第42話 逃した手
徴税官バルナバスの職務記録の写しが、机の上に三束あった。補正の記録、補填の差配、徴収高の照合——どれも徴税官の判が一つ捺され、正規の手続きとして収まっている。クロイスは端から読んだ。
抜きの行は、無い。地方領主の帳簿にはあった水増しの段も、伏せた登録者の欄も、別口へ落とした差額の一行も、本体の側の記録には一つも残っていない。バルナバスの名は、補正を通した判番号にしか出てこない。番号の主が、誰の金をどこへ動かしたか——それは職務の記録の外にあった。一束を閉じ、次の束を開いても、割る縁がどこにも無い。読む側の手では、一枚も割れなかった。
クロイスは記録を一度脇へ寄せ、別の一枚を手元へ引いた。金の組み方だけを抜き出して写した紙だ。器を先に作り、金を後から入れ、登録者の欄を空けて伏せる。三つの口座を必ず同じ順に並べる手順。地方の四領地に配られていた型の、大本の組み方が、そこに線で残っている。
その筆跡を、指の腹でなぞった。
指が、一拍止まった。
この組み方を、知っている。
前の生で、一度だけ追った。
前の机では、その型を「与党幹部関連法人」の査察資料として読んでいた。表紙の担当欄には、桐生蓮、とある。国税庁査察部。器を先に作り、金を後から入れ、名義人の欄を空欄で伏せる。同じ型の束。三つの迂回口座の並びも、補正の名目で抜いた金を正規の経理へ紛れ込ませる手順も、紙の上で端まで追い切った。あと一枚、受けた側の判が揃えば、令状が出るところまで来ていた。
その一枚を取りに行く前に、異動の辞令が一通、机に置かれた。理由欄は空白。査察の担当から外す、と一行だけ。詰めた束はそのまま別の手に渡り、開かれないまま棚へ戻る。立件は、そこで止まる。
外された後で、金の先を一人で追った。与党の重鎮が隠した金は、政治団体の口座を一度くぐり、犯罪組織の活動費に変わっていた。警察の処理票には、妹の名と、事故という二文字だけ。だが、同じ週の出納に、同じ金額。
妹は、歳の離れた、たった一人の身内。両親が早くに死んで、蓮が働いて育てた。学費の振込控えも、病院の領収書も、古い封筒の中。その妹を奪った金の、最初の器を組んだ手の筆跡が、これだった。
真相に手が届いた、その数日後。蓮の死は「事故」として、一枚の処理票で片付く。担当者欄の印影は薄く、死因欄だけが濃い。詰めかけた束も、追っていた金の線も、その一枚と一緒に閉じられる。
クロイスは写しから指を離した。
前の生で立件が流れた理由は、辞令だけではない。本体の記録が、完璧だった。器の側の帳簿には矛盾が無く、突くべき一行が無い。読む側の手では、どこも開かない。いま机の上にある記録と、同じ構造。
だが、一点だけ違う場所がある。
徴税官の判が「正規の補正」になるのは、判が一つ捺されたからではない。クロイスは職務規程を引き戻し、補正手続きの条を開いた。補正の判は、それだけでは記録にならない。別系統の照合を一度受けて、受領の控えが別の棚へ一枚残って、初めて「正規に処理された」ことになる。
バルナバスは、自分の欄は完璧に作れる。抜きの痕跡を一つも残さず、職務の記録に紛れ込ませられる。だが、自分の判を正規にした受けの手と、その受領の控えは、バルナバス自身が書いたものではない。本体が一人で閉じられる記録ではなかった。作る側でも、自分の判を一人では正規にできない。
書庫の扉が鳴った。ライサが入ってくる。報告の束を小脇に抱えたままだ。
「補正の判ってのは」と、クロイスは顔を上げずに言った。「どこが受けて、照合する?」
ライサは机のそばで足を止めた。椅子には手をかけない。
「いきなり何だい」
「徴税官の補正が現場でどう回るか、書庫の条文には大筋しか無い。実地の手順は、あんたのほうが見ているだろう」
ライサは少し黙ってから、指を一本立てた。
「補正の判が回ってきたら、受けるのは財務の照合掛だ。掛が数字を突き合わせて、受領の控えを一枚切る。その控えは、判を出した本人には戻らない。保管課の別綴りに入って、年度ごとに封がかかる。……それを聞いて、どうする」
「本人が書いていない一枚を、探している」
「徴税官の記録なら、本人の綴りにあるだろう」
「本人の綴りは完璧だ」クロイスの手は、写しの上にあった。「探すのは、本人が触れない側の控えだ」
ライサは何か言いかけて、口を閉じた。机の上の写しを一度見て、それ以上は訊かず、報告の束を置いて出ていく。扉が閉まる音が、書庫の天井で一度反った。
クロイスは、写しを束に戻す。いつもの手つきで端を揃え、次に開く綴りの順を決める。保管課の別綴り、年度の封——その棚の方角で、指が止まった。
本体の欄は、白いままだ。突く矛盾も、抜きの行も、そこには無い。だがその白い欄を正規にするために、別の手が押した受領の控えが、本人の知らない棚に一枚、残っている。前の生で取りに行けなかった、あの一枚と同じ位置にあるものだ。
手だけが、まだその棚の方角を指していた。




