第一話 花屋の娘
朝の陽射しが、石畳の街をやわらかく照らしていた。
王都の朝は早い。
市場へ向かう荷車が軋み、パン屋からは焼きたての香りが流れ、露店の主人達は眠たげな顔で店を開け始めている。
まだ春の名残を残した風が通りを抜け、色とりどりの旗を小さく揺らした。
王都南区。
市場通りから一本外れた細い道に、その花屋はあった。
派手な店ではない。
木造の小さな店先には季節の花が並び、軒先には蔦植物が絡み、朝露を残した花々が静かに風に揺れている。
店先へ現れた女性は、慣れた手つきで窓を開けた。
澄んだ空気が店内へ流れ込む。
長い髪を後ろで軽くまとめブローチで止めたその女性は、桶の水を確かめると、小さく息を吐いた。
花へ水をやるその仕草は、まるで眠る誰かを起こさぬように静かだった。
ジョウロから落ちる水が、朝日に細く光る。
彼女は一輪の花へ指先を添え、少し首を傾げる。
花弁の向き。
水の量。
昨日より少し開いた蕾。
その様子を確かめるように見つめた後、ようやく満足そうに小さく頷いた。
その時だった。
店の奥から、明るい声が飛んできた。
「リアナちゃん、朝から花に嫉妬しちゃうわよー?」
彼女——リアナは振り返った。
店の奥から顔を出したのは、この花屋の女主人だった。
ふくよかな体つきに、日に焼けた優しい顔。
年齢は五十を越えているが、よく動き、よく笑う人だった。
両腕には抱えきれないほどの花束を抱えている。
「おはようございます、エマさん」
リアナが頭を下げる。
エマは花束を作業台へ置きながら、わざとらしく肩を竦めた。
「もう少し人間にもその優しい顔向けてくれていいのよ?」
「向けているつもりなんですが」
「花相手の方が甘いわ」
リアナは少しだけ困ったように笑った。
店内には乾いた木の匂いと、切り花の青い香りが満ちていた。
壁には大小さまざまな花束が吊るされ、窓辺には小さな鉢植えが並んでいる。
奥には作業台。
鋏。
麻紐。
花瓶。
長く使い込まれた道具達。
まだ開店前の店は、不思議と家の居間のような落ち着きがあった。
エマはエプロンを整えながら店先を眺めた。
「今日は晴れて良かったわねぇ」
通りではパン屋の少年が配達籠を抱えて走り抜け、向かいの仕立屋が窓を開けている。
遠くから市場の呼び声も聞こえてきた。
王都がゆっくり目を覚ましていく。
「午後は少し風が出るそうですよ」
リアナが葉を整えながら言った。
「また分かるの?」
エマが半ば感心したように笑う。
「花が教えてくれます」
「便利ねぇ、その子達」
「機嫌が良い日はですけど」
「私は毎日教えてほしいわぁ」
リアナは窓の外へ目を向けた。
軒先の葉が、ほんの少し揺れている。
「エマさんは空を見る前に洗濯物を出しますから」
「……嫌だわ、見られてる」
「見えます」
「ほんと?」
「ほんとです」
エマは一瞬真顔になり——すぐに吹き出した。
「もう、この子は」
リアナも小さく笑う。
その笑い声に釣られるように、店先の風鈴が小さく鳴った。
まだ客は来ない。
けれど、その静かな時間がリアナは嫌いではなかった。
開店前だけの、少し特別な時間。
花の様子を見て、街の目覚めを眺め、今日という一日がどんな顔をしているのかを確かめる時間だった。
風鈴がもう一度、小さく鳴った。
通りを抜ける風が、店先の花々をやわらかく揺らす。
エマは作業台で花束を整えながら、小さく伸びをした。
「この時間、嫌いじゃないのよねぇ」
「静かですから?」
「それもあるけどね」
エマは麻紐を歯で軽く押さえながら、器用に花束をまとめていく。
「店を開ける前って、今日一日がまだ誰のものでもない感じがするじゃない?」
リアナは少し考えるように花瓶を並べ直した。
「……分かる気はします」
「でしょ?」
「でも、私は開けた後も好きですよ」
「やっぱり花好きねぇ」
「仕事ですから」
「嘘おっしゃい」
エマは即座に言った。
リアナは否定せず、小さく笑うだけだった。
通りの向こうから、焼き立てのパンを積んだ少年が走っていく。
パン屋の見習いだろう。
まだ声変わりも終わっていないような声で、元気よく店の名を叫んでいる。
その後ろを、眠そうな顔の猫が気ままについて歩いていた。
王都の朝は、いつも少し忙しくて、どこかのんびりしていた。エマが店先へ札を掛ける。
――開店――
その文字が表へ向いた途端、不思議なものだ。
街の空気が少しだけ近くなる。
誰かが来るかもしれない。
誰も来ないかもしれない。
それもまた店というものだった。
リアナは入口脇の花を整えながら、通りをぼんやり眺めていた。
市場へ急ぐ人。
仕立屋の若い職人。
洗濯籠を抱えた女性。
行き交う人の数だけ生活がある。
朝の街を見るのを、リアナは昔から嫌いではなかった。
すると、
石畳をゆっくり歩いてくる小柄な影があった。
「あら」
エマが顔を上げる。
「おはよう、ミーナさん」
杖をついた老婦人だった。
灰色の髪をきちんとまとめ、背筋は年齢のわりにしゃんとしている。
ただ歩幅は小さく、店先へ来るまでにも少し時間がかかった。
リアナは何も言わず入口へ向かう。
扉を少し大きく開けると、老婦人は目尻を下げた。
「おやまぁ……悪いねぇ」
「おはようございます」
リアナが穏やかに頭を下げる。
「今日は少し早いですね」
「天気が良かったからねぇ。寝てるのが勿体なくて」
ミーナと呼ばれた老婦人は、店先の花をゆっくり見回した。
その視線は、買い物というより散歩に近い。
エマが笑う。
「いつもの席、空いてるわよ」
店先の隅には、小さな木椅子が置かれていた。
花を選ぶ客用というより、常連が勝手に座るためにいつの間にか置かれたものだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
ミーナはゆっくり腰を下ろした。
その動きを見ながら、リアナは店の奥から小さな湯呑みを取り出す。
エマが肩をすくめた。
「ほら始まった」
「何がです?」
「お茶係」
リアナは少し首を傾げる。
「まだ寒いですし」
「はいはい」
ミーナは嬉しそうに笑った。
「この店は花屋なのか茶屋なのか、たまに分からなくなるねぇ」
湯気の立つ茶を受け取りながら、老婦人は店先の花を見つめる。
朝日を受けた花々は、静かに揺れていた。
その横顔を見て、リアナは何も急かさない。
花を選ぶ時間は、人によって違うものだと知っているからだった。
ミーナはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……今年も咲いたねぇ」
視線の先には、淡い紫色の花があった。
リアナはその花を見る。
「ええ」
「去年と同じ場所に置いてくれてる」
「覚えてましたから」
老婦人は、少しだけ目を細めた。
朝の風が、花の香りを静かに運んでいた。
ミーナは湯呑みを両手で包みながら、しばらく紫の花を見つめていた。
朝の風はまだ少し冷たい。
湯気がゆっくりと空へほどけていく。
エマは作業台で花束を整えながら、ちらりとその様子を見た。
「今日はあれかい?」
ミーナは頷いた。
「うん」
それだけで、奥さんもそれ以上は聞かなかった。
