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第十七話 春の花壇

王宮外郭。

午後の警備交代を終えたユリウスは、

同僚の兵士と共に回廊を歩いていた。

春の陽射し。

白い城壁。

庭園から流れてくる花の香り。

王宮は今日も穏やかだった。

兵士達が行き交い。

侍従が書類を運び。

遠くでは騎乗隊の馬が小さく嘶いている。

何も変わらない午後。

そう見えた。


だが、ユリウスの胸には、数日前に聞いた言葉が残り続けていた。

帝国で起こると言う大きな災い。

騎乗隊の先遣隊。

そして。

そこで見つけなければならない人物。

忘れようとしても、忘れられるものではなかった。

それ以上に引っ掛かっているのは、あの言葉を告げた相手だった。

リアナと同じ顔。

同じ声。

同じ身体。

だが、普段の彼女とは明らかに違う何か。

あの時の鋭い視線を思い出すたびに、本当に起きた事だったのかと、自分の記憶を疑いたくなる。

「おい」

隣から声を掛けられる。

ユリウスは顔を上げた。

「聞いているか?」

「何をだ」

「聞いていなかったな」

同僚は呆れたように息を吐いた。

ユリウスは返事をせず、回廊の先へ視線を向ける。


その時だった。

中央棟へ続く庭園の入口に、見覚えのある姿が見えた。

長い栗色の髪。

控えめに整えられた外出着。

いつもの花の髪留め。

リアナだった。

腕には小さな籠を抱えている。

中には園芸用の布と、何本かの細い支柱。

どうやら、フィーナの花壇へ向かう途中らしい。

リアナは侍女と言葉を交わした後、一人で庭園へ入っていく。

その姿を、ユリウスは無意識に目で追っていた。

歩き方はいつも通りだった、穏やかで、急ぐ様子もない。

周囲へ向ける視線も柔らかい。

数日前。

自分へ帝国の災害を告げた者とは、やはり同じ人物には見えなかった。

「なるほど」

隣で声がした。

ユリウスは反応しなかった。

同僚は何かを納得したように、ゆっくり頷いている。

「そういう事か」

「何がだ」

「いや」

同僚はユリウスとリアナを交互に見る、それから、少しだけ口元を緩めた。

「あの娘が気になるのか?」

ユリウスは数秒黙った。


意味を理解するまで、僅かに時間が掛かった。

「……違う」

「まだ何も言っていないだろ」

「言った」

「あの娘が気になるのか、と聞いただけだ」

同僚は楽しそうだった、完全に別の意味で受け取っている。

ユリウスは小さく息を吐く。

「そういう話ではない」

「どういう話だ?」

答えられるはずがなかった。

帝国で災害が起きる。

自分は先遣隊として派遣される。

そこで見つけた正体不明の人物を、王国まで連れ帰らなければならない。

しかも、それを告げたのは、目の前を歩いている娘と同じ姿をした別の誰かだった。

そんな話をすれば、信じられる以前に、自分の正気を疑われるだろう。

「任務に関係する事だ」

ユリウスは結局、曖昧に答えた。

同僚は眉を上げる。

「王女殿下の相談役が?」

「……関係があるかもしれない」

「随分便利な言葉だな」

ユリウスは黙った。

同僚の視線が、再び庭園へ向く。

「確か、南区の花屋の娘だったか」

「ああ」

「王女殿下が随分気に入っているらしいな」

「そう聞いている」

「お前もよく知っているのか?」

一瞬、花屋リリエの店内が思い浮かぶ。

花の香り。

穏やかな声。

助言を受けた日。

そして、何度も足を運んだ事。

「顔見知りだ」

ユリウスは答えた。

「顔見知りねぇ」

同僚は意味ありげに繰り返す。

「何だ」

「いや。顔見知りの娘を、あんなに真剣な顔で見送るものなのかと思ってな」

ユリウスは眉をひそめる。

そんな顔をしていた自覚はない。

「考え事をしていただけだ」

「その娘を見ながら?」

「そうだ」

「やはり気になっているんじゃないか」

「意味が違う」

「違わないだろ」

話が戻ってしまった。

ユリウスは反論を諦める。


その時、庭園へ入ろうとしていたリアナが、ふと足を止めた。

こちらと、目が合う。

ユリウスは僅かに姿勢を正す。

リアナは少し驚いたように瞬きをし、それから、穏やかに微笑んで頭を下げた。

ユリウスも礼を返す、ほんの短いやり取りだった。

だが、隣では、同僚がますます納得した顔をしていた。

「向こうも気付いたな」

「顔見知りだからだ」

「笑っていたぞ」

「誰にでもああいう人だ」

「詳しいな」

ユリウスは答えなかった。

何を言っても、状況が悪化する気しかないからだ。

リアナは再び歩き出す、栗色の髪が、春風に静かに揺れる。

その姿は、どこから見ても、穏やかな花屋の娘だった。

帝国の災害を知っているようには見えない。

自分の身体を借りて、別の誰かが話していた事すら、覚えていないように見える。

だからこそ、ユリウスは目を離せなかった。


「やっぱり気になるんじゃないか」

隣で同僚が呟く。

「違う」

