までの静けさとは違っていた。

五つの青晶石は既に光を失っている。

今日の実験は成功した、危険な兆候もなかった。

五人は確かに前へ進んでいた。

本来ならその成果を喜ぶはずだった。

それなのに成果が認められたという名目で。

研究も。

施設も。

仲間達も。

五人の自由も。

そして、五人を守るための権限さえアルトの手から奪われた。

「アルト大佐」

観察窓の向こうから、レナの声が届いた。

「私達は、どうなるのですか」

責任者として説明するための言葉は、命令書に書かれている。


七十二時間後。

カルドラ山麓第一本実験場。

特別指定実験要員。

技術顧問。

指揮権移譲。

外部との接触制限。

だがそのどれも、五人が本当に知りたいことへの答えにはならなかった。

アルトは、すぐには答えられなかった。

観察窓の向こうにいる五人を見る。

その五人を、今度は見知らぬ場所へ連れていく。

そこで何が行われるのか自分にも知らされていない。

それでも、不安を見せることは出来なかった。

「全員」

アルトは口を開く。

自分で思っていたよりも、声は平静だった。

「まず、着替えてくれ」

五人は動かなかった。

「その後、会議室へ集まってほしい」

レナが、何かを尋ねようとする。

だが、アルトの表情を見て、言葉を飲み込んだ。

「今後の実験と」

アルトは一度言葉を切る。

「三日後の移動について、話がある」

ミリアの顔から、僅かに血の気が引いた。

カティアは俯き、ソフィアは、ミリアの手を離さなかった。

レナは、何かを堪えるように、強く唇を結ぶ。

アイラだけが軍人らしく背筋を伸ばした。

「了解しました」

その声にも、普段のような力はなかった。

五人が実験室から出ていく。

研究員達も、兵士の監視を受けながら、それぞれの持ち場へ戻り始めた。


アルトは一人、観察窓の前に残った。

硝子の向こうには、空になった五つの椅子。

外された指輪、光を失った青晶石が並んでいる。

今日の実験結果だけを見れば、全てが順調だった。

五人は安定した力を分け合う方法も見えた。

危険を避けながら先へ進める可能性が生まれた。

だからこそ奪われたものが、はっきりと分かった。

自分が責任者でいれば五人を守れると思っていた。

危険になれば止められると思っていた。

慎重に進めれば誰も失わずに済むと思っていた。

その考えが数枚の紙によって、何の意味も持たなくなった。

机の上に置かれた命令書が僅かに揺れた。

地下に風はない。

空調も、先ほど兵士によって停止されている。

アルトはそれに気付かなかった。

自分が何とかしなければならない、それだけを考えていた。

三日しかない。

機材を調整する、五人の検診を終わらせる、移動中の負担を減らす。

本実験場の設備を確認する。

新責任者が誰であろうと、危険性を理解させる。

中止する権限がないのなら、中止せざるを得ないだけの根拠を揃える。

まだ出来ることはある、そう考えなければ五人と共に行くことさえ出来なかった。

アルトは命令書を持ち上げる。

その指先の下で、紙の端にごく小さな亀裂が走った。

力を入れた覚えはなかった。

アルトは紙が古かったのだろうと思った。

そして会議室へ向かうため、観察室を出ていった。

誰もいなくなった実験室で五つの青晶石が。

同時に一度だけ、脈打つような青い光を放った。


会議室へ続く廊下にも、既に二人の兵士が立っていた。

第三庁舎で勤務する守衛ではない。

胸元に付けられた銀色の徽章は、先ほど実験区画へ入ってきた兵士達と同じ、中央司令部のものだった。

アルトが近付くと、一人が無言で扉を開けた。

許可を求める様子はない。

まるで、この先が既に自分達の管理下にあると、態度だけで示しているようだった。


アルトは何も言わず会議室へ入った。

五人は、既に長机の片側へ並んで座っていた。

実験用の服から、第三庁舎で支給されている簡素な衣服へ着替えている。

アイラ。

レナ。

カティア。

ミリア。

ソフィア。

五人とも。

アルトが入ってくると、一斉に顔を上げた。

その表情には、先ほどの実験を終えた安堵は残っていなかった。

だが会議室にいたのは、五人だけではない。

出入口の両側には、武装した兵士が一人ずつ立っている。

さらに、長机の反対側には、見慣れない三人の人物が座っていた。

全員が研究服を着ている、第三庁舎で使われる白い研究服とは違う。

僅かに灰色を帯びた生地。

黒く縁取られた襟。

左胸には、歯車と星を組み合わせた、小さな銀色の紋章が縫い付けられていた。

中央特別開発部門。

そう考えるのが自然だった。


中央に座る男は、五十歳前後に見えた。

細い眼鏡を掛け、机の上に幾つもの書類を広げている。

その隣には、五人分の身体記録を手にした女性。

反対側には、記録板と筆記具を用意した若い研究者がいた。

三人ともアルトが入室しても、立ち上がらなかった。

「これは、どういうことだ」

アルトが尋ねる。

眼鏡の男は、手元の書類から顔を上げた。

「中央特別開発部門、先遣引継班です」

名乗るより先に、所属だけを告げる。

「本日より、候補者五名の移送準備及び引継確認を担当します」

「ここでは、私から五人へ説明を行う予定だったはずだ」

「承知しています」

男は淡々と答えた。

「その説明内容と、候補者の理解状況も引継事項に含まれます。我々は立会人です」

立会人。

そう言いながら、若い研究者は既に記録板へ何かを書き込んでいた。


アルトが入室した時刻。

最初に発した言葉。

声の調子。

おそらく、その全てが記録されている。

「五人と、私だけで話す時間をもらいたい」

「認められていません」

返答には、考える間さえなかった。

「候補者は既に中央特別開発部門の管理下へ移されています。以後、許可のない私的な面談は出来ません」

アルトの視線が、男から、五人へ移る。

ミリアは膝の上で両手を握っていた。

カティアは、机の向かい側に並んだ研究者達を、警戒するように見ている。

レナの表情には、抑え切れない苛立ちが浮かんでいた。

ソフィアは、部屋に入ってから一度も、兵士達へ背を向けていない。

アイラだけが、正面を見たまま姿勢を崩していなかった。

それでも、アルトと目が合った時、僅かに視線を動かした。説明を待っている。


アルトは空いている席へ向かった。

これまでなら、会議を進める者が座る、机の先端の席だった。

しかし、その椅子には、眼鏡の男の資料鞄が置かれていた。

偶然ではない、アルトは何も言わず五人と研究者達の間にある席へ座った。

責任者の席ではない。

五人の側でも。

中央の側でもない。

技術顧問として用意された場所なのだろう。

「始めてください」

眼鏡の男が言った。

アルトは男を見た。

今まで、この部屋で実験の説明を始める時、誰かの許可を待ったことはなかった。

「必要なら、こちらで命令内容を再度読み上げます」

「必要ない」

アルトは答えた。

そして五人へ顔を向ける、どの言葉から伝えるべきか。

一瞬だけ迷った。

本実験場への移動。

責任者からの解任。

中央による直接管理。

外部との接触制限。

分からないことが多すぎた。

それでも、まず伝えなければならないことだけは決まっていた。


「先ほど聞いた通りだ」

アルトは静かに口を開いた。

「星巫女運用計画は、本日付で中央特別開発部門へ移管された」

五人は黙って聞いている。

「三日後。私達はカルドラ山麓にある第一本実験場へ移動する」

ミリアの肩が僅かに強張った。

「私達、ですか」

アルトは頷く。

