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第十三話 目付役

春の朝。

王都は穏やかな陽光に包まれていた。

花屋リリエの前には色とりどりの花々が並び、

朝露を受けた花弁が静かに輝いている。

いつもと変わらない朝。

変わった事があるとすれば、

今日からリアナが王宮へ通う事くらいだった。


「いや、やっぱり信じられない」

店先でサラが腕を組む。

朝から三度目だった。

リアナは苦笑する。

「何がですか?」

「全部」

即答だった。

「だってリアナだよ?」

「私ですね」

「花屋だよ?」

「花屋です」

「王宮だよ?」

三回目だった。

エマが花束を整えながら笑う。

「まだ言ってるの?」

「言うよ!」

サラは真剣だった。

「だって王女様のお目付役だよ!?」

「相談役かもしれません」

「どっちでも凄いから!」

リアナは少し笑う。

そんなやり取りも今日で最後ではない。

だが。

しばらく減るだろう。

王宮とリリエ。

決して遠くはない。

それでも毎日顔を合わせる訳にはいかなくなる。


サラもそれが分かっていた。

だから余計に落ち着かないのかもしれない。

「まぁ」

サラは視線を逸らす。

「フィーナ様は絶対喜ぶと思うけど」

リアナは小さく微笑んだ。

返事はしない。

だが。

その表情だけで十分だった。

「ほら」

エマが声を掛ける。

「迎えの時間でしょ」

リアナは頷いた。

花へ最後に視線を向ける。

見慣れた店。

見慣れた景色。

そして友人達。

「行ってきます」

「いってらっしゃい」

エマが微笑む。

サラも少しだけ照れたように手を振った。

「まぁ……頑張って」

「はい」

リアナは笑う。

そして王宮へ向かった。


王都中央区。

王城へ続く大通り。

白い城壁が春の日差しを受けて輝いている。

王国の中心。

多くの人々が憧れる場所。

だが。

リアナの足取りは不思議と軽かった。

緊張はしている。

それでも不安は無い。

王宮へ向かうのに。

会いに行く相手を思い浮かべるのが、

王女ではなくフィーナだったからかもしれない。

やがて。

巨大な正門が見えてくる。


王城。

その門の前には見覚えのある侍女が立っていた。

リアナの姿を見つけると、

どこか安心したように微笑む。

「お待ちしておりました」

「お久しぶりです」

リアナは丁寧に頭を下げた。

侍女も礼を返す。

そして思う。

やはり不思議な娘だと。

初めて会った時から変わらない。

花屋の娘。

そう聞いている。

だが。

その所作は王宮でも滅多に見ないほど自然だった。

「まずはゼヴラン様がお待ちです」

侍女が案内する。

長い廊下を進む。

窓から差し込む春の日差し。

磨き上げられた床。

静かな足音。

やがて。

一つの応接室の前で足が止まった。

扉が開かれる。

「リアナ・エルム様をお連れしました」

侍女の声が響く。


リアナは一歩前へ出た。

深紅の絨毯。

高い天井。

陽光を受けて輝く大きな窓。

部屋の奥にはゼヴランが立っていた。

神殿で別れて以来である。

老人は穏やかに微笑んだ。


「よく来てくださいましたな」

ゼヴランは静かに微笑んだ。

「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」

リアナは自然な動作で一礼する。

その姿を見ていた侍女が、

また小さく目を瞬かせた。

やはり違う、言葉では説明し難い。

だが違う。

貴族の娘なら分かる。

幼い頃から教育を受ける。

だが目の前の少女は花屋の娘のはずだった。


それなのに。

まるで昔から王宮へ出入りしていた者のように振る舞う。

無理をしている様子も無い。

緊張していない訳ではない。

だが緊張に飲まれていない。

それが不思議だった。


「お変わりありませんかな」

ゼヴランが尋ねる。

「はい」

リアナは頷く。

そして。

ふと老人の顔を見る。

少しだけ首を傾げた。

「ゼヴラン様こそ」

老人が目を瞬かせる。

「体調はいかがですか」

応接室が静かになる。

リアナは続けた。

「夜はちゃんと眠れていますか?」

穏やかな声だった。

責めるでもない。

探るでもない。

ただ心配している。

それだけだった。


ゼヴランは数秒言葉を失う。

神殿で会った時も同じだった。

あの時も。

この少女は自分の疲れを見抜いた。

「耳が痛いですな」

老人は苦笑した。

リアナは小さく頷く。

「少しお疲れのように見えましたので」

「最近は少々忙しくてな」

「そうでしょうね」

当然のような返答だった。