ユリウスは今度こそ、はっきり答えた。

だが、同僚は笑っている。

どうやら、全く信じていないらしい。

ユリウスは小さく息を吐き、詰所へ向かって歩き始めた。

その背後、王宮の庭園では、何も知らないフィーナが、花壇の前でリアナを待っていた。


庭園へ入ってからも、リアナは一度だけ、先ほどの回廊を振り返った。

だが、そこにユリウスの姿はなかった。

既に同僚と共に、詰所へ向かったのだろう。

こちらを見ていたように感じたが、声を掛けるほどの距離でもなかった。

何か用事があったのだろうか、僅かに気にはなったものの、リアナはすぐに前へ向き直った。

今は、待っている人がいる。


王宮の庭園を進むにつれて、周囲の花は少しずつ増えていった。

庭師達が管理する広い花壇には、春を迎えた色鮮やかな花々が咲いている。

その一角、立派な庭園の中では、少しだけ不揃いに見える小さな花壇があった。

花壇の前には、淡い青色の普段着を纏ったフィーナがしゃがんでいる。

手には小さな園芸用の匙。

傍らには水差しと。

土で少し汚れた手袋が置かれていた。

「フィーナ様」

リアナが声を掛ける。

フィーナが勢いよく振り返った。

「あっ、リアナ様」

立ち上がろうとして、膝の上に置いていた匙を落とす。

小さな金属音が、石畳の上へ響いた。

フィーナは一瞬だけ匙を見る。

それから、何事もなかったようにリアナへ駆け寄った。

「待っていました。今日はいつもより少し遅かったですね」

「申し訳ありません。途中で少し立ち止まってしまって」

「何かあったのですか?」

「いいえ」

リアナは穏やかに答える。

「知り合いの方を見掛けただけです」

フィーナは少しだけ首を傾げた。

だが、すぐに花壇の方へ顔を向ける。

今は知り合いの話よりも、見せたいものがあるらしい。

「それより、見てください」

フィーナはリアナの手を取り、小さな花壇まで連れていった。

「昨日はまだ閉じていたのに、今朝になったら咲いていたんです」

指差した先には、淡い黄色の小さな花が咲いていた。

まだ完全には開き切っていない。

それでも、柔らかな花弁が春の陽射しを受けている。

リアナは花の前へ腰を下ろした。

籠を傍らへ置き、茎や葉の状態を確かめる。

「綺麗に咲きましたね」

「本当ですか?」

「はい」

リアナは頷いた。

「葉にも元気があります。水の量もちょうど良かったのでしょう」

フィーナの顔が明るくなる。

「昨日、土が少し乾いていたので水をあげました。でも、あげ過ぎると根が苦しくなると教わったので、途中でやめたんです」

「よく覚えていましたね」

「もちろんです」

フィーナは胸を張る。


王女らしく見える姿勢だったが、指先には土が付いたままだった。

リアナは思わず微笑む。

フィーナが育てている花壇には、同じ種類の花だけが並んでいる訳ではない。

白い小花。

薄紫の草花。

まだ芽を出したばかりの苗。

フィーナが気に入ったものを、一つずつ植えているため、庭師達が整えた周囲の花壇より少し自由な姿をしていた。

「こちらの花は、まだ咲かないのでしょうか」

フィーナが尋ねる。

示したのは、細い葉の間から蕾を覗かせている花だった。

「もう少しですね」

リアナは蕾へ触れないよう指先を近付ける。

「今日は暖かいですから、数日もすれば開くと思います」

「明日では駄目ですか?」

「花にも都合がありますから」

「王女がお願いしても?」

「花は王女様の命令も聞いてくれません」

リアナが静かに答えると、フィーナは蕾をじっと見つめた。

「随分と頑固なのですね」

「そうかもしれません」

「では、待つしかありませんね」

少し残念そうではあったが、無理に蕾を開こうとはしなかった。

以前なら、もう少し早く咲かせる方法はないのかと、質問を重ねていたかもしれない。

花壇の世話を始めてから、フィーナは少しずつ待つことを覚えていた。


リアナは籠の中から細い支柱を取り出した。

「こちらの苗は、茎が少し傾いています。今日は支えを付けておきましょう」

「私にも出来ますか?」

「もちろんです。ただ、根を傷付けないように気を付けてください」

リアナが支柱を立てる位置を示す。

フィーナは真剣な表情で、土へ細い棒を差し込んだ。

一度、僅かに斜めになる。

フィーナは眉を寄せ、慎重に立て直した。

その間、リアナは手を出さなかった。

困った時には助ける、だが自分で出来るところまではフィーナに任せる。

やがて支柱は苗の横へ真っ直ぐ立った。

二人で柔らかな紐を結び茎を支える。

「出来ました」

フィーナは満足そうに言った。

「これでもう倒れませんね」

「強い風が吹いても、少し安心です」

リアナは花壇全体を見渡した。

春の陽射し。

新しい芽。

小さく開いた花。

庭園を抜ける風には、冬の冷たさがほとんど残っていない。


「春灯祭も、もうすぐですね」

リアナが言うと、フィーナはすぐに顔を上げた。

「はい。あと十日ほどだと聞きました」

