【第95話】魔界の荒野と翼持つ強襲者
「……まったく、あなたという人は。一体、何なのですか……!?」
地底湖の底、巨大魚の口内という最悪の環境の中で、エルウィンさんが呆れと驚きが混ざり合った複雑な表情を浮かべていた。
いや、俺だって聞きたい。まさか冗談半分で唱えたテンパメントが、二百年以上も眠っていた門を力ずくで叩き起こすなんて。
とはいえ、結果オーライだ。狙い通りに門が反応してくれたんだから、文句はなしだ。
「さて、門が開きそうですし、中へ入れるように準備を整えましょう」
エルウィンさんはすぐさま頭を切り替えると、魔法の行使を開始した。門の周囲に渦巻く強酸の水を水魔法で押し留め、同時に土魔法を使って門の周りを囲うように頑丈な石の壁を隆起させていく。
俺たちが活動するための、水のない中空の活動拠点を瞬く間に作り上げていくその手際は、まさに芸術的だった。
その作業を邪魔しようと、地底湖のあちこちから超大型モンスターたちが集まってくる気配があった。どうやら、門から放たれた強烈な魔力の波動に引き寄せられたらしい。
「カール。その無駄に高いレベルを有効活用して、周囲を威嚇してみてください」
「やってみます!」
俺は深呼吸をし、体内の魔力を限界まで練り上げた。そして、レベル90という化け物じみた魔力密度を、全方位に向けて一気に解放する。
ドォォォォン……! という、空気そのものが重くなったかのような重圧が周囲に伝播した。
近づいてきていた超大型モンスターたちの気配が、凍りついたように止まり、次の瞬間には蜘蛛の子を散らすように四方八方へと逃げ去っていった。
さすがは俺! レベル90の力は伊達じゃないぜ!
門の周りには、水避けの土のボックスが出来上がった。中の水は完全に抜かれ、光魔法による照明もばっちりだ。そのボックスに、俺たちの巨大魚潜入艦の頭をぴたりと接舷させる。
俺たちは巨大魚の口から這い出し、ついに黄泉の門の前に立った。
カルバン領で見た門とは細部の意匠が異なり、どこか太陽を模したような彫刻が見えるが、そこから漂う禍々しく、冷ややかな雰囲気は全く同じだった。
誰もが息を呑み、その圧倒的な存在感に目を奪われる。
ギギギギギギッ……。
前回と同様に、世界の境界が軋むような悍ましい音を立てて、黄泉の門の重厚な扉がゆっくりと開き始めた。
そして、門が完全に開ききり、動きが止まる。
「……」
しばらくの間、誰も動けなかった。
門の向こう側からは、不気味なほどの静寂が漂ってきている。何かが飛び出してくる気配も、罠が発動する予兆もない。
「よ、よし。入ってみましょう」
エルウィンさんがようやく我に返ったように、最初の一歩を踏み出した。俺たちもその背後に続く。
門は確かに開いているのだが、向かい側の魔界の景色が透けて見えるわけではない。そこには、まるで夜空のような深い闇の空間が、ゆらゆらと陽炎のように歪んで存在していた。
あの慎重なエルウィンさんでさえ、生唾を飲み込んで恐る恐る近づく。
「進みますよ」
そう自分に言い聞かせるように呟いて、彼は扉の向こうの闇へと足を踏み入れた。
一瞬、ひどい立ちくらみに襲われ、平衡感覚が狂うような感覚があった。
だが次の瞬間、視界が開ける。
俺たち5人は、無事に魔界へと辿り着いたのだ。
そこには、空が常に薄暗い紫の色を帯びた、荒涼とした大地が果てしなく広がっていた。
◇ ◇ ◇
「……明らかに、地上界とは魔力濃度が桁違いですね」
エルウィンさんが周囲の空気を探るように手をかざして言った。
俺たちの住む地上界で魔力濃度がこれほど高くなるケースといえば、強力な極大魔法を放った直後や、何重もの魔力障壁を維持している特殊な状況下でしかない。
ただそこに立っているだけで肌がピリピリとするようなこの感覚。それだけで、魔界という場所がどれほど特別な環境であるかがよく分かる。
「しかし、誰もいませんね。近くに何かがいる気配すらありません」
周囲を鋭い目で見回していたジャック兄さんが言った。
たしかに。魔族や強力なモンスターどころか、小動物のような気配すら一切感じられない。
216年前を最後に一度も使われていない門の周辺だ。魔族にとっても、ここはとっくに忘れ去られた辺境の地なのかもしれない。
さて、魔界に潜入することには成功した。
だが、肝心なのはこの後どう動くかだ。
さっそくバイゼルから提示された3つ目の課題である「魔界へのエネルギー注入」に挑戦すべきか。それとも、情報の少なさを補うために一旦地上へ戻るべきか。実に悩ましいところだった。
我々が現状持っている知識はごく僅かだ。
「魔界の奥深くには、この世界に流通する魔硝石を産み出し続けている巨大な核、コアが存在する。そこは魔界を統べる王家が厳重に管理している聖域である」ということ。
そして「そのコアに、限界を超えて次元の狭間のエネルギーを注入する必要がある」ということ。
さらに、それを実現するには「俺に授けられたテンパメントの力が不可欠である」ということ。
正直、こんなにすんなりと魔界へ来られるとは思っていなかった。そのため、肝心の「コアがある場所の詳細な位置」や「次元の狭間のエネルギーを注ぎ込むための、具体的なテンパメントの使い方」などを詳しく聞く前に、ここまで来てしまったのだ。
しかし、一度戻って銀の城までバイゼルに会いに行けば、往復で数ヶ月はかかる。その間にこの黄泉の門が閉じてしまう可能性も高い。
一度消えた門を、俺のテンパメントでもう一度確実に呼び出せるという保証はどこにもなかった。
「……とりあえず、門から離れすぎない範囲で周辺の調査をしてみましょう」
俺たちは足元の石ころを蹴りながら、荒地を歩き始めた。
門が見える範囲でしばらく移動してみたが、どこまで行っても乾いた赤茶色の土と、奇妙な形をした枯れ木が続くばかりだった。
エルウィンさんを中心に、今後の探索方針について検討を始めていた、その時。
地平線の彼方から、信じられないほどの速度で何かがこちらへ向かってくるのが見えた。
「ま、魔族だ!」
俺は思わず叫んだ。
その姿は、以前銀の城に乗り込んできたあの凶悪な魔族とそっくりだった。
「あのヤバい奴が、また来たのか……!」
俺の警戒心は一気に最大まで跳ね上がる。
その魔族は、背中から生えた漆黒の羽を羽ばたかせ、風を切るような音を立てて飛んできた。
そして、俺たちの十数歩手前で優雅に地上へと降り立った。
「この門から『贄』が届くのは、一体何年振りか……」
魔族は、感情の読み取れない冷徹な瞳で俺たちを値踏みするように眺めた。
「……ん? 随分と数が少ない。それに、これほどまでに強烈な魔力の波動を放つ個体……。なるほど、これは贄ではないな。異界からの『来訪者』か」
おぉ。どうやら、話が通じそうな理知的な魔族が現れたようだ。
これは絶好のチャンスではないか。
俺たちは戦いの構えを解かぬまま、この魔族とのコミュニケーションを模索してみることにした。




