第三十五話 契約満了を伝えたら、全力で引き留められました
「花火、この辺りで見るんですか?」
屋台の灯りが並ぶ通りから少し外れると、人の声が少しずつ遠くなっていった。
さっきまで聞こえていた太鼓の音も、笑い声も、屋台の呼び込みも、背中の方へ流れていく。
「もう少し先です」
亮平さんはそう言って、私の手を引く。
浴衣の裾を気にしながら歩いていると、古い建物の前で足を止める。
小さな料理屋さんらしい。
入口の暖簾はもう片づけられていて、店先には『本日貸切』の札が。
「ここですか?」
「知人の店なんです。花火の時間だけ、屋上を使わせてもらえることになっています」
「若旦那の人脈が強すぎる……」
「ただのお願いです」
階段を上がると、屋上には小さなテラス。
古い木のベンチ。
低い柵。
片隅には風鈴のようなものが吊るされていて、海風に小さく鳴っている。
下の通りほど人はいない。
でも完全に無人というわけでもなく、少し離れた建物の屋上や道端に、同じように花火を待つ人影がちらほら見えた。
それでも、ここは不思議なくらい静かだった。
「……すごい。よく見えそう」
「真正面ではありませんが、少し離れている分、落ち着いて見られます」
「亮平さん、こういう場所まで知ってるんですね」
「今治の方には、仕事の付き合いもありますから」
そう言う亮平さんは、いつもの若旦那の顔をしていた。
でも、浴衣姿で隣に立っているせいか、いつもと違って見える。
旅館の羽織でも、スーツでも、私服でもない。
夏の夜に、花火を待っている男の人。
それだけで、心臓が落ち着かない。
「美咲さん」
「はい」
「さっき、話があると言っていましたね」
「あ……」
そうだった。
花火の前に言おうと思っていた。
でも、屋台の匂いと、今治の焼き鳥と、かき氷と、亮平さんの浴衣姿で、完全にタイミングを見失っていた。
「えっと……お知らせがあるんです」
「はい」
「契約満了になったんです」
「……契約満了?」
「はい」
『せとうち四国広報局愛媛担当SNS広報官』から届いた内定承諾書に書かれていた期間は、半年。
三月から愛媛に来て、今月でちょうど半年。
その半年が今月で終わる。
「それは、愛媛を出て東京に戻るという意味ですか?」
「え?」
「コメント欄の人たちの『元カノ』になるつもりですか」
「はい?」
「愛媛にいた気がする、昔好きだった気がする、また会いたい。そんな勝手な記憶の中の人になるつもりですか」
「あの、亮平さん?」
亮平さんが何を言い出しているのか、全然わからない。
けれど、何かとんでもない勘違いをさせてしまっていることだけはわかった。
「住みやすいって、言っていたじゃないですか。食べ物も美味しいって。人もあたたかいって」
「あの?」
「仕事なら、うちの旅館を手伝えばいいんです。広報でも、企画でも、あなたの得意なことはいくらでもある」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「待てん」
「え?」
あれ……?
亮平さんの口調が、崩れ始めている。
普段はきれいな標準語なのに、今は声の奥に愛媛の音が混じっていた。
「……待てんのよ。もう半年も待ったけん」
胸が、どくんと鳴る。
「あなたが誰かの元カノみたいに語られるのも、いつかここにいた過去の人になるのも嫌なんよ」
「え、あの、違います。契約満了っていうのは、その……」
「僕が絶対に後悔させません。ずっとここにおってください」
「正社員登用になるだけなんです!」
「……」
「せとうち四国広報局の、正社員に」
「……」
「なので、その、まだここにいます」
「……先に言うてください」
「言おうとしました!」
しばらく沈黙が落ちた。
下の方からは、花火開始を待つ人たちのざわめきが聞こえる。
亮平さんは、ゆっくりと息を吐く。
「帰るんかと思ったんよ」
「……帰りません」
「ほんまに?」
「はい。まだまだ、ここでやりたいことがあります」
その時、肩の上でいよぴよさんが、待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「恋人役も、本採用の内定承諾書を用意せんとね」
この胡散臭い広報神は、ほんっとうに……!
私は肩に乗っているいよぴよさんを思い切り掴み、問答無用で巾着に突っ込んだ。
「ぴょっ!なにするんよー!!」
「うるさい!」
そのまま、巾着の紐をきゅっときつく縛る。
「————!!」
「っ——————!」
中でばたばた暴れている気配がする。
何か叫んでいる声も聞こえる。
「どうしたんですか……?」
「邪魔なので……」
「そうなんですか?」
「邪魔じゃないです?」
亮平さんはちらりと巾着を見て、それから私を見た。
「邪魔、ですね……」
言い方があまりにも自然で、笑いそうになる。
その瞬間、空に大きな花火が開いた。
音が体の奥まで響く。
赤。
金。
白。
夜空に広がった光が、遅れて私たちの顔を照らす。
ずっと、恋人のフリという言葉でごまかしてきた。
けれど、こんなのもう、お互い手の内を見せすぎて、ごまかしようがない。
半年も一緒にいて、隠せることなんてほとんど残っていない。
いよぴよさんのこともばれて。
好きな人が光って見えるなんて言葉も聞きかけて。
婚約者だと言われて。
小豆島の夜を越えて。
帰る場所を、愛媛だと思うようになって。
それでもまだ、フリだと言い張るには、あまりにも苦しい。
胸の中で膨らんでいた気持ちは、空に打ち上がる花火よりもずっと大きくなっていた。
「まだまだ、ここでやりたいこと、食べたいものがいっぱいあるんです」
亮平さんの手が、私の指に触れる。
今度は、恋人役ではない。
虫除けでも、契約でもない。
私はその手を握り返す。
「できれば、その全部を亮平さんと一緒に……ダメ、ですか?」
亮平さんが息を呑む。
それから、花火の音に重なるように、低い声が落ちた。
「ダメなわけ、ないんよ」
花火の光が、亮平さんの横顔を照らす。
次の花火が上がる直前、亮平さんの手が私の頬に触れる。
顔が近づく。
「美咲さん、好きやけん」
「はい……」
人混みの中ではない。
でも、完全に世界から切り離された場所でもない。
遠くに祭りの音がある。
下には人の気配がある。
空には花火がある。
その中で、亮平さんの唇がそっと触れた。
短いキス。
けれど、ずっと長い時間、待っていたような気がした。
巾着の中で、いよぴよさんがまだ何か叫んでいる。
その気配を無視して、もう一度キスをした。
さっきよりも、ほんの少し長く。
花火の火薬の匂いに混じって、同じ店で選んだ香水の香りが、そっと重なった気がした。
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