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王立諜報局・第二局分析官  作者: どみさん


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第22話 卵粥

 足音が、三十六段を降りきった。机の前で止まる。


 クロイスは帳簿から目を上げた。


 茶色の髪を結い上げた女が立っていた。目元は柔らかい。侍女服。歳は二十歳そこそこに見える。隊員の誰でもない。


 「殿下の命で、あなたさまの身の回りのお世話に参りました。ヴィオラと申します」


 「不要です」


 「殿下のご命令ですので」


 ヴィオラは引かなかった。クロイスの拒否では動かない。動かすのは、王女の命令だけだ。


 クロイスは、ヴィオラを一度だけ見て、また帳簿に戻った。脅威ではない。第一局の者でもない。王女が寄越した世話の者が一人、書庫に増えただけだ。読む手は止めない。


 ヴィオラは机の上を見た。燭台は燃え残りが短い。水差しは空のまま。帳簿の山は開いたままだ。


 「いつから、お休みになっていないのですか」


 「あと数年分読めば終わる」


 「お体のほうが、先に終わります」


 クロイスは答えなかった。ヴィオラも、それ以上は言わなかった。言って動く相手ではないと、もう見ているふうだった。


 その言い方だけ、前世の妹の声に少し似ていた。寝ろ、と短く命じた時の声だ。クロイスは、その頁を閉じた。今開いているのは、男爵レーフェの帳簿だ。


 実際、瞼の裏は乾いていた。指の先も、少し冷えている。だが、それは読むことの邪魔にならない。邪魔になるのは、数字が動いた時だけだ。


 ヴィオラは帳簿には触れなかった。開いた頁も、積んだ山も、そのままにした。手をつけたのは、空の水差しと、燃え尽きかけた燭台だけだ。仕事の中身には入ってこない。入ってくるのは、その周りだけだった。


 ヴィオラが水差しを持って書庫を出ていく足音は、来た時と同じ歩幅だった。


 ◇


 夜明け前、机の上には、男爵レーフェの帳簿が残っている。


 ゆうべ読んだのは、額のことだ。凶作補填が毎期、金貨2000で動かない。今度は、その2000が「いつ」立つかを見る。


 各期の順番を追った。徴税の〆では、凶作補填はまだ立っていない。その期の徴税総額が確定する時点で、控除の欄は空だった。


 2000が立つのは、もっと後だ。中央への献納額を確定する、その直前。


 三期前を例に取る。徴税が確定したのは、その期の終わりの月だった。控除の欄は、まだ白い。2000が書き込まれたのは、二か月後、献納の額を綴じる前日だった。


 献納の額を出す最後の瞬間に、2000を抜く。だから献納には乗らない。徴税の〆で抜けば、期の途中で誰かが気づく。献納の直前なら、確定した額をそのまま下げるだけで済む。


 それが、五期とも同じだった。徴税確定、間を置いて、献納確定の直前に2000、そして献納。順番も、間合いも、揃っている。


 クロイスは指を止めた。


 額が固定で、抜く刻も固定。二つ揃って動かないなら、毎期別々の事情で起きた偶然ではない。同じ一つの手が、毎回同じ手順で、同じ額を、同じ瞬間に抜いている。


 ここまでは、紙の上にある。手が一つあること、その手順が動かないことは、欄に残っている。


 その手が、誰の手か。所領の家令か、徴税官か、中央で献納を受ける側の事務官か。それは、この帳簿では出ない。2000を書いたのが所領側の筆か、中央で後から足された筆かは、原簿を見ないと分からない。


 徴税官の手控えを、もう一度引き寄せた。手控えには、凶作補填の刻も額も無い。徴税官は、献納の直前に何も書き足していない。2000をその瞬間に立てたのは、手控えの側ではない。所領の帳簿の側だ。手は、中央よりも所領に近い。だが、所領の誰の手かは、原簿の筆を見るまで欄に入らない。


 原簿は現地にある。クロイスは行かない。筆の照合は第一局の領分だ。机の上で出るのは、手が一つ、その手順が固定、そこまでだった。


 もし別の領主の帳簿でも、同じ刻に同じ手順で抜きが立つなら、それは同じ手が、いくつもの領地を回っている。だが今日の紙には、まだレーフェの一件しかない。


 ◇


 ヴィオラが戻ってきた。


 水差しを満たして、机の隅に置く。燃え残りの燭台を、新しいものに替えた。それから、椀を一つと、茶を一つ、帳簿の山の端に置いた。


 「卵粥です。冷めないうちに」


 クロイスは顔を上げなかった。椀には手をつけない。茶も飲まない。視線は、計上の刻の上に置いたままだ。


 ヴィオラは下がった。書庫を出ていかず、隅の椅子に腰を下ろす。書庫に、自分以外の息の音が一つある。紙をめくる音と、その静かな息と、二つだけになった。クロイスは、その息を数えない。数えるのは、帳簿の刻だけだ。


 クロイスは控えの余白に、二つの欄を引いた。一方に「手」、もう一方に「名」。


 「手」の欄には書いた。一つ、固定。


 「名」の欄は、空けたままにした。第一局が現地から戻るまで、そこは埋まらない。


 机の端で、卵粥の湯気が細くなっていく。名の欄だけが、その横で白いまま動かなかった。


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