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第十五話 遠い予兆

王宮外郭。

午後の警備交代を終えたユリウスは、

騎乗隊の詰所へ戻る途中だった。

春の陽射し。

白い城壁。

庭園から運ばれてくる花の香り。

行き交う兵士達の声。

王宮は今日も変わらない。

穏やかな午後だった。


「ユリウスさん」

聞き覚えのある声に呼び止められる。

ユリウスは足を止めた。

振り返る。

回廊の向こうに、

リアナが立っていた。

王宮へ通い始めてから、

何度かその姿を見掛けるようになった。

今日もフィーナの元を訪れていたのだろう。

「リアナさん」

ユリウスは軽く頭を下げた。

「今日はもうお帰りですか?」

「はい」

リアナは穏やかに微笑む。

「フィーナ様の授業が終わりましたので」

「なるほど」

二人は自然と同じ方向へ歩き出した。


王城の庭に面した回廊。

柱の間から春の光が差し込んでいる。

「王宮には慣れましたか?」

ユリウスが尋ねた。

リアナは少し考える。

「まだ分からない事は多いです」

「ですが、皆様に良くしていただいています」

いつもの声。

いつもの話し方。

少し控えめで。

相手を不快にさせない柔らかな言葉。

ユリウスも自然と肩の力を抜いた。


「フィーナ様も喜んでいるでしょう」

「そうだと良いのですが」

「喜んでいると思いますよ」

ユリウスは苦笑する。

「最近は随分楽しそうですから」

リアナも小さく笑った。

「それなら安心しました」

他愛のない会話だった。

王宮での生活。

花屋リリエ。

春灯祭の準備。

近頃は風の強い日が増えた事。

どれも、王都で交わされる日常の話だった。

やがて、二人は人通りの少ない通路へ差し掛かる。

庭園の外れ。

詰所へ向かう兵士も、

王宮で働く使用人もほとんど通らない場所だった。


リアナの歩みが僅かに遅くなる。

ユリウスも足を緩めた。

「どうかしましたか?」

返事は無かった。

リアナは一度だけ周囲を見た。

前方。

後方。

庭へ続く脇道。

誰も近くにいない事を確かめるように。

その仕草を見た瞬間。

ユリウスは小さな違和感を覚えた。

先程までと同じ姿。

同じ栗色の髪。

同じ花の髪留め。

穏やかな表情も変わらない。

それなのに。

何かが違う。

立ち方。

視線。

纏う空気。

柔らかさが失われた訳ではない。

だが、その奥に、刃のように研ぎ澄まされた静けさがあった。


リアナがユリウスを見る。

「少し」

声もよく似ていた。

だが。

いつものリアナより僅かに低い。

「お話ししておきたい事があります」

ユリウスの表情が変わる。

「私にですか?」

「はい」

リアナは頷いた。


「これからお話しする事を、今すぐ誰かへ伝える必要はありません」

「ですが」

一拍置く。

「覚えておいてください」

ユリウスは無意識に姿勢を正していた。

冗談ではない。

それはすぐに分かった。

「近いうちに」

リアナは静かに言う。


「帝国を中心に、大きな災いが起こります」


ユリウスが眉を寄せる。

「帝国で?」

「はい」

「場所までは分からないのですか?」

リアナは僅かに目を伏せた。

「帝国中央部からカルドラ山に近い場所です」

その名前に。

ユリウスの表情が引き締まる。

霊峰カルドラ。

帝国の象徴。

その周辺には町も軍事施設も多い。

「そこで何が起きるのですか?」

リアナはすぐには答えなかった。

未来の光景を言葉へ置き換えるように。

少しだけ間を置く。


「大地が揺れます」

静かな声だった。

「一つの町や地方だけでは済まないかもしれません」

「帝国全体が混乱するほどの災害になる可能性があります」

ユリウスは黙って聞いていた。

助言。

そう呼ぶには。

あまりにも具体的だった。

「いつ頃ですか?」

「遠くはありません」

「数日か」

「数週間か」

リアナは首を横に振る。


「そこまではお伝え出来ません」

分からないのではない。

伝えられない。

ユリウスにはそう聞こえた。

「そして」

リアナの視線が、

ユリウスの腰に下げられた剣へ向く。

「災害が起きれば」

「王国も救援隊を送る事になるでしょう」

「騎乗隊は先遣隊として選ばれる可能性があります」

ユリウスの表情が強張る。

王城騎乗隊。

移動速度に優れ。

偵察。

伝令。

先行調査。

必要とあれば救助活動も担う。

隣国で大規模災害が起きれば。

確かに最初に派遣されても不思議ではなかった。


「なぜ、それを私に?」

リアナはすぐには答えない。