その声には、隠し切れない期待が含まれている。

「城下では、もう準備が始まっていますか?」

「少しずつ」

リアナは頷いた。

「店先へ飾りを出している所もあります。リリエの近くでも、灯りを吊るすための紐が張られていました」

「見てみたいです」

「お祭りの日には見られると思います」

「でも、準備をしているところも見たいです」

フィーナはそう言ってから、少しだけ声を落とした。

王女がそこまで自由に城下へ出られないことは、本人も理解している。

リアナは花壇の脇に積まれた乾いた園芸用の藁へ目を向けた。

苗を保護したり、土の乾燥を防いだりするために置かれているものだった。

「それなら」

リアナは藁を一本手に取る。

「私達も、何か作ってみますか?」

フィーナの目が輝いた。

「春灯祭の飾りですか?」

「はい。大きな物は難しいですが、藁を編めば小さな飾りを作れます」

「花の形にも出来ますか?」

「出来ますよ」

「鳥は?」

「少し難しくなりますが、作れます」

「星も作りたいです」

「最初から随分増えましたね」

リアナが笑う。

フィーナは既に、花壇の脇へ積まれた藁に手を伸ばしていた。

「今から作りましょう」

「今からですか?」

「はい。花壇の手入れも終わりました」

フィーナは当然のように答える。

リアナは少し困ったように微笑んだ。

「今日のお勉強は、もう終わったのですか?」

藁へ伸びていた手が止まった。

フィーナはゆっくりとリアナを見る。

「……まだ少しだけ残っています」

「少しだけですか?」

「少しです」

その時、少し離れた場所で待っていたセシルが静かに口を開いた。

「王国史と世界史が残っております」

フィーナは振り返る。

「セシル」

「間違ったことは申し上げておりません」

セシルの表情は穏やかだった。

だが、予定を変更するつもりはないらしい。

フィーナは手にした藁を見つめ名残惜しそうに元の場所へ戻した。

「二つも残っています」

先ほどは少しだけと言っていた、リアナはそこを指摘せず籠の布を整える。

「では、お勉強が終わってから作りましょう」

「今日中にですか?」

「フィーナ様が頑張れば」

「頑張ります」

即答だった。


だがその直後、フィーナの表情が少し曇る。

「ただ、世界史はよく分からないのです」

「どの辺りがですか?」

「全部です」

あまりに率直な答えだった。

セシルが小さく息を吐く。

フィーナは花壇の縁へ腰を下ろした。

「国の名前がたくさん出てきて、王様の名前も変わって、同じ場所なのに昔と今で呼び方も違います」

指を一本ずつ折りながら、不満を並べていく。

「戦争をしたと思ったら、次の頁では同盟を結んでいます。その後には、また争っています。誰と誰が仲良しなのか、全然分かりません」

「国同士の関係は、人同士よりも複雑ですから」

リアナはフィーナの隣へ座った。

「それに、教本は出来事を順番に並べています。初めて読むと、名前と年だけが続いているように感じるかもしれません」

「そうなのです」

フィーナは強く頷いた。

「先生は大切な出来事だと言います。でも、どうして大切なのかを考えている間に、次の王様が出てきます」

リアナは少し考えてから頷いた。

「人の名前と年だけを続けて覚えるのは、大変ですよね」

「はい」

フィーナは強く頷いた、自分の苦労を理解してもらえたことが、少し嬉しいらしい。

だが、その表情はすぐに曇った。

「それに、魔王のこともよく分からないのです」

その言葉に、リアナの視線が僅かに止まった。

「魔王ですか?」

「はい。魔王大戦に出てくる魔王です」

フィーナは膝の上へ両手を置き、教本の内容を思い出すように話し始めた。

「先生は、人々を滅ぼそうとした恐ろしい存在だと教えてくださいました。魔王が現れたから、それまで争っていた国々も力を合わせたのだと」

「教本には、そう書かれているのですね」

「でも、魔王がどのような姿だったのかは、どこにも書かれていませんでした」

リアナは黙って続きを待った。

「大きな怪物だったとも、黒い竜だったとも、教本には書いていません」

フィーナは不思議そうに首を傾げる。

「戦いに参加した兵士の日記にも、魔王の姿を見たとは書かれていないそうです」

それは、正確には誰も見ていないという意味ではなかった。

戦場の中心に確かに誰かがいた。

遠くから人のような影を見た者。

炎の中で立つ姿を見たと語った者。

声を聞いたと言う者。

だが、その顔を見た者はいない。

その者が何をしたのかを、最初から最後まで見届けた者もいなかった。

「ただ」

フィーナは続ける。

「戦いの中心に、一人の人物がいたと書かれていました」

「人物」

「はい。男だったのか女だったのかも、よく分からないそうです」

フィーナは両手を広げる。

「でも、その人がいる場所で戦いが起きて、町が焼けて、兵士もたくさん亡くなったから、皆がその人を魔王と呼ぶようになったのだと」

リアナの指先が、花壇の縁へ静かに触れた。

魔王。

