第38話 紙が先
七月に入って、書庫の朝は窓を一枚開けるだけで足りるようになった。風で写しの端が浮かない位置に、重しの石を置き直す。
事務官が束を抱えて入ってきたのは、その直後だった。廊下の足音が重い。束の厚みは、姿より先にわかる。薄い日の報せは片手で持てる。今朝のは、両腕だった。
「第一局から写しが下りました。レーフェ男爵の供述です」
束の上に経路の覚えが一行載っている。第一局取調室発、第二局分析室宛、写し一式。受けの欄に判を捺し、覚えだけを返した。
取り調べには出ていない。突入にも出ていない。机に届くのは、いつも紙になってからだ。
供述の写しは、問いの欄と答えの欄が交互に並ぶ様式だった。問いは短く、答えは長い。
最初の数枚は、レーフェ自身の領地の話だ。毎期2000。凶作補填の名目で枠を立て、器が先、金が後。問いの欄は額を訊く。答えの欄は凶作の年の話から始まって長いが、長さは行にならない。行になるのは、額と、年と、口座だけだ。そのどれも、こちらの控えと一つも違わない。
棚の控えは出さなかった。数字は照合済みで、型も読み終えてある。認める旨の一行が答えの欄に増えた。増えたのは、それだけだ。
新しい数字はない。読みの直しもない。順にめくっていく。紙の音だけが続く書庫で、窓の外を荷車が一台通り過ぎた。
めくる手が、一枚で止まった。
問いの欄。同じ段取りを使う者を、ほかに知っているか。
答えの欄に、名がある。子爵フレンセン。
めくる速さは変えなかった。その一枚だけを束から抜いて、机の右に置いた。
立って、棚へ行った。地方領主の束から控えを一冊抜く。開く場所は探さなくていい。毎期1500の行が、三つの口座のうちの一つに立っている。器が先、金が後。レーフェと同じ並びで、額と口座だけが違う。
控えを机に戻し、供述の隣で開いた。写しの紙は白い。控えの紙は、縁が焼けている。
行と行を読み比べる手間は、ほとんどない。見るのは日付だ。
供述の写しの日付は、数日前。控えの行の日付は、何期も前。
指で、古い方の日付を一度押さえた。人の口がようやく言った名は、何期も前の日付の行に、もう載っていた。言葉は、経路を通って遅れて届く。
委任元のくだりは、写しの終わりの方にあった。
問いの欄。その段取りは、誰から下りたか。
答えの欄には、判の番号が一つ。答えの欄は、そこだけ短い。名を問う行に、名がない。判で下りてきた、元の名は知らない、という旨の言葉が、番号の後ろに続いているだけだ。
受任者の綴りの、一枚上の欄と同じだ。判の番号は控えてある。名は、この棚のどの束にもない。番号の欄だけが埋まり、名の欄は空いている。写しの答えも、同じ場所で止まっていた。
写しの番号だけを手元の紙に書き取った。置く場所は決まっている。受任者の綴りの、一枚上の欄の隣だ。
ここまでは事実だ。番号の先の名は、写しにも棚にも、まだ出ていない。
番号の上を問う行は、写しの様式に初めからない。問いが、そこで終わっている。
扉が開いた。ライサだ。
「レーフェが吐いた」
声は廊下と同じ高さのまま、机の前まで来る。椅子には目もくれない。
「あんたのところにも写しが来てるでしょ。読んだ?」
「今、最後の行まで」
「なら話が早い。次はどこを割る。こっちの取り調べじゃ、新しい名が出た。フレンセンって子爵」
上着に、外の埃の匂いがまだ残っている。座る気配のない立ち方のまま、机の縁から写しをのぞき込んだ。
控えの向きを変えて、行を指で押さえた。
「毎期1500。三つの口座のうちの一つ。器が先、金が後」
ライサの眉が動いた。
「……もう調べてあるの?」
「読んであった。日付を見ろ」
ライサが机に両手をつく。視線が行の端まで滑って、止まった。日付の上で、指が一度だけ動く。
「この写し、出来たばかりよ」
「行の方は、何期も前からある」
ライサの指が、日付から離れた。
「……紙が先、ってわけ」
「口は、後から来る」
ライサが控えと写しを見比べる。目の動く順が、日付から行へ、行からまた日付へ戻った。机についた両手は、そのままだ。
「上は? レーフェに段取りを下ろした奴」
「番号だけだ。名を問う行に、名が書かれていない。名は、どの束にもまだない」
「……それ、出るの?」
「判を通って金が動いたなら、金の線のどこかに名が出る。次に割る口座は、その線の上だ」
「で、割れるの? 男爵と子爵じゃ、段が一つ違うけど」
「起案を出す。経路はこちらで通す」
その場で書いた。宛先、局長。子爵フレンセン領、監査の起案。宛先と経路と日付だけの、短い一枚だ。起案の字は、経路の途中で何人もの目を通る。読み違えの起きない太さで書く。
「起案、今日付で出すの?」
「写しが届いた日に出す。経路の覚えに、届いた日が残る」
添えるものを一つ選んだ。供述の写しではなく、控えの行の写しにする。毎期1500の行と日付が入るように写した。写した行の端に、控えの綴りの番号も入れる。経路の先で、誰でも元の頁まで戻れるようにだ。監査の根拠は、日付の古い方が強い。先に書いてあった紙を、先に立てる。
事務官を呼び、写しの受けの欄に判を捺させて、経路の覚えを一行書いた。第二局分析室発、局長室宛。
ライサはもう扉の方へ歩き出している。
「割れたら、また来る」
振り向かない言い方だった。
事務官の腕の中で、束が机を離れる。今日の日付の起案の下に、何期も前の日付の写しが一枚、重なったまま運ばれていく。古い日付が今日の紙に乗って、扉の外へ出ていった。




