表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/25

第十二話 必要な知識

「本日の予定だが」

アルトは机の上の資料を開いた。

五人の視線が自然と集まる。

昨日の整理作業。

その意味について考え続けていた者も多い。

今日こそ何か分かるのではないか。

そんな期待があった。


「午前は地勢学」

アルトが言う。

「午後は帝国史」

会議室は静まり返った。

数秒。

誰も反応できない。

アイラは思わず瞬きをする。

地勢学。

帝国史。

士官学校で学ぶ内容だ。


だが。

第三庁舎で行われる評価としては予想外だった。

レナが口を開く。

「確認ですが」

「何だ」

「本日の訓練内容でしょうか」

「そうだ」

即答だった。

レナは黙る。

どうやら冗談ではないらしい。

ミリアが小さく呟く。

「研究施設らしいですね」

「意味は分かりませんが」

カティアが続ける。

全員同じ気持ちだった。

アルトは気にした様子も無い。

机の上へ一枚の地図を広げる。

大陸全土が描かれた地図だった。


帝国。

王国。

神聖国。

海洋都市国家群。

そして。

帝国中央部を占める巨大な盆地。

「帝国最大の資源は何だ」

唐突な質問だった。

レナが答える。

「鉄鉱石です」

「違う」

即座に否定される。

カティアが続いた。

「地熱エネルギーでしょうか」

「その通りだ」

アルトは頷く。


そして。

地図の中央よりやや南西。

巨大な円形地形を指差した。

「カルドラ盆地」

会議室が静かになる。

帝国人なら誰もが知る名前だった。

直径百数十キロにも及ぶ巨大カルデラ。

帝都を含む帝国文明発祥の地。

そして。

帝国工業を支える心臓部。

「諸君はこの地形を知っている」

アルトは続ける。

「だが理解している者は少ない」

その視線が五人を見渡す。

「ベルク少尉」

突然名前を呼ばれた。

アイラは姿勢を正す。

「はい」

「カルドラ山を見た事は」

「あります」

即答だった。

「第三山岳国境警備隊に所属していました」

アルトは頷く。

他の四人がアイラを見る。

初めて聞く話だった。

「どんな場所だ」

少しだけ考える。

教科書に載る説明なら簡単だ。

だが。

アルトが求めているのはそれではない気がした。

「冬は危険です」

アイラは答えた。

「吹雪が来ると道が消えます」

「地図は役に立ちません」

「地元の案内人でも迷う事があります」

レナが少し驚いた顔をする。

カティアも興味深そうだった。

アイラは続ける。

「ですが」

「同じ場所で雪が溶けている事もあります」

「地熱です」

「真冬でも湯気が出る場所があります」

今度はカティアが反応した。

「自然地熱地帯ですか」

「はい」

アイラは頷く。

「兵達はよく利用していました」

アルトは黙って聞いている。

やがて。

静かに言った。

「それが帝国だ」

会議室が静まり返る。

「我々はカルドラに生かされている」

アルトの指が地図をなぞる。


工業地帯。

農地。

帝都。

交通網。

全てがカルデラ内部へ集まっている。

「そして」

その指がカルドラ山で止まる。

「同時に縛られている」

誰も口を開かない。

アルトは資料を一枚めくった。

そこには古い絵画が描かれていた。

黒煙。

崩壊した城壁。

炎。

逃げ惑う人々。

「七十年前」

静かな声だった。

「灰冠の戦い」

その名前を聞いた瞬間。

会議室の空気が変わった。

帝国人なら誰もが知る出来事。

国家崩壊寸前まで追い込まれた戦争。

だが。

詳細を知る者は少ない。

アルトは五人を見渡した。

「現在の帝国を理解するなら」

そして。

「まず、この戦いを理解しなければならない」

窓の外では噴水の水が静かに流れていた。

第三庁舎での授業が始まる。


「では」

アルトは机へ両手を置いた。

「灰冠の戦いについて知っている事を話してもらおう」

五人は顔を見合わせる。

予想外だった。

講義ではないのか。

そう思ったのはアイラだけではない。

「クロフト中尉」

アルトが最初に指名する。

レナは少し考えた。

「七十年前に発生した大規模戦争です」

「続けろ」

「帝国軍は壊滅的損害を受けました」

「多くの都市が失われ」

「国家存続の危機に陥ったと記録されています」

アルトは頷く。

否定もしない。

評価もしない。


「ベルク少尉」

今度はアイラだった。

「国境警備隊では」

少し記憶を辿る。

「山岳地帯に残る戦跡について学びました」

「灰冠の戦いで使用された防衛陣地や補給路です」

「現在も立ち入り禁止区域があります」

アルトは静かに聞いている。


「ローゼン少尉」

カティアが口を開く。

「戦後復興の転換点になった戦争です」

「地熱利用技術の発展」

「工業技術の進歩」

「現在の帝国産業基盤は戦後復興期に整備されたものが多いとされています」

「なるほど」

アルトが頷く。


「ファークナー少尉」

ミリアは少し困った顔をした。

「正直に言うと」

「学校で習った程度しか知りません」

「ですが」

少し考える。

「帝国の人なら誰でも知っている戦争です」

「その割に詳しい話を聞く機会は少ない気がします」