それは名前ではない、生まれた時から持っていた称号でもない。

戦いの中心にいた誰かへ、人々が後から与えた呼び名。

「それなら」

フィーナはリアナを見上げた。

「魔王というのは、本当にその人の名前だったのでしょうか?」

「いいえ」

リアナは静かに答えた。

「おそらく、違います」

「では、どうして誰も本当の名前を残さなかったのですか?」

その問いに、リアナはすぐには答えられなかった。

名前を知らなかったのか、知る必要がないと思ったのか。

あるいは、一人の人間として記録することを、誰かが望まなかったのか。

『鋭い娘だ』

心の奥で、声が聞こえた。

リアナは返事をしなかった。

「魔王は悪い人だったのでしょうか?」

フィーナがさらに尋ねる。

「大勢の人が亡くなったのなら、悪い人だったのですよね」

その声には、教本を疑いたい気持ちではなく、正しく理解したいという素直な願いがあった。

リアナは花壇へ視線を落とした。

風に揺れる小さな花。

今はまだ開いていない蕾。

同じ場所に植えられていても、それぞれが違う方向を向いている。

「フィーナ様」

リアナはゆっくりと口を開いた。

「戦いの中心にいたからといって、その人がすべての戦いを始めたとは限りません」

フィーナが瞬きをする。

「違うのですか?」

「分かりません」

リアナは正直に答えた。

「記録が残っていない以上、本当のことは誰にも分からないのだと思います」

「では、教本は間違っているのですか?」

「間違っているとは限りません」

リアナは首を横へ振る。

「教本には、記録を残した人達が見た歴史が書かれています」

「見た歴史?」

「同じ出来事でも、見る場所が違えば、違うものに見えることがあります」

リアナは花壇の向こう側を指差した。

「こちらから見ると、黄色い花が一番よく見えます」

フィーナも視線を向ける。

「はい」

「でも反対側に立てば、白い花の方がよく見えるでしょう」

「どちらも同じ花壇なのに?」

「同じ花壇だからです」

リアナは穏やかに答えた。

「皆が違う場所から見ていたものを集めて、歴史は作られます」

フィーナはしばらく花壇を眺めていた。

やがて、何かを考え込むように口を開く。

「では、魔王と呼ばれた人から見た魔王大戦は、教本には書かれていないのですね」

リアナは、その言葉に僅かに目を見開いた。

『面白い』

「……そうですね」

「その人にも、何か理由があったのでしょうか」

フィーナの問いへ、春風だけが先に答えた。

リアナはすぐには言葉を返さず、遠い昔を思うように、静かに目を細めた。

「では」

やがて。

リアナはフィーナへ顔を向けた。

「少し昔話をしましょうか」

「昔話?」

「はい」

「魔王のお話ですか?」

「魔王と呼ばれるよりも前の、一人の人のお話です」

フィーナは花壇の縁に座り直した。

先ほどまで勉強を嫌がっていた少女とは思えないほど。

真剣な目でリアナを見ている。

リアナは花壇に咲いた黄色い花へ視線を落とした。

「昔々」

その穏やかな声が。

春の庭園へ静かに流れ始めた。

「まだ誰も、その人を魔王と呼んでいなかった頃のお話です」


リアナの声が、春の庭園へ静かに流れた。

フィーナは花壇の縁へ座り直し、膝の上で両手を重ねる。

少し離れた場所では、セシルが二人を見守っていた。

柔らかな風が花壇を抜け、咲いたばかりの黄色い花を揺らしている。

その穏やかな景色とは遠く離れた、五百年以上前の時代へ。

リアナは話を遡らせた。


「その頃の大陸には、今の王国も帝国もありませんでした」

山を一つ越えれば別の国があり。

川の向こうには別の王がいた。

城壁に囲まれた小さな町と、その周囲に幾つかの村がある。

それだけで一つの国を名乗るような時代だった。

掲げる旗も。

使う言葉も。

信じる神も違う。

川の水を巡り。

山から採れる鉱石を巡り。

僅かな耕作地を奪うために、国々は絶えず争っていた。

「今よりも、たくさんの国があったのですか?」

「はい。今の一つの領地より小さな国も、数多くあったそうです」

「王様も、それだけたくさんいたのですね」

「そうなりますね」

一つの戦いが終わっても、平和は長く続かなかった。


王が代われば、以前に結ばれた約束は破られ。

昨日まで共に戦っていた国が、翌年には敵となる。

何のために始まった戦いなのか、兵士達でさえ分からなくなることも珍しくなかった。

「そんな時代に、一人の旅人が現れました」

「どの国の人だったのですか?」

「分かっていません」

リアナは首を横へ振る。

「名前も、どこで生まれたのかも、記録には残っていないのです」

旅人が男だったと伝える土地もあれば。

若い女だったと伝える土地もある。

老いた者だったという話も。

子供のように見えたという話も残されている。

ただ、多くの昔話に共通していることがあった。


その旅人は深い色の外套をまとい、一つの町へ留まることなく、大陸を歩き続けていた。

春には雪解け水の流れる山道を越え。

