2.
「ほら、今日はパンを持ってきてあげましたわ!」
「……ああ」
男はやはり口数が少なかったため、ミウノは少し心配になりました。
「な、なんですの?そのパン少し悪くなっています?見る限りはまだ大丈夫なのですけれど……」
「……悪くはないみたいだな」
鼻が全く効かないということを、ミウノは申告しませんでした。
ミウノにとってそれは当たり前のことでしたし、それに、ミウノと男はほぼ面識がないのです。個人的な病気や特性を他人に言う方がおかしいでしょう。
「ほら、水ですわ!もう、こんな暑いのにまたそんなフードを被って!」
「……」
男は簡易水筒をいつも黙って受け取りました。
でも、ミウノにはそれが嫌じゃないことぐらい簡単に分かりました。
ミウノの実家の領地で、農民たちが山の散策をする際、結構汗をかくのです。冬もそうですが、夏は尚更でした。男は、そこに連れてこられた幼児が綺麗な湧水を見つけ、それをグラスに入れて一気飲みする時と、全く同じ顔をしていました。
つまり、ミウノにはその男が殆ど幼児に見えたのです。細いわりに図体だけはやたら大きそうでしたし、年齢は初老に近い感じでしたが……。
緑が影を濃くし、深みが増すと、男はほんの少しだけ話すようになりました。
「ほら、今日はパンと水ですわ!もう、ちゃんと毎日食べてますの?」
「……昨日は結構食べた」
浮浪者のようなその男が着ているフード付きのマントは、全然煌びやかではなく、むしろ浮浪者らしさを浮き立たせていたのですが、男はいつもそれを着ていました。
しかも、何故か他の者が声を掛けたり、憲兵が強制的に排除する様子も見られません。
男が静かだからでしょうか。
そんなある日のことでした。
「ほら!簡易水筒ですわよ!」
ちょっと偉そうで、だけど全然悪意がなさそうなミウノに、彼がこう言ったのを、ミウノは後から何回も思い出すことになりました。
「……おまえ、働いてみる気はないか?」
「……!?20時まで……いえ、帰宅を考えると19時までなら大丈夫ですわ!」
「……そうか。じゃあ明日の夕方またここで」
「……!はい!」
(えっ……。ど、どうしましょう!あの方にきちんと明日の夕方、って日にちを指定されたのは初めてですわ……!嬉しいかもしれません……!こ、これは私が信頼されたってことでいいのかしら?なんだかとってもソワソワしますわ……!私の見た目はどう考えても普通ですし、容姿だけで言えば王都学園に通う他の方々の方がよほど煌びやかでお美しいですし、えーっとつまり、筋力が求められているのかしら?農作業?)
ミウノは男に認められた気になって、少し嬉しかったのかもしれません。よく考えると、浮浪者なのに働き口を知っているのかという不自然さはあったものの、何故誘われたかも深く考えず、ミウノは素直に喜びました。
だってそれは、領地にいる腰の曲がった老婆が男爵家に手伝いをお願いに来る時と全く同じ顔をしていましたから。
「毎回毎回すまないねえ……」
「いいっていいって!おばあちゃんのところ、去年おじいちゃんが亡くなって1人でしょ!」
「まあそうなんだけれどもねえ……子どもも王都に行って手伝ってくれる者もおらんでねえ……」
「まあね……。ジントさんは腕がいい大工になっちゃったからなあ……。腕がいいのも大変ね!」
「怪我でもしなけりゃいいが」
「大丈夫大丈夫!だってジントさんは足だって速いもの!きっと王都でも身軽に動いて、危ない物があってもパパーッと避けちゃってるわよ!」
「そうだといいけどねえ……。それじゃあ、明日はよろしく頼むねえ」
「はーいっ!任せといて!」
ミウノの領地ではいつだってこんな感じでしたから、浮浪者の男の仕事というのも、ちょっとした農家の手伝いか何かだと思ったのです。
働くだけで悪事に少し関わってしまうなんてこと、誰が想像するでしょうか。
「……じゃあ行くぞ」
「はーいっ!」
ミウノが連れて行かれた先は、可愛らしい喫茶店でした。丸っこい屋根に丸い窓。まるで絵本に出てくる小人や妖精の隠れ家のようです。色もペールトーンで揃えられているのか、何もかもふわふわした綿菓子か雲を思わせました。
「か、可愛い……!」
ミウノが感動してポカンと口を開けている様子を見て、男は少し笑ったようでした。
「……ここ。女将に話はつけてある」
「失礼しまーす!」
やたら大きい声でその喫茶店に入ったミウノを見て、その喫茶店の受付をしていた女将は少しびっくりしたようでした。
「あんた!その服でここに来たの?」
「はい!」
「ダメダメ!ちゃんと学園の制服からは着替えてうちに来なさい。明日からは絶対!」
「……?はーい」
「ったく、王都学園の生徒が働いてるなんて気付いたら、あいつらがどうすることか……」
女将はブツブツ言っていたようですが、ミウノは気にしませんでした。目に見えるもの全てが新鮮だったのです。
華やかな内装に、可愛らしいショーケースのお菓子。王都学園と寮の行き帰りばかりで、王都散策すらしていなかった彼女にとって、それはとても輝いて見えました。
まるで朝露で輝く蜘蛛の巣のように。
(給仕ってことですわよね!ここで少し働いてお給料を貰えたら、弟たちにも何か贈ってあげましょう!)