長い付き合いというものは、便利なものだ。
聞かなくても分かる事がある。
聞かない方が良い事もある。
リアナは棚から鋏を取り、小さく花の茎を整え始めた。
切り口を少し新しくするだけで、花は長く持つ。
その作業をしながら、視線だけミーナへ向ける。
「去年は白でしたね」
ミーナは少し驚いたように顔を上げた。
「あら……よく覚えてるねぇ」
「花は覚えてます」
リアナが静かに答える。
エマが苦笑した。
「ほら出た」
「何がです?」
「人の名前忘れても花は忘れません、みたいな顔」
「忘れませんよ」
「ほんとかしら」
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
ミーナが小さく笑う。
その笑い方は、どこか安心したようでもあった。
通りでは市場帰りらしい男達が荷車を押しながら話している。
向かいの仕立屋では若い職人が布を運び出し、軒先では小鳥が何かをついばんでいた。
王都はもう完全に目を覚ましていた。
ミーナは再び紫の花へ視線を戻す。
「この色が好きだったんだよ」
リアナは手を止める。
「ご主人が?」
老婦人はゆっくり頷いた。
「昔ねぇ」
その声には、寂しさというより懐かしさが混じっていた。
「若い頃はね、こんな花買う余裕なんてなかったのさ」
ミーナは湯呑みの湯気を見つめる。
「パン一つでも安い方選んで、靴なんて穴開くまで履いてねぇ」
エマが「うちも似たようなもんだったわ」と笑う。
「でも、年に一回だけ」
ミーナは花を見る。
「この花を持って帰ってきたんだよ」
リアナは何も急かさなかった。
花を選ぶ人は、時々、花より記憶を探している事がある。
それを知っていた。
「綺麗だろう?」
ミーナが言う。
「ええ」
リアナは頷く。
「とても」
老婦人は少し目を細めた。
その時——
風鈴が、また小さく鳴った。
今度は風ではない。
店の入口に、小さな影が立っていた。
まだ十歳にも満たないだろうか。
帽子を被った少年が、扉のところで遠慮がちにこちらを見ている。
両手は後ろ。
どこか落ち着かない様子だった。
エマが明るく声を掛ける。
「いらっしゃい」
少年は少し肩を揺らし——小さく頭を下げた。
「……あの」
リアナは自然に姿勢を向ける。
店の空気が、ほんの少しだけ変わった。
少年は入口のところで立ち止まったまま、店の中をきょろきょろ見回していた。
帽子のつばを指先で何度も触っている。
どうやら花を買い慣れている様子ではない。
リアナは急かさなかった。
店へ入る最初の一歩は、人によって少し勇気がいるものだ。
エマもそれを知っているのか、作業台へ戻り、わざと声を掛けなかった。
風鈴だけが静かに揺れている。
やがて少年は小さく息を吸い、意を決したように店へ入ってきた。
「……あの」
近くで見ると、まだ幼さの残る顔だった。
学校帰りというには早い。
手には小さな布袋を握っている。
「いらっしゃいませ」
リアナが穏やかに頭を下げる。
少年はその丁寧さに少し慌てたようだった。
「あっ……えっと……」
言葉が続かない。
リアナは視線を合わせたまま、静かに待つ。
店の中には花の匂いと、ミーナの湯呑みから立つ茶の香りが混ざっていた。
少年は布袋を握り直す。
「……花って」
「はい」
「いくらくらいしますか」
エマが作業台の向こうで、ほんの少しだけ口元を緩める。
リアナは少年の布袋を見る。
その形からして、硬貨が少し入っているくらいだろう。
「色々ありますよ」
リアナはそう言って、少年の視線の高さに合わせるように少し膝を折った。
「贈り物ですか?」
少年は耳まで赤くした。
「ち、違っ……」
そこで止まる。
違うと言ったわりに、その後が出てこない。
リアナは助け舟も出さず、困らせもしない。
ただ待つ。
少年は観念したように視線を落とした。
「……母さんに」
その言葉で、店の空気が少し柔らかくなる。
ミーナも湯呑みを持ったまま微笑んでいた。
「今日は誕生日で……」
少年は布袋を差し出した。
「でも……これしかなくて」
袋の中には、決して多くない硬貨が入っていた。
リアナは数えない。
まず見たのは、少年の顔だった。
帽子のつばを何度も触る癖。
少し緊張した声。
でも、その目は真剣だった。
リアナは小さく頷く。
「それなら——」
彼女は店内を見回す。
窓辺。
棚。
吊るされた花束。
そして、朝日を受けて揺れる花々。
その視線は、まるで誰かを思い浮かべるようでもあった。
「お母さんは、どんな方ですか?」
少年は目を瞬かせた。
「え?」
「花を選ぶ時は、その人の事を少し知るんです」
リアナは穏やかに言った。
「好きな色とか、笑う時の顔とか」
少年は戸惑いながらも考え始める。
その姿を見ながら、ミーナが小さく呟いた。
「いい花屋だねぇ」
エマは肩を竦める。
「でしょう?」
リアナは聞こえないふりをしていた。
少年は困ったように帽子のつばを指で弄った。
「……好きな色?」
「ええ」
リアナは穏やかに頷く。
「難しく考えなくて大丈夫ですよ」
少年は店の中を見回した。
花は多い。
赤。
白。
黄色。
見たこともない形の花まである。
だから余計に分からなかった。
「母さん……」
小さく呟く。
思い浮かべているのだろう。
リアナは急かさない。
その間にも、店先では風鈴が小さく鳴り、通りからは市場の賑わいが聞こえてくる。
少年はしばらく考えた後、ぽつりと言った。
「……黄色かな」
「黄色」
「明るい色好きだから」
リアナは小さく頷く。
「元気な方なんですね」
少年は少し照れたように笑う。
「……うるさいくらい」
奥さんが吹き出した。
「それは元気ねぇ」
「朝から喋ってるし……」
「良い事じゃない」
ミーナが湯呑みを持ったまま穏やかに言う。
少年は少しだけ笑った。
その笑顔を見てから、リアナは花棚へ向かった。
棚には春の花が並んでいた。
陽を受けた黄色い花々。
柔らかな花弁。
香りの強いもの。
控えめなもの。
リアナは一本一本を眺める。
その姿は、花を選ぶというより、誰かと静かに相談しているようだった。
やがて一輪を手に取る。
柔らかな黄色の花だった。
派手ではない。
けれど朝日によく映える色。
リアナはそれを少年へ見せる。
「これはどうでしょう」
少年は目を丸くした。
「……綺麗」
「少し明るくて、でも騒がしくない花です」
エマが作業台の向こうから口を挟む。
「リアナちゃん、今それ花の話してる?」
「花ですよ?」
「ほんとかしらねぇ」
リアナは聞こえないふりをする。
ミーナがくすりと笑った。
少年は花を見つめていた。
まるで初めて花をちゃんと見たように。
「……母さん、こういうの好きかも」
リアナは棚からもう一本、小さな白い花を添えた。
「こっちは?」
「白?」
「少しだけ」
リアナが言う。
「黄色だけでも綺麗ですけど、隣に落ち着いた色があると、明るさが優しく見えるんです」
少年はその二本を見比べた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……うん」
リアナは小さく微笑む。