夏には乾いた街道を進み。

秋には収穫を終えた畑の脇で夜を明かす。

冬になれば、誰もいない森で火を起こし、夜が明けるのを待った。

どの王にも仕えず、どの国の旗も掲げなかった。

「旅人は、大地に起こる異変が分かったと伝えられています」

ある時、旅人は北方高原の麓にある、小さな村へ立ち寄った。

村の背後には、草木の少ない大きな崖がそびえていた。

その日はよく晴れていた、村人達は畑を耕し、子供達は家々の間を駆け回っている。

雨の気配はなく、風も穏やかだった。

それでも旅人は、日が沈む前に村を離れるよう、住民へ告げた。

「どうしてですか?」

フィーナが尋ねる。

「旅人には、崖の内側を流れる水と、僅かに動く岩の音が分かったのだといわれています」

村人達は空を見上げた。

晴れている、崖を見ても崩れるようには見えなかった。

多くの者は旅人の言葉を信じなかった。

だが、旅人の表情を見た何人かの家族は、家を離れた。

その夜、村には一滴の雨も降らなかった。

しかし、離れた山の向こうでは激しい雨が降っていた。

増水した川の水が、崖の内側へ流れ込む。

夜明け前、山が唸るような音と共に、崖は崩れた。

大きな岩と土砂が、眠っていた村を押し流した。

「村に残った人達は……」

フィーナの声が小さくなる。

リアナは、すぐには答えなかった。

「助かった人もいたと書かれています」

全員ではなかった、そう口にしなくてもフィーナには伝わったようだった。

膝の上で重ねられていた小さな手が、僅かに強く握られる。


別の町では、旅人は井戸の水を飲まないよう警告した。

数日後、地中から毒を含んだ水が湧き、町の井戸は全て使えなくなった。

また別の森では、旅人が獣の群れが下りてくると告げた。

間もなく大地が揺れ、住処を失った獣達が、一斉に人里へ押し寄せた。

旅人の言葉を信じた者は助かった。


だが、その旅人の噂は、人から人へ伝わるたびに姿を変えていった。

崖が崩れると告げた者は。

山を崩した者となった。

井戸の異変へ気付いた者は。

水へ毒を入れた者となった。

獣の襲来を予測した者は。

獣を操る者となった。

「どうして反対の話になるのですか?」

フィーナは眉を寄せた。

「旅人は、皆を助けようとしたのでしょう?」

「実際に見ていない人には、旅人が現れた後で災いが起きたとしか分からなかったのでしょう」

「でも、それだけで旅人のせいにするのはおかしいです」

「そうですね」

リアナは穏やかに答えた。

「けれど人は、理由の分からない災いを恐れます。そして、恐ろしいことが起きた理由を、目に見える何かへ求めることがあります」

旅人の噂は、やがて村や町だけでなく、国を治める王達の耳にも届いた。

大地の異変を知る者。

災害を予測する者。

未来を見る者。

その力を得ることが出来れば、敵国より先に兵を動かせる。

洪水の起きない土地を選び、飢饉を避け、戦争を有利に進められる。

一人の王が、旅人を客人として迎えたいと使者を出した。

金銀と、高い身分と何不自由のない暮らしを約束した。

しかし、旅人は使者について行かなかった。

「どうして断ったのでしょう」

「その理由は残っていません」

「王宮で暮らすのが嫌だったのでしょうか」

フィーナは自分の暮らす城を見上げるように、少しだけ顔を上げた。

「それとも、誰か一人の王様だけを助けたくなかったのでしょうか」

「そうだったのかもしれません」

ある王が旅人を求めれば、隣国の王は恐れた。

旅人が敵国へ力を貸せば、自分達は次の戦いで負けるかもしれない。

先に捕らえなければならない、敵の手へ渡る前に、殺さなければならない。

そう考える王も現れた。


最初に動いたのは、一つの国の小さな部隊だった。

その軍を止めるという名目で、別の国も兵を出した。

さらに別の国は、旅人を守るためだと主張しながら、軍勢を差し向けた。

だが、誰も旅人本人へ尋ねなかった。

どの国へ行きたいのか、誰かに仕えるつもりがあるのか、何を望んでいるのか。

王達が欲しがったのは、旅人の考えではなかった。

旅人が持っていると信じた、力だった。

旅人は北へ向かって逃げた。

山道を越え。

森を抜け。

人の住まない荒れ地を選んで歩いた。

しかし、旅人よりも先に、噂と兵士が町へ到着した。


宿を貸した者は、旅人の仲間と疑われた。

食料を渡した村は、敵国へ協力したと責められた。

旅人を匿ったという理由だけで、焼かれた集落もあった。

「助けてもらった人が、今度は旅人を助けただけなのに」

フィーナは俯きながら言った。

「どうして、その人達まで敵になるのですか?」

「戦いが始まると」

リアナは少し間を置いて答えた。

「その人が何をしたかよりも、どちら側にいるかで判断されることがあります」

「旅人は、どちら側だったのですか?」

「どちらにも属していなかったのでしょう」

どの旗も掲げない。

どの王にも従わない。

誰か一人の味方になることもない。

