第33話 代理の朱
七月の初め、書庫。机の上に、王女の名を添えて出した請求の控えがあった。端の返答日付欄は、まだ空いている。三年あの席を動かさなかった手の名と、その手がギルドの人事に外から朱を入れられた根拠。問うたのは、その二つだった。
数日が過ぎて、役所からの返答が戻った。
事務官が、書面と立ち会いの控えを携えて、書庫へ降りてきた。地下の階段は三十六段。一段ごとに、紙とインクの匂いが濃くなる。クロイスは、現地へは行かない。請求を起こした者が、現場で答えを受け取るのではない。返答は、紙になって、決まった順に机へ届く。
事務官が紙を置いて去ると、クロイスは控えを開いた。端の返答日付欄は、ずっと空いたままだった。そこへ、戻った日付を書き入れる。ペン先が、空欄の上で一度止まり、それから一行を引いた。空いていた欄が、一行ぶん埋まった。
返答が答えていたのは、二つのうちの、後ろのほうだった。
ギルドの人事に、外から朱を入れられた根拠。役所には、それが一件、登録されていた。人事への朱入れの権を、ギルドの外の手へ委ねる委任だ。役所の言葉では、代理の朱、と書いてある。
クロイスは、その一行を、指の先で辿った。
代理の朱の登録があれば、その席は、登録の許しなしには動かない。三年、異動の起案が決裁の手前で止め戻されてきたのは、この登録があったからだ。一度目、二度目、三度目。書いた手も送り先も毎回ちがったのに、止まる場所だけは三度とも同じだった。差し戻しの朱が欄の外から入ってきたのも、欄の中の決裁では止められなかったのも、この一件の登録で説明がつく。
誰かがあの席を守りたかった、という話ではない。代理の朱が登録されている以上、席はその許しの外では回らない。動機の話は、紙に出ない。記録に出るのは、登録が一件あること、その登録の通りに席が止まったこと。それだけだ。記録が、そう書いてある。
登録には、判が一つ捺してあった。
その判のところまで、後ろ盾は形を縮めた。これまで、ギルドの紙では名のための場所だけだったものが、ここでは一つの判の縁にまで寄っている。クロイスは、判の捺された位置を見た。役所の登録簿の、委任の欄の右端だ。朱の縁が、紙の繊維の中へ少しにじんでいる。だが、判が誰のものかは、この返答には出ていない。判の主の名は、委任を受けた側の記録に書かれる。それは、この一枚の、さらに先にあった。
名は、まだ一枚先だ。判の縁のにじみは見えても、にじみの下の名は、この返答には乗っていない。
クロイスは、返答の紙を、机の上で揃えた。問いの後ろのほうに、紙の上で答えが返った。前のほう――名のほうは、欄の位置だけが、一枚先へ送られている。
◇
クロイスは、確かめ終わった返答を、起案の紙に載せた。
代理の朱の登録一件。それが三年あの席を止めた根拠であること。判の主の記録は受任者の側にあり、その閲覧を次に請う、という起案だ。宛先は、局長ハーグレイヴの机だった。
戻った紙は、戻ってきた者の手で先に開かれるのではない。確かめ終わったものだけが、決まった順に、決まった机を回る。局長へ上げ、第二局へ上げる。それが、紙の通る筋だった。返答の控えの端には、いま書き入れた日付がある。日付の入った紙は、起案に重ねて、局長へ向かう束に挟んだ。
机の端に、椀があった。ヴィオラが置いたものだ。クロイスは、左手で起案を押さえたまま、右手で一口運んだ。白湯ではなかった。卵の色をした粥が、椀の底に薄く溜まっている。前と中身が違うことだけ、目の端が拾った。クロイスは、椀を置いて、起案の続きに戻った。ペンを持つ右手の親指の側面に、固い胼胝がある。固いところが、ペンの軸に当たって、いつもの位置に収まった。
局長室で、ハーグレイヴは返答の控えを一度だけ見た。返答日付欄の一行に、目が一拍止まる。
「代理の朱、か」
「登録が一件。三年、席が回らなかった根拠です。判の主は、受任者の記録に出ます」
「名は、まだか」
「一枚先です」
局長は、起案の宛先を確かめ、判を一つ捺した。王女の頼みのことには、触れない。控えを起案に戻し、次の役所へ回す束へ、自分の手で重ねていく。閉まる扉は、ほとんど音を立てなかった。
◇
書庫に戻った。机の上には、紙が積んである。
いちばん上は、王女の名の入った一枚だった。外への請求に、王家の名を添える許しの紙。その上に、返答日付の入った控えを重ねた。同じ日付の紙が、王女の名の一枚の、すぐ隣で揃う。机の上に、紙が一枚、増えた。
クロイスは、その一枚を、指で端から揃え直した。
返答の控えと、それを載せた起案。新しい紙は、確かに机に生まれた。だが、増えた紙の宛先は、どれも同じ向きを指していた。局長の部屋へ続く廊下の方だ。決裁を経て、次の役所へ回る。紙は、その方角へだけ折れていく。
「考えておいて」。あの言葉に返す紙は、この束には作られなかった。後ろ盾の名を、業務の経路より先に渡す一枚。それを書けば、宛先は、王女のいる宮内省の方を向くはずだった。だが、その向きへ折れた紙は、一枚も生まれていない。
起案の束は、廊下の方へ宛先を向けて、机の上にあった。王女の名の一枚は、その下で、隣の控えと同じ日付を揃えている。同じ日付の二枚が並んでも、王女の方角を宛先にした一行は、そこに書かれていなかった。




