第47話 扶養欄
翌日、書庫の机には、昨日の写しがまだ出ていた。右下の濃さのない、差し替えられた要の控え。クロイスがそれを見つけてから、一日が経っていた。
ライサが、一枚の紙を持って入ってきた。机の端に置く。職員の異動を処理する票だった。配属、休職、退職。人が動くたびに人事が一枚切る、決まった書式の紙だ。
クロイスが照合掛の控えを追っているのを、ライサは知っていた。だから、その照合掛の番号が人事の票に乗ったとき、一枚を写してここへ持ってきた。正規の経路で取り寄せた紙だ。クロイスは、今日も書庫を出ていない。
こういう紙を、クロイスはふだん番号で読む。誰がどの欄から動いたか、どの判を通ったか。人事の票も、帳簿の控えと変わらない。名前は記録の都合では要らない。番号と、欄と、判。それだけ追えば、紙の上の動きは読めた。
受領印の登録番号を、先に見た。昨日、右下の濃さのない写しで見た番号と、同じだ。照合掛の、あの番号。クロイスはそれを、いつもの番号として照合しようとした。
だが、票の種別の欄に、退職、とあった。その横に、もう一語、書き足されている。
死亡、と。
戻っていない、というライサの昨日の言葉が、紙の上で書式になっていた。死亡退職。人事の決まった一語で、照合掛が一人、もう戻らないことが確定していた。
右下の角を濃く切ってきた、あの手。十年、同じ角度で受領印を切ってきた手が、もう一枚も切らない。昨日まで束の中に並んでいた癖が、今日からは増えない。それも、票の上で確定していた。
差し替えられた控えが何を語れたか。それを知っていたのは、控えを切った手だけだった。その手が、もう書庫には来ない。訊ける相手が、票の上で一人、消えている。クロイスの紙は、消えた相手には届かない。
クロイスは、票の欄を順に読んだ。氏名欄に、ヨナス、と書かれている。番号でしか見てこなかった手に、名前の欄があった。籍の欄、勤続の欄。補正の受けを十年、とそこにも記してある。
その下に、扶養欄があった。
子一名、と。
いつだったか、ライサが書庫で、子が熱を出したと聞いたが、と男に声をかけたことがあった。夜には下がりました、とあの男は小さく笑い、控えの綴じ目をもう一度確かめてから出ていった。あの一言が、いま、紙の冷たい欄になっている。扶養欄、子一名。クロイスがずっと番号として素通りしてきた手の向こうに、その一名がいた。
クロイスは、何も書き足さなかった。ペンも取らなかった。手が、票の上で止まっていた。
票には、人事の印が一つ捺されている。だが、印影は薄かった。型は正規のものなのに、朱が乗りきっていない。判を押した手が、力を入れていないように見えた。
その薄い印影の中で、死因欄だけが濃かった。氏名欄と、死因欄。その二つの欄だけ、筆圧が違う。ほかの欄より強く、深く、紙に押し込まれている。クロイスの指が、その欄の上で止まった。
前の生で、一度だけ、これと同じ形の紙を見たことがある。判の印影は薄いのに、死因欄だけが濃く、強く書かれていた紙だ。追っていた金の線は、その一枚と一緒に閉じられ、それきり開かなかった。机の上の票は、あのときの紙と同じ形をしている。クロイスの指は、動かない。
死因欄には、書式どおりの一語があった。急病、と。
急病で、判の印影は薄く、死因欄だけが濃い。書いた手は、ほかの欄を流して、その一語にだけ力を入れている。墨は、急病の二文字の縁から少しはみ出し、紙の繊維に滲んでいた。一度乾いてから、もう一度上をなぞったような濃さだった。順序が合うのか、合わないのか。クロイスは、その先へ指を進めなかった。今日は、進めなかった。
ライサが、机の脇に立っていた。
「子は、まだ小さいんだ」とライサが言った。声を、低くしなかった。低くしないことで、低くしていた。
クロイスは、票から目を上げなかった。
「いくつだ?」
訊いてから、自分が番号でなく歳を訊いたことに、手が一拍遅れた。ライサは、その手の止まりを見ていた。だが、何も言わなかった。
「知らないよ。熱を出すくらいの歳だ」ライサは、それだけ言った。補正の受けを十年、同じ照合掛と書類をやり取りしてきた声だった。それから、票の上のヨナスの名を一度だけ見て、何も加えずに書庫を出ていった。扉が、静かに閉まった。
書庫に、クロイス一人が残った。机の上には、右下の濃さのない写しと、ライサの置いていった処理票がある。クロイスは、票を写しの横に並べた。
一枚は、要の控えが抜かれて、写しに替わっていた。もう一枚は、その控えを切っていた手が、もう戻らないことを告げている。二枚を並べれば、間の線は、ほとんど一本だった。
いつもなら、二枚の紙の間に線が見えたとき、クロイスはその線を控えに書き込む。誰から誰へ、どの順で動いたか。それが仕事だ。だが、この二枚をつなぐ線は、片方の端が、もう紙の外にある。書庫に戻らない手の側に。机の上の紙では、そこまで引けない。
だから、クロイスは、その線を引かなかった。今日は、引かなかった。薄い印影の票の、扶養欄の一行。子一名。その文字の上で、指が、もう一度止まった。




