第九話 顔がいい若旦那、隠し撮りされる側の事情
すごく大人だ。
私ならたぶん、「人の顔を勝手に撮るな」と顔に出る。
いや、今も出ているかもしれない。
さっきから口元に力が入っているし、眉間もたぶん平和ではない。
「本当に大変ですね」
もう一度言うと、曽我部さんは困ったように笑う。
「ありがたいことでもあります。宿を知っていただくきっかけにもなりますから」
「でも、嫌じゃないですか?」
「嫌ですよ」
意外なほどあっさり返ってきた。
「あ、嫌なんですね」
「はい。ですが、宿の者としては、感情だけで対応するわけにはいきません」
「……さすが若旦那ですね」
「一応」
その言い方が柔らかくて、私は笑いそうになる。
若旦那、という言葉の重さを全部背負っているわけではなく、少し肩の力を抜く場所もちゃんと持っている人なのかもしれない。
「顔がいいと苦労するんよ」
「気持ちがわかるみたいな言い方しない」
「どういう意味なんよ」
「そのままの意味」
「当たりが強いんよ」
取材はその後も続いた。
客室の窓から見える道後の町並み。
大浴場の暖簾。
売店の柑橘アロマ。
朝食の小鉢。
旅館の外観。
撮りすぎではないかというくらい撮った。
同じ場所でも、立つ位置を変えると印象が変わる。
低い位置から撮ると畳の奥行きが出るし、少し引くと中庭の緑が入る。
器ひとつでも、真上から見るのと斜めから見るのでは、まるで表情が違った。
気づけば、フォルダの写真はさらに増えている。
スマホの容量が心配になる勢いだった。
「瀬川さんは、物を見る時に少し距離を変えるんですね」
取材の終わり際、曽我部さんがそう言った。
「え?」
「全体を撮った後、必ず近くに寄って、細部を撮られる」
「ああ……癖かもしれません。Webデザインをしていたので、全体の印象と、細かい素材の両方が気になって」
「なるほど」
曽我部さんは、静かに頷いた。
「では、当館の印象はどうでしたか」
「古いけど、古くないです」
言ってから、語彙力のなさに恥ずかしくなる。
「すみません、変な言い方で」
「いえ。続けてください」
「老舗って、もっと敷居が高いというか、緊張する場所だと思ってました。でもここは、古いものをちゃんと残しているのに、暗くないし、押しつけがましくないというか……初めて来た人でも、ちゃんと受け入れてくれる感じがします」
話しながら、自分でも驚く。
私は今、この宿のことをちゃんと見ようとしている。
昨日まで、内定承諾書の怪しさといよぴよさんへの怒りで頭がいっぱいだったのに。
今は、どう撮ればこの場所の空気が伝わるのかを考えている。
曽我部さんは、しばらく黙って私を見ていた。
「写真だと、そこを伝えたいです。格式だけじゃなくて、入りやすさとか、あたたかさとか。初めての人が、ここなら行ってみたいって思える感じを」
「……ありがとうございます」
その声は、さっきより低かった。
「それは、僕たちが一番伝えたいと思っていることです」
心臓が、小さく鳴った。
褒められたわけではない。
でも、自分が見つけたものを、その宿の人に「伝えたいことだ」と言ってもらえた。
四百五十九通のお祈りメールでは、私は必要ない人間みたいだった。
でも今、目の前の人は、私が見たものをちゃんと受け取ってくれている。
そのことに、喉の奥が少し詰まる。
「……あの、まだ初日なので」
「はい」
「あまり期待されすぎると、胃が痛くなります」
「では、少しだけ期待しておきます」
「それはそれでプレッシャーです」
「難しいですね」
曽我部さんが、ほんのわずかに笑った。
その笑い方が、さっきまでの若旦那としての丁寧な微笑みとは少し違って見えて、私は慌ててスマホの画面に視線を落とした。
取材を終える頃には、昼を少し過ぎていた。
私はこのまま、契約期間中の住まいになる松山市内のマンスリーマンションへ移動することになっている。
「お送りします」
「え、そこまでしていただかなくても」
「荷物もありますし、初めての土地でしょう」
「でも、お忙しいんじゃ」
「これも仕事のうちです」
そう言われると、断りづらい。
いや、正直に言えば、少し助かった。
キャリーバッグは重いし、土地勘はまったくない。
予讃線と路面電車とバスを乗り継ぐ自信もない。