それは旅人にとって、誰とも争わないという意味だったのかもしれない。

だが国々にとっては、いつ敵へ回るか分からない存在だった。


やがて旅人は、北方高原の南に広がる、大きな平原へ辿り着いた。

低い草が地平線まで続く。

森も、身を隠せる岩山もない土地だった。

空は低い雲に覆われ、春の終わりだというのに、冷たい風が吹いていた。

そこへ、旅人を追っていた国々の軍勢が集まった。

赤い布を掲げた騎兵。

青い旗を持つ槍兵。

黒い鳥を紋章とする軍。

金色の獅子を盾へ刻んだ兵士達。

鎧の形も。

武器も。

使う言葉も違う軍勢が。

一人の旅人を囲むように、平原へ布陣した。

旅人を捕らえたい者。

他国へ渡る前に殺したい者。

保護を名目に連れ去ろうとする者。

そして、何のために呼び出されたのかも分からず、命令に従う兵士達。

誰も、隣にいる軍が敵なのか味方なのか、判断出来なかった。


「それが、最初の魔王大戦なのですか?」

フィーナが尋ねた。

「後の時代には、そう呼ばれました」

「その時には、まだ魔王はいないのですよね」

「はい」

最初の矢を放ったのが誰なのか、今も分かっていない。

命令を受けた兵士だったのか、何かに怯えた者が、誤って弦を放したのか。

敵国の旗を見間違えたのか。

一本の矢が、灰色の空を切って飛んだ。

矢は旅人には届かず、向かい側にいた兵士の盾へ突き刺さった。

次の瞬間、誰かが敵襲だと叫んだ。

馬が駆け出し。

槍が構えられ。

幾千もの兵士が一斉に動いた。

蹄が大地を叩き。

剣と盾がぶつかり。

怒号と悲鳴が平原を覆う。

乾いた草へ火が燃え移り。

風に煽られた炎が、次々と軍陣へ広がった。

誰も全体を見ていなかった。

誰が敵で。

誰が味方なのか。

どの王が何を命じたのか。

何のために戦っているのか。

全てが分からなくなっていった。

「旅人は、どうしたのですか?」

フィーナの目は。

もう庭園ではなく、リアナが語る遠い平原を見ていた。

「戦場の中心にいたと伝えられています」

燃える草原。

倒れた旗。

駆け抜ける兵士達。

煙の向こうに。

一人の人影が立っていた。

だが、その姿を間近で見たという確かな記録は残っていない。


男だったのか。

女だったのか。

武器を持っていたのか。

戦っていたのか。

それすら分からない。

竜を見たという者はいなかった、巨大な怪物が現れたという同時代の記録もない。

ただ。

戦場の中心に、一人の人物がいた。

そこまでは、幾つかの国の記録が一致していた。

そして、戦いが最も激しくなった頃。

平原の地面から、赤い霞が立ち上り始めた。

最初は、火の煙に夕日が映っているだけだと思われた。

しかし、霞は足元から膝へ。

膝から胸へと昇り、やがて馬も兵士も。

軍旗さえ見えなくなるほど濃くなった。

赤い霧は、風に流されることなく、戦場全体を覆った。

「紅霧災厄……」

フィーナが呟いた。

教本で読んだ名前と、目の前で語られる昔話が、初めてつながったようだった。

霧の中では、方角も距離も分からなくなった。

すぐ隣にいる味方の声が、遠くから聞こえる。

離れた場所の悲鳴が、耳元で響く。

兵士達は軍旗を見失い、指揮官は部隊を見失った。

誰かの足音を敵だと思い、剣を振るう。

助けを求める声へ向かい、そのまま戻らなかった者もいた。

やがて、軍の指揮は完全に失われた。

戦場へ入ったまま、部隊ごと姿を消した者達もいた。

平原の周辺にあった村からも、住民が一人残らず消えたと伝えられている。

「旅人が、赤い霧を起こしたのですか?」

フィーナが恐る恐る尋ねた。

「分かりません」

リアナは首を横へ振った。

「旅人が霧を生み出したと書かれた記録もあります。ですが、霧が現れる前から旅人は動かず、その場に立っていただけだという記録もあります」

「では、本当のことは……」

「今も分かっていません」


幾日か後。

赤い霧は、現れた時と同じように消えた。

平原には、折れた武器と焼けた軍旗と、持ち主のいない鎧が残されていた。

生き残った者達の証言は一致しなかった。

巨大な軍を見たという者。

誰もいない平原を歩き続けたという者。

何日も霧の中にいたと語る者。

ほんの数刻しか経っていないと主張する者。

だが、旅人がその後どこへ行ったのかを知る者はいなかった。

姿を見た者も、遺体を確認した者もいない。

それでも、大勢の人間が命を失い。

幾つもの軍が消え、周辺の国々は統治する力を失った。

北方の王都は放棄され、連邦を名乗っていた国も、間もなく崩壊した。

誰かは、この災いの理由を説明しなければならなかった。


国王同士の欲。

互いへの恐怖。

長く続いていた領土争い。

最初に放たれた一本の矢。

それら全てを認めるより。

戦場の中心にいた、名も知らぬ一人へ責任を負わせる方が簡単だった。

あの者が霧を呼んだ。

あの者が国々を争わせた。

あの者が、人々を滅ぼそうとした。

誰かが、その人物を魔王と呼んだ。