「決まりですね」
少年がふと布袋を見る。
少しだけ、不安そうな顔。
その視線に気付いたのか、リアナは先に言った。
「大丈夫ですよ」
「え?」
「ちゃんと、お母さんに似合う花になります」
その言い方に、少年は少し驚いたようだった。
値段の話ではなかったからだ。
でも不思議と、その方が安心できる気がした。
リアナは作業台へ向かい、静かに花を束ね始めた。
鋏の小さな音。
茎を揃える指先。
麻紐を結ぶ仕草。
その手つきは慣れていて、無駄がない。
けれど急いでもいなかった。
少年は、思わずその様子を見つめていた。
店の中には、穏やかな時間が流れていた。
リアナは作業台へ立つと、静かに鋏を手に取った。
朝の光が窓から差し込み、磨かれた刃先を細く光らせている。
少年は少し離れた場所で、その様子を見ていた。
花束を作るところを、こうして見るのは初めてなのかもしれない。
店の中は穏やかだった。
エマは作業台の反対側で花瓶を並べ替え、ミーナは湯呑みを手に花を眺めている。
外では市場の賑わいが少しずつ大きくなっていた。
けれど花屋の中だけは、時間の流れが少し違うようだった。
リアナは黄色の花を手元へ置く。
それから添えた白い花の茎を揃え、指先で葉の向きを整えた。
無駄のない手つきだった。
けれど不思議と急いで見えない。
花に触れる指は軽く、どこか慎重だった。
少年は思わず尋ねる。
「……難しい?」
リアナは手を止めず、小さく笑った。
「慣れです」
「俺、こういうの全然分かんなくて」
「皆そうですよ」
麻紐を指へ掛けながら、リアナは続ける。
「最初から花に詳しい人なんて、あまりいません」
エマが横から口を挟む。
「私は今でも分かってないけどねぇ」
「毎日売ってますよね」
「売るのと覚えるのは別なのよ」
ミーナが湯呑みを揺らしながら笑った。
「それは分かるねぇ」
店の空気が少し和む。
少年もつられて笑った。
リアナは花束を少し持ち上げる。
黄色の花が前へ出すぎないよう、白を添えて高さを整える。
葉を一枚外し、全体の形を見た。
その横顔を見ながら、少年はぽつりと言った。
「……母さん、喜ぶかな」
リアナは花から目を離さない。
「喜びますよ」
即答だった。
少年は少し驚いた顔をする。
「まだ見せてもないのに?」
「ええ」
リアナは穏やかに答える。
「自分のために選んでもらった花って、それだけで嬉しいものです」
鋏が小さく鳴る。
その音だけが、しばらく店の中へ残った。
ミーナは花を見つめながら、どこか懐かしそうに頷いていた。
エマは「ほんと口が上手いわねぇ」と小さく笑う。
リアナは聞こえないふりをしている。
やがて麻紐が結ばれた。
リアナは完成した花束を、少年へそっと向ける。
黄色と白。
朝の光を閉じ込めたような、小さな花束だった。
「……どうでしょう」
少年は息を呑んだ。
派手ではない。
大きくもない。
でも、不思議と目を離せなかった。
さっきまで棚に並んでいた花が、もう別のものに見える。
「……すごい」
リアナは少し首を傾げる。
「気に入りました?」
少年は何度も頷いた。
その顔を見て、リアナはようやく小さく微笑んだ。
その時——
店の外から、
「おーい! 開いてるかー!」
という大きな声が飛び込んできた。
エマが顔を上げる。
「朝から賑やかねぇ」
風鈴が揺れ、また新しい客がやって来ようとしていた。
風鈴がからん、と鳴った。
店の入口に現れたのは、大きな籠を抱えた男だった。
日に焼けた肌。
腕まくりしたシャツ。
肩には野菜の葉が少し付いている。
市場の八百屋——グランだった。
「おう、開いてたか!」
「おはようございます、グランさん」
リアナが頭を下げる。
男は豪快に笑った。
「おはよう嬢ちゃん達!」
エマはすぐに呆れた顔をする。
「朝から声が大きいのよ」
「市場じゃこれでも静かな方だぞ?」
「市場基準で来ないでちょうだい」
グランは店へ入ると、ふと少年の持つ花束に気付いた。
「お、なんだ坊主、恋人か?」
少年は耳まで真っ赤になった。
「ち、違っ!」
「母さんだそうですよ」
リアナがさらりと助け舟を出す。
「おお」
グランは帽子を掻いた。
「そりゃ失礼したな」
少年は少しむくれて花束を抱え直したが、どこか嬉しそうでもあった。
市場の人間というのは、悪気なく距離が近い。
グランは籠を足元へ置き、店の中を見回した。
「今日は白い花あるか?」
「ありますよ」
「じゃあ三本」
エマがすぐに聞く。
「奥さんに?」
「違う」
「娘?」
「違う」
「じゃあ愛人」
「おい」
グランが眉をしかめる。
エマは楽しそうに笑っていた。
リアナは棚へ向かいながら、何も言わない。
こういうやり取りは、どうやら朝の日課らしかった。
「……見舞いだ」
グランが少し声を落とした。
店の空気がほんの少し静かになる。
ミーナが湯呑みを持ったまま顔を上げた。
「誰か悪いのかい?」
「市場の魚屋の親父だ」
グランは頭を掻く。
「腰やっちまってな。しばらく店休むらしい」
エマの顔から笑みが少し和らぐ。
「まぁ……あの人働き過ぎなのよ」
「誰が言うんだ」
「私よ」
リアナは白い花を選びながら、その会話を聞いていた。
白にも色々ある。
真っ白なもの。
少し青みを帯びたもの。
柔らかく乳色に近いもの。
彼女はしばらく花を見つめ、一輪を手に取る。
「元気な方ですか?」
グランは少し考えた。
「頑固だな」
「元気そうですね」
「病人扱いすると怒るタイプだ」
リアナは小さく頷いた。
それから白い花へ、薄い緑の葉を添えた。
「なら、少し明るい方が良いかもしれません」
グランが腕を組む。
「お前さん、花屋なのに医者みたいな事言うな」
「気休めです」
「効くのか?」
リアナは花束を整えながら答えた。
「効くと思って渡す方が、大事です」
グランは「ふぅん」と鼻を鳴らした。
その横で、少年は完成した花束をまだ大事そうに抱えている。
ミーナは湯呑みを置き、店先の花を見ながら静かに言った。
「花ってのは不思議だねぇ」
誰へ言ったのでもない独り言だった。
「食べられる訳でもないし、役に立つ訳でもない」
店の中へ、風がふわりと入ってくる。
花弁が小さく揺れた。
ミーナは目を細める。
「でも、人は欲しくなるんだ」
リアナは手を止めなかった。
ただ、その言葉を静かに聞いていた。
ミーナの言葉の後、店の中には短い静けさが落ちた。
誰も気まずくなった訳ではない。
むしろ、それぞれが少しだけ自分の事を考えるような、そんな静けさだった。
外では荷車の車輪が石畳を鳴らし、遠くで誰かが魚の値段を叫んでいる。
王都は変わらず忙しい。
けれど花屋の中だけは、どこか時間がゆっくり流れていた。
グランが腕を組んだまま白い花を眺める。
「まぁ、俺は詳しくねぇが」
「はい」
「見舞いってのも難しいよな」
リアナは花の葉を整えながら耳を傾ける。
「元気出せって言われても腹立つ時あるし、可哀想みたいな顔されんのも嫌だろ」
エマが頷いた。
「それは分かるわ」
「だろ?」
グランは鼻を鳴らした。
「だから花くらいが丁度いいんだよ。余計な事言わねぇし」
リアナは白い花束へ視線を落としたまま、小さく頷く。