アルトの目が僅かに細くなった。

「面白い指摘だ」

そして最後に。


「エーレン軍曹」

ソフィアは静かに答えた。

「医療記録を読んだ事があります」

全員が彼女を見る。

「負傷者数」

「避難民」

「疫病」

「食糧不足」

ソフィアは続ける。

「戦争というより」

少しだけ言葉を探した。

「災害に近い印象でした」

会議室が静かになる。

アルトは数秒黙っていた。

そして。

「良い回答だ」

初めてそう言った。

五人が少し驚く。

アルトが誰かを評価する事は珍しい。


「では教えよう」

そう言って資料を閉じる。

「諸君は全員間違っている」

会議室が静まり返った。

レナが眉をひそめる。

カティアも顔を上げた。

アルトは窓の外へ目を向ける。

噴水の水音だけが聞こえる。

「帝国人の多くは灰冠の戦いを戦争だと思っている」

静かな声だった。

「だが違う」

そして。

机の上に置かれた古い地図へ視線を落とす。

「我々が戦った相手は軍ではない」

誰も口を開かない。

アルトは続ける。

「国家でもない」

「民族でもない」

会議室の空気が少しずつ重くなっていく。

「七十年前」

「帝国は一体の魔王によって滅びかけた」

その言葉と共に。

古い絵画の黒煙が、どこか現実味を帯びて見えた。

「灰冠の戦いとは」

アルトはゆっくり言う。

「帝国史上最大の敗北であり、勝利でもある」

一拍置く。

「現在の帝国が生まれるきっかけとなった出来事だ」

五人は黙って聞いていた。

誰一人として。

この話が後に自分達の運命と繋がるとは思っていなかった。


会議室には静かな空気が流れていた。

誰もすぐには言葉を発しない。

灰冠の戦い。

帝国人なら誰もが知る名前だ。

だが。

今まで聞いてきた話とはどこか違う。

レナが腕を組む。

「一つ質問があります」

「許可する」

アルトは短く答えた。


「その魔王は」

レナは少し言葉を選ぶ。

「誰が討伐したのですか」

当然の疑問だった。

帝国を滅亡寸前まで追い込んだ存在。

ならば。

最後には誰かが倒したはずだ。

英雄が。

軍が。

あるいは王が。

会議室の全員が同じ疑問を抱いていた。

アルトは数秒黙る。

やがて。

静かに答えた。


「分からない」

沈黙。

レナが眉をひそめる。

カティアも顔を上げた。

「分からない?」

「そうだ」

アルトは頷く。

「正確には記録が残っていない」

「そんな事がありますか」

カティアが思わず口を挟む。

「帝国最大の戦争ですよ」

「普通なら英雄の名前くらい残るはずです」

アルトは否定しなかった。

「その通りだ」


そして。

古い資料を一枚取り出した。

黄ばんだ紙だった。

「当時の記録は極端に少ない」

「失われたものも多い」

「意図的に消された可能性を指摘する学者もいる」

ミリアが首を傾げる。

「でも」

「魔王が消えた事だけは分かっているんですよね?」

「そうだ」

アルトは即答した。

「そして」

少しだけ間を置く。

「それ以上に確かな事がある」

五人の視線が集まる。


アルトは地図を指差した。

帝国各地。

赤い印が無数に描かれている。

「魔王出現後」

「帝国全土で災害が発生した」

「地震」

「火災」

「疫病」

「飢饉」

「暴動」

静かな声だった。

だが。

その内容は重い。

「記録によって差はあるが」

「人口の三割近くが失われたとも言われている」

ミリアが息を呑む。

ソフィアの表情も硬くなった。

医療関係者として。

その数字の意味が分かる。

アルトは続ける。

「そして魔王が消えた後」

「それらは急速に収束した」

会議室が静まり返る。

「まるで」

カティアが小さく呟く。


「全ての原因が魔王だったみたいですね」

アルトは彼女を見る。

「そう考える者も多い」

肯定も否定もしない。

その答えが逆に気になった。

アイラはふと気付く。

アルトは今日も同じだ。

答えを与えない。

考えさせる。

結論を押し付けない。

「では質問だ」

アルトが言う。

会議室の空気が少し引き締まる。

「帝国はなぜ滅びなかったと思う」

予想していなかった問いだった。

誰もすぐには答えられない。

魔王の話だと思っていた。

だが。

アルトの興味は別の所にあるらしい。


「クロフト中尉」

レナは少し考える。

「軍が最後まで戦ったからです」

「一つの答えだ」

アルトは頷く。


「ベルク少尉」

アイラは地図を見る。

カルドラ盆地。

そして。

国境地帯。

「土地です」

アルトの目が僅かに細くなる。

「続けろ」

「帝国はカルドラに支えられています」

「農地も」

「水も」

「地熱も」

「全てあります」

アイラは少し迷った。

だが続ける。

「だから生き残れたのではないかと」

アルトは何も言わない。

ただ静かに聞いている。

「面白い」

やがてそう呟いた。

会議室の窓から春の光が差し込む。

その日。

授業は昼を過ぎても続いた。

灰冠の戦い。

帝国復興。

カルドラ盆地。

地熱利用。

そして現在の帝国。


午後。

帝国史の講義は続いていた。

机の上には資料が積み上がり、

会議室の壁には大陸地図が掛けられている。

最初こそ戸惑っていた五人だったが、