最初に誰が口にしたのかは、どの記録にも残っていない。

けれど、その呼び名は急速に広まった。

魔王が国々を襲った、魔王に立ち向かうため、諸国は力を合わせた。

そして、多くの犠牲を払いながら魔王を退けた。

後の歴史書には、そのように記されるようになった。


「でも」

フィーナは納得出来ない様子で、リアナを見た。

「国々は、魔王に襲われる前から戦っていたのでしょう?」

「この昔話では、そう伝えられています」

「旅人を取り合って、王様達が戦いを始めたのですよね」

「はい」

「それなのに、どうして旅人だけが悪いことになったのですか?」

庭園へ、鳥の鳴き声が響いた。

花壇の向こうでは、何も知らない庭師が土を耕している。

リアナは、すぐには答えなかった。

「人は、大きな災いが起きた時」

やがて、静かに口を開いた。

「全ての責任を負わせられる相手を、求めることがあるのかもしれません」

「旅人は、そのために魔王にされたのですか?」

「本当に旅人が何もしていなかったのかは分かりません」

リアナは正直に答える。

「語られていないことがあるのかもしれません。旅人が誰かを傷付けたことも、赤い霧に関わっていたことも」

フィーナは、しばらく考え込んだ。


「では、歴史の教本が間違っているとも言い切れないのですね」

「はい」

「昔話が正しいとも、言い切れない」

「そういうことになります」

「やはり、分からないことが増えました」

フィーナは小さく頬を膨らませる。

リアナは思わず微笑んだ。

「歴史とは、そういうものなのかもしれません」

紅霧が消えた後、荒れ果てた平原の地下から。

それまで知られていなかった青い結晶が見つかった。

陽の光を受けると、水の底のような、深い青色に輝く石。

当時の人々は、それを魔王の血が固まったものだと考えた。

別の土地では、魔王が残した呪いだと恐れ、地中深くへ埋め戻したという。

「青晶石ですか?」

「後の研究では、そう呼ばれるものですね」

「魔王大戦の後に見つかったのですね」

「最も古い発見記録は、紅霧災厄の跡地に残されています」

フィーナは花壇の土へ目を向けた。

その下にも、遠い昔の何かが眠っているのではないかと考えているようだった。

「魔王と呼ばれた人の、本当の名前は残っていないのですか?」

「残っていません」


王の名前は残った。

軍を率いた将軍の名も。

戦いで手柄を立てた兵士の名も。

幾つかは今へ伝わっている。

だが、全ての中心にいた旅人の名前だけは、どの記録にも残されていなかった。

最後に残ったのは、魔王という呼び名だけだった。

「私だったら」

フィーナが小さく呟く。

「その人の名前を知りたいです」

リアナの胸の奥で、何かが静かに揺れた。

それが自分の感情なのか。

もっと深い場所にいる誰かのものなのか。

すぐには分からなかった。

『名前を知ったところで、起きたことは変わらない』

心の奥から、短い声が聞こえた。

いつも通り、冷静な言葉だった。

だが、その声は僅かに遠く感じられた。

『それでも』

リアナは心の中で答える。

『名前を呼ぶ人が一人でもいれば、その人は魔王だけではなくなります』

返事はなかった。

春風が吹き、リアナの栗色の髪と、花の髪留めを揺らした。


フィーナはまだ、名を失った旅人のことを考えていた。

「リアナ様なら、どうしますか?」

「私ですか?」

「はい。もし、その旅人と同じ力を持っていたらです」

大地の異変を感じる力。

人々を救えるほどの力。

王達が欲しがり。

国々が恐れ。

争いの中心へ引きずり出されるほどの力。

リアナは少し考えた。

そして、目の前の花壇へ視線を向ける。

フィーナが水を与えた黄色い花、まだ開く時を待っている蕾。

風に倒れないよう、二人で立てたばかりの細い支柱。

国を動かすものではない、歴史に名を残すものでもない。

けれど、今のリアナにはその小さな景色が、何よりも大切に思えた。


「私は」

リアナの口から、自然に言葉がこぼれた。

「魔王のように争いの中心へ立つのではなく」

フィーナが、静かに続きを待っている。

リアナは黄色い花へ手を伸ばし、花弁へ触れないよう、その傍らへ指を添えた。

「こうして花を育てながら、静かに暮らしたいですね」

深く考えて選んだ言葉ではなかった。

ただ、胸の中にある望みを、そのまま口にしただけだった。

心の奥にいる存在は何も答えなかった。

フィーナはリアナと、小さな花壇を交互に見た。

「魔王と呼ばれた人も、本当はそうだったのでしょうか」

「それは、本人に聞かなければ分かりません」

「でも」

フィーナは、咲いたばかりの花を見つめた。

「皆が戦いの中心へ連れていってしまったのなら、とても悲しいです」

リアナは、その横顔を静かに見つめた。

十一歳の少女が口にした、飾りのない、素直な言葉。

それは、五百年以上もの間。

魔王と呼ばれた誰かへ、一度も向けられなかった言葉なのかもしれなかった。

『本当に、面白い娘だ』

胸の奥から、小さな声がした。