愛媛に来て一日で、迷子の広報官になるのはさすがに避けたい。
ありがたく送ってもらうことに。
車の中は、昨日より気まずさが減っていた。
昨日は、駅弁とじゃこ天で胃もたれした女として迎えられた。
今日は、一応、取材を終えた広報担当だ。
進歩していると思いたい。
少なくとも、昨日よりは人間らしい。
窓の外には、松山の町が流れていく。
東京ほど建物が詰まっていない。
空が広い。
道路も、どこかゆったりして見える。
けれど、信号待ちの人や自転車で走る学生、店先に並ぶのぼりを見ていると、ここにもちゃんと暮らしがあるのだと思う。
観光地の写真だけでは写らない、毎日の愛媛。
私はこれから、その中に混ざることになる。
「明日のご予定はお決まりですか?」
運転席から曽我部さんに尋ねられる。
「明日は午前中、役所まわりです。契約とか、住所とか、生活の手続きが色々あって」
「大変ですね」
「本当に……転生なのに手続きが現実的すぎるんですよ」
「転生?」
「いえ、転職です。転職」
肩の上のいよぴよさんが、ぽすんと羽で私の頬を叩く。
「転生なんよ」
「うるさい」
「……」
バックミラー越しに、曽我部さんと目が合った。
私は全力で笑ってごまかす。
「午後は、スイーツのお店を取材したいんですよね」
「スイーツですか」
「はい。柑橘系のスイーツを出しているお店を探していて。愛媛といえば、やっぱりみかんとか柑橘かなと」
「よいお店がありますよ」
「本当ですか?」
身を乗り出した拍子に、シートベルトがかすかに鳴った。
「道後から少し歩きますが、地元の柑橘を使ったタルトやパフェが評判の店です。観光客にも人気ですが、地元の方もよく利用します」
「最高じゃないですか」
「よろしければ、ご案内します」
「え、いいんですか?」
「はい。午後でしたら、少し時間を作れます」
いや、それはもう。
取材先の紹介。
現地案内。
地元情報。
ありがたいことしかない。
でも同時に、頭の中で警報が鳴る。
これ、仕事だよね?
イケメン若旦那に、スイーツのお店を案内してもらう。
それは本当に仕事なのか。
いや、仕事だ。
私は広報担当なのだから。
柑橘スイーツの情報収集は、愛媛担当SNS広報官として非常に正当な業務である。
「では、お願いします」
そう答えると、いよぴよさんが肩の上でにやりとした気配を出した。
「デートやけんねぇ」
「取材よ」
「スイーツデートなんよ」
「取材」
「デート」
「素揚げにするわよ」
「取材やけんねぇ」
勝った。
マンスリーマンションの前に着くと、曽我部さんは荷物を下ろしてくれた。
昨日の旅館とは違う、生活感のある建物。
エントランスの自動ドアの向こうに、郵便受けがずらりと並んでいる。
ここが、これから半年の私の拠点になる。
そう思うと、急に現実味が増した。
「明日の午後、役所まわりが終わる頃にご連絡ください。迎えに来ます」
「迎えにまで?」
「初めての場所で迷われても困りますから」
「そんなに方向音痴に見えます?」
「昨日、駅のベンチでキャリーバッグの前に座り込んでいらしたので」
「それは食べすぎただけです!」
曽我部さんが、小さく笑う。
さっきまでの若旦那としての顔とは少し違う。
ほんのわずかに、年相応の青年らしい笑い方だった。
「では、明日」
「はい。今日はありがとうございました」
車が走り去っていく。
キャリーバッグの持ち手を握ったまま、私はしばらくその場に立っていた。
愛媛に来て、まだ一日と少し。
温泉に入って、鯛めしを食べて、旅館を取材して、若旦那にスイーツの店へ案内してもらう約束までしてしまった。
「……広報って、こんな感じでいいのかな」
肩の上で、いよぴよさんが得意げに言う。
「まずは愛媛を好きになるところからやけんねぇ」
「それっぽいこと言えば何でも通ると思わないで」
「でも、好きになっとるやろ?」
返事をしなかった。
代わりに、明日の午後の予定をスマホのカレンダーに入れる。
『柑橘スイーツ取材』
そう入力してから、少し迷って、隣に小さく付け足した。
『曽我部さん案内』
あくまで仕事。
そう自分に言い聞かせながら、マンスリーマンションの扉を開けた。
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