今は全員が真剣に話を聞いていた。

アルトの授業は不思議だった。

年号を覚えろとは言わない。

人名を暗記しろとも言わない。

代わりに。

考えさせる。

なぜそうなったのか。

なぜその選択が行われたのか。

何が見落とされていたのか。

それを繰り返し問う。

「では次だ」

アルトが資料を一枚めくる。

そこには灰冠の戦い後の帝国地図が描かれていた。


五人の表情が変わる。

被害は想像以上だった。

焼失した都市。

消滅した街道。

放棄された集落。

帝国全土に傷跡が残っている。

「当時の帝国人口は大幅に減少した」

アルトが言う。

「農地も失われた」

「工業基盤も崩壊した」

静かな声だった。

だが。

内容は重い。

「にも関わらず」

アルトの指が地図を動く。

カルドラ盆地。

そしてカルドラ山。

「帝国は復興した」

カティアが資料へ視線を落とす。

そこには復興計画の概要が記されていた。

地熱利用。

蒸気機関。

製鉄技術。

輸送網再建。

どれも現在の帝国を支える技術だ。

「敗北した国家が」

アルトは言う。

「なぜ立ち上がれたと思う」

再び質問だった。


レナが眉をひそめる。

「生き残ったからです」

「当然だな」

アルトは頷く。

「では何故生き残れた」

レナは答えに詰まる。

アイラも考える。

簡単なようで難しい。

ミリアが手を上げた。

「希望があったからでしょうか」

少し恥ずかしそうに言う。

軍人らしくない答えだと思ったのかもしれない。

だが。

アルトは否定しなかった。

「それも必要だ」

そして。

地図のカルドラ山を指差す。


「だが希望だけでは腹は満たせない」

会議室に小さな笑いが起きた。

ほんの少しだけ空気が和らぐ。

「帝国は利用した」

アルトは続ける。

「カルドラを」

五人の視線が地図へ集まる。

「火山は災厄でもある」

「だが同時に恵みでもある」

アイラはふと故郷に近い山岳地帯を思い出した。

雪。

吹雪。

温泉。

地熱地帯。

厳しい土地だった。

だが。

確かに人は生きていた。

「我々は敗北から学んだ」

アルトは言う。

「だから今の帝国がある」

会議室は静かだった。

誰も軽々しく言葉を挟まない。

七十年前。

帝国は滅びかけた。

だが滅びなかった。

その事実だけは確かだった。


「今日はここまでだ」

やがてアルトが資料を閉じる。

思ったより時間が経っていた。

窓の外を見ると、

陽は既に傾き始めている。

五人は立ち上がる。

だが。

誰もすぐには席を離れなかった。

それぞれが考えていた。

灰冠の戦い。

カルドラ山。

帝国復興。

そして。

自分達が何故ここへ集められたのか。

その答えはまだ見えない。

だが。

第三庁舎での日々が、

ただの研修ではない事だけは確かだった。

アルトはそんな五人を静かに見ていた。

表情は変わらない。

何を考えているのかも分からない。

だが。

その目だけは、

まるで何かを探しているようだった。


あれから数週間が過ぎた。

第三庁舎での日々は、五人が想像していたものとは少し違っていた。

地勢学。

帝国史。

周辺国家史。

災害記録。

過去の魔王災害調査。

青晶石研究史。

時には討論。

時には小テスト。

時には調査報告書を渡され、一日かけて分析させられる事もあった。

最初は戸惑いしかなかった。

だが。

今では五人とも、この生活にある程度慣れていた。

もちろん。

第三庁舎の目的は未だに分からない。

それでも。

自分達がただの研修を受けている訳ではない事だけは理解していた。

そして。

今日は休日だった。

珍しく予定の無い朝。

食堂にはいつもよりゆったりとした空気が流れている。


アイラは朝食のパンを口へ運びながら窓の外を見ていた。

帝都は今日も晴れている。

すると。

「おはようございます」

聞き慣れた声がした。

ミリアだった。

いつものように明るい。

そのまま向かいへ座る。

「おはよう」

アイラが返す。

少し遅れてソフィアも現れた。

「おはようございます」

「おはようございます」

自然な挨拶。

数週間前なら考えられなかった。


そして。

さらに数分後。

レナが現れる。

最後にカティア。

気付けば五人全員が同じ席へ集まっていた。

誰かが約束した訳ではない。

ただ。

何となくそうなった。

ミリアが周囲を見渡す。

「揃いましたね」

誰も否定しない。

レナは朝食を取りながら言う。

「偶然だ」

「そういう事にしておきましょう」

ミリアが笑った。

レナは少しだけ眉をひそめる。

だが何も言わない。

以前ならもっと反応していただろう。

アイラはそんなやり取りを見ながら少しだけ口元を緩めた。


ミリアが突然聞いた。

「皆さん今日は何する予定なんですか?」

予想通りの質問だった。

最初に答えたのはレナ。

「訓練だ」

即答だった。

ミリアが肩を落とす。

「やっぱり」

「何だその反応は」

「予想通りだったので」

レナは呆れたようにパンをかじった。


次はカティア。

「図書室です」

「やっぱり」

「何ですかその反応」

「予想通りです」


今度はソフィア。

「私は読書ですね」

「やっぱり」

「私もですか?」

ソフィアが少しだけ笑う。