「私も同行する」

その言葉を聞いた瞬間、ミリアの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

ソフィアもアルトの顔を見つめたまま、小さく息を吐く。

カティアは確認するように尋ねた。

「大佐も、今まで通り実験に参加されるのですか」

「参加はする」

アルトは答えた。

だが、その先を曖昧には出来なかった。

「ただし、責任者としてではない」

五人の間へ、再び緊張が戻る。

「本日付で、私は計画責任者から外された。今後は技術顧問として、装置の調整と、これまでの研究内容の引継ぎを行う」

レナが、机の下で拳を握る。


「つまり」

声を抑えながら尋ねた。

「私達の実験を指揮することは、もう出来ないのですか?」

アルトは、すぐには答えられなかった。

その僅かな沈黙だけで、レナには伝わったようだった。

「出来ないのですね」

「正確には」

向かい側に座る眼鏡の男が口を挟んだ。

「ヴェルナー技術顧問には、実験上の懸念を新責任者へ上申する権利があります」

アルトの肩書きを、既に変更後のもので呼ぶ。

レナの目が、鋭く男へ向けられた。

「聞いているのは、意見を言えるかではありません」

「クロフト中尉」

アルトが名を呼ぶ。

レナは唇を噛み、それ以上の言葉を飲み込んだ。


眼鏡の男は、若い研究者へ視線を向ける。

若い研究者が、記録板へ筆を走らせた。

「今のやり取りまで記録する必要があるのですか?」

カティアが尋ねる。

「移送前の心理状態を把握するためです」

女性研究者が答えた。

その膝の上には、五人それぞれの名前が記された書類が重ねられている。

「急な環境変化に対する反応、命令への理解度、集団内での感情伝播。全てが本実験前に必要な情報となります」

五人は、互いの顔を見た。

今日の実験では、同じ記憶を共有することで、感情を分け合うことが出来た。

だが、中央の研究者達は、その関係さえ観察対象として見ている。

「私達を安心させるためではなく」

ソフィアが静かに尋ねた。

「どのように不安になるのかを、調べているのですか」

女性研究者の手が、僅かに止まった。

「どちらも必要です」

否定はしなかった。

アルトは、机の上に置かれた書類へ視線を落とす。

身体検査記録。

精神反応記録。

実験後の面談記録。

五人が帝都へ外出した日の報告まである。

第三庁舎で保管されていた資料だ、兵士達が区画を封鎖してからまだそれほど時間は経っていない。

それにもかかわらず、必要な資料は、既に抜き出されていた。

中央の人間達は、今日初めてこの計画へ関わったのではない。

アルト達が知らなかっただけで、以前から五人を見ていた。


「明朝から」

眼鏡の男が告げる。

「候補者五名には、移送前検査を受けてもらいます。身体検査、精神適性検査、記憶再現試験及び個別面談です」

「記憶再現試験?」

アルトが聞き返す。

「本日確認された安定反応の原因を特定します」

「今日の実験記録は、まだ整理されていない」

「そのため、本人達から直接確認します」

「実験直後だ。明日は休息と経過観察に充てる予定だった」

「その予定は変更されました」

眼鏡の男は、事実を確認するような口調で答えた。

「検査は一人ずつ行います。候補者同士の影響を排除する必要がありますので、開始から終了まで別室で待機させます」

アルトの表情が変わった。

「五人を分離するのか」

「個別の反応を確認するためです」

「今日の安定は、五人が互いの存在を認識していたから得られたものだ」

「それが事実かどうかを確認するには、集団状態と分離状態を比較する必要があります」

「比較のために、意図的に不安定な状態を作るつもりか」

会議室の空気が僅かに重くなる。


眼鏡の男は、アルトの声に含まれた怒りへ反応しなかった。

「危険性については、検査担当者が判断します」

「誰が担当する」

「我々です」

アルトの視線が、三人の研究者を順に追う。

五人と話したこともない、実験中の僅かな表情の変化も知らない。

それでも、明日からは彼らが五人の状態を判断する。

「反対だ」

アルトは明確に言った。

若い研究者の筆が止まる。

眼鏡の男は、初めて僅かに眉を動かした。

「技術顧問としての意見ですか?」

「そう記録して構わない。五人を分離した状態で、今日の記憶を再現させるべきではない」

「承知しました。反対意見として記録します」

それだけだった。

検査を中止するとは言わない、再検討するとも言わない。

意見として、紙の上へ一行、残されるだけだった。

アルトの胸の奥で、何かが強く軋んだ。

自分の言葉が、目の前で意味を失っていく。

実験を止められない、検査も止められない。

五人を休ませることも、同じ部屋に置いておくことさえ、自分では決められない。

机の上に置かれた水差しの水面が、小さく震えた。

誰も机へ触れていない、アルトは気付かなかった。


「大佐」

アイラが呼んだ。

アルトが顔を向ける。

アイラは、正面からアルトを見ていた。

「私達は、何を準備すればよいでしょうか」

それは命令を受ける軍人としての問いだった。

だが、五人の不安をこれ以上大きくしないように、話を前へ進めようとしていることも分かった。

アルトは一度。ゆっくりと息を吸った。

「持ち込める私物は、まだ決まっていない。移動に必要な物はこちらで準備する」

「私達は、同じ部屋で生活出来ますか?」

今度はミリアが尋ねた。

アルトは答えられなかった。

眼鏡の男が代わりに口を開く。

「本実験場での居住区画は、候補者ごとに割り当てられます」

「別々なのですか」

「同一棟ですが、個室です。候補者同士の接触時間は、新責任者が実験計画に基づいて決定します」

ミリアの手を隣に座るソフィアが握った。

今日、皆がいたから怖くなかった、その言葉からまだ一刻も経っていない。

「少なくとも移送までは」

アルトが言う。

「五人を一緒にしておくべきだ」

眼鏡の男は、机に置かれた予定表へ目を落とした。

「本日の説明終了後、候補者は指定された待機室へ移動します」

「五人で同じ部屋か」

「二名、二名、一名に分けます」

「どうしてですか」

ソフィアの問いに。

女性研究者が答える。

「特定の組み合わせによる感情への影響を確認するためです」

「誰が一人になるのですか」

女性研究者は、五人の資料を確認する。


そして、何の意味も持たない事務連絡のように告げた。

「本日は、ソフィア候補です」

ミリアが、ソフィアの手を強く握った。

「今、決めたのですか」

「事前に選定されています」

「理由は」

「五名のうち、他者の精神状態へ最も強く反応しているためです」

ソフィアは、女性研究者を見た後、ゆっくりとアルトへ視線を移した。

助けを求めるような目ではなかった、アルトを困らせまいとしている。

だからこそ、アルトには、その表情が耐え難かった。

五人を守るために、今日まで慎重に進めてきた。

そして今日、ようやく五人が互いを支える方法を見つけた。

中央はその成果を、五人を引き離すための資料として使おうとしている。

「その分離には同意出来ない」

アルトは言った。

眼鏡の男は若い研究者を見る。

再び、記録板へ筆が走る。

「ヴェルナー技術顧問の反対意見として、記録しました」

「記録の話をしているのではない」

アルトの声が、低く会議室へ響いた。

その瞬間、机の上に置かれた五人分の書類が。

一斉に僅かにずれた、窓は閉じている、扉の前には兵士が立っている。

誰も、風が入ったとは思わなかった。