「そうかもしれませんね」
ミーナが微笑む。
「花は案外お喋りだけどねぇ」
「え?」
少年が顔を上げる。
ミーナは花を見ながら続けた。
「悲しい時に見る花と、嬉しい時に見る花じゃ、同じ花でも違って見えるだろう?」
少年は自分の抱える花束を見た。
確かに、さっき棚に並んでいた時とは少し違って見える。
「だから、人の方が勝手に話してるんだよ」
エマが笑う。
「ミーナさん、朝から良い事言うわねぇ」
「年寄りは話が長いのさ」
「私は好きよ」
リアナは紐を整えながら、ほんの少し目を細めた。
グランがその様子を見て、急に思い出したように言う。
「そういや嬢ちゃん」
「はい?」
「この前の花、うちの娘が喜んでたぞ」
エマがすぐ反応する。
「あら、やっぱり娘だったじゃない」
「違ぇって」
「違わない顔してる」
「お前は人の話聞け」
店に小さな笑いが広がる。
グランは頭を掻きながら続けた。
「学校で花育ててるらしくてな。名前忘れたけど」
「青い花でしたか?」
リアナが聞く。
「お?」
「背がこれくらいで」
手で高さを示す。
「春に咲くものなら、多分……」
「それだ」
グランが指を鳴らす。
「なんで分かるんだ」
リアナは少し考えるように首を傾げた。
「お父さんって、似た話を二回しますから」
店が一瞬静かになり——
エマが吹き出した。
「言うわねぇ!」
グランは口を半開きにする。
「……俺そんな話したか?」
「しました」
「いつだ?」
「三日前です」
ミーナが肩を震わせて笑っていた。
少年までつられて笑う。
グランはしばらく考え込み——やがて豪快に笑った。
「そりゃ歳だな!」
「認めるんだ」
「認めた方が楽だ!」
店の空気が一段明るくなる。
リアナは完成した白い花束を紙へ包みながら、その笑い声を静かに聞いていた。
こういう朝も、嫌いではなかった。
人が来て。
話して。
笑って。
花を持って帰っていく。
それだけの事なのに、不思議と店は毎日違う顔をする。
リアナは包み終えた花束をグランへ差し出す。
「どうぞ」
グランは受け取り、しばらく眺めた。
「……悪くねぇな」
エマが眉を上げる。
「褒め方が八百屋なのよ」
「良いだろ別に」
そして財布を探しかけた時——
外から、小さな鐘の音が聞こえた。
市場通りの方だ。
昼前を知らせる鐘だった。
店の中へ、少し暖かい風が吹き込む。
朝は、まだゆっくり続いていた。
鐘の余韻が、街の上へゆっくり消えていく。
昼前を知らせる音だった。
市場通りの賑わいはさらに大きくなり、風に乗って焼いた肉の匂いまで流れてくる。
グランは受け取った花束を眺めながら、腰の袋をごそごそ探していた。
「……おっと」
「また忘れたんじゃないでしょうね?」
エマが呆れた声を出す。
「忘れてねぇよ!」
「前科があるのよ」
「一回だろ」
「三回」
「盛るな!」
リアナは代金皿を静かに置く。
その横で、少年がまだ花束を抱えたまま立っていた。
どうやら帰るタイミングを失っているらしい。
ミーナはそんな様子を見て、目を細めた。
「坊や」
少年が顔を上げる。
「花は早く渡した方がいいよ」
「え?」
「待たせると、花も拗ねるからねぇ」
少年は自分の抱える花束を見る。
それから少し慌てたように頷いた。
「あ……うん」
リアナが包み紐を軽く整える。
「水は帰ったら少し替えてください」
「うん」
「茎は斜めに切ると長持ちします」
「……斜め?」
リアナは近くの切れ端を使い、小さく実演してみせる。
「こうです」
少年は真剣な顔で見ていた。
まるで授業を受けるように。
「……分かった」
リアナは頷く。
「大丈夫ですよ」
少年は財布代わりの布袋を握りしめる。
「ありがとう」
その言葉は、最初店へ入ってきた時より、少しだけ自然だった。
リアナは穏やかに頭を下げる。
「こちらこそ」
少年は花束を大事そうに抱え、扉へ向かった。
風鈴が揺れる。
途中、少しだけ振り返る。
「あの!」
リアナが顔を上げる。
「……母さん、絶対喜ぶと思う」
その言葉を残して、少年は少し照れたように店を飛び出していった。
風鈴が、からんと余韻を残す。
店の中に小さな静けさが戻る。
エマがふっと笑った。
「良い顔して帰ったわねぇ」
ミーナも頷く。
「初めて花買う顔だったねぇ」
グランは代金を払いつつ鼻を鳴らした。
「男はああいうの緊張するんだよ」
「経験談?」
エマがすかさず聞く。
「……聞くな」
「聞きたいわぁ」
「お前は人の傷を抉る才能あるな」
店にまた笑いが広がる。
リアナは空になった場所へ視線を向けた。
少年が立っていた場所。
そこにはまだ、花の香りが少し残っている気がした。
その時だった。
通りの向こうから、甲高い声が聞こえてきた。
「リアナお姉ちゃーん!」
エマが「あら」と顔を上げる。
小さな足音が石畳を駆けてくる。
次の客——というより、常連が来たらしい。
風鈴が元気よく鳴った。
扉から飛び込んできたのは、七つか八つほどの女の子だった。
麦色の髪を二つに結び、息を切らせている。
「おはよう!」
リアナの表情が、ほんの少し柔らかくなる。
「おはようございます、リコ」
女の子——リコは胸を張った。
「今日はちゃんと起きれた!」
エマが吹き出した。
「威張ることじゃないのよ、それ」
リコは勢いよく店へ入ると、そのままリアナの前まで駆け寄った。
肩で息をしている。
どうやら本当に走ってきたらしい。
「見て!」
両手を前へ突き出す。
そこには、少し歪んだ小さな布袋が握られていた。
エマがすぐに察したように笑う。
「あらあら」
リアナは視線を落とす。
「今日は何でしょう」
リコは胸を張った。
「おつかい!」
「それは大仕事ですね」
「うん!」
得意げだった。
その様子に、ミーナも湯呑みを持ったまま微笑んでいる。
リコは布袋をぶんぶん振った。
中で硬貨が小さく鳴る。
「お母さんがね、花買ってきてって!」
エマが聞く。
「どんな花って言われたの?」
リコはぴたりと止まった。
「……えっと」
店が少し静かになる。
リコは目を泳がせた。
「…………きれいなの」
エマは思わず吹き出した。
「それは難題だわ」
「だよね!?」
リコはすぐ同盟を得た顔になる。
リアナは小さく笑った。
「お母さんは誰かに贈るんですか?」
「んーん」
リコは首を振る。
「おうち!」
「家に?」
「今日はお客さん来るんだって」
なるほど、と奥さんが頷いた。
「それでお花ね」
リコは真剣な顔になった。
「でもね」
声が少し小さくなる。
「わたし、花あんまり分かんない……」
リアナは少しだけ腰を落とした。
視線の高さが近くなる。
「分からなくて大丈夫ですよ」
リコが顔を上げる。
「ほんと?」
「ええ」
リアナは穏やかに頷いた。
「好きなものはありますか?」
「好きなもの?」
「色でも、季節でも、なんでも」
リコはすぐに考え始めた。
子供の考える顔というのは分かりやすい。
眉が寄って、視線が上へ向いて、口が少し尖る。
やがて、
「……青!」
と言った。
「空の色!」
リアナは窓の外を見る。
春の空はよく晴れていた。
薄い雲がゆっくり流れている。