ミリアは大きく頷いた。

「予想を裏切ってください」

「難しいですね」

ソフィアは苦笑した。


そして。

全員の視線がアイラへ向く。

「ベルク少尉は?」

アイラは少し考えた。

正直に言う。

「走る」

ミリアは机へ突っ伏した。

「皆さん本当に面白くないですね」

食堂に小さな笑いが広がる。

レナが呆れたように言う。

「休日に何を期待していた」

「買い物とか」

「お茶とか」

「散歩とか」

「同年代の女性らしい事です」


一瞬。

全員が黙った。

妙な沈黙だった。

その様子を見てミリアが顔を上げる。

「何ですかその反応」

「いや」

アイラが言う。

「考えた事も無かった」

「私もです」

ソフィアが頷く。

カティアも真面目な顔で答えた。

「図書室は駄目ですか?」

「駄目じゃありません」

ミリアは頭を抱えた。

レナは珍しく少しだけ笑っている。

「では通信隊少尉殿の理想的な休日を聞こうか」

その言葉に。

ミリアの表情が一気に明るくなった。


「良い質問です」

ミリアは胸を張った。

嫌な予感しかしない。

アイラはそう思った。


「休日というものはですね」

ミリアが指を一本立てる。

「まずゆっくり起きます」

「もう起きているな」

レナが即座に言う。

「細かい事は気にしないでください」

ミリアは続ける。

「そして美味しい朝食を食べます」

「今食べている」

「だから細かい事は気にしないでください」

レナが額へ手を当てた。

ソフィアは笑いを堪えている。

カティアは真面目な顔で聞いていた。

「それから買い物です」

「何を買うんですか」

カティアが聞く。

「色々です」

「答えになっていません」

「雰囲気です」

「余計分かりません」

ミリアは構わず続けた。

「お茶を飲んで」

「甘い物を食べて」

「雑貨を見て」

「夕方には疲れて帰るんです」

食堂が静かになる。


数秒後。

レナが言った。

「訓練した方が有意義だな」

「何でそうなるんですか」

「体力が付く」

「夢がありません」

今度はアイラが少しだけ笑った。

ミリアは気付く。

「今笑いましたね」

「笑っていない」

「笑いました」

「笑っていない」

「笑いました」

子供のようなやり取りだった。

ソフィアがついに吹き出す。

カティアも小さく肩を震わせている。

その様子を見て。

ミリアは満足そうに頷いた。


「やっと笑いましたね」

全員が止まる。

その言葉は意外だった。

ミリアは少しだけ柔らかい顔になる。

「皆さん」

「いつも難しい顔してるじゃないですか」

誰も否定できなかった。

灰冠の戦い。

青晶石。

第三庁舎。

知らない事ばかりだった。

考える事も多い。

「たまには休みましょうよ」

ミリアは笑う。

「休みの日くらい」

「普通の女の子みたいに」

その言葉に。

今度は誰もすぐに返事が出来なかった。


普通。

その言葉が妙に引っ掛かった。

軍人になる前なら。

そんな日常もあったのかもしれない。

その時だった。

「なら」

不意にソフィアが口を開いた。

全員が彼女を見る。

「今日は一緒に出掛けてみますか?」

珍しく。

本当に珍しく。

ソフィアからの提案だった。

ミリアが固まる。

レナも固まる。

カティアも固まる。

そして。

「え?」

ミリアが聞き返した。

「今何と」

「ですから」

ソフィアは少し困ったように笑う。

「せっかくのお休みですし」

「皆さんで帝都を見て回るのも良いかなと」

ミリアが立ち上がった。


「採用です」

食堂中に聞こえそうな声だった。

レナが深くため息を吐く。

アイラは窓の外を見る。

休日は走る予定だった。

だが。

たまには悪くないかもしれない。

そんな事を少しだけ思っていた。


そして。

ミリアは次の瞬間には立ち上がっていた。

「では行きましょう」

「どこへだ」

レナが聞く。

「外出許可書です」

即答だった。

全員が止まる。

ミリアは不思議そうな顔をした。

「何ですかその顔は」

「いや」

アイラが言う。

「もう行くのか」

「行きます」

迷いが無い。

「決まったなら早い方が良いです」

「却下されたらどうする」

レナが聞く。

「その時はその時です」

全く気にしていなかった。

ソフィアが小さく笑う。

「確かに先に許可を貰った方が良いですね」

「でしょう?」

味方が増えた。

ミリアは得意げだった。

カティアも頷く。

「興味があります」

「帝都ですか?」

ミリアが聞く。

「いえ」

カティアは真顔だった。

「外出許可申請の手続きに」


一瞬。

全員が黙る。

レナが顔を覆った。

「お前は本当にお前だな」

「褒め言葉として受け取ります」

「褒めていない」

そんなやり取りをしながら。

五人は食堂を後にした。

第三庁舎の廊下を歩く。

休日という事もあり人影は少ない。

窓から差し込む朝日が床を照らしていた。

数週間前なら。

ただ無言で歩いていただろう。

だが今は違う。

誰かが話し。

誰かが返す。

それが当たり前になり始めていた。



研究主任室の扉を前にして。

五人は立ち止まっていた。

正確には。

立ち止まっているのは四人だった。

ミリアだけは迷いなく扉へ向かっている。

「待て」