それでも、研究者達は、自分達の手元にある紙を押さえた。

アルトだけが目の前の五人を見ていた、自分が何とかしなければならない。

その思いが、先ほどよりもさらに強く胸の奥へ根を伸ばしていた。


会議が終わると。

五人はその場で立ち上がるよう命じられた。

出入口に立っていた兵士達が、扉の前へ並ぶ。

「アイラ・ベルク候補、レナ・クロフト候補はこちらへ」

一人の兵士が告げた。

別の兵士が、カティアとミリアの名を呼ぶ。

最後に残ったソフィアへは、女性研究者が直接声を掛けた。

「ソフィア・エーレン候補は、第二待機室へ移動してください」

「一人で、ですか」

ソフィアが尋ねる。

「先ほど説明した通りです」

女性研究者は答えた。

「今夜は個別状態の確認を行います」

ミリアが、ソフィアの腕を掴んだ。

「せめて、部屋まで一緒に」

「認められていません」

返答は早かった。

ミリアの指へ、僅かに力が入る、ソフィアはその手へ、自分の手を重ねた。

「大丈夫です」

ミリアを安心させるために、微笑もうとしていた。

だがその表情は、いつものようには整わなかった。

「明日になれば、また会えます」

本当に会えるのか、誰にも分からなかった。

アルトは立ち上がった。

「就寝前の診察は、私か第三庁舎の医療担当者が行う」

眼鏡の男が書類へ視線を落とした。

「中央から派遣された医療班が担当します」

「今日の接続後の状態を知らない者に任せることは出来ない」

「過去の診療記録は、既に引き継いでいます」

「記録を読んだだけでは分からないことがある」

「そのための引継資料です」

また同じだった。

アルトが何を言っても。

書面。

記録。

手続き。

そのどれかへ置き換えられる。

五人の呼吸や、声の僅かな違い不調を隠そうとする時の仕草。

そうしたものは、書類のどこにも残らない。

「少なくとも、私も立ち会う」

アルトは言った。

眼鏡の男が顔を上げる。

「技術顧問の職務には含まれていません」

「候補者の接続後反応は、装置の調整にも関係する」

短い沈黙があった。

完全に拒絶するための理由を、男もすぐには見つけられなかったようだった。

「診察の妨げにならない範囲で、同席を認めます」

許可を与える、その言葉は使わなかった。

だが、アルトが自分の判断で五人の側へ行けないという事実は変わらなかった。

五人は、兵士に付き添われながら、会議室を出ていった。

最後に扉を通ったソフィアが、一度だけ振り返る。

アルトと目が合うと、小さく頭を下げた。

それから、扉は閉じられた。

アルトは、五人の足音が廊下の奥へ消えるまで、その場に立っていた。

「ヴェルナー技術顧問」

眼鏡の男が呼ぶ。

「本日中に、移送対象機材の確認をお願いします」

「五人の診察が先だ」

「機材目録の提出期限は、二時間後です」

「診察の後に確認する」

「期限は変更出来ません」

アルトは男を見た。

何もかもが、五人の状態より先に決められていた。

日程も。

移送も。

検査も。

分離する組み合わせも。

彼らにとって必要なのは、五人が安全に本実験場へ到着することではない。

決められた時刻に、決められた人数と機材が揃うことだった。

「分かった」

アルトは答えた。

声は落ち着いていた。だが、会議室の壁に掛けられた時計の振り子が。

一度だけ、大きく揺れた。

誰も触れていない。

窓も開いていない。

若い研究者が音に気付き、時計を見上げた。

振り子は、既にいつも通りの速さへ戻っていた。


その夜。

第三庁舎の廊下は、昼間よりも明るかった。

各所に臨時の照明が置かれ、武装した兵士達が、資料庫や実験室の前へ立っている。

見慣れた施設であるはずなのに、アルトには別の場所へ変わったように思えた。

資料保管庫の扉には、中央特別開発部門の封印が貼られていた。

機材室では、灰色の研究服を着た者達が、収納箱へ番号を付けている。

第三庁舎の研究員は、自分達が作り上げた装置へ、許可なく触れることさえ出来なくなっていた。

「その固定具は、横に倒すな」

アルトが声を掛ける。

箱を運んでいた作業員が足を止めた。

「内部の接続板がずれる。縦にしたまま固定しろ」

灰色の研究服を着た男が、手元の目録を確認する。

「輸送規定では、横置きとなっています」

「通常の観測機器ではない。五人の指輪と直接つながる装置だ」

「目録には精密機器とだけ記されています」

「だから私が説明している」

アルトの声に、男は僅かに眉を寄せた。

だが箱は縦へ戻された。

権限はない、それでも知識まで失ったわけではない。

アルトは一つずつ運ばれる機材を確認した。

接続器。

計測装置。

予備の導線。

五人の指へ合わせて作られた指輪。

遮断装置、青晶石を保管するための耐衝撃箱。

箱の蓋には、新しい封印が施されていく。

中身を最もよく知る者が、開けることの出来ない封印だった。

機材確認を終えた頃には、既に夜半を過ぎていた。

それでも五人の診察は終わっていなかった。

第一待機室の前には、二人の兵士が立っている。

中にはアイラとレナがいる。

第二待機室にはソフィア。

第三待機室にはカティアとミリア。

アルトが第二待機室へ向かうと、扉の前で兵士に止められた。

「現在、面談中です」

「立会いを認められている」

「医療診察への立会いです。面談は対象外です」

「誰が面談している」

「中央特別開発部門の担当官です」

扉の向こうからは声は聞こえなかった。

壁は厚い。

それでもソフィアが一人で、見知らぬ研究者の質問を受けていることだけは分かった。

「どれほど続いている」

「答える義務はありません」

兵士の声には。

先ほど命令を読み上げた男と同じ響きがあった。

アルトは閉ざされた扉を見た。

今すぐ開けることは出来ない、兵士を退かせる権限もない。

扉の中で何が行われているのか、確かめることさえ出来ない。

胸の奥で、何かがゆっくりと広がった。

怒りとも、恐怖とも違う。

熱を持たないまま、深い場所へ沈んでいく感覚だった。

廊下の照明が、一つずつ明滅した。

入口から、アルトの立っている場所へ向かって順番に。

兵士達が天井を見上げる。

「また電圧か」

一人が呟いた。

遠くで、設備担当者を呼ぶ声がした。

アルトは、照明を見ていなかった。

扉だけを見ていた。

やがて、内側から鍵が外された、灰色の研究服を着た女性が出てくる。

その後ろに、ソフィアが立っていた。

顔色は悪くない、歩き方にも異常はない。

だが、アルトを見ると。

最初に口にしたのは、自分のことではなかった。

「皆は大丈夫ですか?」

「まだ確認出来ていない」

アルトは答えた。

「君はどうだ」

「問題ありません」

少し早い返事だった。

「何を聞かれた」

女性研究者が。

二人の間へ入るように立った。

「面談内容は、後ほど報告書へ記載します」

「本人に聞いている」

アルトは女性を見ずに言った。

ソフィアは一度、女性研究者へ視線を向ける。

それだけで、自由に答えられないのだと分かった。

「今日のことを」

ソフィアは言った。

「帝都へ出掛けた日のことを、聞かれました」

「他には」

「誰の声が、一番よく聞こえたのか」

そこで、ソフィアは言葉を止めた。

「誰の不安が、最初に分かったのか。誰がいなければ、今日の状態を保てなかったと思うか」

五人を理解するための質問ではない。

五人のつながりを、分解するための質問だった。

アルトは、女性研究者へ顔を向けた。

「今夜行う必要があったのか」

「記憶が鮮明なうちに確認する必要があります」

「実験直後で疲れている」