まるで最初から知っていたような。

ゼヴランは思わず笑う。

「相変わらずですな」

「何がでしょう」

「人を見る力です」

リアナは困ったように微笑んだ。

その笑みもまた自然だった。

老人は改めて思う。

やはり不思議な娘だと。


花屋の娘。

それは事実だろう。

だが、それだけでは説明がつかない。

長い年月を生きた者のような落ち着き。

洗練された所作。

人を安心させる言葉。

その全てが。

どこか別の人生を歩んできた者のように見える。

もちろん、そんな事はあり得ない。

あり得ないはずだった。

「陛下がお待ちです」

侍女が静かに告げた。

ゼヴランは頷く。

「では参りましょう」

リアナも静かに立ち上がる。


王城中央棟。

謁見の間ほど広くはない。

だが王族との面会に使われる応接室は、

一般貴族が生涯入る事も無い場所だった。


重厚な扉が開かれる。

侍従が声を上げた。

「リアナ・エルム殿をお連れしました」

部屋の空気が静かに変わる。

正面。

中央の席にはレオニス・アウグスト四世

王国国王。

その隣には王妃エレノア。

さらに左右には、

王太子レオンハルトと王太子妃クラリスが座っていた。

王国の中心に立つ者達。

普通の市民なら膝が震えても不思議ではない。


だが。

リアナは静かに歩みを進める。

慌てず。

急がず。

一歩ずつ。

そして。

定められた位置で足を止めた。

美しい礼。

無駄の無い所作。

静かな声。

「リアナ・エルムと申します。

本日はお招きいただきありがとうございます」

部屋が静かになる。

最初に反応したのは王妃だった。


エレノアの目が僅かに細くなる。

王太子妃クラリスも同じだった。

レオンハルトもまた、

内心の驚きを隠している。

誰も口にはしない。

だが全員が同じ事を思った。

――本当に花屋の娘なのか。

そして。

国王レオニスだけが、

静かに微笑んでいた。

まるで面白いものを見つけたように。


「顔を上げよ」

穏やかな声が響く。

「そう緊張せずとも良い」

リアナは顔を上げる。

「ありがとうございます」

自然だった。

あまりにも自然だった。

その様子を見て、

レオニスはますます興味深そうに目を細めるのだった。


レオニスはしばらくリアナを見つめていた。

王として。

ではない。

一人の人間として。

目の前の少女を見ていた。

花屋の娘。

そう聞いている。

実際そうなのだろう。

だが。

どこか引っ掛かる。

説明出来ない違和感があった。


「まずは礼を言おう」

国王が口を開く。

「ゼヴランの依頼を受けてくれた事に感謝する」

リアナは静かに頭を下げた。

「私に務まるかは分かりません」

「ですが、出来る限り努めさせていただきます」

謙遜だった。

だが。

卑屈さは無い。

自分を大きく見せようともしていない。

ただ事実を述べている。

そんな言葉だった。

レオンハルトが僅かに眉を動かす。

王都で暮らす一般市民が、

国王を前にここまで自然でいられるものだろうか。

不敬ではない。

礼も尽くしている。

だが。

妙に落ち着いている。

それが気になった。

「務まるかどうかはこれからだ」


レオニスは穏やかに言う。

「まずは、我々が何を望んでいるのかを話しておこう」

部屋が静かになる。

リアナも真剣な表情で耳を傾けた。

「目付役と言っても、監視をして欲しい訳ではない」

国王は苦笑する。

「フィーナは好奇心旺盛でな」

王妃エレノアが微笑む。

レオンハルトは少しだけ遠い目をした。

どうやら心当たりがあるらしい。

「様々な事に興味を持つ、学ぶ事も好きだ、それ自体は悪い事ではない」

レオニスは続けた。

「だが王女という立場上、どうしても見られる世界は限られる」

リアナは静かに聞いていた。


「王宮には王宮の常識がある」

「貴族には貴族の常識がある」

「だが、それだけでは見えないものもある」

そこでゼヴランが言葉を引き継いだ。

「王都で暮らす人々」

「市場で働く者達」

「商人」

「職人」

「兵士」

「そういった人々の声ですな」

リアナは少し考える。

そして小さく頷いた。

何となく理解出来た。

「フィーナ様に、それを教えるのですか」

「教える必要はありません」

ゼヴランは穏やかに笑った。

「見せていただければ十分です」

部屋が静かになる。

レオニスも頷いた。

「そしてもう一つ」

国王の声が少しだけ柔らかくなる。

「フィーナには年の近い友人が少ない」

その言葉に。

王妃も。

王太子夫妻も。

否定しなかった。

「王女である前に」

「一人の少女でもある」

「我々には出来ぬ事もあるだろう」