レナが呼び止める。

「何ですか?」

「本当に今から行くのか」

「もちろんです」

即答だった。

「許可を貰わないと出掛けられません」

それは正しい。

正しいのだが。

何かがおかしい気もする。

「休日ですよ?」

ミリアは不思議そうに言う。

「休日だからこそ今です」

理屈は通っていた。

誰も反論出来ない。


そして。

ミリアはノックした。

三回。

数秒後。

「入れ」

聞き慣れた声だった。

五人は顔を見合わせる。

何故か少し緊張する。

扉を開ける。

研究主任室は相変わらずだった。

壁一面の本棚。

積み上がった資料。

地図。

書類。

そして。

机へ向かったまま書類へ目を通しているアルト。

アルトは顔を上げる。

五人を見る。

数秒。

沈黙。

そして。

「何かあったか」

本当にそう思っている顔だった。


ミリアが一歩前へ出る。

「外出許可をお願いします」

アルトは一度だけ瞬きをした。

机の上の申請書を見る。

五人を見る。

もう一度申請書を見る。

そして。

判を押した。

迷いなく。

本当に迷いなく。

「許可する」

終わった。

あまりにも早かった。

ミリアが固まる。

レナも固まる。

アイラも少し驚いていた。

カティアが確認する。

「……以上ですか?」

「以上だ」

アルトは答える。

「日没までに帰還」

「施設規則を守る事」

「それだけだ」

本当にそれだけだった。

ソフィアが少し困ったように笑う。

「もっと質問されるかと思っていました」

「何故だ」

アルトは首を傾げた。

心底分からないらしい。

「休日だろう」

全員が黙る。

「休養も必要だ」

アルトはそう言った。

それから再び書類へ視線を落とす。


話は終わりらしい。

五人は顔を見合わせる。

予想していたやり取りと違う。

もっと。

行き先を聞かれるとか。

理由を聞かれるとか。

そういうものだと思っていた。


研究主任室を出る。

扉が閉まる。

数秒。

廊下に沈黙が流れた。

そして。

「許可されましたね」

ミリアが言う。

「許可されたな」

レナが答える。

「一瞬でした」

ソフィアも苦笑する。

カティアは真面目な顔だった。

「合理的ですね」

「どこがだ」

レナが聞く。

「休日に外出したい」

カティアは答える。

「なら外出する」

「確かに合理的です」

誰も反論出来なかった。


アイラは少しだけ笑う。

あのアルトらしい。

余計な事は言わない。

必要な事だけを言う。

そして、恐らく。

五人が一緒に出掛ける事に何の問題も感じていない。


「では」

ミリアが両手を叩く。

「帝都へ出発です」

その言葉に。

帝都へ出るのは久しぶりだった。

それぞれ違う理由で。

少しだけ楽しみにしていた。


――その時だった。

「ちょっと待ってください」

ミリアが突然立ち止まる。

全員が振り返った。

「どうした」

レナが聞く。

ミリアは一人ずつ見回した。

そして。

嫌な予感しかしない笑顔で言った。

「皆さん」

数秒。

間が空く。

「私服持ってます?」


沈黙。

何を言い出したのか。

全員一瞬理解出来なかった。

最初に答えたのはレナだった。

「あるが」

「持っています」

ソフィアも頷く。

「あります」

カティア。

アイラも小さく頷いた。

ミリアは安堵したように胸を撫で下ろした。

「良かったです」


そして。

満面の笑みで言った。

「まさか軍服で帝都へ行こうなんて思ってませんよね?」

今度こそ全員が止まった。

レナが眉をひそめる。

「何が問題だ」

「問題しかありません」

即答だった。

アイラが聞く。

「駄目なのか?」

「駄目です」

また即答だった。

迷いが無い。

「今日は休日ですよ?」

ミリアは言う。

「休暇ですよ?」

「外出ですよ?」

「帝都散策ですよ?」

勢いが増していく。

「なのに軍服って何ですか」

「軍人だからだ」

レナが答える。

「今日は違います」

「違わない」

「違います」

「違わない」

二人はしばらく睨み合った。


ソフィアが吹き出しそうになる。

カティアは真面目に考えていた。

「服装に規定はあるのでしょうか」

「ありません」

「では問題無いのでは」

「問題あります」

「何故ですか」

「気分です」

「非合理ですね」

「服装に合理性を求めないでください」

カティアは少し考えた。


そして。

「なるほど」

何か納得したらしい。

全員が驚く。

「理解したのか」

レナが聞く。

「完全には」

カティアは答えた。

「ですがミリア少尉が重要視している事だけは分かりました」

「ありがとうございます」

「褒めていません」

ミリアは気にしなかった。

そして。

最後にアイラを見る。

「ベルク少尉」

「何だ」

「私服ですよね?」

何故か確認された。

「……私服だ」

「本当ですか?」

「本当だ」

「軍服にしか見えない服じゃなくて?」

アイラは少し黙った。


ミリアの表情が変わる。

「あるんですね」

「……ある」

「絶対ある」

ソフィアがついに笑った。

レナも口元を押さえている。

アイラは少しだけ居心地が悪そうだった。

「一時間後」

ミリアが宣言する。

「正門前集合です」

