第八話 送迎係ではなく、伊予乃宿 月橘の若旦那でした
翌朝。
旅館の朝食は、昨日の夕食に負けず劣らず、恐ろしいほど美味しかった。
焼き魚に、出汁のきいた味噌汁。
ふわふわの出汁巻き卵。
小鉢に入ったじゃこ天と、柑橘の香りがするサラダ。
白いご飯はつやつやで、湯気まで美味しそう。
「朝からこんなに食べていいんですか……?」
そう呟きながら、しっかり完食した。
昨日あれだけ駅弁と夕食を食べた胃袋とは思えない働きぶりである。
我ながら、再就職先より先に胃袋の適性が見つかった気がした。
食後、ロビー奥のラウンジに案内される。
広い窓の向こうには中庭が見えて、朝の光を受けた緑がきらきらしていた。
昨夜見た時より、ずっと明るい。
同じ旅館なのに、夜はしっとりと落ち着いていて、朝はすっと空気が澄んでいる。
時間が変わるだけで、こんなにも印象が変わるのだと、少し驚く。
「お待たせいたしました」
声に振り返ると、昨日駅まで迎えに来てくれたイケメン送迎係が、名刺入れを手に立っていた。
今日も顔がいい。
いや、昨日より顔がいい気がする。
朝の光のせい?
それとも温泉で私の視力が回復した?
「改めまして」
彼は落ち着いた所作で名刺を差し出した。
「伊予乃宿 月橘で若旦那をしております。曽我部亮平です」
「……若旦那」
私は名刺と彼の顔を交互に見た。
「若旦那?」
「はい」
「送迎の方ではなく?」
「送迎も、仕事のうちですので」
なんてことだ。
いよぴよさんの『若旦那』という言葉も、ただの妄想かと思っていた。
昨日、私はこの人の前で、駅弁を食べすぎたとか、ブラックだけど温泉は入りたいとか、かなり好き勝手なことを口走っていた。
顔面偏差値が高いとも思った。
いや、最後のは口には出していない。
出していなかったよね……?
肩の上で、いよぴよさんが小さく羽を揺らす。
「顔面偏差値は心の中で言っとったんよ」
「心の中を読まないで」
「瀬川様?」
「あ、すみません。なんでもないです」
曽我部さんは不思議そうな顔をしたものの、それ以上は追及しなかった。
さすが若旦那ともなると、客の奇行にも、むやみに踏み込まない。
「本日は、当館の取材をお願いできればと思います。ロビー、客室、大浴場、売店、朝食、夕食の一部、それから若いお客様向けに改装したラウンジもご覧いただけます」
「はい。よろしくお願いします」
慌てて背筋を伸ばす。
昨日までは、怪しい内定に釣られて愛媛まで来てしまった無職だったのに。
でも今日からは、一応「せとうち四国広報局 愛媛担当SNS広報官」なんだから。
肩書きだけでも立派なら、せめて姿勢くらいは立派にしたい。
「写真撮影は自由にしていただいて構いません。ただ、お客様のお顔が入らないようご注意ください」
「わかりました」
「それと、館内には撮影をお控えいただきたい場所もありますので、その都度ご案内します」
「はい」
さすが若旦那。
説明が丁寧。
それに、話し方が落ち着いている。
昨日の車内でも思ったけれど、この人は声の使い方がうまい。
大きすぎず、小さすぎず、相手が聞き取りやすいところにすっと置いてくる感じ。
言葉を押しつけないのに、必要なことはきちんと届く。
旅館の人って、こういうところまで所作がきれいなんだ。
「では、まずはロビーから」
そうして、私の初取材が始まった。
ロビーの白木のカウンター。
中庭が見えるラウンジ。
売店に並ぶ今治タオルや砥部焼、柑橘のジャム。
旅館オリジナルだという、柑橘系のシャンプーやボディソープ。
撮るものが多すぎる。
「え、待って。ここ可愛い。こっちも撮りたい。あ、光が入ってる今のうちに……」
気づけば私は、スマホを構えたまま館内をパタパタと小走りしていた。
朝の光が床に落ちているうちに撮りたい。
中庭の緑が、ガラスに映り込む角度も残したい。
売店の柑橘ジャムは、ラベルの色味まで可愛い。
昨日までは「何を伝えたらいいのかわからない」と悩んでいたはずなのに、目の前にあるものが良すぎて、手が勝手に動いていた。
曽我部さんは少し後ろを歩きながら、必要な時だけ静かに説明を入れてくれる。
「そのシャンプーは、当館で使用しているものと同じ香りです」
「昨日のアメニティのですか?」
「はい。お客様からお問い合わせをいただくことが多く、売店にも置くようになりました」
「なるほど……使った後に買えるの、嬉しいですね」
口に出した瞬間、自分でも驚いた。
完全に仕事の目線になっている。
「瀬川さんは、そういうところをご覧になるんですね」
「え?」