「本人は問題ないと回答しています」

ソフィアが自分からそう答えることを彼らも分かっていた。

自分のせいで予定が遅れることを嫌がる、他の四人へ負担が掛かることを恐れる。

その性格さえ、利用されている。

「診察を行う」

アルトは言った。

「今からですか」

女性研究者が尋ねる。

「だからこそ、今だ」

アルトはソフィアへ視線を戻す。

「終わったら休ませる。これ以上の面談は認めない」

「その決定権は」

女性が言いかける。

廊下の奥で、何かが割れる音がした。

全員が振り返る、壁際に置かれていた照明の硝子が。

ひび割れていた、誰も触れていない。

熱が籠もったのだろう。

兵士の一人がそう言った。

アルトもそれ以上は気に留めなかった。


翌朝。

五人は一人ずつ、別々の検査室へ連れていかれた。

同じ時刻。

同じ質問。

同じ記憶。

帝都へ出掛けた日の出来事を。

誰にも相談せず、最初から最後まで再現するよう求められた。

何を着ていたのか。

誰がどこを歩いたのか。

店で何を見たのか。

誰が何を言ったのか。

菓子店では。

誰がどの席に座っていたのか。

夕暮れの空は。

どのような色だったのか。

中央の研究者達は、五人の回答を一つずつ照合していった。

最初は、記憶の一致を確認するための検査に見えた。

だが、質問は次第に細かくなった。

自分から見えなかった場所にいた者が、どのような表情をしていたのか。

背後で交わされていた会話をなぜ覚えているのか。

自分が選ばなかった菓子の味をどうして知っているのか。

五人の中には自分が見ていないはずの景色を答える者がいた。

自分が聞いていないはずの声を、思い出した者もいた。

五人の記憶は、完全に同じではない。

それでも、一人では知り得ない断片が少しずつ混ざり始めていた。

「興味深い」

観察室の中で眼鏡の男が呟いた。

その視線の先ではミリアが一人、検査用の椅子へ座っている。

机の上には、帝都の街路を再現した簡単な模型が置かれていた。

「候補者間で、記憶の共有が起きている可能性があります」

若い研究者が答える。

「分離した状態でも、再現反応は維持されています」

「維持ではない」

アルトが言った。

「不安が上がっている」

ミリアの呼吸は、検査開始時より明らかに速くなっていた。

指へ取り付けられた測定器の値も徐々に上昇している。

「ミリア候補」

検査室の研究者が尋ねる。

「あなたの向かいに座っていたのは、誰ですか」

「ソフィアです」

「その時、ソフィア候補は何を見ていましたか」

「窓の外を」

「窓の外の何を」

ミリアは目を閉じる。

「通りを歩く人達です」

「具体的には」

「子供が……」

声が揺れる。

「赤い帽子を被った子供がいました」

アルトは記録へ目を落とした。

その子供を見ていたのはソフィアだった。

ミリアの席からは柱に遮られ、見えなかったはずだった。

研究者達の筆が一斉に動く。

「その子供を見た時、ソフィア候補は何を感じていましたか」

「そこまで聞く必要はない」

アルトが言った。

検査室の研究者は、観察窓越しに指示を待つ。

眼鏡の男が答えた。

「続けてください」

「止めろ」

「数値は許容範囲内です」

「上昇を続けている」

「危険値には達していません」

「危険値へ達してから止めるつもりか」

ミリアの前に置かれた測定器の針が。

さらに右へ動く。

「ソフィア候補は、何を感じていましたか」

検査室の研究者が繰り返す。

ミリアは答えようとしていた。

自分が答えられなければ、他の四人へ負担が掛かる。

そう思っているのだろう。

「寂しそうだと……」

「誰がですか」

「子供が」

「ソフィア候補ではなく?」

ミリアの呼吸が止まる。

測定器の針が跳ねた。

アルトは観察窓へ手をついた。

「中止しろ」

「あと三十秒です」

眼鏡の男は答えた。

「ここからの変化を確認します」

「中止しろ!」

アルトの声が、観察室へ響いた。

その瞬間、部屋に並んでいた全ての測定器の針が。

同時に大きく振れた、ミリアへ接続されていない装置まで。

限界値へ向かって跳ね上がる、照明が暗くなり観察窓へ細い亀裂が走った。

研究者達が、反射的に窓から下がる。

警報が鳴った。

「接続を切れ!」

誰かが叫ぶ。

検査室の扉が開き、医療担当者がミリアへ駆け寄った。

ミリアは、椅子の上で身体を強張らせていた。

だが大きな発作は起きていない。

装置の数値だけが、理由もなく異常値を示していた。

数秒後、照明が元へ戻る。

「装置の故障か」

若い研究者が尋ねる。

「全て同時に?」

アルトは、ひびの入った観察窓へ触れる。

強化硝子だった。

人間が手をついた程度で亀裂が入るものではない。

だが、その時のアルトには原因を考える余裕がなかった。

検査室の中で、ミリアがソフィアの名を呼んでいた。

「今日の検査は全て中止する」

アルトは言った。

眼鏡の男が振り返る。

「それを決めるのは」

「今の異常が装置の故障であっても、候補者の反応であっても同じだ。この状態で続ける根拠はない」

「本実験場への移送前に、必要な資料が」

「ならば今の記録を使え」

アルトは男を正面から見た。

「技術顧問として上申する。この検査を続ければ、出発までに五人の状態を戻せなくなる」

眼鏡の男は、ひび割れた硝子を見る。

鳴り止んだ警報装置、故障した計器。

検査室の中で震えているミリア。

それらを順に確認した。

「本日の検査は、一時中断します」

中止ではない。

一時中断。

それでも、アルトが得られた最初の譲歩だった。

出発前日。

第三庁舎の中から、見慣れた物が次々と運び出されていった。

青晶石を収めた箱。

接続器。

観測装置。

五人の椅子。

実験記録。

壁に掛けられていた計画表まで。

何もなかった場所のように、地下実験室は空になっていく。

同行を許可された第三庁舎の研究員は、アルトを含めても僅か数名だった。

長く五人の診察を担当してきた医療研究員も、同行者一覧には入っていなかった。

「どうして私が外されるのですか」

彼女は管理官へ尋ねた。

管理官は、紙へ書かれた決定を繰り返すことしか出来なかった。

「中央から医療班が派遣されることになっている」

「五人を診たこともない者達です」

「私に言われても、変えられない」

医療研究員は、手にしていた記録帳を強く抱えた。

「せめて、これをアルト大佐へ」

記録帳を差し出そうとする。

だが、近くにいた兵士が間へ入った。

「計画関連資料の私的な受け渡しは禁止されています」

「これは私の診療記録です」

「原本及び複製は、全て中央へ引き渡してください」

「数値ではなく、私が気付いたことを書いているのです。眠れない時の様子や、体調を隠す時の癖が」

「引継書式へ記載してください」

女性は、何かを言い返そうとして、やめた。

記録帳へ視線を落とす、五人の状態を書き続けてきたものだった。

やがて、彼女はアルトを見た。

「どうか」

それ以上は言えなかった。

アルトは頷いた。

「必ず、全員を見ている」

約束出来るのはそれだけだった。

守ると言えなかった、無事に戻すとも言えなかった。

その権限を既に持っていなかった。

女性は記録帳を兵士へ渡した。

最後まで手を離したくないように見えた。

出発の準備を終えた五人には、一人につき、小さな鞄一つだけが許可された。

衣服。

洗面道具。

医療班が認めた薬。

それ以外の私物は。

一つずつ検査を受けた。

ミリアが入れようとした小さな布袋は中身を確認された。