「綺麗ですね」
「うん!」
「お母さんも好きですか?」
リコは首を傾げた。
「……分かんない」
その答えに、リアナは困った顔をしない。
むしろ自然だった。
人は案外、近い人の好きなものを知らなかったりする。
「じゃあ」
リアナは花棚へ向かった。
「今日は一緒に探しましょうか」
リコの顔がぱっと明るくなる。
「いいの!?」
「おつかいですから」
「やった!」
エマが苦笑する。
「もう完全に助手ね」
リアナは棚の前で足を止める。
青い花はそう多くない。
けれど無い訳でもなかった。
小さな青花。
淡い青紫。
朝露を残した花弁。
リアナは一本を手に取り、リコへ見せた。
「これは?」
リコは目を丸くする。
「きれー……」
指先が、そっと花へ伸びる。
でも途中で止まった。
「……さわっていい?」
リアナは小さく頷く。
「優しくなら」
リコは恐る恐る花弁へ触れた。
まるで壊れ物に触れるようだった。
その様子を見ながら、ミーナが静かに呟く。
「花屋ってのは不思議だねぇ」
グランが花束を抱えながら聞き返す。
「何がだ?」
ミーナは目を細める。
「大人も子供も、同じ顔になる」
店の中へ、春の風がやさしく吹き込んだ。
リコは青い花をそっと覗き込んでいた。
小さな指先が花弁へ触れ、朝露を見つけて目を丸くする。
「つめたい……」
「朝の花ですから」
リアナが穏やかに言う。
リコは感心したように頷いた。
「生きてるんだねぇ」
エマが笑う。
「そりゃ生きてるわよ」
「でもお花って、なんか……飾りみたいだった」
リコは少し言葉を探した。
「……おうちにある時は」
リアナは青い花を手に取ったまま、その言葉を聞いていた。
「外にある時と違って見える?」
リコは何度も頷く。
「うん!」
ミーナが湯呑みを持ったまま微笑む。
「家に入ると、花も働くからねぇ」
リコは不思議そうな顔をした。
「働く?」
「そうさ」
ミーナは店先の花を見る。
「部屋を明るくしたり、誰かを元気にしたり」
「そんなことできるの?」
「できるとも」
グランが花束を抱えたまま鼻を鳴らした。
「まぁ、うちの娘も部屋に花置いてから機嫌いいな」
エマがすかさず言う。
「お父さんに似なくて良かったわね」
「お前は俺に恨みでもあるのか」
店にまた笑いが広がる。
リアナは青い花の隣へ、小さな白い花を並べた。
リコがすぐ聞く。
「それも入れるの?」
「どう思います?」
リコは真剣な顔で花を見る。
子供というのは面白い。
大人より案外、ちゃんと見ている。
「……いる!」
「理由は?」
「えっと……」
リコは腕を組んだ。
「空だけだとさみしいから!」
リアナは少し目を細めた。
「良いと思います」
リコはぱっと笑顔になる。
「ほんと!?」
「ええ」
リアナは白い花を添えながら言った。
「一人の方が落ち着く時もありますけど」
鋏が小さく鳴る。
「隣に誰かいた方が綺麗に見えるものもあります」
その言葉に、ミーナがふっと顔を上げた。
エマも作業台の向こうで静かに聞いている。
グランだけが、
「難しい話始まったな」
と首を捻っていた。
リアナは聞こえないふりをする。
リコは花束を覗き込む。
青と白。
まだ小さい。
でも少しずつ形になっていく。
「……なんか」
「はい」
「空に雲あるみたい!」
リアナは花束を見る。
そして、小さく頷いた。
「本当ですね」
その時。
通りの外から、
ぱたぱたと慌ただしい足音が聞こえてきた。
続いて、
「エマさんいるー!?」
という女性の声。
エマが眉を上げる。
「あら」
どうやら今度は、少し急ぎの客らしかった。
風鈴が勢いよく鳴った。
風鈴が勢いよく鳴った。
扉が開き、若い女性が顔を覗かせる。
少し乱れた髪。
肩には買い物籠。
息を切らせている。
「あったー!」
エマがすぐ笑った。
「大袈裟ねぇ、花屋は逃げないわよ」
「逃げないけど閉まるじゃない!」
女性は店へ入るなり胸を押さえた。
「市場、人多すぎ……」
「おはよう、サラ」
「おはよーエマさん……あ、リアナさんも」
リアナが軽く頭を下げる。
「おはようございます」
サラは籠を足元へ置き、大きく息を吐いた。
まだ二十代半ばくらいだろうか。
明るい顔立ちで、話す時によく手が動く人だった。
近所の食堂で働いている女性で、時々この店へ顔を出す常連だった。
「今日は急ぎ?」
エマが聞く。
「急ぎ!」
即答だった。
「昼前にお客さん来るのに、食堂の入口寂しいって言われて!」
「また店長?」
「また店長!」
エマが苦笑する。
「自分で来ればいいのにねぇ」
「ほんとそれ!」
サラはそこでようやく店の中を見回した。
ミーナ。
グラン。
リコ。
そして少年がもういない事に気付く。
「今日は朝から賑やかねぇ」
「おかげさまで」
リアナが答える。
サラはその声を聞いて、少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「……助けてください」
「内容によります」
「冷たい!」
「まだ聞いてません」
店が少し笑いに包まれる。
サラは店先の花を見回しながら言った。
「入口に置く花なんだけどさ」
「はい」
「元気な感じ!」
エマは思わず吹き出した。
「今日は皆そればっかりね」
「え、難しい?」
「花屋にはよくある注文ですよ」
リアナは穏やかに言った。
「綺麗なの、とか」
「優しい感じ、とか」
ミーナが横から頷く。
「あと元気になるやつねぇ」
「そうそう!」
サラは指を鳴らした。
「それ!」
リアナは花棚へ向かった。
サラはその後ろ姿を見ながら、ふと呟く。
「リアナさんってさぁ」
「はい?」
「困らないよね」
リアナが少し振り返る。
「何にです?」
「そういう注文」
サラは笑った。
「私だったら頭真っ白になる」
エマが即答する。
「この子は慣れてるのよ」
「すごいよねぇ」
サラは素直に感心した顔だった。
リアナは棚の前で足を止める。
「……慣れもありますけど」
窓から差し込む光が、花棚を明るく照らしている。
彼女は花を見ながら続けた。
「多分」
「うん?」
「皆、探してるものは似てるんです」
店の中が少し静かになる。
サラは首を傾げた。
「似てる?」
リアナは黄色の花を一本手に取った。
「元気とか、優しさとか」
もう一本。
柔らかな橙色。
「結局、誰かにどうあってほしいか……ですから」
サラは少し目を丸くした。
エマが肩を竦める。
「だから言ったでしょ」
「花の話してるようで、人の話してるのよこの子」
グランが腕を組む。
「俺にはまだ難しいな」
ミーナが湯呑みを揺らした。
「だから花屋は面白いんだよ」
リコは花束を見ながら真剣に頷いている。
たぶん半分くらいしか分かっていない。
でも、それで良かった。
リアナは花を選びながら、窓の外へ目を向ける。
王都の空は、今日もよく晴れていた。
リコが、リアナの袖をちょんと引っ張った。
「ねぇ」
「はい?」
「リアナお姉ちゃん」
小さな声だった。
リコは青い花束を見ながら聞く。
「リアナお姉ちゃんは、どの花が好き?」
店の空気が少し止まる。
エマが「おや」と笑った。
サラも興味深そうに顔を上げる。