リアナはしばらく考えた。


やがて。

小さく微笑む。

「私に出来るかは分かりません」

「ですが」

少しだけ表情が柔らかくなる。

春灯祭の話をしていた少女を思い出した。

「フィーナ様のお力になれるよう努めます」

その返答に。

ゼヴランは満足そうに頷いた。

そしてレオニスもまた、

この娘を選んだのは間違いではなかったかもしれないと、

静かに思うのだった。


リアナの表情が少しだけ柔らかくなった。

ほんの僅かだった。

だが。

王族達は見逃さなかった。

先程までの礼儀正しい笑みではない。

もっと自然な。

年相応の少女らしい表情だった。

クラリスは思わず微笑む。

この娘は王宮へ来たかった訳ではない。

フィーナに会いに来たのだ。

そんな気がした。

「ところで」

レオニスが話題を変える。

「一つ聞いても良いかな」

「はい」

リアナは頷く。

「その作法だ」

部屋が静かになる。

リアナは少し首を傾げた。

「作法でしょうか」

「うむ」

国王は頷く。

「どこで学んだ」

王妃エレノアも興味深そうに見ている。

レオンハルトも同じだった。

貴族なら分かる。

礼儀作法にも癖がある。

家ごとに違う。

地域によっても違う。

だが。

リアナの所作は違った。

洗練されている。

それでいて堅苦しくない。

まるで長い年月をかけて磨かれたような自然さだった。


リアナは少し考えた。

どこで学んだのか。

そう問われれば答えはある。

だが、それを説明するのは難しかった。

ふと。

一人の女性の姿が脳裏をよぎる。

柔らかな笑み。

少しだけ厳しい声。

背筋を伸ばしなさい。

歩く時は慌てない。

相手の目を見なさい。

そんな言葉達。

不思議な事に。

顔は思い出せる。

声も思い出せる。

だが。

いつの事だったのかは分からない。

遠い昔の夢のようだった。


リアナは小さく微笑む。

「昔」

静かな声だった。

「お世話になった方がおりました」

ゼヴランが目を細める。

神殿でも聞いた話だった。

「先生ですかな」

リアナは少し考えた。

そして首を横に振る。

「先生でもありますが……」

言葉が途切れる。

懐かしい面影が胸を過ぎる。

「私にとっては」

少しだけ柔らかな表情になる。

「姉のような方でした」

部屋が静かになる。

エレノアが穏やかに微笑む。

クラリスもどこか納得したようだった。

厳しい教育を受けた者の話ではない。

大切に育てられた者の話だったからだ。


「良い方だったのだな」

レオニスが言う。

リアナは迷わず頷いた。

「はい」

その返事だけで十分だった。

レオニスはそれ以上聞かなかった。

誰にでも大切な思い出はある。

王であろうと。

花屋であろうと。

それは変わらない。


その時だった。

扉の向こうから、

何かがぶつかる音が聞こえた。

ごとっ。

部屋が静まり返る。

レオンハルトが額へ手を当てる。

クラリスが小さく目を閉じた。

エレノアは口元を隠している。

笑いを堪えているらしい。

ゼヴランは咳払いを一つ。

レオニスだけが深いため息を吐いた。

「……待ちきれなかったようだな」

リアナは首を傾げる。

誰の事だろう。


そう思った次の瞬間。

「もう入ってよいぞ」

国王の声が響く。

数秒の沈黙。

そして。

勢いよく扉が開いた。

「リアナ様!」

聞き覚えのある声だった。

金色の髪を揺らしながら、

フィーナ・アウグストが駆け込んでくる。

その顔は喜びで輝いていた。

だが、数歩進んだところで。

静かな声が響く。

「フィーナ」

クラリスだった。

決して大きな声ではない。

それでも、フィーナの足がぴたりと止まる。

恐る恐る振り返る。

母は微笑んでいた。

怒っているようには見えない。

娘には分かる。

今のは注意だった。

「王女としての振る舞いを」

穏やかな声だった。

責める口調ではない。

だが、言葉には重みがあった。


フィーナは小さく肩を落とす。

「……申し訳ありません」

嬉しさのあまり忘れていたらしい。

慌てて姿勢を正す。

呼吸を整える。

ドレスの裾を軽く摘まみ。

一歩下がる。

そして改めてリアナへ向き直った。

そこにいたのは先程までの少女ではない。

王女フィーナ・アウグストだった。

「リアナ様」

美しい礼。

幼いながらも非の打ち所のない所作だった。


「本日はお越しいただきありがとうございます」

王族として教育を受けた者の振る舞い。

先程までとは別人のようだった。

リアナは少し驚いた。

だが、その姿を見て自然と微笑む。

「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」