カティアの書き留めた覚書は、計画に関係する可能性があるとして没収された。

レナが持っていた軍用の小刀も、移送中は中央の管理下に置かれた。

アイラは、最初から必要最低限の物しか持っていなかった。

ソフィアの鞄には一枚の紙が入っていた。

帝都へ出掛けた日の帰りに、五人で立ち寄った店の包み紙だった。

特別なものではない、菓子を包んでいた薄い紙。

端には店の紋章が小さく印刷されている。

「廃棄してください」

検査を担当した研究者が言った。

「移送に不要です」

ソフィアは、紙を手にしたまま動かなかった。

「これも駄目なのですか」

「衛生上、不要な紙類の持ち込みは認められていません」

研究者が手を差し出す。

ソフィアは包み紙を見つめた。

その日五人で同じ卓を囲んだ、最初は話すことも少なかった。

それでも帰る頃には、互いの歩く速さを確かめながら、並んで第三庁舎へ戻った。

五人をつなぎ止めた記憶。

その記憶の中にあった、唯一、手に残っているものだった。

「それは、実験に必要だ」

アルトが言った。

研究者が顔を上げる。

「何ですか」

「記憶再現の補助物になる。今日の安定反応と関連する可能性がある」

「単なる包装紙です」

「それを判断するのは、実験結果を確認してからだ」

研究者は、包み紙とアルトを交互に見た。

「技術資料として登録します」

そう言って紙へ番号を付けようとする。

「本人の所持品だ」

「紛失を防ぐため」

「本人が持っていなければ意味がない」

短い押し問答の後。

包み紙は、透明な保護袋へ入れることを条件に、持ち込みを認められた。

ソフィアは両手でそれを受け取った。

「ありがとうございます」

アルトは答えなかった。

これほど小さな物を残すためにさえ理由と許可が必要だった。


その夜。

五人は、出発前の最終確認として、一つの部屋へ集められた。

アルトが提出した移送中の安全意見書に。

候補者を完全に分離した場合、精神状態が不安定になる可能性が高いと記載したためだった。

中央は、五人を安心させるためではなく。

翌朝の移送へ支障を出さないために、同席を認めた。

部屋の隅には兵士が二人立っている。

灰色の研究服を着た記録係もいた。

それでも五人が同じ場所に揃ったのは実験以来だった。

ミリアは、ソフィアの姿を見ると、すぐに隣へ座った。

「昨日は、眠れましたか?」

「少しだけ」

ソフィアは答えた。

「ミリアは?」

「私も、少しだけです」

二人とも、本当のことを全ては言っていないようだった。

カティアは、部屋の中を見回した。

「ここでも記録されるのですね」

隅に座る研究者を見る。

研究者は、黙ったまま筆記具を持っている。

「もう気にしても仕方がありません」

レナが言った。

声には、諦めとは違う硬さがあった。

「話さなければ、黙っていたことを記録されます」

「話せば、話した内容を記録される」

カティアが答える。

「同じですね」

アイラは、窓の外を見ていた。

夜の中庭には、輸送用の荷車が並べられている。

兵士達が、明かりを頼りに荷物を積んでいた。

「出発は、日の出前ですか」

「夜明けと同時だ」

アルトが答えた。

「第三庁舎から帝都中央駅へ移動し、そこから専用列車でカルドラ山麓へ向かう」

五人の視線が、自然にアルトへ集まった。

「候補者班ということは」

カティアが、その言葉を確かめるように尋ねる。

「他にも班があるのですか」

「機材班は別に編成される」

アルトは頷いた。

「青晶石と接続器は、列車では運ばない。衝撃と振動を避けるため、専用の軍用車両へ積み込み、帝都西門から陸路で本実験場へ向かう」

「では、私達と機材は別々に移動するのですね」

「そうだ」

列車は、帝都からカルドラ山麓に近い軍用駅まで、ほぼ真っ直ぐに走る。

一方、機材を積んだ大型車両は。

街道の状態を確認しながら、複数の検問所を通過しなければならない。

途中で一度、青晶石の固定状態と、接続器内部のずれを確認する必要もある。

到着時刻は、候補者を乗せた列車より遅くなる可能性が高かった。

「大佐は、どちらに乗るのですか?」

ミリアが尋ねた。

アルトはすぐには答えなかった。

その僅かな間にミリアの表情から、答えを察したようだった。

「私は機材班に入る」

部屋の空気が静かに変わった。

「同じ列車ではないのですね」

ソフィアが言った。

「同行を申請した」

アルトは答えた。

「だが、認められなかった」

技術顧問として。

本実験場へ到着するまでの機材管理を命じられている。

青晶石の保管箱。

五人の指に合わせて作られた接続環。

出力制御器、緊急時に接続を断つ遮断装置。

どれも、輸送中に僅かなずれが生じるだけで、本実験へ影響する可能性がある。

それを理由に、中央はアルトを機材班へ組み込んだ。

理屈としては間違っていない、機材の状態を最もよく知っているのは、アルトだった。

だが五人から引き離す理由としても、あまりに都合が良かった。

「私達の列車には、誰が同行するのですか」

レナが尋ねる。

「中央特別開発部門の研究者三名。医療担当者が二名。護衛兵が一個小隊」

「第三庁舎の人は?」

「同行しない」

レナの目が細くなった。

「誰一人ですか」

「候補者班には、誰も入っていない」

五人の状態を知る研究者も。

長く診察を続けてきた医療担当者も列車には乗らない。

五人は、今日まで自分達を見てきた者と一人も一緒にいないまま。

中央から派遣された人間だけに囲まれて、カルドラ山麓へ向かうことになる。

「列車の中では」

ソフィアが尋ねる。

「五人でいられますか?」

「同じ車両だ」

アルトは答えた。

「一つの区画へ、五人全員を乗せる」

「決まったのですか?」

「決めさせた」

正確には、何度も意見書を提出した。

五人を別々の客室へ分けた場合。

精神状態が不安定になる可能性があること。

移動中に異常が起きても、列車内では、第三庁舎と同じ処置が出来ないこと。

そして、候補者の体調悪化によって列車を停止させれば、計画全体が遅れること。

中央が認めたのは五人を安心させるためではない、予定通り本実験場へ到着させるためだった。

それでも五人を同じ場所へ置けるのなら、理由は何でもよかった。

「大佐は、いつ到着するのですか」

ミリアが尋ねる。

「順調に進めば、候補者班と同じ日の夕刻だ」

「順調でなければ?」

アルトは正直に答えた。

「翌朝になる可能性もある」

ミリアは俯いた。

隣に座るソフィアが、その手へ自分の手を重ねる。

「列車が到着しても」

レナが言った。

「大佐が来るまでは、実験は始まりませんよね」

アルトは答えられなかった。

本実験場へ到着した後、五人をいつ検査し、いつ装置へ接続するのか。

その決定権は既にアルトにはない。

機材が届かなければ、本実験そのものは始められない。

だが身体検査、個別面談、記憶再現試験。

青晶石を使用しない準備検査なら。

アルトが到着する前でも実施出来る。

「本実験に必要な主要機材は、私と共に移動する」

アルトは言った。

「少なくとも、機材が到着するまでは接続実験を始めることは出来ない」

「接続実験は、ですね」

カティアが静かに言った。

アルトはその言葉を否定出来なかった。

五人の間へ、短い沈黙が落ちる。

部屋の隅では、灰色の研究服を着た記録係が、変わらず筆を動かしていた。

不安。

沈黙。

視線。

誰が誰の手を握ったのか。

その全てが、本実験のための資料として記録されていく。

「駅まで、見送りに来られますか?」

ソフィアが尋ねた。