今度は、先ほどよりも少し近く。

そして、僅かに柔らかく聞こえた。


「リアナ様」

少し離れた場所から、セシルが二人へ声を掛けた。

「そろそろ、お戻りになるお時間でございます」

フィーナは空を見上げた。

春の陽はまだ高い、けれど花壇へ来た時よりも、影が僅かに長くなっていた。

「もうですか?」

「王国史と世界史が、殿下をお待ちしております」

「待たなくてもよいのですが」

「教本にその意思はございません」

セシルは表情を変えずに答えた。

フィーナは名残惜しそうに花壇を見る。

視線の先には、先ほど元へ戻した藁が積まれていた。

「終わったら、必ず作るのですよね?」

「はい」

リアナは頷いた。

「フィーナ様がお勉強を終えられたら、藁の花から作りましょう」

「鳥と星もです」

「まずは花からです」

「では、早く終わらせてきます」

先ほどまで歴史を嫌がっていたことが嘘のように。

フィーナは立ち上がった、土の付いた手袋を外し、セシルから渡された布で、指先を拭う。

それから数歩進んだところで、フィーナは何かを思い出したように振り返った。

「リアナ様」

「はい」

「魔王と呼ばれた人にも、好きな花があったのでしょうか?」

リアナは僅かに目を見開いた。

王達が欲しがった力。

幾つもの国を巻き込んだ戦い。

大勢の人々を消した紅い霧。

歴史の中に残されたのは、そのような出来事ばかりだった。


その人物が。

何を好み。

何を嫌い。

どのような時に笑ったのか、それを記したものは何もない。

魔王と呼ばれるより前に、その人にも、名前があった。

誰かに呼ばれた声があり、足を止めて眺めた景色があり。

気に入った花の一つくらい、あったのかもしれない。

「……あったと思います」

リアナは、自分でも意外なほど静かな声で答えた。

「名前が残らなくても、その人が好きだったものまで、なかったことにはなりませんから」

フィーナは少し嬉しそうに頷いた。

「では、私は黄色い花が好きだったと思うことにします」

「どうして黄色なのですか?」

「今日、最初に咲いたからです」

それだけ言うと。

フィーナはセシルと共に、王宮へ向かって歩き始めた。

途中で一度振り返り、リアナへ大きく手を振る。

リアナも、小さく手を振り返した。

やがて二人の姿は、庭園の木々の向こうへ見えなくなった。

花壇には、リアナ一人が残された。

春風が吹き、咲いたばかりの黄色い花が、細い茎を揺らす。

リアナはその場に立ったまま、しばらく花を見つめていた。


魔王にも。好きな花があったのでしょうか。

十一歳の少女が口にした、何気ない問い。

それは、五百年以上にわたって積み重ねられた記録よりも深く。

リアナの胸へ残っていた。

『気にしすぎだ』

胸の奥から声が届いた。

「そうでしょうか」

『昔の話だ』

「昔のことであっても、なくなったことにはなりません」

返事はなかった。

リアナは屈み込み、花壇の脇に置かれていた匙と水差しを、籠の中へ戻した。

その時だった、指先が止まる。

足元から何かが伝わってきた。

揺れではない。

音でもない。

遥か遠く。

幾つもの山と平原を隔てた大地の奥を、ごく僅かな力が走り抜けた。

水面へ一滴の雫が落ち、見えない波紋が広がってくるような感覚。

リアナは立ち上がり、庭園の外へ視線を向けた。

白い城壁の向こう、さらに遠い空には穏やかな雲が浮かんでいる。

庭師達は変わらず作業を続け、鳥達も枝の上で鳴いていた。

水差しの中にも、波紋一つ生まれていない。

気付いたのは、リアナだけだった。

「今のは……」

胸の奥から、低い声が届いた。


『……そろそろ、動き出したか』

リアナの表情が僅かに強張った。

「発芽者が、現れたのですか?」

『まだ、現れたわけではない』

「では、今の感覚は何なのですか?」

返事はなかった。

「アイリス」

その名を呼ぶ声に、僅かな焦りが混じる。

短い沈黙の後。

アイリスは、いつものように必要なことだけを告げた。

『以前からあった芽が、動き始めた』

リアナは眉を寄せた。

「以前から?」

『まだ成長の途中だ』

「場所は分かるのですか?」

『遠い』

「それでは分かりません」

『今は、それでいい』

「よくありません。発芽者であるなら、放っておくことは出来ないでしょう」

リアナの声が僅かに強くなる。

これまで芽吹いた者が、周囲へ何をもたらしてきたのか。

リアナは知っていた、本人が望むかどうかに関係なく。

感情を揺らし。

災いを引き寄せ。

やがて多くの人間を巻き込んでいく。

だが、アイリスの返事は冷静だった。

『今は、まだ何もしなくていい』

「今は?」

『そうだ』

「それは、いずれ何かをしなければならないという意味ですか?」

返事はない。

「アイリス」

再び名前を呼んでも。

今度こそ、声は戻ってこなかった。


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