「ただ可愛い、きれい、だけではなくて。お客様がどう感じて、どう動かれるかまで見ている」
真正面からそう言われて、スマホを持つ指先が少し止まった。
「……前の仕事の癖です」
「よい癖だと思います」
さらりと言われただけなのに、変に落ち着かなくなる。
褒められ慣れていない。
少なくとも、ここ最近はずっと、お祈りメールに祈られ続けるだけの日々だったから。
「……ありがとうございます」
小さく返すと、肩の上でいよぴよさんがにやにやしている気配がした。
「こちらの砥部焼は、地元の窯元さんにお願いしています」
「このジャムは?」
「近くの農園のものです。甘夏と河内晩柑があります」
「河内晩柑……名前だけで美味しそう」
「試食もありますよ」
「……!仕事中、なので」
「そうですか」
「……一口だけなら、仕事の一環でしょうか?」
曽我部さんが、ほんの少し笑った。
「もちろんです」
その言い方がまた、ずるい。
勧めているのに押しつけがましくなくて、こちらが負けたみたいな気持ちになる。
小さなスプーンで、河内晩柑のジャムをひと口だけもらう。
舌にのせた瞬間、さわやかな苦みと甘さがふわっと広がった。
「……美味しい」
「ありがとうございます」
「これ、ヨーグルトに乗せたい。あと、バニラアイスにも絶対合う」
「売店の説明に加えておきましょうか」
「やめてください。私の食い意地が公式情報になってしまいます」
肩の上で、いよぴよさんが呆れたように言う。
「ちょろいんよ」
「聞こえてるわよ」
「瀬川様?」
「いえ!なんでも……」
危ない。
本当に危ない。
何もない空間にキレる女として認識される日も近い。
いや、もう片足くらいは踏み込んでいる気がする。
売店を撮り終え、ラウンジの写真を撮っていると、視界の端で、きらりとスマホのレンズが光った。
最初は、私が撮影の邪魔になっているのかと思った。
けれど、違う。
ソファ席に座っていた二人組の若い女性客が、こちらにスマホを向けている。
いや、正確には、私ではない。
曽我部さんに向けて。
二人は小声で何かを言い合いながら、スマホを胸元に隠すようにして構えていた。
明らかに、こっそり撮っている。
「……」
曽我部さんは、気づいていないわけではなさそう。
けれど表情は変えない。
案内を続ける声も、足取りも、さっきまでと同じだ。
「こちらのラウンジは、夜は照明を少し落としております。昼とは印象が変わりますので、よろしければ夜の写真も」
「曽我部さん」
つい、小声で呼んでしまう。
「はい」
「その……大変ですね」
私の視線の先に気づいたのか、曽我部さんはわずかに目を伏せた。
「申し訳ありません。お見苦しいところを」
「いえ、曽我部さんが悪いわけじゃないですし」
むしろ、悪いのは隠し撮りしている方なのに。
彼が目立つのはわかる。
顔がよくて、所作もきれいで、背も高い。
旅館の人らしい落ち着いた服装も似合っている。
正直、写真に収めたくなる気持ちが、まったくわからないわけではない。
けれど、本人の許可なく隠し撮りをするのは違う。
ましてここは、旅館だ。
誰かが安心して過ごすための場所で、誰かを勝手に消費していい場所じゃない。
そう思っていると、女性客の一人が小さく歓声を上げた。
「やば、こっち向いた」
聞こえてますけど。
完全に、聞こえてますけど。
曽我部さんは、静かにそちらへ歩いていった。
「お客様」
低いけれど柔らかい声。
女性二人がびくっと肩を揺らす。
「館内での撮影はご自由にお楽しみいただけますが、他のお客様や従業員の顔が写り込む撮影はご遠慮いただいております」
「あ、すみません……」
「申し訳ありませんが、今撮影されたものは削除をお願いいたします」
怒鳴るわけでも、責めるわけでもない。
けれど、逃げ道を作らない声。
言葉は丁寧なのに、線引きだけははっきりしている。
この人は、優しいだけの人ではないのだとわかる。
女性たちは慌ててスマホを操作する。
「削除しました」
「ありがとうございます。どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」
曽我部さんは一礼し、何事もなかったように戻ってきた。
表情は穏やかなまま。
けれど私は、さっきまでとは少し違う気持ちでその横顔を見ていた。
自分のことだけではなく、この場所で働く人や泊まる人の安心まで守っている。
その当たり前みたいな振る舞いに、落ち着かなくなった。
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