第48話 写せない角
ヨナスの票は、まだ机の上にあった。その横に、右下の濃さのない写し。昨日、クロイスが線を引かなかった二枚だ。朝の光が、薄い印影の上を滑っていく。
消された記録には、いつもの手が通じない。番号を照らし、日付を並べ、判を辿る。その手順は、本物が抜かれて写しに替わった束の上では、空を切る。昨日、クロイスはそれを知った。要の一枚は、揃った束の中で、揃ったまま偽物になっていた。
だが、クロイスは、もう一度その写しを引き寄せた。
バルナバスの側は、よく写していた。登録番号も、綴じ方の癖も、照合の日付も、本物と寸分たがわない。一枚だけ束から抜いて、同じ書式の写しを差し込む。その手際に、穴はなかった。番号でも、日付でも、綴じ方でも、写しと本物は分けられない。
ただ一つ、写せていないものがあった。
右下の角の濃さだ。
ヨナスの右手は、十年、受領印を切るたびに、右下の角へわずかに重心をかけてきた。型でもなく、指示でもない。手が勝手につけた、十年ぶんの癖だ。その濃さだけは、別の手では写せない。なぞっても、同じ角度の沈みは出ない。写しを切った手は、ヨナスの右手ではなかった。
そして、その右手は、もう一枚も切らない。昨日、票がそれを確定させた。癖は、ここで増えなくなる。新しい印で確かめ直すこともできない。本物の控えは抜かれ、その控えを切っていた手も戻らない。そこまでは、向こうの手が届いている。だが、十年ぶんの沈みは、写しを切った手に移らない。写しの上に残った、欠け。
クロイスは、その一点を物差しにした。
バルナバスの側が手をかけた控えは、どれも照合掛の受領印を通る。先渡しの照会が、一つの受付係から、一つの照合掛へ集まる。その筋は、もう机の上の地図にある。本物なら、受領印の右下の角が濃い。写しなら、その濃さがない。
クロイスは、束の控えを、右下の角だけで読み直した。番号も日付も、綴じ方も、いったん外す。受領印の右下の角の濃さだけを、一枚ずつ照らしていく。新しく解いたわけではない。ずっと素通りしてきた一点を、今度はその一点だけで見る。それだけだった。
濃い印が続いた。右下だけが、同じ重さで沈んでいる。本物の列。
そして、濃さのない一枚が出た。要の写しではなく、別の領の、別の補正の控えだ。番号も綴じ方も合っているのに、右下の角に、あの濃さがない。写し。
同じものが、さらに二枚出た。番号の上では正規に並んでいる控えの中に、右下の角の濃さだけを欠いた写しが、混じっていた。バルナバスが本物を抜いた数だけ、写せなかった角を持つ写しが、束の中に差し込まれている。消した痕が、消せない癖の不在として、一枚ずつ、机の上に並んでいった。
脇に寄せた写しは、ばらばらに散ってはいなかった。どれも、先渡しの照会が通る、あの一つの筋の上にある。バルナバスが本物を抜いて写しに替えた箇所は、そのまま、隠したい一枚がどこにあったかを指していた。消すために差し込んだ写しが、消した場所の並びになっている。要の一枚で一度引いた筋が、写せなかった角の側から、もう一度引けた。向こうは、本物を消すたびに、写せない角を一つ、紙の上に置いていく。隠した数だけ、欠けが残った。
クロイスは、濃さのない写しを、脇へ寄せていく。一枚、また一枚。ヨナスの処理票は、机の端に伏せてある。扶養欄は見えない。クロイスはそこへ手を伸ばさず、登録番号と、筆跡と、右下の角だけを見た。いまも、その三つ目だけで、写しは分けられている。指は、止まらなかった。
書庫の扉が開いて、ライサが入ってきた。脇へ寄せた写しの山に、目を留める。
「それ、どうやって分けてる」とライサが訊いた。番号でも日付でもなく、クロイスが角だけを見ているのに気づいた声だった。
「受領印の、右下の角だ」とクロイスは言った。「濃いのが本物。濃さのないのが、写し。十年、同じ手が同じ角度で切ってきた。その角度だけは、別の手に写せない」
ライサは、しばらく黙った。それから、脇の山を一度見て、低く言った。
「あの男の手で、あの男を消した相手を、追うのか」
クロイスは、答えなかった。手は、次の控えの右下の角へ移っている。
「ヨナスの癖が、まだ紙に残ってたんだな」ライサは、それだけ言った。言い終えても、写しの山に向けた目を、すぐには動かさなかった。それから、何も加えずに、書庫を出ていった。
ひとりになって、クロイスは、脇へ寄せた写しを机の中央へ戻した。濃さのない角を上にして、一枚ずつ並べる。紙の端が、同じ向きでまっすぐ揃う。要の写しを先頭に、別の領の写しを、その後ろに。
昨日は、引かなかった線だ。二枚をつなぐ線の片端が、紙の外にあったから。今日も、その端は紙の外にある。ヨナスは戻らない。本物の控えも、戻らない。
だが、写せなかった角は、紙の上に残っていた。濃さのない角が、机の上に、一列に並んでいる。番号でも、日付でもなく、その角の不在だけが、写しを一本に束ねていた。クロイスは、その並びの上に、線を引いた。名は書き込まない。右下の濃さだけを、線が通っていく。
線は、まだ短い。本物は戻らず、抜かれた要は、まだ向こうの棚にある。それでも、消された記録の上に、一本だけ残った線。