アルトの胸の奥が、僅かに軋んだ。

「機材班は、候補者班より先に出る」

五人がアルトを見る。

「夜明け前に第三庁舎を出発する。積載状態を確認した後、そのまま西門へ向かう予定だ」

「では」

ミリアが呟いた。

「ここを出たら、本実験場まで会えないのですね」

「そうなる」

少なくとも、今、渡されている予定では。

これがが最後の面会だった。

五人が駅へ向かう頃。

アルトは、青晶石を積んだ軍用車両の中にいる。

五人を乗せた列車が帝都を出る時も、その姿を見ることは出来ない。

「何も分からないまま」

レナが小さく息を吐いた。

「知らない人達と列車に乗り、大佐とも別れて向かうのですね」

「そうだ」

アルトは否定しなかった。

安心させるために嘘を言っても、明日の朝には、すぐに分かる。

「だが」

五人がアルトを見る。

「分からないことと、何も出来ないことは同じではない」

自分自身へ、言い聞かせるような言葉でもあった。

「列車の中で異常を感じたら、僅かなことでも必ず伝えてくれ。頭痛、吐き気、聞こえるはずのない声、他の誰かの記憶。正常だと思っても、自分だけで判断するな」

「中央の研究者に、ですか」

レナの声には、僅かな棘があった。

「記録に残させろ」

アルトは答えた。

「誰が聞かなかったのか。誰が続行を命じたのか。それも含めて、全てだ」

五人は、その言葉の意味を理解したようだった。

アルトが側にいない以上、その場で止めることは出来ない。

だからこそ後から無視出来ない形で、異常を残す。

「私達も、互いに確認します」

カティアが言った。

「誰かが問題ないと言っても、本当にそう見えるか」

「無理をして正常だと言わないでください」

アルトは続ける。

視線がソフィアへ向く、ソフィアは少しだけ困ったように微笑んだ。

「分かりました」

「本当に分かっているか?」

「今度は、正直に言います」

ミリアが、その答えを確認するように、ソフィアの手を握る。

「一人で我慢しないでください」

「ミリアもです」

「私も見ています」

レナが言った。

「誰かが隠そうとしても、他の四人で気付きます」

「列車の中でも」

アイラが続ける。

「五人で同じ状態を保ちます」

その言葉に、アルトは僅かに眉を寄せた。

「意識を無理につなげようとするな」

「分かっています」

アイラは答えた。

「実験と同じことをするつもりはありません。ただ、誰も一人にしないという意味です」

アルトは五人を順に見た。

これまでの実験で、五人は負担を分け合った。

中央はそれを数値として記録し、一人ずつに分解しようとしている。

だが五人の間に生まれたものは、装置だけによって作られた反応ではない。

それだけは、どの資料にも完全には記せない。

「本実験場へ着いたら」

ミリアが尋ねた。

「大佐は、私達のところへ来ますか?」

「機材の確認が終わり次第、必ず行く」

「許可されなくても?」

アルトは少しだけ間を置いた。

「許可させる」

レナが僅かに目を見開く。

カティアの口元にもほんの少しだけ、力が戻った。

だが部屋の隅にいる記録係は、その言葉まで紙へ書き留めていた。

「明日は早い」

アルトは言った。

「候補者班は夜明け前に駅へ向かう。今夜は出来るだけ休んでくれ」

五人が立ち上がる。

兵士達も扉の前へ動いた。

これで本実験場へ着くまで会えない。

誰もすぐには扉へ向かわなかった。

やがてアイラが一歩進み、振り返った。

「大佐」

「何だ」

「出発する場所は違っても」

アイラは。

他の四人を見る。

「全員で、本実験場へ行きましょう」

当たり前のことを、改めて確認するような言葉だった。

誰か一人でも、出発出来なくなる可能性を全員が考えていたのかもしれない。

アルトは頷いた。

「必ず、現地で合流する」

その瞬間。

壁際のランプの炎が一度だけ大きく揺れた。


出発の朝。

空には、まだ夜の色が濃く残っていた。

第三庁舎の裏手にある搬入口では、軍用車両の低い駆動音が響いている。

アルトは外套を羽織り、積載表を手に中庭へ出た。

だがそこで足を止めた。

並んでいたのは。

先頭を走る護衛用の装甲車。

機材を積む輸送車が一台。

研究員を乗せる車両。

最後尾の護衛車。

僅か四台だった。


アルトは手にしていた積載表へ視線を落とす。

何度確認しても、記載されている内容は変わらない。

候補者五名が使用していた接続環。

第三庁舎で基準としていた青晶石が一箱。

波形記録器。

調整用の部品。

過去の実験記録。

それだけだった、五人が座っていた接続椅子はない。

出力制御器も。

大型観測装置も。

緊急遮断装置も積まれていない。

本実験へ必要な設備一式を運ぶには、輸送車一台で足りるはずがなかった。


「主制御装置は、まだ搬出されていないのか」

アルトが尋ねる。

積載を監督していた灰色の研究服の男が、書類から顔を上げた。

「搬出対象ではありません」

「何だと」

「第三庁舎の主設備は、引き続き予備検証施設として保管されます」

男は当然のことを説明するように答えた。

「本実験場へ運ぶのは、比較検証に必要な個別調整品と、過去の記録のみです」

アルトは輸送車の荷台を見る。

金属製の箱が幾つか固定されている、その全てを合わせても。

第三庁舎の機材室の一角に収まる量だった。

「本実験場の設備はどうする」

「既に設置されています」

返答は即座だった。


アルトの手が止まる。

「設置されている?」

「第三庁舎地下実験区画と同形式の五名同時接続設備です」

灰色の研究服の男は、積載表を指でなぞりながら続けた。

「接続室、観察室、個別生体測定器、出力制御系、遮断機構。全て現地で稼働確認を終えています」

「同形式というのは、どの程度だ」

「基本構造は同一です。ただし、青晶石から供給可能な出力は、第三庁舎の設備を上回ります」

アルトは男を見た。

「いつ完成した」

短い沈黙があった。

「先月、最終検査を終了しています」

先月、まだ五人の反応が安定せず。

アルトが本実験への移行は早いと、中間報告へ繰り返し記載していた頃だった。

今日の成果を受けて、急に本実験場への移動が決まったのではない。

設備は既に作られていた、人員も配置されていた。

五人を移すことを前提に。

アルト達へ何も知らせないまま、計画は進められていた。


「では」

アルトは低い声で尋ねた。

「私が機材班へ入る理由は何だ」

男は、僅かに眉を動かした。

「技術顧問には、旧設備と本実験場設備の差異を確認していただきます」

「その確認は、現地で出来る」

「輸送する個別調整品の管理も、職務に含まれています」

「接続環五つと、基準結晶一箱のために、私を候補者班から外したのか」

「移送班の編成は、中央特別開発部門が決定したものです」

「質問に答えろ」

アルトの声が、搬入口へ低く響いた。

近くにいた兵士達が、僅かにアルトへ顔を向ける。

灰色の研究服の男は表情を変えなかった。

「候補者の移送管理は、ヴェルナー技術顧問の職務ではありません」

それが中央の答えだった。

機材を守るためではない、五人から離すため。

列車の中で、中央の検査に口を挟ませないため。

五人が本実験場へ到着した時、アルトより先に、新しい指揮系統の管理下へ置くため。

そして、アルトが現地へ到着した頃には。

検査も、今後の実験方針も、既に決定された後にするため。

技術顧問という肩書きは、アルトを計画へ残すためのものではなかった。

必要な知識だけを提供させ、それ以外には触れさせないためのものだった。


「本実験場の設備は」