フィーナの表情が僅かに緩む。

王女として振る舞っている。

だが、目だけは隠せなかった。

再会が嬉しくて仕方がない。

そんな気持ちが溢れていた。

それを見ていたエレノアが小さく笑う。

レオニスも微笑む。

レオンハルトは安堵したように息を吐いた。

そしてゼヴランだけが思う。

――やはり面白い。

王女としてのフィーナ。

少女としてのフィーナ。

その両方を自然に受け止めている。

リアナ・エルムという娘は、

やはり不思議な存在だった。


リアナは少しだけ考えた。

そして。

「春灯祭のお話を覚えています」

フィーナの目が大きくなる。

「え?」

思わず王女の顔が消えた。

「リリエにも来られたいと仰っていられましたよね」

「は、はい!」

即答だった。

レオンハルトが目を閉じる。

クラリスが苦笑する。

フィーナ本人は気付いていない。

ほんの数秒で王女が消えている。


「あと」

リアナは続けた。

「花祭りの飾りも見てみたいと」

「そうなんです!」

完全に戻った。

目を輝かせながら頷く。

そして。

数秒後に固まる。

周囲の視線に気付いたからだった。

「……」

「……」

沈黙。

エレノアが吹き出した。

レオニスも笑う。

ゼヴランまで肩を震わせている。

フィーナは顔を真っ赤にした。

「お、お祖父様!」

「いや」

レオニスは笑いながら首を振る。

「それで良い」

その言葉に。

室内の空気が少しだけ和らぐ。

王女。

王族。

立場はある。

だが。

ここにいるのは家族だった。

そして。

リアナはようやく理解する。

フィーナ・アウグストという少女が、

この家族にどれほど愛されているのかを。

春の日差しが窓から差し込む。

王宮での新しい日常が、

静かに始まろうとしていた。


リアナが王宮通いを初めて数日経った頃

花屋リリエはいつも通りの午後を迎えていた。

春の陽射しが窓から差し込み、

店内を柔らかく照らしている。

色とりどりの花。

微かに漂う香り。

行き交う人々の声。

何も変わらない。

少なくとも外から見れば。


「静かだね」

カウンターへ肘をついたサラが呟いた。

エマは花束を整えながら苦笑する。

「当たり前でしょ」

「リアナがいないんだから」

サラは頬を膨らませた。

「そうだけどさ」

たった数日。

それだけなのに、店の雰囲気が少し違う気がする。

いつもなら、店の奥でリアナが花を整えている。

客が来れば笑顔で迎える。

サラが騒げば苦笑する。

そんな当たり前が無かった。


「王宮かぁ……」

サラが窓の外を見る。

エマは小さく笑った。

「まだ言ってるの?」

「言うよ」

即答だった。

「だってリアナだよ?」

「その台詞何回目?」

「分かんない」

サラは腕を組む。

「でも絶対変わってないと思う」

「そうでしょうね」

エマは迷わず頷いた。

国王がいても。

王妃がいても。

王女がいても。

リアナはきっと変わらない。

そういう人だった。


その時、店の扉が開く。

小さな鈴の音が響いた。

「いらっしゃいませ」

エマが顔を上げる。

入って来たのは若い男性だった。

短く整えられた髪。

鍛えられた身体。

腰には剣。

王都の兵士である事が一目で分かる。

サラが目を瞬かせた。

「あ」

見覚えがあった。

ユリウスだった。

王城騎乗隊所属の若い兵士。

そしてリリエの常連客でもある。


「こんにちは」

ユリウスは軽く頭を下げた。

今日は非番らしい。

軍服ではなく私服だった。

「珍しいね」

サラが言う。

「昼間に来るなんて」

「今日は休みなんだ」

ユリウスは苦笑した。

そして何気ない様子で店内を見回す。

一人足りない。

その事に気付く。

「リアナさんは?」

その瞬間、サラとエマが顔を見合わせた。

そして、同時に笑った。

「やっぱり聞くんだ」

「え?」

ユリウスが首を傾げる。

サラは面白そうに身を乗り出した。

「何でだと思う?」

「何でって……」

ユリウスは少し考える。

そして頭を掻いた。

「実は少し前から気になってたんだ」

エマが顔を上げる。

「気になってた?」

「うん」

ユリウスは頷いた。


王城騎乗隊の任務には、王宮周辺の警備も含まれる。

数日前。

警備中に見覚えのある後ろ姿を見た。

王宮へ入っていく女性。

栗色の髪。

花の髪留め。

そして歩き方。

リアナによく似ていた。

だが。

その時は確信が持てなかった。

花屋リリエのリアナが、

王宮へ出入りする理由など思い付かなかったからだ。

もちろん。

以前の護衛任務の事は覚えている。

王女がリリエという花屋を探していた事。