グランは「確かに聞いた事ねぇな」と腕を組んだ。
リアナは少しだけ考えた。
花屋へ勤めていると、案外そういう事を聞かれない。
好きな花。
花を売る人間だからこそ、逆に聞かれないのかもしれなかった。
リコは答えを待っている。
真剣な顔だった。
リアナは店の中をゆっくり見回した。
窓辺。
棚。
吊るされた花束。
春の光。
揺れる花々。
そして——
少し考えた後、小さく笑った。
「難しい質問ですね」
「だめ?」
「だめじゃありません」
リアナは窓辺へ歩いた。
そこには、小さな鉢が置かれていた。
細い葉の間から、淡い紫色の花が静かに咲いている。
派手ではない。
けれど陽を受けると、花弁の奥がやわらかく透けて見える花だった。
リコが目を丸くする。
「それ?」
「ええ」
リアナは花へ視線を落とす。
「アイリスです」
サラが少し身を乗り出した。
「へぇ……綺麗」
リコは近くまで寄る。
「むらさきだ」
「青にも見えますよ」
リアナが穏やかに言う。
リコは顔を近付けた。
「ほんとだ……」
エマが腕を組んだ。
「意外ねぇ」
「そうですか?」
「うん」
エマは花を眺める。
「もっと大きくて華やかなの好きかと思ってた」
「私がですか?」
「そうよ」
リアナは少し考えた。
窓から入る風が、アイリスの花弁をかすかに揺らす。
その様子を見つめてから、静かに答えた。
「……あまり目立たないでしょう?」
「そうねぇ」
「でも」
リアナは小さく微笑んだ。
「よく見ると綺麗なんです」
店の中が少し静かになる。
リコは真剣な顔で花を見ていた。
サラも、ミーナも。
グランだけが腕を組んだまま、
「俺には全部綺麗に見えるな」
と正直な感想を漏らす。
エマが笑う。
「それはそれで良いのよ」
リアナはアイリスへもう一度目を向ける。
花弁は春風に揺れていた。
「それに」
彼女は穏やかな声で続けた。
「長く付き合うと、好きになる花もありますから」
一瞬だけ、ミーナが顔を上げる。
けれどエマはすぐに笑った。
「なぁにそれ、まるで人の話みたい」
「花の話ですよ」
「ほんとかしら」
「花屋ですから」
「怪しいわねぇ」
店にまた笑いが戻る。
風鈴が、からりと鳴った。
窓辺では、アイリスが静かに揺れていた。
風鈴が、からりと揺れる。
窓辺のアイリスは、春の風を受けて静かに花弁を揺らしていた。
リアナは鉢を元の位置へ戻す。
その仕草はいつも通りで、特別なものではない。
けれど、どこか花へ触れる手だけは丁寧だった。
リコはまだアイリスを見ていた。
「かわいい……」
「気に入りました?」
「うん!」
リコは素直に頷く。
「でも、おうちに置くのは難しそう」
「どうして?」
「なんか……お姉さんだから」
店が一瞬静かになり——
エマが吹き出した。
「お姉さん!」
サラまで笑う。
「分かるかも!」
グランは首を傾げる。
「花に姉も弟もあるのか?」
「あるのよ」
エマが断言した。
「花にも顔があるんだから」
「難しい世界だな……」
リアナは小さく笑う。
「リコはどんな花が好きですか?」
「わたし?」
「ええ」
リコは真剣な顔で考え始めた。
「……たんぽぽ!」
即答だった。
エマが「まぁ」と笑う。
「可愛いところいくじゃない」
「どこでもあるし!」
「それ褒めてる?」
「うん!」
リコは満面の笑みだった。
リアナは少し目を細める。
「良い花ですね」
「ほんと?」
「ええ」
リアナは頷く。
「強いですし」
「強い?」
「踏まれても咲きますから」
リコは少し感心した顔になる。
「たしかに……」
サラが横から口を挟む。
「私もたんぽぽ好きだったなぁ」
「昔?」
エマがにやりとする。
「何その聞き方」
「今は?」
「……食堂の前に雑草生えると複雑な気持ちになる」
店に笑いが広がった。
リアナはその空気を聞きながら、サラの花束へ最後の葉を添える。
黄色と橙。
入口へ置けば、昼の光によく映えそうだった。
「どうでしょう」
サラが覗き込む。
「……あっ」
その声は小さかった。
さっきまで賑やかだった顔が、少し静かになる。
「いい……」
花束を見る目が、少し変わる。
「……うちの入口じゃないみたい」
エマが頷く。
「景色変わるでしょ?」
サラは花束を見つめたまま言う。
「……なんか、ちゃんとした店みたい」
「失礼ねぇ」
「いや、そうじゃなくて!」
サラは慌てて手を振った。
「いつもちゃんとしてるけど!」
「けど?」
「……こう、なんて言うの……」
言葉を探している。
リアナは待った。
急がせない。
花を選ぶ時も、人が言葉を探す時も、似たようなものだと思っている。
サラはやがて照れくさそうに笑った。
「……大事にしてる感じ」
その言葉に、リアナは小さく頷いた。
「それなら良かったです」
サラは少し驚いた顔をした。
「それで良いの?」
「はい」
リアナは紐を整える。
「お店って、そういうものだと思うので」
外では鐘の音の余韻も消え、通りの陽射しはすっかり昼の色になっていた。
市場帰りの人影が増え、向かいの仕立屋では布が風に揺れている。
春の王都は賑やかだった。
リコは出来上がった花束を胸の前で大事そうに抱えていた。
青と白。
まだ少し不格好なくらいが、子供の選んだ花らしかった。
「お母さん、喜ぶかなぁ」
「きっと」
リアナが紐を整えながら言う。
リコは花束を見つめる。
「……うん」
その顔は、もう少し前の不安そうなものではなかった。
エマが笑う。
「ちゃんと落とさず帰るのよ?」
「落とさないもん!」
「この前は?」
「……あれはパン」
「一緒よ」
店に小さな笑いが広がる。
リコはむうっと頬を膨らませ、それからリアナを見上げた。
「また来ていい?」
リアナは少し目を細める。
「花屋ですから」
「やった!」
満面の笑みだった。
風鈴が、からんと鳴る。
リコは花束を抱えたまま店を飛び出し——数歩走ってから、思い出したように振り返った。
「いってきます!」
エマが吹き出す。
「帰るんじゃなかったの?」
「いってきます!」
リコはもう一度言って、石畳の向こうへ駆けていった。
花束が揺れないように、途中からちゃんと両手で抱え直している。
その背中が見えなくなるまで、リアナは静かに見送っていた。
風鈴の音が、ゆっくりと静まる。
店には昼前の穏やかな空気が戻ってきた。
サラは花束を受け取ると、代金を置いて大きく伸びをした。
「よしっ、私も戻る!」
「走らないのよ?」
「走る!」
「言うと思ったわ」
サラは笑いながら扉へ向かう。
途中でふと立ち止まり、花束を見下ろした。
「……ありがとね、リアナさん」
「こちらこそ」
「店長にも自慢する」
「ほどほどにしてください」
「無理!」
風鈴が鳴る。
春の風が入り込み、サラの背中を追うように通りへ抜けていった。
店の中は、少し静かになった。
グランは見舞いの花を抱え直し、帽子を被る。
「じゃ、俺も行くか」
「魚屋さんによろしくねぇ」
「ああ」
グランはリアナの花束を一度見て、鼻を鳴らした。
「……まぁ、悪くねぇ」
エマが呆れた顔をする。
「だから褒め方が八百屋なのよ」
「褒めてるだろうが」
ミーナがくすくす笑っている。