アルトは尋ねた。

「候補者が到着した時点で使用出来るのか?」

「稼働可能な状態です」

「私の確認を待たずに?」

「現地責任者が必要と判断すれば」

男は淡々と答えた。

「到着後、直ちに準備検査へ移行出来ます」

アルトの中で、昨夜、自分が五人へ伝えた言葉が崩れた。

主要機材が到着するまでは、接続実験を始めることは出来ない。

そう考えていた。

少なくとも、自分が本実験場へ着くまでは、五人に何も出来ないと思っていた。

違った。

アルトと共に運ばれる機材は、本実験を成立させるためのものではない。

第三庁舎で得られた結果と、本実験場の結果を比較するためのものに過ぎなかった。

五人を接続する設備は、既に現地で待っている。

新しい研究者も。

新しい責任者も。

アルトの到着を待つ必要はない。

輸送車の荷台に積まれていた青晶石が耐衝撃箱の中で、僅かに振動した。

固定具は緩んでいない車両も、まだ動いていなかった。

アルトは気付かなかった。

胸の奥に冷たいものが広がっていた。

五人は今頃、中央駅へ向かう準備をしている。

自分が側にいると思ってはいない。

それでも現地へ着けば会えると考えている。

アルトも昨夜までは、そう考えていた。

だが列車の方が早い、五人が到着する頃。

アルト達の軍用車両は、まだ街道の途中にいる。

早ければ数時間、遅れれば一晩。

その間五人を止める者は誰もいない。


「候補者班の出発時刻は」

アルトが尋ねた。

「予定通り、夜明けです」

「現地到着は」

「正午前を予定しています」

「こちらは」

「街道の状況に問題がなければ、夕刻です」

少なくとも半日。

中央は意図的に半日を作った。

五人だけが先に本実験場へ入り、新しい指揮系統に従わされる時間を。

「候補者班と同じ列車へ移る」

アルトは言った。

「認められません」

「個別調整品は、他の研究員でも管理出来る」

「既に編成は確定しています」

「変更しろ」

男はアルトの後ろへ視線を向けた。

二人の兵士が静かに距離を詰めていた。

武器へ手を掛けてはいない。

だが命令に従わなければどうなるのかは、十分に伝わった。


「ヴェルナー技術顧問」

男が告げる。

「命令された職務へ戻ってください」

アルトはその場から動かなかった。

ここで拒めば五人のところへ行けるわけではない。

拘束され、本実験場へ同行する権利さえ失う可能性がある。

中央はそれも分かっている。

アルトが五人を残して離れられないことを。

技術顧問という僅かな立場へ縋るしかないことを。

全て理解した上で、この配置を決めていた。

「……積載物を確認する」

やがてアルトはそう答えた。

輸送車の後部へ向かう。

接続環を収めた箱。

基準青晶石。

過去の記録。

どれも必要な物ではある。

だがアルトを五人から引き離すために、必要以上の意味を与えられた荷物だった。

固定具へ手を触れる、僅かな緩みもない確認するまでもなく。

全て中央の人間によって整えられていた。


アルトは自分が本当に必要とされているのかさえ、分からなくなった。

必要なのは責任を負う者としての自分ではない。

五人の状態を知る者としての自分でもない。

装置の使い方を説明し異常が起きた時に。

中央の代わりに原因を探す人間、それだけだった。

「確認を終了した」

記録係が時刻を書き込む。

アルトは、軍用車両の助手席へ乗り込む前に、第三庁舎を振り返った。

候補者達の待機区画は建物の反対側にある。

ここからは窓一つ見えない。

五人が無事に駅へ向かったのか。

同じ車両へ乗せられたのか確かめることは出来なかった。

先頭車両から出発を告げる短い警笛が鳴る。

アルトは扉を閉めた。

軍用車列が一台ずつ動き始める。


その頃、建物の反対側では、五人を駅へ運ぶ車両も、正門を出ようとしていた。

同じ第三庁舎を出発しながら互いの姿は見えない。

最初から会わせるつもりがなかったかのように。


帝都中央駅。

通常の旅客列車が動き出すより早い時刻にもかかわらず。

一つのホームだけが、白い照明に照らされていた。

ホームには濃灰色の外套を着た五人が並んでいる。

アイラ。

レナ。

カティア。

ミリア。

ソフィア。

全員いる。

停車しているのは、通常の客車へ軍用の補強を加えた、濃緑色の専用列車だった。

「乗車してください」

中央の研究者が告げる。

五人は一人ずつ。

割り当てられた車両へ乗り込んだ。

車内には向かい合わせに配置された五つの座席。

簡易測定器。

医療箱。

壁へ固定された通話装置が備えられている。

五人が座ると、自然に互いの姿を確かめた。

誰も欠けていない。

「大佐は、もう出発したのでしょうか」

ミリアが呟いた。

「機材班は、私達より先の予定です」

カティアが答える。

「今頃は、西門へ向かっているはずです」

ソフィアは鞄の上から。

透明な保護袋へ入れられた包み紙へ触れた。

「本実験場で会えます」

誰かを安心させるためなのか。

自分へ言い聞かせているのか。

その声からは分からなかった。


五人は知らない本実験場には、既に全ての設備が整っていることを。

アルトの到着を待たず、自分達を実験へ入れられることを。

そしてアルトが機材と共に別の道へ送られたのは。

本実験を支えるためではなく、本実験へ口を挟ませないためだったことを。

長い汽笛が、夜明け前の駅へ響いた。

列車が動き始める。

同じ頃。アルトを乗せた軍用車列は、西門から街道へ出ていた。

五人を乗せた列車は、本実験場へ先に到着する線路を進む。

アルトを乗せた車両は、遠回りとなる街道を走る。

二つの移送班の間には。

初めから追い付けないだけの時間が置かれていた。


アルシア王国。

王城騎乗隊詰め所。

昼の巡回を終えたユリウスは、厩舎の前で馬具を外していた。

王都北側の街道。

周辺の集落。

崖崩れの危険がある斜面。

決められた巡回区域を一通り確認したが、報告すべき異常はなかった。

雲は少し多いものの、雨が降る様子もない。

馬の脚にも傷はなく。

今日はこのまま、何事もなく任務を終えられるはずだった。


「伍長、鞍はこちらへ戻しておきます」

若い騎兵が声を掛ける。

「頼む。腹帯の留め具が少し緩んでいた。次に使う前に交換しておいてくれ」

「了解しました」

ユリウスは馬の首を軽く撫でた。

長い巡回を終えた馬は、鼻を鳴らしながら水桶へ顔を近付ける。

詰め所の中からは、任務を終えた騎兵達の話し声が聞こえていた。

食堂へ向かう者。

装備の手入れを始める者。

翌日の巡回順を確認する者。

いつもと変わらない夕刻だった。

その時、詰め所の奥で、鋭い鐘の音が鳴った。

一度。

続けて、二度。

厩舎にいた騎兵達の動きが止まる、馬達も突然の音に耳を立てた。

通常の集合を知らせる鐘ではない。

騎乗隊の即時招集。

招集を受けた者は、休息中であっても直ちに装備を整え、指揮官の下へ集まらなければならない。

詰め所の扉が勢いよく開いた、伝令兵が、折り畳まれた書面を手に駆け出してくる。

「招集対象者は、直ちに作戦室へ集合!」

張り上げられた声が厩舎へ響いた。

「ユリウス・フェルト伍長!」

「ここだ」

ユリウスが答える。

「第一先遣分隊の指揮要員に指定されています。完全装備で作戦室へ。レオン大尉からの即時命令です」

「先遣分隊?」

近くにいた騎兵が呟く。

伝令兵は答えなかった。

手元の書面から、次の名前を読み上げていく。

呼ばれている者は、騎乗隊全体の一部だけだった。


各分隊の伍長。

国境任務の経験者。