サラと出会った事。

そして偶然リアナ本人と出会った事。

だから無関係ではないのかもしれない。

そう思う理由はあった。

だが。

王宮から正式な依頼を受けているなど、ユリウスが知るはずもない。


「見間違いかもしれないと思ってた」

ユリウスは言う。

「でも何度か見かけてな」

サラはにやりと笑った。

「残念」

「残念?」

「見間違いじゃありません」

嫌な予感がした。

ユリウスはそう思った。

こういう時のサラは大抵楽しんでいる。

そして。

その予感は外れなかった。

「リアナね」

サラは満面の笑みで言った。


「王女様の相談役になったの」

数秒。

沈黙。

ユリウスは瞬きをする。

「……何て?」

「だから」

サラは繰り返した。

「王女様の相談役」

ユリウスは黙り込んだ。

冗談かと思った。

だが、エマが否定しない。

その時点で本当だと分かる。

「本当なのか……」

思わず呟く。

エマが苦笑した。

「私も最初はそう思ったわ」

ユリウスは近くの椅子へ腰を下ろした。

花屋のリアナ。

王宮。

王女。

相談役。

頭の中で結び付かない。

だが、数日前から見かけていた後ろ姿。

そして以前の護衛任務で見た光景。

それらが少しずつ繋がっていく。

「なるほどな……」

ユリウスは小さく息を吐いた。

本当に驚いている。

しかし、不思議と納得もしていた。

リアナはどこにいても、いつも通りなのだろう。

王宮であっても。

きっと。


数日前――

リアナが初めて王宮へ招かれた日に戻る。

「本日はお越しいただきありがとうございます」

フィーナ・アウグストは美しい礼を見せた。

幼いながらも非の打ち所のない所作だった。

王族として受けてきた教育の高さが窺える。

先程まで勢いよく部屋へ飛び込んできた少女と同一人物とは思えないほどだった。

「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」

リアナも自然に一礼する。

二人の様子を見ながら、

レオニスは静かに微笑んでいた。

フィーナの表情は隠し切れていない。

王女として振る舞っている。

だが、嬉しくて仕方がない。

そんな気持ちが伝わってくる。

レオンハルトは小さく息を吐いた。


そして。

控えていた侍女へ視線を向ける。

侍女は僅かに頷いた。

長年仕えてきた者同士。

言葉は必要無かった。

侍女は一歩前へ出る。

「フィーナ様」

王女が振り返る。

「よろしければ、リアナ様へ王宮をご案内されてはいかがでしょうか」

フィーナの顔がぱっと明るくなる。

「よろしいのですか?」

視線はレオニスへ向いていた。

国王は穏やかに笑う。

「構わぬ」

その返事を聞いた瞬間、

フィーナは思わず一歩前へ出た。


だが。

「フィーナ」

クラリスの声が響く。

王女はぴたりと止まった。

慌てて姿勢を正す。

「……申し訳ありません」

小さな声だった。

室内に微かな笑いが広がる。

リアナも思わず微笑んでいた。

「では参りましょう、リアナ様」

フィーナは改めて一礼する。

王女としての振る舞い。

その中に隠し切れない期待が滲んでいた。

「はい」

リアナも静かに頷く。

そして立ち上がった。

王族達へ向き直る。

国王レオニス。

王妃エレノア。

王太子レオンハルト。

王太子妃クラリス。

一人一人へ視線を向ける。

礼を欠かさぬよう。

だが過剰にならぬよう。

自然な所作で一礼した。

「本日はお時間をいただき、ありがとうございました」

落ち着いた声だった。

その姿を見て、

レオニスは思わず目を細める。

最後まで崩れない。

それが不思議だった。

リアナはゆっくりと身を起こす。

そしてフィーナと共に部屋を後にした。

扉が静かに閉じられる。


部屋にはしばし沈黙が流れた。

やがて。

レオニスが静かに口を開く。

「どう思う」

短い言葉だった。

だが。

誰へ向けられたものかは分かる。

レオンハルトは少し考えた。

そして率直に答える。

「正直に申し上げますと」

王太子は閉じられた扉へ視線を向けた。

「花屋の娘には見えません」

エレノアが小さく笑う。

クラリスも否定しなかった。

皆同じ事を感じていた。

「ですが」

レオンハルトは続ける。

「貴族にも見えません」

その言葉に。

ゼヴランが興味深そうに目を細めた。

「ほう」

レオニスは椅子へ背を預ける。

「随分と歯切れが悪いな」

「説明が難しいのです」

レオンハルトは苦笑した。


「礼儀作法は洗練されています」

「しかし王宮で育った者とも違う」

「貴族社会で育った者とも違う」