春風が回廊を通り抜ける。

栗色の髪と、

花の髪留めを揺らしていく。

「その場所で」

静かな声だった。

「あなたは多くのものを見る事になります」

「目を覆いたくなるような光景もあるでしょう」

崩れた建物。

裂けた大地。

傷ついた人々。

助けを求める声。

まだ見た事もない惨状が、ユリウスの脳裏へ浮かぶ。


「ですが」

リアナは続ける。

「それでも周囲をよく見てください」

「そこで見つけなければならない人がいます」

ユリウスが顔を上げた。

「人?」

「はい」

「その方は怪我を負っている可能性があります」

リアナの声が僅かに揺れた。

本当に僅かだった。

だが、ユリウスは気付いた。

「意識を失っているかもしれません」

「自分の名前や」

「何が起きたのかを、すぐには説明出来ないかもしれない」

「かなり危険な状態という事ですか?」

「分かりません」

リアナは首を横に振った。

「軽い怪我で済んでいるかもしれません」

「ですが」

その瞳に、隠し切れない不安が浮かぶ。

「最悪の状態も考えておいてください」

ユリウスは黙り込む。

その人物について話す声には。

予言の中にいる見知らぬ誰かへ向けるものとは思えないほどの切実さがあった。


「その人は誰なんですか?」

リアナは目を伏せた。

答えるべきか。

迷っているように見えた。

やがて、小さく首を横に振る。

「今は言えません」

「ですが」

再びユリウスを見る。

「見れば分かります」

「私が知っている人物ですか?」

リアナは答えなかった。


それが、答えのようにも思えた。

「きっと」

彼女は静かに続ける。

「あなたは驚くでしょう」

「目の前にいる人を見て」

「何かの間違いではないかと思うかもしれません」

その表情に。

一瞬だけ複雑な感情が浮かんだ。

懐かしさ。

痛み。

そして。

強い決意。

「それでも・・・」

「その人を見捨てないでください」

ユリウスはリアナを見つめる。


普段の彼女なら。

ここまで強い言い方をするだろうか。

そんな疑問が胸を過ぎる。

「救助すれば良いのですね」

「はい」

「安全な場所まで運びます」

「それだけでは足りません」

即答だった。

ユリウスの眉が動く。

リアナは少しだけ言葉を選んだ。

「可能であれば」

「その人を現地に残さないでください」

「帝国側へ引き渡すなという事ですか?」

しばらく。

返事は無かった。

回廊を抜ける風の音だけが響く。


「災害が起きた場所で発見された、身元の分からない人物です」

「帝国の者達が保護しようとするのは当然でしょう」

リアナは静かに言う。

「ですが」

「その人は、帝国に残るべきではありません」

ユリウスの表情がさらに険しくなる。

これは単なる救助の話ではない。

正体不明の人物を。

隣国の領内から王国へ連れ帰れと言っている。

外交問題になる可能性すらあった。

「理由を教えてください」

「今はお伝え出来ません」

また同じ答えだった。

だが、拒絶するような言い方ではない。

言いたくても言えない。

そう聞こえた。


「では」

ユリウスは尋ねる。

「私は何をすれば良いのですか?」

リアナは僅かに目を細めた。

「その人の命を守ってください」

「怪我をしていれば治療を」

「意識が無ければ安全な場所へ」

「そして」

一拍置く。

「王国の救援隊と共に連れ帰ってください」

「王国まで?」

「はい」

その返事には迷いが無かった。

ユリウスは黙り込む。


帝国の災害。

騎乗隊の派遣。

崩壊した土地。

負傷しているかもしれない人物。

そして。

王国への搬送。

あまりにも突拍子のない話だった。

普通なら、信じられるはずがない。

だが、なぜか聞き流す事が出来なかった。


「私が先遣隊へ選ばれるとは限りません」

「選ばれます」

リアナは即座に答えた。

あまりにも迷いのない言葉だった。

ユリウスは息を止める。

今までの話し方とは違う。

可能性ではない。

確信だった。

だが、次の瞬間。

リアナの表情が僅かに揺らぐ。

言い過ぎた。

そう思ったようにも見えた。

「少なくとも」

少しだけ普段の口調へ戻す。

「その可能性は高いと思います」

ユリウスは何も言わなかった。

先程の断言を。

聞かなかった事には出来ない。


「分かりました」

やがて、静かに答える。

「約束は出来ません、現場では命令があります」

「私一人で決められない事もあるでしょう」

リアナは黙って聞いている。

「ですが」

ユリウスは続けた。

「その人を見つけた時は、あなたの言葉を思い出します」

「怪我をしていれば助けます」

