第34話 経路の外
七月の初め。書庫の階段を上りきったところで、ガロウが待っていた。
「宮内省だ。馬車が来ている」
左肩を一度回す。旧傷の側だ。クロイスは押収帳簿を机の上で揃え、起案の束には触れずに出た。束は、もう局長の手で次の役所へ回っている。書庫は出る。だが、捜査現場へは行かない。呼ばれたのは宮内省の庁舎の一室。記録を押さえる場ではない。
馬車は無紋だった。御者も無言だ。クロイスは膝の上で手を組み、袖口の縫い目に目を落とす。糸の端は、前に見たほつれの一本のまま、それ以上ほつれてはいない。車内に残るのは、車輪の音だけだった。揃え終えた束の重さは、もう手の中にない。あれは局長の机の上にあって、ここへは来ない。
◇
宮内省の客間は、前と同じ質素さだった。机と椅子の脚だけが王宮級だ。机の上に、図はなかった。代わりに、表紙のついた控え綴りが一冊、閉じたまま置いてある。役所の様式の、官の綴りだった。
銀髪の女が、机の前に立っていた。青い瞳。装飾はない。
「請求は、戻ったそうね」
抑揚はない。問い詰める声ではなかった。クロイスは座らない。勧められもしなかった。
「はい。返答が役所から戻り、起案にして局長の机へ上げました」
「起案にして」
繰り返す声に、咎める色はない。女は、机の上の綴りに、指を一度触れた。閉じた表紙の、右の端だ。
「あなたの机から、局長へ。局長から、次の役所へ。もう回っているのね」
「はい。確かめ終わった紙だけが、その順に回ります」
女は、しばらく黙っていた。それから、綴りの端から指を離す。表紙の右端に、指の触れていた一点だけが残った。
「私は、その名を、経路を回る前に欲しかった」
言葉は、止まらない。前に止まった位置から、一行ぶんだけ先へ出た声だった。
「役所の登録簿に出て、受任者の記録へ移り、起案に載る。その経路に一度乗れば、名は、もう経路の外では扱えない。私は、乗る前に、扱いたかった。手元で、一度だけ」
クロイスは、左手の親指で、右手の親指の側面をなぞった。ペンの胼胝のある場所だ。固いところを、一度なぞる。
女が言ったのは、クロイスが前に女へ言った理屈と、同じものだった。一度経路を通った名は、二度と経路の中だけのものには戻らない。クロイスはそれを、確かめ終わった名を経路に乗せる側から言った。女はそれを、乗る前に止める側から言っていた。前提は同じ。乗れば戻らない。逆なのは、立つ側だけだった。
「もう、乗りました」クロイスは言った。「受任者記録の閲覧は、起案に載せて、経路に出ています。名が記録に出れば、決まった順に机を回ります」
「あなたの手元で、止められる」
「止める欄が、業務の紙にありません」クロイスは綴りの方を見た。閉じた表紙の右端で、女の指が一度、止まっていた。「保留の欄も、個人へ回す欄もありません。経路に乗った名を、個人の手元へ先に引く一行は、どの様式にもありません。書けば、それは経路の外を一度通ります」
「一度外を通った名は、経路の中だけには戻らない」女は、クロイスの言葉をなぞった。「あなたが、前にそう言った」
「はい」
「私が止めたいのも、同じところだ」女の声は低くならなかった。「外を通る前に。記録に乗る前に。あなたとは、逆の側から」
女には、記録に乗せたくない名がある。それは、女の言葉と、閉じたままの綴りに置かれた指から、紙に出た事実として読めた。だが、その名が誰かは、女の口からも、綴りの表紙からも、出てこない。なぜ止めたいのかも、机の上には載らない。クロイスが読めたのは、止めたい名がある、という形までだった。中身は、まだ一枚先にある。
「その名を止めれば、第二局の紙は、あなたの判断に従います」クロイスは言った。「紙が、個人の手元で一度止まる。次からは、止まる紙と止まらない紙が出ます」
「だから、あなたは止めない」
「止めません」
◇
女は、机の上の綴りを、こちらへは押し出さなかった。前のとき、図は返された。今度は、官の綴りだ。返す相手の前に置く紙ではなかった。
女は、表紙を開いた。最初の一葉に、宛先の欄がある。役所の様式の、受付の欄だ。女は、そこへ目を落とした。私的に開いていた一筋を、官の欄の上で確かめる手つきだった。欄は空いているが、私的な宛先を書く場所ではない。
「考えておいて、と言った」女は、表紙の上に指を戻した。「あれには、返す紙が要らない。引いておく」
「先に、私に」。あの一筋が、ここで官の綴りの宛先欄の方へ移った。女の手元から経路の外へ開いていた一行は、引き上げられて、役所の様式の中へ畳まれた。クロイスは、その手の動きだけを見た。なぜ畳んだのかは、読まない。畳まれた、という所作だけが、机の上にあった。
女は、綴りを閉じた。表紙の右端が、机の縁と揃う。客間に音は立たなかった。私的な一言を置いていく女ではなく、官の綴りを閉じる女が、いま机の前にいた。
「あなたの紙は、あなたの経路を回ればいい」
命令ではない。だが、置いていく、という言い方でもなかった。引いた、と告げる言い方だ。女は、来たときと同じ幅で扉まで歩く。ほとんど立たない靴音。
客間に残るのは、閉じた官の綴りが一冊。表紙の宛先欄は、もう女のいる方角を向いてはいない。役所の受付の方へ、揃った端を向けている。