グランは照れ隠しのように頭を掻き、店を出ていった。
風鈴が、また一つ鳴る。
残ったのは、ミーナとエマとリアナ。
そして昼の陽射しだった。
店先の影は少し短くなっている。
ミーナは湯呑みの最後を飲み、ゆっくり立ち上がった。
「さて……私も帰ろうかねぇ」
リアナはすぐ近くへ寄る。
「送りますか?」
「まだそこまで年寄りじゃないよ」
「エマさんは心配性なんです」
「聞こえてるわよ」
ミーナは笑った。
それから店先の紫の花へ、もう一度視線を向ける。
「……今年も綺麗だったよ」
誰へ言ったのか分からない言葉だった。
リアナは小さく頭を下げる。
「また来年も咲きます」
ミーナは穏やかに頷いた。
「そうだねぇ」
風鈴が、静かに鳴る。
老婦人の小さな背中が、春の通りをゆっくり歩いていく。
店の中へ、昼の静けさが戻った。
エマが作業台へ肘をつく。
「……ふぅ」
「お疲れですか?」
「いいえ?」
エマは笑う。
「こういう忙しさは嫌いじゃないの」
リアナは店先を整えながら窓の外を見る。
市場の声。
行き交う人。
春の風。
さっきまで賑やかだった花屋も、今は少し落ち着いていた。
そんな昼前の静かな時間も、リアナは嫌いではなかった。
窓辺の花が、風に小さく揺れている。
そして——
彼女は何気なく、空を見上げた。
よく晴れた王都の空だった。
市場の声は、昼へ近づくにつれて少し遠くなっていた。
朝の慌ただしさが一段落し、人々が食事や休憩へ流れ始める時間だった。
花屋の中も、さっきまでの賑わいが嘘のように静かになっている。
エマは作業台の上を片付けながら、ふう、と息を吐いた。
「朝だけで一日働いた気分ねぇ」
「まだ半分ですよ」
リアナは花瓶の水を替えながら答える。
「そういう事言うの、若い子の役目じゃない?」
「エマさんもまだ働いてます」
「私は気持ちだけ若いの」
「便利ですね」
「でしょう?」
エマは悪びれもせず笑った。
窓から柔らかな風が入る。
店先の風鈴が、小さく鳴った。
リアナは水差しを持ったまま、窓辺の鉢を見て回る。
朝の水で十分なもの。
少し乾き始めたもの。
葉の向き。
陽の当たり方。
同じ店に並んでいても、花は一つずつ機嫌が違う。
エマがその背中を見ながら言った。
「リアナちゃん」
「はい?」
「昼、パン残ってたかしら」
「ありますよ」
「良かったぁ」
「また朝食べ忘れたんですか?」
「忘れたんじゃないの」
エマは真顔だった。
「忙しかったのよ」
「朝、お茶二回飲んでましたよね」
「それは必要なの」
リアナは小さく笑う。
その時。
店の外から、ふわりと香ばしい匂いが流れてきた。
向かいの通りで肉でも焼いているのだろう。
昼前の王都は、食べ物の匂いが増える。
リアナは窓の外へ目を向ける。
石畳。
行き交う人々。
市場帰りの荷車。
店先で話し込む婦人達。
さっきリコが駆けていった道も、もういつもの通りへ戻っていた。
エマが作業台へ肘をつく。
「……平和ねぇ」
何気ない声だった。
リアナは窓辺の花を整えながら答える。
「そうですね」
「嫌いじゃないのよ、こういう日」
「私もです」
エマは少し意外そうに眉を上げる。
「リアナちゃん、案外ちゃんと言うわねぇ」
「何をです?」
「好きとか嫌いとか」
リアナは少し考えた。
それから、水差しを置く。
「好きなものくらいは、ちゃんと好きって言わないと」
エマは「へぇ」と笑った。
「珍しく良い事言うじゃない」
「いつも言ってます」
「それはどうかしら」
店にまた小さな笑いが生まれる。
そしてしばらく。
誰も喋らない時間があった。
沈黙なのに、不思議と居心地は悪くない。
外の街の音が、遠く近く聞こえている。
リアナは窓辺へ立ったまま、空を見上げた。
春の空は高かった。
雲は薄く、ゆっくり流れている。
その光を受けて、窓辺の花が静かに揺れた。
エマが後ろから言う。
「……リアナちゃん」
「はい?」
「今日、機嫌いい?」
リアナは少し振り返る。
「いつも通りですよ」
「ほんと?」
「ほんとです」
エマは腕を組んだ。
「なんとなくねぇ」
「なんとなく?」
「うん」
エマは店先を見る。
「朝から、よく笑ってる」
リアナは一瞬だけ黙った。
それから窓の外へ視線を戻し、
「……そうかもしれません」
と、小さく答えた。
風鈴が、からりと鳴る。
昼の光は、ゆっくり花屋の床を移動していた。
昼の光は、ゆっくり店の中を移動していた。
朝には窓辺を照らしていた陽射しが、今は作業台の端へ伸びている。
エマは残っていたパンを半分に割り、片方をリアナへ差し出した。
「はい」
「ありがとうございます」
「働かせるだけ働かせて餓死されたら困るもの」
「その前に花の水を替えます」
「そういうところよ」
リアナは小さく笑い、受け取ったパンを皿へ置く。
まだ少し温かかった。
向かいのパン屋のものだろう。
香ばしい匂いがふわりと広がる。
エマは椅子へ腰掛け、大きく息を吐いた。
「こういう時間が一番好きかもしれないわぁ」
「昼ですか?」
「ううん」
窓の外を見る。
人通りは絶えない。
でも朝の勢いとは違う。
どこか落ち着いた流れだった。
「朝と昼の間」
エマは言った。
「忙しいのが終わって、まだ眠くもない時間」
リアナは少し考えた。
「……分かる気はします」
「でしょ?」
「今日は風もありますし」
「また分かるの?」
「花が教えてくれます」
エマが笑う。
「そのうち私の機嫌まで当てそうねぇ」
「もう大体分かります」
「怖い子ね!」
店に、小さな笑いが落ちる。
しばらく二人は黙っていた。
パンを食べる音。
外の通りの声。
風鈴の微かな揺れ。
そんな音だけが、静かに流れている。
リアナは窓辺へ目を向ける。
そこには、小さな鉢植え達が並んでいた。
朝より少し陽射しを受けた花弁。
葉の影。
風に揺れる細い茎。
花は、時間によって表情が変わる。
それを見るのが、リアナは好きだった。
「……そういえば」
エマがパンを齧りながら言う。
「リコ、また来るわねぇ」
「そうですね」
「完全に遊び場認定されてるわよ」
リアナは少し考える。
「悪くありません」
「気に入ってるの?」
「元気ですから」
「それだけ?」
リアナは窓の外を見る。
さっきまでリコが走っていた石畳。
もう姿は無い。
けれど、花束を抱えて駆けていく背中は、まだ少し目に残っている気がした。
「……花を見る顔が好きなんです」
エマはパンを持ったまま、少しだけ目を細めた。
「へぇ」
「皆、違うので」
リアナは穏やかに言う。
「同じ花でも、見る人で全然違いますから」
エマは何か言いかけ——結局、笑った。
「ほんと花好きねぇ」
「仕事ですから」
「また言ってる」
リアナは否定しない。
窓から風が入る。
風鈴が、からりと鳴った。
その時だった。
通りの向こうから、小さな声が聞こえてくる。
「……あっ」
リアナが顔を上げる。
石畳の先。
リコだった。
少し離れた場所から、こちらへ向かって手をぶんぶん振っている。
胸には、ちゃんと花束。
エマが笑う。
「忘れ物?」
リアナは目を細めた。
リコは大声で叫んだ。
「お母さん、よろこんだー!!」