「出来る限り、王国まで連れて戻る方法を考えます」

リアナは僅かに目を細めた。

「それで十分です」

安堵したような声だった。

「ありがとうございます」

その言葉を最後に。

彼女は一度目を閉じた。


ほんの一瞬。

風が止まる。

回廊の音が遠ざかる。

次に目を開いた時。

その瞳から。

先程までの鋭い静けさは消えていた。

「……ユリウスさん?」

少し戸惑った声だった。

ユリウスは息を止める。

リアナは周囲を見た。

そして、自分がなぜこの場所に立っているのか確かめるように瞬きをする。

「どうかしましたか?」

いつものリアナだった。


柔らかな声。

穏やかな表情。

僅かに首を傾げる仕草。

ユリウスは答えられなかった。

目の前にいるのは。

間違いなくリアナ・エルムだ。

だが、先程まで話していた相手と。

本当に同じ人物なのか。

その確信だけが持てなかった。

「……何でもありません」

迷った末に、ユリウスはそう答えた。

今すぐ誰かへ伝える必要はない。

先程の彼女はそう言っていた。

それに、リアナ自身は何も知らないように見える。

問い詰めるべきではない。

なぜか、そう思った。

「そうですか?」

リアナはまだ少し不思議そうだった。


ユリウスは頷く。

「詰所へ戻る途中でした、途中までご一緒します」

「ありがとうございます」

二人は再び歩き始めた。

先程までと変わらない回廊。

春の光。

庭園の花。

行き交う人々の声。

リアナは何事もなかったように。

春灯祭の飾りについて話していた。

ユリウスも返事をする。

だが。

頭の中から。

先程の言葉が消える事はなかった。

帝国。

大きな災い。

騎乗隊。

負傷した人物。

そして。

王国へ連れ帰れという頼み。

ユリウスは隣を歩くリアナを見る。

彼女は穏やかに微笑んでいる。

何も知らない。

少なくとも。

そう見えた。


ここ最近。

王都では天気の安定しない日が増えていた。

朝は晴れていたのに。

昼を過ぎる頃には雲が広がる。

突然強い風が吹き。

短い雨が降ったかと思えば、

何事も無かったように空が晴れる。

季節の変わり目。

そう言ってしまえば、それまでだった。

だが、王宮の様子も少しずつ変わり始めていた。


廊下を行き交う神官達。

抱えられた書類。

小声で交わされる会話。

以前よりも、どこか慌ただしい。

リアナは窓の外を見ていた。

厚い雲の隙間から。

僅かに陽の光が差し込んでいる。


「また曇ってきましたね」

隣から声がした。

フィーナだった。

机の上には教本が開かれている。

だが、少女の視線はすっかり窓の外へ向いていた。

「そうですね」

リアナは小さく頷く。

「朝は晴れていたのに」

「最近ずっとこうです」

フィーナは少し不満そうだった。

「庭へ出ようとすると雨が降るんです」

「それは困りますね」

「昨日もです」

「花壇を見に行こうとしたら、急に風が吹いて」

少し頬を膨らませる。

「帽子が飛ばされました」

リアナは思わず微笑んだ。

「見つかりましたか?」

「ユリウスが取ってくれました」

少し誇らしげだった。


その様子から。

大きな問題ではなかった事が分かる。

「それなら良かったです」

「はい」

フィーナも笑う。

少し前なら、王宮での時間は授業と礼儀作法ばかりだった。

けれど、リアナが通うようになってから。

こうして授業の途中で窓の外を眺めたり。

花の話をしたり。

王都の店について尋ねたりする時間が増えた。

正式には相談役。

そして目付役。

だがフィーナにとっては。

それよりもずっと身近な存在になり始めていた。


「リアナ様」

「はい」

「今日は何をするんですか?」

「まずはこちらを終わらせましょう」

リアナは机の上の教本へ視線を落とす。

フィーナの表情が曇る。

空よりも分かりやすかった。

「まだですか?」

「まだ二頁です」

「二頁も進みました」

「二頁しか進んでいません」

フィーナは言葉に詰まった。

少し考え、そして。

「今日は天気が悪いので」

「関係ありません」

即答だった。

フィーナは肩を落とす。

以前のように侍女へ助けを求める事はなかった。

リアナには通用しない。

もう分かっているのだろう。

「では」

リアナは少しだけ声を柔らかくする。


「ここまで終わりましたら」

窓の外を見る。

「雨が降っていなければ、花壇を見に行きましょう」

フィーナの顔が明るくなる。

「本当ですか?」

「はい」

「約束ですか?」

「約束です」

その返事を聞くと。

フィーナは教本へ向き直った。