ミウノが手渡された可愛らしい給仕服とやらを着ると、それなりに喫茶店の店員に見えました。
「ふーん……。ま、悪くはないね」
「ほ、本当ですか!?私こんな服着たことないです……!なんだかメイド服を可愛くし……」
「ストップストーップ。あんた結構余計なこと言うね」
「えっ?そ、そうですか?すみません」
「ここで長生きしたいなら基本は黙ることだね。飲み物の作り方はこの本に書いてあるよ。この本の中身を頭に入れな。無理なら持ち歩くんだね」
「はいっ!」
女将がそう言ったので、ミウノは喫茶店内でいつもその本を持って働いていました。飲み物の種類が多すぎたので。
チリンチリン
「はーい!少々お待ちを!」
呼び鈴が鳴るともうミウノの体は反射的にそちらへ向かうようになっていました。
真面目な彼女は毎日夕方の2時間だけ、そこで働き続けていたのです。契約書などはっきりとしたものはなかったのですが、普通働くにはそんなものが必要なことも、ミウノは知りませんでした。
だって、一般的な庶民の店で貴族令嬢が働くなんてこと、誰も想像しませんし、そう教育しませんから。
ミウノの実家は更に特殊でした。貴族のようでありながら農民のようでもあり、つまりどちらの社会常識も彼女は学んでいましたから。中途半端に。
ただ、王都の庶民の生活とは、また常識が異なっています。だから雇用契約書についての常識なんてもの、彼女には全く頭にはありませんでした。
常識は案外、生きている世界で違うのです。
常識が違う世界で生きている相手に常識を教えるのは、最初に引き込んだ人間の仕事です。
つまり、その浮浪者の男の仕事のはずでした。
貴族は国の補助金や領民からの税で給金を支給されるため届出のない副業は原則禁止とされていましたし、農民は家族で協力して農作物を売買し、金を稼いでいますが、組合などの互助組織など別の枠組みの中で生きていますから。
普通は手伝う時にも給金が発生しますが、ミウノの家は元々貴族だったため、ただの善意による無償の手伝いしかしていませんでした。
「今年はちょっと畑の出来が悪いな……」
「男爵様かその娘のミウノに聞いたらどうだ?」
「あいつら今日は山の麓で草刈りしてるってよ」
「じゃあ今日は陳情に行っても無駄だな」
「山の麓まで行きゃいいじゃねえか」
「いや流石にそれは面倒だ。今日の仕事があるし……それに、どうせそのうちここら辺の畑の手伝いにも来るだろ」
「1ヶ月後には来るんじゃねえか?ヤイチんとこの畑の収穫があるからな」
「あー、確かにな。んじゃその時でいいか」
貴族の仕事より農民の手伝いが主になっていたのは貴族としてはあまり関心されるようなことではありませんでしたが、彼らはその性質のおかげで、間違いなく領民の心を掴むことに成功していました。むしろ、過去の先祖も似たような性質だったからこそ、彼らは貴族になれたのかもしれません。
全く打算がない、底抜けのお人好し一家でしたから。
だからこそ、領民たちは無償で手伝う不思議なその男爵一家に(貴族にしては関心な一家だ)と、少し好感を持っていたのです。