「まるで別の場所で身に付けたように見えます」

レオンハルトはそこで言葉を切った。


そして控えていた侍従へ視線を向ける。

「呼んでくれ」

侍従は一礼し部屋を後にする。

数分後。

扉が開いた。

入って来たのは五十代ほどの男性だった。

質素な服装。

だが立ち姿に隙は無い。

王家直属の調査役。

王都における情報収集や身辺調査を担当する人物だった。

男は恭しく一礼する。

「お呼びでしょうか」

「リアナ・エルムについてだ」

レオンハルトが言う。

男は静かに頷いた。


「既に調査は終えております」

レオニスが顎を引く。

「報告せよ」

「承知しました」

男は手元の書類を開いた。

「まず現在の生活状況ですが問題はありません」

「王都南区在住、花屋リリエ勤務」

「周辺住民からの評判も良好」

「交友関係にも不審な点は確認されておりません」

そこまでは予想通りだった。


男は続ける。

「王都での生活も安定しております」

「借財、犯罪歴、問題行動も無し」

レオニスは頷く。

「つまり問題は無い」

「現在については」

男はそう答えた。

そして。

少しだけ間を置く。


「ただし」

部屋の空気が変わった。

「出生に関しては不明な点が多数あります」

クラリスが顔を上げる。

男は淡々と続けた。

「両親の記録が確認出来ません」

「兄弟姉妹も不明」

「親族との繋がりも確認出来ず」

レオニスが眉を上げる。

それは珍しい。

男はさらに続けた。

「花屋リリエへ身を寄せる以前の足取りも不鮮明です」

「現在から十年ほど前までは追跡可能でした」

「しかしそれ以前になると急激に情報が途絶えます」

部屋が静まり返る。

「偽装か」

レオニスが尋ねた。

男は首を横に振る。

「その可能性は低いかと、偽装された痕跡がありません」

「記録を消した形跡もありません」

男は少し言葉を選ぶ。

そして率直に言った。


「最初から存在していないように見えます」

レオンハルトは腕を組む。

それが引っ掛かっていた。

現在のリアナに問題は無い。

むしろ理想的な人物と言える。

だが、そこへ至るまでの過程だけが不自然だった。

「戦災孤児という可能性は?」

エレノアが尋ねる。

男は頷いた。

「考慮しております」

「ですが年齢的に大規模戦乱の時期とも一致しません」

「疫病や移民の記録も確認しましたが該当無し」

再び沈黙が落ちる。

その時だった。

「なるほど」

ゼヴランが静かに呟く。

全員の視線が集まる。

神官長は穏やかに微笑んでいた。

「興味深いですな」

「何がだ?」

レオニスが尋ねる。


ゼヴランは窓の外へ目を向ける。

春風が木々を揺らしていた。

「現在は明瞭」

「過去だけが曖昧」

老人は微笑む。

「人というものは時に不思議な縁を運んで来るものです」

レオンハルトは苦笑した。

「またその話ですか」

「神官ですので」

ゼヴランは悪びれもせず答える。

だが。

その目だけは少し違っていた。

まるで何かを考えているように。

あるいは。

何かに気付き始めているように。

しかし。

それ以上は誰も追及しなかった。


王宮の廊下には柔らかな陽光が差し込んでいた。

大きな窓の外には手入れの行き届いた庭園が見える。

王都を一望出来る高い塔。

歴代国王の肖像画。

王国の歴史を刻んだ装飾。

どれも王宮に相応しいものだった。

そして。

「こちらが大広間です!」

フィーナの声が廊下へ響いた。

「祝典や舞踏会の際に使用されます!」

「とても広いですね」

リアナは微笑みながら答える。

「ですよね!」

フィーナは嬉しそうだった。

まるで自分が褒められたかのようだった。

二人の少し後ろを侍女が歩いている。

王女付き侍女。

フィーナが幼い頃から仕えている女性だった。

王女は普段より随分と饒舌だった。

それも無理はない。

気になっていた相手が来てくれたのだ。


「こちらは図書館です!」

「王国中の本が集まっているのですよ!」

「それは凄いですね」

「凄いのです!」

フィーナは胸を張った。


だが。

次の瞬間。

侍女が静かに咳払いをする。

「フィーナ様」

「はっ」

王女は慌てて背筋を伸ばした。

リアナは思わず口元を緩める。

どうやら先程から何度か同じ事が起きているらしい。

王女として振る舞おうとしている。

だが、嬉しさが勝ってしまう。

その繰り返しだった。

「申し訳ありません」

フィーナは小さく咳払いをする。

「少々興奮してしまいました」

「お気になさらず」

リアナは穏やかに答えた。

「案内していただけて嬉しいですよ」

その言葉に、フィーナの表情がぱっと明るくなる。

侍女は小さくため息を吐いた。