先程までとは別人のようだった。

リアナは小さく笑う。

扱い方が少しずつ分かってきた。

褒めれば頑張る。

楽しみがあればもっと頑張る。

ただし、目を離すとすぐ別の事へ興味を持つ。

神官長が困っていた理由も。

最近ではよく分かるようになっていた。


その時だった。

廊下の向こうから。

早い足音が聞こえてきた。

一人ではない。

複数人。

扉の前を神官達が通り過ぎていく。

皆。

書類を抱えていた。

話し声は小さく、内容までは聞き取れない。

だが、表情は明らかに硬かった。

フィーナも顔を上げる。

「最近」

小さく呟く。

「神官の人達、忙しそうですね」

リアナは扉の方を見る。

「そうですね」

「何かあったのでしょうか」

フィーナが尋ねる。

リアナはすぐには答えなかった。

知らない事を。

知っているようには言えない。

ただ。

ここ数日の空気の変化は感じていた。


王宮を行き交う神官達。

増えた報告書。

神殿区画へ向かう騎士。

夜遅くまで消えない灯り。

何かが起きている。

あるいは。

起きようとしている。

「心配ですか?」

リアナが尋ねる。

フィーナは少し考える。

「少しだけ」

正直な答えだった。

「皆、何も言ってくれません」

「フィーナ様を心配させたくないのでしょう」

「でも」

少女は教本の端へ指を置く。

「知らない方が心配になります」

リアナは静かにフィーナを見る。

その言葉は、子供らしい我儘ではなかった。

知らされない事への不安。

何かが起きているのに。

自分だけが置いていかれる感覚。

王族として育てられているからこそ。

余計に感じるのかもしれない。


「そうですね」

リアナは否定しなかった。

「何も分からないままでは、不安になります」

フィーナが顔を上げる。

「リアナ様もですか?」

「はい」

穏やかに頷く。

「私も同じです」

その言葉に。

フィーナの表情が少しだけ柔らかくなる。

励ますでもない。

大丈夫だと言い切るでもない。

ただ。

同じ気持ちだと伝える。

それだけだった。

「ですが」

リアナは続ける。

「今、分からない事を考え続けても」

「答えは出ません」

教本を指で軽く示す。

「まずは、今出来る事をしましょう」

フィーナは教本を見る。

それからリアナを見る。

数秒。

迷う。

そして、小さく頷いた。

「分かりました」

先程よりも、少しだけ落ち着いた声だった。

リアナは微笑む。

「では続きから」

「はい」

再び授業が始まる。

窓の外では。

風に押されるように雲が流れていた。

その向こう。

王宮の神殿区画では。

新たな報告書が。

次々と運び込まれていた。


王宮神殿区画。

外から見れば、いつもと変わらないように見えた。

祈りを捧げる者。

書類を運ぶ神官。

静かな回廊。

鐘の音。

だが、その内側では。

空気が明らかに変わっていた。

神官達は足早に行き交い。

抱えられる書類の数も増えている。

閉ざされた会議室。

夜遅くまで消えない灯り。

何かが起きている。

そう感じさせるには十分だった。


だが、それを外へ漏らす訳にはいかない。

魔王出現の可能性。

その言葉一つで民衆は混乱する。

商人は物資を抱え込み。

街道は混雑し。

根拠のない噂が国中へ広がる。

確証の無い段階で公表する事は出来なかった。

神殿内部でも、事情を知らされている者は限られていた。


神殿最奥。

観測記録室。

机の上には。

各地から集められた報告書が積み上げられている。

地脈反応。

魔力変動。

気象異常。

古い観測記録。

その全てを照合する作業が続いていた。

「西部観測所からの再報告です」

若い神官が書類を差し出す。

年長の神官が受け取る。

「反応は?」

「消えていません」

「強弱を繰り返しています」

「位置は」

若い神官は少し言葉に詰まった。

「特定出来ておりません」

部屋の空気が重くなる。

「王国領内ではないのか」

「その可能性は低いかと」

別の神官が答える。

机の上に広げられた地図。

王国。

帝国。

神聖国。

周辺諸国。

観測結果を示す印が。

帝国中央部寄りへ集中していた。

「だが」

一人が眉をひそめる。

「反応の広がり方が過去の記録と違う」

「通常なら発生点から外へ広がるはずだ」

「今回は」

地図上の印を指でなぞる。


「各地で同時に揺らいでいるように見える」

誰も答えない。

魔王発生。

そう判断するには、一致しない点が多過ぎた。

だが、誤報と切り捨てるには、反応が明確過ぎる。


別の机では。

諸外国から届いた書簡が整理されていた。