「各自私服着用」

「異論は認めません」

「何故お前が仕切っている」

レナが呆れたように言う。

ミリアは胸を張った。

「本日の帝都散策責任者だからです」

「今決めたな」

「今決めました」

堂々としていた。


数週間前なら。

こんな会話は無かっただろう。

五人はそれぞれ部屋へ戻っていく。

休日の帝都散策。

その前に。

まずは私服選びという新たな問題が発生していた。


研究主任室。

窓から差し込む昼前の陽光が机を照らしていた。

アルトは書類へ目を通している。

その向かいには一人の軍人が立っていた。

年齢は三十代半ばほど。

軍服を着た男性士官だった。

「よろしかったのですか」

士官が言う。

アルトは顔を上げない。

「何がだ」

「候補者達の外出許可です」

短い沈黙。


書類を一枚めくる音だけが響く。

「問題あるか」

「いえ」

士官は首を振った。

「ただ」

少し言いにくそうに続ける。

「星巫女計画候補者です」

「第三庁舎へ来てまだ数週間」

「管理を厳しくするべきではないかと」

アルトは手を止めた。

そしてようやく顔を上げる。

「彼女達は囚人ではない」

静かな声だった。


士官は黙る。

「外出したい」

「買い物したい」

「街を見たい」

アルトは淡々と言う。

「年齢を考えれば自然な事だ」

再び視線を書類へ戻した。

士官は少し意外そうな顔をする。

研究主任としてのアルトしか知らない者なら尚更だった。


「むしろ」

アルトが言う。

「良い兆候だ」

「良い兆候ですか」

「そうだ」

短い返答。

だが。

珍しく続きがあった。

「数週間前の彼女達なら」

「このような話にはならなかった」

士官は思い出す。

第三庁舎へ来たばかりの頃。

会話も少なく。

互いを警戒していた五人。

「共同生活」

「座学」

「討論」

アルトは資料を閉じた。

「少しずつだが」

「同じ方向を向き始めている」

それだけ言う。

士官は納得したように頷いた。

アルトは再び仕事へ戻る。

表情は変わらない。

だが。

窓の外へ視線を向けたその一瞬だけ。

ほんの僅かに。

安心したような目をしていた。

もちろん。

本人は気付いていなかったが。


第三庁舎正門前。

約束の時間より少し前。

最初に到着したのはアイラだった。

私服姿。

濃い茶色の上着。

動きやすい長ズボン。

丈夫そうな革靴。

軍服ではない。

確かに軍服ではない。

だが。

「……」

門番の兵士が少しだけ困った顔をした。


普段の軍服姿と大差が無い。

本人は気付いていなかった。

アイラは正門脇で腕を組む。

しばらくして。

レナが現れた。

こちらも私服だった。

黒を基調とした上着。

細身のズボン。

軍服ではない。

確かに軍服ではない。

だが。

「……」

アイラが見る。

レナも見る。

二人とも何となく察した。

方向性が似ている。

「何だ」

レナが言う。

「いや」

アイラは首を振った。

「何でもない」

それ以上は言わなかった。


数分後。

ソフィアが姿を見せる。

淡い色のワンピース。

薄手の上着。

柔らかい雰囲気。

普段の軍服姿とは印象が違う。

アイラは少し驚いた。

レナも一瞬言葉を失う。

ソフィアは少し恥ずかしそうだった。

「何か変でしょうか」

「いや」

レナが答える。

「似合っている」

素直な感想だった。

ソフィアは少しだけ安心したように笑う。


その時。

遠くから声が聞こえた。

「お待たせしました!」

ミリアだった。

元気な声と共に駆けてくる。

そして。

その場で止まった。

数秒。

沈黙。

ミリアの顔から表情が消える。

まずアイラを見る。

次にレナを見る。

そして。

天を仰いだ。

「やっぱりですか……」

深いため息。

アイラが眉をひそめる。

「何だ」

「何だじゃありません」

ミリアは言う。

「何ですかその格好」

「私服だ」

アイラが答える。

「私服です」

レナも答える。

「知ってます」

ミリアは頭を抱えた。

「知ってますけど」

「軍服の親戚じゃないですか」

ソフィアが思わず吹き出した。

レナが呆れる。

「親戚とは何だ」

「色違いです」

「違う」

「雰囲気です」

「意味が分からん」

そんなやり取りをしていると。


最後の一人が現れた。

カティアだった。

全員の視線が向く。

そして。

また沈黙が訪れる。

「……」

「……」

「……」

カティアは首を傾げた。

「どうしました?」

何も分かっていない。

服装は整っている。

綺麗だ。

だが。

胸元にはペンが三本。

肩掛け鞄は資料で膨らみ。

手には本が二冊。

完全に研究者だった。


ミリアはゆっくり顔を覆った。

「皆さん」

力無く言う。

「休日ですよ」

その言葉に。

ソフィアの笑い声が響く。

アイラも少しだけ口元を緩めた。

レナは呆れたように息を吐く。

カティアだけが状況を理解出来ていなかった。

だが。

そんな何気ない時間こそ。

今の彼女達には少しだけ新鮮だった。

「……まあ」

ミリアは諦めたように言う。

「今日はこれで行きましょう」

「最初からそう言っている」

レナが答える。

「言わないでください」

ミリアは即座に返した。