もちろん本気で困っている訳ではない。

むしろ。

こんなに楽しそうなフィーナを見るのは久しぶりだった。


「では次はこちらです!」

結局数秒しか持たなかった。

フィーナは再び歩き出す。

王女らしい優雅な歩き方。

なのだが。

どこか足取りが軽い。

リアナはそんな後ろ姿を見ながら微笑んでいた。

ふと。

窓の外へ目を向ける。

春の陽射し。

青い空。

遠くに見える王都の街並み。

平和な光景だった。

だからだろうか。

リアナは少しだけ目を細める。

懐かしい。

そんな感覚が胸を過った。

だが、その理由までは思い出さない。

思い出せないのではない。

思い出す必要が無かった。

「リアナ様?」

フィーナの声が聞こえる。

気付けば少し立ち止まっていたらしい。


「申し訳ありません」

リアナは小さく笑った。

「景色に見とれてしまいました」

「でしょう!」

フィーナは嬉しそうに振り返る。

「私も好きなのです!」

そして再び歩き始める。

その様子を見ながら。

侍女は静かに思った。

――良い方だ。

王女に媚びない。

だが距離も置かない。

自然に接している。

だからこそ。

フィーナも自然体でいられるのだろう。

そんな事を考えながら。

三人は王宮の廊下を歩いていった。


その後も。

フィーナの案内は続いた。

王家専用庭園。

来賓用の応接室。

王都を一望出来る展望回廊。

フィーナは次々と説明していく。

その度にリアナは頷きながら話を聞いていた。

「こちらの庭園は季節ごとに花が変わるのですよ!」

「綺麗ですね」

「でしょう!」

フィーナは嬉しそうに胸を張る。

侍女はもう何も言わなかった。

注意しても意味が無いと悟ったらしい。


王女の足取りは終始軽かった。

そして。

気付けば王宮の奥へ辿り着いていた。

「そして――」

フィーナが立ち止まる。

大きな扉の前だった。

王女専用区画。

侍女が僅かに眉を上げる。

「フィーナ様?」

フィーナは扉を見た。

そして。

侍女を見た。

再び扉を見る。

「こちらが……」

言葉が止まる。

リアナが首を傾げた。

「フィーナ様?」

「その……」

歯切れが悪い。

先程までの勢いが嘘のようだった。

フィーナはちらりと侍女を見る。

助けを求めるような視線だった。

侍女は無表情を維持していた。


だが、目だけは少し呆れている。

「フィーナ様」

静かな声だった。

「本日のお部屋の状況を思い出されましたか?」

フィーナが固まった。

リアナは瞬きをする。

何となく事情を察した。

「こちらが私の部屋です」

フィーナは言った。

だが、声が小さい。

「なるほど」

リアナは微笑む。

「素敵なお部屋なのですね」

「いえ」

フィーナは即答した。

「今は違います」

侍女が小さくため息を吐いた。

「本日は侍女達と衣装合わせがございましたので」

助け舟だった。

「現在、お部屋は少々……」

言葉を選ぶ。


「賑やかな状態となっております」

フィーナは顔を覆った。

「服が」

小さな声だった。

「いっぱいなのです」

リアナは思わず笑う。

フィーナはさらに顔を赤くする。

「笑わないでください」

「申し訳ありません」

そう言いながらも。

リアナの口元には笑みが残っていた。

「ですが安心しました」

「安心?」

フィーナが顔を上げる。

「フィーナ様も年頃の女性なのですね」

数秒。

沈黙。

侍女が顔を背けた。

笑いを堪えている。


フィーナは真っ赤になる。

「そ、それはそうです!」

王女らしからぬ抗議だった。

「私だって服くらい選びます!」

「はい」

「髪型も悩みます!」

「はい」

「アクセサリーもです!」

「はい」

リアナは頷く。

その度にフィーナの頬が膨れていく。

そして。

とうとう侍女が吹き出した。

フィーナが振り返る。

「笑いましたね!?」

「失礼いたしました」

全く反省していない声だった。

王女はさらに頬を膨らませる。

リアナはそんな二人を見ながら微笑んでいた。

王女。

侍女。

そして王宮。

遠い世界だと思っていた。

だが。

こうして見ると案外変わらないのかもしれない。

そんな事を思った。


「では次はこちらです」

フィーナが再び歩き出す。

先程までの恥ずかしさはどこへ行ったのか。

今度は妙に自信ありげだった。

侍女も何も言わない。

どうやら問題の無い場所らしい。

廊下を進む。

王女区画から少し離れた場所だった。

来客用とも違う。

だが一般の使用人区画でもない。

やがて、フィーナは一つの扉の前で立ち止まった。

「こちらです」

そう言って扉を開く。