どれも正式な外交文書ではない。

神殿同士。

研究機関同士。

あるいは。

王族直属の使者を通した水面下の問い合わせだった。

「神聖国からです」

神官が書簡を読み上げる。

「今回の警戒勧告について、再確認を求めています」

「内容は」

「誤検知の可能性」

「観測装置の不具合」

「過去記録との不一致」

神官が目を閉じる。

予想していた反応だった。

「海洋都市国家群からも来ています」

別の神官が続ける。


「魔王出現の根拠を示せと」

「情報公開を求めています」

「公開出来る段階ではない」

「そう返答しております」


「帝国は」

その言葉で。

部屋が少し静かになった。

若い神官が一枚の書簡を持ち上げる。

「帝国からも問い合わせが届いております」

「内容は」

「今回の警戒勧告が、誤報ではないかという確認です」

一人の神官が苦笑した。

「帝国がそれを言うのか」

地図上。

反応の中心と見られる場所は。

帝国領内に近い。

その帝国が。

誤報ではないかと問い掛けている。

だが、それだけではなかった。

若い神官は続ける。


「帝国外務局の一部では」

少し言いにくそうにする。

「王国側が意図的に混乱を起こそうとしているのではないか」

「そのような疑いも出ているとの事です」

部屋の空気が変わる。

「意図的に?」

「はい」

「魔王出現という情報を流し、帝国内部の不安を煽る」

「あるいは、軍や物資の移動を誘発する目的ではないかと」

誰かが小さく息を吐いた。

疑われるのも無理はない。

魔王という存在は。

国家を動かす。

軍を動かし。

市場を揺らし。

国境警備すら変える。

誤報であれば。

それだけで外交問題になる。

「馬鹿げている」

一人の神官が言う。

だが、年長の神官は首を横に振った。

「馬鹿げてはいない」

全員が顔を上げる。

「立場が違えば」

「そう考える者がいても不思議ではない」

神殿の警戒勧告。

王国発。

発生地点は帝国付近。

しかも確証は無い。

疑念を抱く条件は揃っていた。


「だからこそ」

静かな声が響く。

ゼヴランだった。

いつからそこにいたのか。

老人は机の上の地図を見つめている。

「我々は確かめなければならない」

神官達が姿勢を正す。

「魔王反応が本物なのか」

「誤検知なのか」

「そして」

地図上の帝国中央部へ指を置く。

「何が発生源なのか」

誰も口を挟まない。

「各観測所へ再測定を命じなさい」

「過去七十年分の記録も照合する」

「地脈異常」

「気象変動」

「青晶石反応」

「全てです」

若い神官が頷く。

「諸外国への返答は」

「現時点では警戒情報を撤回しない」

ゼヴランは言った。

「ただし」

「魔王出現を断定してもならない」

難しい判断だった。

警戒は維持する。

だが、断定はしない。

その曖昧さが、さらに各国の疑念を招く可能性もある。


「帝国への返答は」

一人が尋ねる。

ゼヴランは少し考えた。

「誤報の可能性も含めて再精査中」

「ただし」

「帝国領内の観測協力を求める」

神官達が顔を見合わせる。

帝国が応じるかは分からない。

だが、発生源が帝国内にある可能性が高い以上。

協力無しでは限界があった。


「もし拒否された場合は」

「それでもこちらで調べるまで」

ゼヴランは地図を見たまま答える。

「今は、疑われる事より見誤る事の方が危険だ」

部屋が静まり返る。

それは、神殿全体の判断だった。

外では、何も知らない人々が日常を過ごしている。

王宮では授業が行われ。

市場では祭りの準備が進み。

子供達は春の空を見上げている。

だが。

その裏側で。

各国は互いを疑い。

情報を探り、神殿は一つの答えを求めていた。

魔王は、本当に現れたのか。

そして、どこにいるのか。

その答えが、彼らの予想とは全く違う場所にある事を。

まだ誰も知らなかった。


授業を終えた頃には。

窓の外を覆っていた雲も、

少しずつ薄くなり始めていた。

朝から落ち着かなかった風も弱まり。

雨の気配も遠のいている。

フィーナは窓の外を何度も確認した。

そして。

机の上の教本を閉じる。

「リアナ様」

期待を隠せない声だった。

リアナはその表情を見て、小さく笑う。

「お約束でしたね」

フィーナの顔がぱっと明るくなった。

「花壇へ行ってもよろしいのですか?」

「はい」

リアナも窓の外を見る。

「今なら雨も大丈夫そうです」

「では行きましょう!」

フィーナは勢いよく椅子から立ち上がった。


「フィーナ様」

セシルが声を掛ける。

だが、少女は既に扉へ向かっている。