「私なりに頑張ったんです」

「何をだ」

「皆さんを年頃の女性らしくしようと」

アイラとレナが顔を見合わせる。


何となく。

自分達が言われている気がした。

「私は普通だと思いますが」

カティアが言う。

ミリアは視線を逸らした。

「そうですね」

「その鞄を除けば」

「?」

カティアは肩から提げた鞄を見る。

中には本。

資料。

筆記用具。

予備のノート。

何故か定規まで入っていた。

完全に外出用ではない。

「何か問題が?」

「問題しかありません」

今日何度目か分からないやり取りだった。

ソフィアがまた笑う。

その時だった。

正門の兵士が近付いて来る。

「外出許可証を確認します」

五人はそれぞれ許可証を見せた。

兵士は確認する。

そして。

一瞬だけ表情が変わった。

「……五人でですか」

「はい」

ミリアが答える。

兵士は少し驚いたようだった。

無理もない。

第三庁舎の候補者達は有名だった。

だが。

いつもどこか距離があった。

その五人が。

休日に揃って出掛ける。

珍しい光景だった。

兵士はすぐに表情を戻す。

「問題ありません」

「お気を付けて」

門が開く。

その向こうには帝都の街並みが広がっていた。


石畳の大通り。

行き交う人々。

露店。

商人。

荷車。

休日らしい賑わいが見える。

数週間ぶりの外の空気だった。

ミリアが振り返る。

その顔は妙に楽しそうだった。

「さて」

両手を合わせる。

「まずはどこへ行きましょう」

「決めてなかったのか」

レナが呆れる。

「勢いです」

「知っていた」

アイラが小さく呟いた。

ミリアは気にしない。

「買い物」

「喫茶店」

「市場」

「雑貨屋」

「本屋」

指を折りながら数える。

「候補は沢山あります」

「本屋」

カティアが即答した。

「却下です」

ミリアも即答した。

「何故ですか」

「最初に行ったら終わるからです」

「終わりません」

「終わります」

ソフィアが苦笑する。

レナは完全に観察モードだった。


アイラは帝都の景色を眺める。

久しぶりの休日。

久しぶりの街。

そして。

気付けば。

隣には一緒に歩く仲間がいた。

数週間前には想像もしていなかった光景だった。

「まずは市場です!」

ミリアが宣言する。

反対意見を言う者はいなかった。

いや。

言っても無駄だと理解していたのかもしれない。

こうして五人は。

休日の帝都へ足を踏み出した。


市場へ続く大通りは賑わっていた。

休日という事もあり、

帝都の人々で溢れている。

露店。

商店。

大道芸人。

子供達の笑い声。

第三庁舎の静けさとはまるで違う世界だった。

「凄いですね」

ソフィアが周囲を見回す。

「久しぶりです」

ミリアも嬉しそうだった。

「第三庁舎にいると曜日感覚が無くなりますから」

それは全員同じだった。


講義。

訓練。

討論。

試験。

気付けば数週間が過ぎている。

「人が多いな」

アイラが呟く。

無意識に周囲を観察していた。

人の流れ。

死角。

逃げ道。

完全に職業病だった。

「ベルク少尉」

ミリアが言う。

「警備任務じゃありません」

「分かっている」

そう答えながらも視線は周囲を見ている。

レナも似たようなものだった。

違うのは本人が隠そうともしていない事だ。

「お前もだろう」

アイラが言う。

レナは答えない。

否定もしない。

それが答えだった。

ソフィアが少し笑う。

「お二人とも変わりませんね」

「そうでしょうか」

「そうだな」

珍しくレナが同意した。


その時だった。

カティアが立ち止まる。

全員も止まる。

「どうした」

アイラが聞く。

カティアはある店を見ていた。

小さな工房だった。

窓には歯車や工具が並んでいる。

「面白そうです」

嫌な予感しかしない。

ミリアが即座に腕を掴んだ。

「駄目です」

「何故ですか」

「まだ五分です」

「五分?」

「外出開始からです」

カティアは少し考える。

「確かに短いですね」

納得した。

ミリアは内心安堵する。


危なかった。

放っておけば間違いなく数時間消える。

その確信があった。

再び歩き始める。

すると今度はソフィアが足を止めた。

花屋だった。

店先に並ぶ色鮮やかな花々。

ソフィアは少し目を細める。

「綺麗ですね」

優しい笑顔だった。

ミリアも覗き込む。

「本当ですね」

アイラには詳しく分からない。

だが。

綺麗だという事だけは理解出来た。

その横で。

レナが真面目な顔をしていた。

「何だ」

アイラが聞く。

「いや」

レナは答える。

「平和だと思ってな」

一瞬。

全員が黙る。

軍人だからこそ分かる。

こういう景色は当たり前ではない。

市場。

笑い声。

花屋。

休日。

それを守るために自分達がいる。

そんな考えが自然と浮かぶ。

「そうですね」

ソフィアが静かに言う。


その後。

五人は帝都の街を歩き回った。

昼前。

喫茶店へ入る。

落ち着いた雰囲気の店だった。

甘い菓子と紅茶が並ぶ。

そこで。

レナが意外にも甘い菓子を気に入っている事が発覚した。

「美味しいな」

そう呟いたのを。

ミリアは聞き逃さなかった。