リアナは室内を見た。

そして、少しだけ固まった。

広い。

とにかく広い。

寝室。

応接スペース。

書棚。

暖炉。

窓からは庭園まで見える。

花屋リリエの居住区画が丸ごと入りそうだった。

「……立派なお部屋ですね」

率直な感想だった。

フィーナは満足そうに頷く。

「はい」

そして。

当然のように言った。


「ここがリアナ様のお部屋です」

数秒。

沈黙。

リアナは瞬きをした。

「私の?」

「はい」

フィーナは頷く。

「リアナ様のお部屋です」

もう一度言った。

どうやら聞き間違いではないらしい。

リアナは侍女を見る。

侍女も当然のように頷いている。

「……私の?」

三度目だった。

今度は侍女が答える。

「はい」

「王家よりご用意させていただきました」

リアナは部屋を見渡した。


そして、もう一度侍女を見る。

「何か問題でもございましたか?」

不思議そうに尋ねられる。

問題と言うほどではない。

だが。

認識が違った。

かなり違った。

「私は」

リアナは慎重に言葉を選ぶ。


「通うものだと思っていたのですが」

今度はフィーナが固まった。

侍女も固まった。

しばし沈黙。

やがて、二人は顔を見合わせる。

「通う?」

フィーナが言う。

「毎日ですか?」

「はい」

リアナは頷く。

「花屋もありますので」

今度はフィーナが固まる番だった。

その発想が無かった。

完全に。

一度も。

考えた事が無かった。

王宮へ来る。

部屋がある。

住む。

それ以外の選択肢が存在していなかった。


「帰るのですか?」

フィーナは小さな声で尋ねた。

「はい」

リアナは頷く。

「花屋もありますので」

数秒。

沈黙。

フィーナは瞬きをした。

一度。

二度。

三度。

「……毎日ですか?」

「その予定ですが」

リアナは首を傾げる。

フィーナはゆっくりと侍女を見る。

助けを求めるような視線だった。

だが。

侍女も少し困った顔をしていた。

どうやら本当に知らなかったらしい。

「何か問題がございましたか?」

リアナが尋ねる。

問題ではない、決して問題ではないのだ。

ただ。

フィーナが想像していたものと違った。

かなり違った。

同じ王宮で過ごし。

食事をして。

時間があればお話をして。

夜になっても色々な話が出来る。

そんな未来を勝手に思い描いていた。

だからこそ。

少しだけ寂しかった。

「フィーナ様は」

侍女が穏やかに口を開く。

「リアナ様ともっと長い時間をご一緒出来ると思っておられたのです」

「セシル!」

フィーナが慌てる。

どうやら、侍女の名前はセシルと言うらしい。

だが、セシルは微笑んでいた。

「ここ数日、とても楽しみにされておりましたので」

フィーナは顔を赤くする。

否定出来ない。

実際その通りだった。

リアナはそんな様子を見て、

少しだけ困ったように笑った。

そして。

フィーナと目線を合わせるように少し身を屈める。

「毎日泊まるのは難しいかもしれません」

フィーナの肩が少し下がる。

リアナは続けた。

「ですが」

フィーナが顔を上げる。

「たまには泊まるのも良いかもしれませんね」

数秒。

沈黙。

フィーナは瞬きをした。

言葉の意味を理解する。

そして、ぱっと顔が明るくなった。

「本当ですか!?」

王女らしさはどこかへ消えていた。

「ええ」

リアナは微笑む。

「機会がありましたら」

「約束ですよ!」

即答だった。

「約束です!」

「ふふ」

リアナは小さく笑う。

「善処いたします」

「善処ではありません!」

フィーナが抗議する。

「約束です!」

気付けば一歩前へ出ていた。

リアナは思わず苦笑する。

その様子を見ていたセシルは、

小さく肩を震わせた。

笑いを堪えているらしい。

「セシル」

フィーナが振り返る。

「今笑いましたね?」

「いいえ」

即答だった。

「笑っておりません」

全く説得力が無かった。

フィーナは頬を膨らませる。

リアナはそんな二人を見ながら微笑んだ。

王女。

侍女。

王宮。

もっと堅苦しい場所だと思っていた。

だが、案外そうでもないらしい。

「では!」

フィーナは気を取り直したように言う。

「次は私のお気に入りの場所をご案内します!」

先程までの落ち込みはどこへ行ったのか。

すっかり元気になっていた。

セシルは小さく息を吐く。

本当に分かりやすい。

だが。

それで良いのかもしれない。

そう思いながら、

三人は再び王宮の廊下を歩き始めた。


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