扉が開くと同時に、一足先に廊下へ飛び出していった。

「先に行っています!」

元気な声だけが遠ざかっていく。

セシルは小さく息を吐いた。

「申し訳ありません」

「もう慣れました」

リアナは穏やかに答える。

セシルは少し驚き。

それから苦笑した。

「私はこちらを片付けてから向かいます」

「フィーナ様をお願いいたします」

「はい」

リアナは小さく頷く。

そして、少女の後を追うように部屋を出た。


王宮の長い回廊。

窓から差し込む淡い光。

先を進むフィーナの金色の髪が、

柱の向こうへ見え隠れしている。

リアナはその姿を見ながら。

ゆっくり歩いていた。


ここ最近、王都では天候の安定しない日が増えている。

突然風が強くなる。

晴れていた空が急に曇る。

短い雨が降り、しばらくすると何事も無かったように晴れる。

季節の変わり目。

そう考える事も出来た。

それだけではない。

王宮を行き交う神官達。

増えた書類。

閉ざされる会議室。

夜遅くまで消えない神殿区画の灯り。

何かが起きている。

リアナにもそれは分かっていた。

フィーナとの距離が少し開く。

セシルもまだ部屋の中。

近くに人影は無い。

リアナは歩調を僅かに緩めた。


そして。

意識の奥へ呼び掛ける。


『アイリス』


すぐには返事が無かった。

しばらくして、静かな声が響く。

『何』

いつも通り。

短い返答だった。

リアナは窓の外を見る。

薄い雲。

風に揺れる木々。

遠くを急ぎ足で進む神官達。

『最近の天候と』

『神殿の様子』

少し間を置く。

『関係がありますか』

アイリスは答えなかった。


その沈黙が。

何よりの答えに思えた。

リアナは僅かに目を伏せる。

『発芽者が現れたのですね』

今度は、少し長い沈黙があった。

やがて、アイリスが答える。

『ああ』

迷いの無い声だった。

リアナの表情が曇る。

予想していなかった訳ではない。

空気の変化。

地脈の僅かな揺らぎ。

人々の間に広がり始めた。

説明し難い落ち着かなさ。

それらは、過去にも感じた事があった。


『間違いないのですか』

『発芽者が現れた事は間違いない』

『本人に自覚は』

『無い』

即答だった。

リアナは指先を僅かに握る。

発芽者は、自分が何者になりつつあるのか知らない。

周囲から力を吸い上げている事も。

異変の中心にいる事も。

何一つ気付かない。


『発芽者は台風の目だ』

アイリスが静かに続ける。

『中心にいる本人は、自分の周囲で何が起きているのか分からない』

『だが、成長すればするほど、外側へ被害が広がっていく』

リアナは窓の外を見つめた。

『災害だけではありませんね』

『ああ』

『大地が揺れる』

『天候が乱れる』

『人の感情も不安定になる』

『怒り』

『恐怖』

『疑い』

『本来なら抑えられたはずのものが、周囲へ広がり始める』


リアナは神殿の様子を思い出す。

各国から届く問い合わせ。

王国への疑念。

帝国側から向けられた。

意図的に混乱を起こしているのではないかという疑い。

『諸外国の動きも、全てが発芽者の影響とは限らない』

アイリスはすぐに言った。

『人間は元々疑う、国同士なら尚更だ』

『だが』

少し間が空く。

『その疑いを強くする何かが、既に広がり始めている可能性はある』


リアナは静かに息を吐いた。

発芽者は。

まだ誰かを傷つけようとしている訳ではない。

悪意がある訳でもない。

それでも。

存在しているだけで。

周囲の世界が少しずつ歪んでいく。

『どこにいるのですか』

返事は無い。

『王国ではありませんね』

『違う』

短い答えだった。

リアナは少しだけ安堵する。

だが、発芽者の影響は国境で止まらない。

成長すれば、一つの国だけでは済まなくなる。


『帝国ですか』

再び沈黙。

アイリスは否定しなかった。

『今は、それ以上知る必要はない』

リアナは僅かに眉を寄せる。

『知る必要が無いのではなく、教えられないのですね』

返事は無い。

リアナには分かっていた。

アイリスが黙る時。

そこには必ず理由がある。

だが、理解出来る事と、何も感じない事は違う。

『今後どうするつもりですか、何もしない訳ではありませんよね』

『当然だ』

少し強い返答だった。


リアナは続ける。

『まだ成長していないのですか』

『発芽したばかりに近い』

『今はまだ、僅かな力を吸い始めた程度だ』

『だから』

『天候も、人の感情も、さく揺らいでいるだけで済んでいる』

『ですが』

リアナの声が少し重くなる。

『成長すれば』

アイリスは短く答えた。

『被害は広がる』