通りの人が少し振り返る。
でも本人は気にしない。
それだけ叫ぶと、満足したらしくまた走っていった。
今度こそ、本当に帰るらしい。
花束を大事そうに抱えながら。
その姿が角を曲がって見えなくなる。
店の中に、少しだけ静かな余韻が残った。
エマが小さく笑う。
「……ほらね」
「何がです?」
「今日は機嫌いい」
リアナは少しだけ黙った。
窓の外には春の王都。
風。
人々の声。
そして、昼の柔らかな陽射し。
彼女はその景色を見つめたまま——
「……そうかもしれません」
と、小さく答えた。
風鈴が、静かに鳴った。
花屋の一日は、まだ終わらない。
けれど。
今日という日は、悪くない日だった。
夜の王都は、昼とは違う顔をしていた。
市場の喧騒は静まり、通りには灯りがぽつぽつと並んでいる。
花屋の二階。
リアナの部屋は広くはなかった。
机。
本棚。
小さな寝台。
窓辺には鉢植えが一つ。
飾り気は少ない。
けれど、きちんと整えられた部屋だった。
机の上には、開いた日記帳。
リアナは椅子へ座り、羽根ペンを静かに走らせていた。
紙を擦る小さな音だけが、部屋に響く。
今日の事を書く。
ミーナが来た事。
少年が母への花を選んだ事。
サラが相変わらず慌ただしかった事。
リコが、自分で選んだ花束を嬉しそうに抱えて帰った事。
特別な事は書かない。
誰かに見せるものでもない。
ただ、その日にあった事を少しだけ残す。
リアナにとって、それは長く続く習慣だった。
やがて、ペンが止まる。
少し考え、
最後に一行だけ書き足した。
――今日は、よく笑った気がする。
インクが乾くのを待つ。
窓の外では、夜風が小さく鳴っていた。
その時。
リアナはふと顔を上げた。
静かな部屋。
窓が、かすかに揺れている。
風だった。
リアナは立ち上がる。
足音は静かだった。
窓辺へ近付き、細く開いていた窓へ手を掛ける。
夜風が入り込む。
春の夜は少し冷たい。
遠く、王都の灯りが見えていた。
酒場の明かり。
遅くまで働く店。
行き交う人影。
昼とは違う、夜の街。
リアナは窓を開けたまま、その景色を見つめる。
風が髪を揺らす。
しばらく。
何も言わない時間があった。
やがて、リアナは静かに口を開く。
「……眠らないんですね」
夜風だけが返事をする。
リアナの表情は変わらない。
まるで、返事がある事を知っているみたいに。
「街が騒がしい?」
小さく息を吐く。
「平和ですよ」
風が吹く。
カーテンが揺れた。
リアナは夜空を見上げる。
星はよく見えていた。
「……またですか」
少しの沈黙。
その横顔には驚きも無かった。
初めて聞く話ではないように。
「気が早い」
かすかに苦笑する。
「知ってます」
夜風が頬を撫でる。
リアナは窓枠へ手を置いた。
「……何が見えるんです」
遠く。
街の灯りが静かに揺れている。
リアナは目を細めた。
「風向き……」
その視線は、王都よりもっと遠くを見ているようだった。
「土が……揺れてる」
静かな声。
誰かの言葉を聞き取るようでもあり、自分へ言い聞かせるようでもある。
春の夜は穏やかだった。
何も起きていない。
けれど。
リアナの顔からは、少しずつ笑みが消えていく。
「……そろそろ、ですか」
長い沈黙。
遠くで犬の鳴く声がした。
リアナは街の灯りを見つめたまま、小さく呟く。
「……嫌ですね」
風が吹く。
髪が揺れる。
それでも彼女は窓を閉めなかった。
ただ、夜の空気を受けながら立っている。
やがて。
リアナは窓の縁を、軽く握りしめた。
その指先へ、わずかに力が入る。
そして——
「……わかりました」
夜風だけが、静かに部屋を通り抜けていった。
王宮、観測の間。
夜は深かった。
高い天井の下、燭台の火が静かに揺れている。
古い石壁には星図と歴代の観測記録。
机の上には報告書が積み上がり、部屋には紙を捲る音だけが響いていた。
観測の間は本来、静かな場所だった。
今夜は違う。
張り詰めた空気が、石造りの部屋へ重く沈んでいる。
若い神官が足早に入室した。
「北観測塔より追加報告です」
紙が机へ置かれる。
老神官は無言で受け取り、目を通した。
隣では別の神官が星盤を確認している。
「……また揺れています」
「規模は」
老神官は顔を上げずに問う。
「微細です」
星盤の上。
細い銀針が、かすかに震えていた。
普通なら見落としても不思議ではない揺れ。
だが——。
今夜はそれが三度目だった。
老神官が低く問う。
「南は」
「異常無し」
「西方」
「大きな変化はありません」
若い神官が少し迷う。
「ただ……観測が一致しません」
老神官が顔を上げた。
「地脈反応は一点です」
「ですが感情流動が広域化しています」
部屋が静まり返る。
老神官の眉がわずかに寄った。
「……広域?」
「はい」
若い神官自身も困惑していた。
「通常、地脈異常は局地です」
「地震なら震源、災害なら土地に反応が集中します」
「ですが今回は……」
言葉を探す。
「……何かが、周囲へ滲んでいるような」
燭台の火が揺れた。
老神官はゆっくり立ち上がる。
観測盤へ歩み寄り、銀針の揺れを見つめた。
指先が古い紋様を静かになぞる。
長い沈黙。
若い神官が慎重に言った。
「自然現象では?」
返事は無かった。
老神官は目を閉じる。
七十年。
灰冠の戦いから、既にそれだけの年月が流れている。
彼自身、戦を知らない。
だが。
幼い頃、先代神官や祖父が語った話は覚えていた。
焼けた帝都。
灰に覆われた空。
避難民の列。
そして——
灰冠の戦い前夜にあったという、
あの不気味な静けさ。
「……似ている」
低い呟きだった。
若い神官が顔を上げる。
老神官は机へ戻り、置かれていた感応石へ手を伸ばした。
その瞬間。
石が、かすかに震える。
からり。
乾いた音。
部屋の空気が止まった。
若い神官が息を呑む。
「……反応?」
感応石。
大地異常を補助観測するための古い石。
それが微かに熱を帯びている。
老神官は静かに触れた。
ほんの一瞬。
胸を掠める感覚。
怒り。
焦燥。
失う恐怖。
だが——それだけではない。
誰か一人の感情ではなかった。
苦痛。
混乱。
怯え。
幾つもの感情が重なり、滲み合い、濁流のように絡み合っている。
老神官はすぐ手を離した。
呼吸がわずかに乱れている。
若い神官が不安げに問う。
「……どうされました」
老神官は答えない。
窓の外を見る。
王都は静かだった。
灯り。
夜風。
何も起きていない夜。
だからこそ、胸へ沈む違和感が重かった。
「……七十年か」
誰へ向けた言葉でもない。
若い神官達は黙っていた。
老神官は感応石を見つめる。
その表情には、説明し難い苦さがあった。
「……まさか」
低い声だった。
「私の代で、見る事になるとはな」
若い神官が戸惑う。
「長官……まだ確証は——」
老神官はゆっくり首を振る。
「確証は無い」
静かな声。
「……だからこそ、備える」
彼は再び感応石へ視線を落とした。
先ほど触れた感覚が、まだ指先に残っている。
「警戒段階を上げろ」
燭台の火が揺れた。
観測の間には、
誰も口にしたくない名だけが、
重く沈んでいた。