その後しばらく。

「レナ中尉は甘党」

という話題で弄られ続ける事になる。

本人は最後まで否定していたが。


昼食後は本屋へ向かった。

正確には。

カティアが本屋を発見した。

結果。

三十分ほど行方不明になる。

発見された時には、

両手に本を抱えていた。

レナは呆れ。

ミリアは頭を抱え。

ソフィアは苦笑し。

アイラは少しだけ笑った。

そんな時間が続いた。


誰かが話し。

誰かが笑う。

数週間前には想像も出来なかった光景だった。

気付けば陽は傾き始めていた。

帝都の街並みが夕陽に染まる。

石畳が赤く輝き、

店じまいを始める露店も増えている。

「そろそろ戻りましょうか」

ソフィアが言った。

誰も反対しない。

一日歩き回った疲労はある。

だが。

不思議と悪い疲れではなかった。

第三庁舎へ戻る道を歩く。

朝とは少し違う空気があった。

会話が自然だった。

沈黙が気まずくない。

無理に話題を探す必要も無い。

ただ。

同じ時間を過ごした。

それだけだった。

第三庁舎の門が見えてくる。

アイラはふと思う。

ここへ来た時。

自分達は互いを知らなかった。

名前と階級しか知らなかった。

だが今は違う。

全てを知っている訳ではない。

過去も。

悩みも。

夢も。

まだ知らない事の方が多い。

それでも。

仲間になり始めている。

そんな感覚があった。

夕陽の中。

五人は第三庁舎の門をくぐる。

誰も知らない。

この穏やかな日々が、

いつまでも続く訳ではない事を。

だが今だけは。

その事を考える必要は無かった。

少なくとも。

今日だけは。


翌朝。

第一会議室。

休日の余韻は既に消えていた。

いつもの席。

いつもの机。

いつもの資料。

そして。

いつものように現れたアルト。

だが。

その日の空気は少し違った。

アルトは席へ着かない。

会議室の前方に立ったまま、

五人を見渡した。

静かな沈黙。

やがて。

アルトは口を開く。


「今日は星巫女計画について説明する」

会議室の空気が変わる。

全員が顔を上げた。

初めてだった。

第三庁舎へ来てから数週間。

ようやく計画名そのものが話題に上がった。

「正確には」

アルトは続ける。

「諸君に期待する役割についてだ」

誰も口を挟まない。

「諸君には」

一拍置く。


「依り代としての役割を担ってもらう」

沈黙。

誰も理解出来なかった。

レナが最初に反応する。

「依り代……ですか」

聞き慣れない言葉だった。

アルトは頷く。

「そうだ」

カティアが眉をひそめる。

「それは何を意味するのでしょうか」

当然の質問だった。


アルトは数秒考える。

そして。

「現時点では仮説に近い」

そう答えた。

会議室が静まり返る。

「仮説?」

ミリアが思わず聞き返す。

「そうだ」

アルトは否定しない。

「諸君は勘違いしているかもしれないが」

「第三庁舎は全ての答えを持っている訳ではない」

その言葉は意外だった。

「我々もまた」

「未知を研究している」

アルトは静かに言う。

「依り代とは何か」

「何のために存在するのか」

「完全には解明されていない」

五人は顔を見合わせる。


初めてだった。

アルトが。

分からないと認めたのは。


「依り代とは何か」

アルトは黒板へ一枚の図を貼る。

そこには青晶石の断面図が描かれていた。

五人も見覚えがある。

何度も講義で見てきた鉱石だった。

「諸君も知っての通り」

「青晶石は特殊な性質を持つ」

アルトは続ける。

「熱を蓄積する」

「魔力を蓄積する」

「そしてエネルギーを伝達する」

カティアが資料へ視線を落とす。


馴染みのある内容だった。

「第三庁舎は長年研究を続けてきた」

「結果」

「青晶石同士が相互に影響し合う事が判明した」

アルトは五人を見る。

「極めて限定的ではあるが」

「意思や感覚の伝達が可能になる」

会議室が静まり返る。

ミリアが最初に反応した。

「意思疎通……ですか?」

「そうだ」

アルトは頷く。

「感情」

「認識」

「判断」

「情報共有」

「理論上は複数人を一つの系として運用できる」

レナが眉をひそめる。


「部隊運用の効率化ですか」

「その側面もある」

アルトは否定しない。

だが。

そこで言葉を続けた。

「本来の目的は別だ」

空気が変わる。

アルトは机の上の資料を開く。

そこには過去の魔王災害記録が並んでいた。

「灰冠の戦い」

「紅霧災厄」

「蒼月災害」

聞き慣れた名前だった。

「帝国は敗北した」

アルトは静かに言う。

「七十年前も」

「それ以前も」

「辛うじて生き残ったに過ぎない」

誰も反論しない。

歴史がそれを証明している。

「ならば必要になる」

アルトは言った。


「次に備える力が」

沈黙。

そして。

「星巫女計画の目的は」

「対魔王戦力の確立だ」

その言葉に。

五人は思わず顔を見合わせた。

ようやく、初めて。

この計画の輪郭が見え始めていた。

依り代。

青晶石。

意思共有。

全ては。

魔王へ対抗するため。

すると、アルトは机に置いた書類に目を落とした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