『災害』

『混乱』

『疑心』

『争い』

『最後には』

言葉が止まる。

その先を。


リアナは聞かなくても理解していた。

発芽者本人は何も知らないまま。

周囲だけが壊れていく。

人々は原因を知らず。

互いを疑い。

互いを傷つける。

『今なら』

リアナは静かに尋ねる。

『まだ止められるのではありませんか』

アイリスの返事は遅かった。

『止めるだけなら』

言葉が途切れる。

リアナは目を伏せる。

発芽者を完全に止める方法。

その意味を、二人は知っていた。

『まだ何もしていない人です』

『分かっている』

『何も知らないまま』

『分かっている』

アイリスの声は冷静だった。

だが、冷たい訳ではない。

同じ事を考えているからこそ。

余計な言葉を重ねないのだと。

リアナには分かっていた。


『だから』

アイリスは続ける。

『まだ見極める必要がある』

『発芽したというだけで、すぐに処分する訳にはいかない』

リアナは足を止めかけた。

ほんの僅かだった。

その言葉に、明確な違和感を覚えた。

『なぜですか』

返事は無い。

リアナは歩きながら続ける。

『これまでとは違います』

『過去の発芽者は、発見出来次第、対処していました』

その通りだった。

発芽者は成長するほど。

周囲への被害を広げる。

だからこそ。

これまでは発見後、可能な限り早く対処してきた。

それが、二人の間で共有されていた判断だった。


『今回だけ』

リアナは静かに問う。

『なぜ待つのですか』

アイリスは答えない。

その沈黙が、何かを隠している事を示していた。

『見極める必要があるのではなく』

リアナの表情が僅かに曇る。

『今は対処出来ない理由があるのですね』

意識の奥で。

アイリスの気配が僅かに揺れた。

否定は無かった。

やがて、静かな声が返ってくる。

『ああ』

リアナは目を伏せる。

『理由を教えてください』

『まだ全ては話せない』

『またそれですか』

珍しく。

リアナの声に不満が滲んだ。

アイリスは少しだけ黙った。

そして、いつもより慎重に言葉を選ぶ。

『今回の発芽者は、まだ途中にいる』

『途中?』

『その者を中心に、この先で起きる出来事がある』


リアナの眉が寄る。

『発芽者が必要なのですか』

『発芽者そのものが必要な訳ではない』

アイリスはすぐに否定した。

『その先で起きる事が必要になる』

『何が起きるのですか』

返事は無い。

回廊の先では。

フィーナが花壇へ続く扉の前で待っている。

まだこちらには気付いていない。

『災害ですか?』

アイリスは否定しなかった。

『帝国で起きるのですね』

それにも答えない。

沈黙だけで十分だった。

リアナは指先を握る。


『それを止めないのですか』

『止められない』

静かな返答だった。

『正確には、今止めてはいけない』

リアナの表情が変わる。

『なぜですか』

長い沈黙。

やがて、アイリスは答えた。

『一人』

『現れる人物がいる』

リアナは息を止める。

『誰ですか』

『今は名前を言えない、その人物は、今回の異変によって現れる』

少し間が空く。

『そして』

『必ず救出されなければならない』

リアナは何も言えなかった。

この先の出来事。

帝国で起こる異変。

現れる誰か。

その全てが。

自分の知らない場所で繋がっている。


『もし今』

アイリスは続ける。

『発芽者を処分すれば、その出来事が起こらない可能性がある』

『その人物も、現れなくなるかもしれない』

リアナは目を伏せた。

『だから、発芽者を生かしておくのですか』

その問いには、責める響きが混じっていた。

発芽者が成長すれば、多くの人が傷つく。

それを知りながら待つ。

簡単に受け入れられる話ではなかった。

『違う』

アイリスの声は強かった。

『生かしておきたい訳ではない』

『被害を望んでいる訳でもない』

『だが』

『今はまだ手を出せない』

僅かな間。

『必要な因果が繋がるまでは』

リアナは黙り込む。

理解は出来る。

だが、納得とは違った。


『その人は』

リアナが静かに尋ねる。

『それほど大切な人なのですか』

アイリスの返事は遅かった。

そして、返ってきた声は、いつもより僅かに柔らかかった。

『私には必要な人物だ』

短い答えだった。

だが、それ以上のものが込められていた。

『私にとっても』

『お前にとっても』

リアナは顔を上げる。

『私にも?』

アイリスは答えなかった。

その沈黙に、リアナは別の違和感を覚えた。


アイリスとは。

長い時間を共にしてきた。

目覚めた時も。

戦いの時も。