長距離の行軍に慣れた騎兵。

通常の救助任務とは、明らかに人選が違っている。

「馬具はそのままにしておけ」

ユリウスは若い騎兵へ告げた。

「すぐに使う可能性がある」

「了解しました」

騎兵の表情から、先ほどまでの穏やかさが消えていた。

ユリウスは詰め所へ入り、装備棚から軽鎧を取り出す。

胸当て。

肩当て。

剣帯。

濃紺の騎乗隊外套。

最後に、壁へ立て掛けていた槍を手に取った。

作戦室へ向かう廊下には、同じく招集された騎兵達が足早に集まっている。

誰も、何が起きたのかは知らされていない、だが、雑談をする者はいなかった。

作戦室の前には、普段は見かけない王城警備兵が二人立っていた。

一人が名簿を持ち、入室する者の顔を一人ずつ確認している。

「ユリウス・フェルト伍長」

「間違いない」

「入室を許可します」

重い扉が開かれる。

室内には、既に十数名の騎兵が集まっていた。


正面の長机には、アルシア王国と周辺諸国を描いた地図が広げられている。

王都。

北東街道。

帝国との国境線。

さらに、帝国領内へ続く街道や山地までが記されていた。

地図の前には、王城騎乗隊を指揮するレオン大尉。

王国軍の将校。

そして、王都神殿の法衣を纏った神官が立っていた。

全員が入室すると、扉が閉じられる、外から鍵を掛ける音がした。

ユリウスは僅かに眉を寄せた。

ただの国境警備で、ここまで厳重な扱いを受けることはない。

レオン大尉が、集まった騎兵達を見回す。

「これより伝える内容は、王国軍及び王都神殿の機密に指定されている」

低い声が作戦室へ響いた。

「この場にいない者へ話すことを禁じる。家族、友人、同僚であっても例外ではない」

室内の空気が、一段と張り詰める。


「今回の出動について、外部には国境警備の一時的な強化とだけ説明する」

レオン大尉は、地図上の帝国領へ指を置いた。

「今朝未明。帝国方面を監視する複数の神殿から、同時に緊急報告が入った」

隣に立つ神官が、手元の報告書を開く。

紙には、複数の神殿の印が押されていた。

「帝国内において」

神官は一度、言葉を止めた。

「魔王の出現を示す反応が確認されました」

誰も、すぐには声を発しなかった。


魔王。

それは歴史書や古い伝承の中で語られる存在だった。

国を滅ぼし。

大地を焼き。

多くの命を奪ったもの。

騎士や兵士であれば、魔王との戦いについて学ばない者はいない。

だが、それは全て過去の出来事だった。

少なくとも、今この場で、現実の出動命令として聞かされる言葉ではなかった。

「姿が確認されたのですか?」

一人の伍長が尋ねる。

神官は首を横へ振った。

「現時点で、姿や正確な所在は判明していません」

「それでは、なぜ魔王だと」

「王都神殿と国境沿いの観測所が、同一時刻に特有の反応を捉えました」

神官の指が、報告書の一節をなぞる。

「地脈の流れに、通常とは異なる揺らぎが発生しています。過去の記録と照合した結果、魔王出現時の初期反応と一致すると判断されました」


初期反応。

その言葉が、ユリウスの胸へ引っ掛かった。

魔王が姿を現したと、断定しているわけではない。

何かが帝国内で動き始めた。

神殿が捉えたのは、そういう兆候なのだ。

「帝国からの連絡は?」

別の伍長が問う。

王国軍の将校が答えた。

「ない。帝国政府は、国内で異常が起きたこと自体を公表していない」

「帝国も把握していないのでしょうか」

「その可能性もある」

将校は、帝国領へ置かれた指を動かさなかった。

「あるいは、把握した上で隠している」

小さなどよめきが起きる。

レオン大尉が片手を上げると、室内はすぐに静まった。

「任務を伝える」

国境線の王国側へ、二つの駒を置く。

「王城騎乗隊から選抜した二個分隊を、先遣隊として帝国国境へ派遣する」

ユリウスの視線が、駒へ落ちた。


「任務は偵察及び警備。帝国軍の動向、国境へ向かう住民、地震、地脈異常、魔物の出現を監視する」

レオン大尉は、集まった騎兵達を順に見る。

「異常を確認しても、許可なく国境を越えることは禁止する。帝国領内で魔王と思われる存在を発見した場合も、追跡及び交戦は行わない」

先遣隊の役目は、戦うことではない。

何が起きているのかを、最初に確かめることだった。

「国境周辺の住民へは、魔王の名を出すな」

将校が続ける。

「噂が広がれば、混乱は帝国だけでは収まらない。避難民が国境へ押し寄せ、街道も集落も機能を失う」

「任務の理由を尋ねられた場合は」

一人の騎兵が尋ねる。

「帝国方面で地脈異常が確認されたため、国境警備を強化していると答えろ」

レオン大尉は言った。

「それ以上は話すな。騎乗隊の者同士であっても、この場に招集されていない者へ吹聴することを禁じる」

ユリウスは、地図を見つめていた。

帝国。

地脈の異常。

先遣隊。

一つずつ聞くたびに、胸の奥で別の声が蘇る。

花屋リリエ、リアナと同じ姿。

だが、普段の彼女とは明らかに違う声と眼差し。

あの時、リアナの身体を借りた何者かは、帝国で災害が起きると告げた。

そして、自分が騎乗隊の先遣として、帝国方面へ向かうことになるとも。

理由は説明されなかった。

いつ起きるのかも、どのような災害なのかも、教えられなかった。

ただ、その先で、探さなければならない者がいる。

そう告げられた。


「ユリウス・フェルト伍長」

レオン大尉の声が、記憶を断ち切る。

ユリウスは顔を上げた。

「第一先遣分隊の副指揮を命じる」

「はっ」

身体が先に反応する。

「一刻後に出発。北東街道を通り、国境西側の監視拠点へ向かえ。現地守備兵と合流後、周辺の偵察及び街道警備に当たれ」

「了解しました」


ユリウスは王都を離れ、帝国国境へ向かう。

あの存在が告げた通りに。

「何か気になることがあるのか」

レオン大尉が尋ねた。

ユリウスは、自分が無意識に表情を強張らせていたことへ気付いた。

リアナのことを、ここで話すべきだろうか。

帝国の異変を事前に知っていた者がいる。

自分が先遣隊へ選ばれることまで、言い当てていた。

だが何を説明出来る。

花屋で働く娘と同じ姿をした何者かから、まだ起きていない災害について警告された。

その者が何者なのか、ユリウス自身にも分からない。

そしてリアナがどこまで関わっているのかも、確かめられていない。

「いいえ」

ユリウスは答えた。

「任務内容を確認していました」

レオン大尉は、僅かにユリウスを見つめた。

だが、それ以上は追及しなかった。

「各員、直ちに準備へ入れ。水と食料は三日分。各分隊へ予備馬を二頭付ける」

作戦室の扉が開く。

招集された騎兵達が、次々に廊下へ出ていく。

ユリウスも槍を手に扉へ向かった。

リアナへ知らせる時間はない、任務の内容を伝えることも許されていない。

それでも胸の奥では、あの時の言葉が何度も繰り返されていた。

帝国で起きる災害。

騎乗隊の先遣。

探すべき者。

まだ、何も起きていないはずだった。

王国には、魔王本人の姿も。

帝国内で何が進められているのかも分かっていない。

だが神殿は既に、何かが動き始めたことを捉えている。

そして、リアナの姿をしたあの存在は、それよりも前からこの時が来ることを知っていた。

偶然で片付けるには。、告げられた言葉と、今の命令は。

あまりにも一致し過ぎていた。

ユリウスは、言い知れないものを胸に抱えたまま、馬を走らせた。

詰め所の外では、騎乗隊の出動を告げる鐘が鳴り始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