静かな日々の中でも、いつも意識の奥にいた。

互いの全てを語る訳ではない、アイリスが自分から過去を話す事も少なかった。

それでも、自分は彼女を理解しているつもりだった。

少なくとも。

そこまで大切な誰かがいるのなら。

いつか話してくれるものだと思っていた。

だが。

そんな人物の話は。

これまで一度も聞いた事がない。


『その人の事を』

リアナは静かに尋ねる。

『今まで話してくれた事はありませんでしたね』

アイリスの気配が僅かに揺れる。

『話す必要が無かった』

いつも通りの短い答えだった。

その言葉が。

今は少しだけ冷たく聞こえた。

『必要が無かったから、話さなかったのですか』

『そうだ』

迷いの無い返事。

リアナは目を伏せる。

理屈では分かる。

まだ起きていない出来事。

知られる事で変わる因果。

アイリスには、話せない理由があるのだろう。

それでも。

胸の奥に残るものがあった。

自分の知らない誰かを。

アイリスはずっと覚えていた。

その人物を救うためなら。

危険を承知で、発芽者への対処を遅らせようとしている。


『大切なのですね』

リアナが呟く。

アイリスはすぐには答えなかった。

その沈黙が、何よりも強い肯定に思えた。

リアナは胸の奥に、小さな痛みを覚えた。

寂しさ。

不安。

自分だけが知らされていなかった事への。

置き去りにされたような感覚。

『私よりも?』

言葉が浮かぶ。

だが、リアナは口にしなかった。

そんな問いを向ける自分が。

少しだけ幼く思えたからだ。


しばらく、二人の間に沈黙が流れる。

やがて、アイリスが唐突に言った。

『違う』

リアナが僅かに目を見開く。

『何がですか』

『今、お前が考えた事だ』

リアナは言葉に詰まる。

『考えていません』

『そうか』

それ以上アイリスは追及しなかった。

少し間を置いて続ける。

『その人物が必要なのは、お前を置いていくためではない』

リアナは足を止めかけた。

『むしろ逆だ』

アイリスの声は静かだった。

『お前を守るために必要になる』

『私を?』

『ああ』

それだけだった。

詳しい説明は無い。


誰なのかも。

なぜ必要なのかも。

何一つ明かされない。

それでも、先程まで胸にあった痛みが。

ほんの僅かに和らいだ。

『でしたら』

リアナは静かに言う。

『初めから、そう言ってください』

アイリスは黙った。

『言葉が足りません』

『知っている』

『直すつもりは』

『無い』

即答だった。


リアナは小さく息を吐く。

いつものアイリスだった。

少しだけ、安心してしまった自分に気付く。

その時。

回廊の先からフィーナの声が響く。

「リアナ様!」

少女が大きく手を振っていた。

「まだですか!」

リアナはその姿を見る。


そして、アイリスへ最後に問い掛ける。

『その時が来たら』

『全て話してください』

短い沈黙。

『約束する』

今度の返事には、迷いが無かった。

リアナはゆっくり息を吐く。

そして、フィーナの方へ歩き出した。

胸の奥の違和感は、まだ完全には消えていない。

自分の知らないアイリス。

そのアイリスが大切にしている人物。

そして。

その人物が。

自分を守るために必要になるという言葉。


「お待たせしました」

「遅いです!」

フィーナは頬を膨らませた。

すぐにリアナの手を取る。

「今日は新しい花が咲いたんです」

「そうなのですか?」

「はい!」

少女に引かれるように。

リアナは花壇へ向かった。


花壇へ着くと。

フィーナはリアナの手を離し、

一つの花へ駆け寄った。

「見てください!」

少女が指差した先。

淡い色の花が一輪、まだ頼りなく。

それでも確かに花弁を開いていた。

「今朝、咲いたんです」

フィーナは嬉しそうに笑う。

リアナは花の前へしゃがみ込んだ。

小さな花。

風に揺れながらも。

真っ直ぐに陽の光へ向いている。

「綺麗ですね」

「はい!」

フィーナも隣へしゃがむ。


「ずっと待っていたんです」

リアナはその言葉に、ほんの僅かに目を伏せた。

待たなければならないもの。

現れなければならない誰か。

アイリスが守ろうとしている人。

まだ分からない事ばかりだった。

「リアナ様?」

フィーナが顔を覗き込む。

リアナは静かに微笑んだ。

「何でもありません」

そして、もう一度花を見る。

今はまだ、穏やかな春の午後だった。

王都では祭りの準備が進み。

人々は新しい季節を喜んでいる


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