第三十四話 愛媛に戻って、おんまくの夜が始まります
小豆島から戻って数週間。
愛媛での生活にすっかり慣れていた。
しまなみ海道の投稿は、数日に分けて上げるたびに反応が伸びた。
小豆島のオリーブオイルで作ったアヒージョの写真にも、「愛媛の元カノ、ついに家庭料理まで始めた」とコメントがついた。
もう、知らない土地に来た無職の女ではない。
『愛媛担当SNS広報官』
『もぐもぐ広報』
『愛媛の元カノ』
不本意な呼び名も混ざっている。
というか、最後のひとつは今でもできれば返上したい。
それでも、ここで私を見つけてくれる人がいる。
私が撮った写真を見て、愛媛に行きたいと言ってくれる人がいる。
私が食べて、笑って、悩みながら書いた言葉が、少しずつ誰かに届いている。
そう思えるようになった。
今日は、夜から今治の大きな花火大会の日。
思い切って買ってみた、新しい浴衣。
淡い水色に、白い花が散った柄。
大人っぽくしようか、可愛くしようか、何日も悩んで、結局いちばん海と夏に似合いそうなものを選んだ。
ネットで調べて、何度も着付けを練習した。
帯の結び方を動画で見ながら、何度もほどいて、やり直して。
汗だくになりながら、鏡の前でようやく形になった時には、自分を褒めたくなる。
「遠足前の小学生みたいなんよ」
「うるさい。浴衣は戦闘服なの」
「恋の戦場なんねぇ」
「違う。花火大会の取材です」
そう言いながら、私は最後に髪飾りを挿す。
亮平さんとの待ち合わせ場所に着くと、予想通り女の人たちに囲まれている。
浴衣姿の女性が二人。
スマホを手にした観光客らしい人が一人。
亮平さんはいつも通り丁寧に対応しているけれど、表情はどこか薄い。
だいぶ減ったけれど、人が多い所は特に、気を抜くとすぐに亮平さんは囲まれてしまう。
「亮平さん!」
なるべく大きめに声をかける。
目が合うと、さっきまでのつまらなさそうな表情が、ふわりと和らいだ。
私を見つけた目元が、はっきりとやわらかくなる。
この瞬間が、本当に好きだと思ってしまう。
「なにしとるんよ」
「美咲さん、大丈夫ですか?」
動悸と眩暈で、気づけば、私は近くの壁にもたれかかっていた。
何度も会っているのに、本当にどうしようもない。
「すみません……亮平さんまで浴衣だとは思わず、心の準備ができてなくて……」
紺地の浴衣に、落ち着いた灰色の帯。
何回か旅館で見た和装とも違う。
仕事のためのきちんとした装いではなく、夏の夜に花火を見に来た男の人の浴衣姿。
それなのに、所作だけは相変わらずきれいで。
袖口からのぞく手首も、少し緩めた襟元も、全部が目のやり場に困ってしまう。
「美咲さんの浴衣、とてもお似合いです」
「……えっ」
「待ち合わせ場所で見つけた時、少し見惚れました」
「また、そんなことを……でも、着付け頑張ってよかったです」
そう言うのが精一杯だった。
「美咲さん、人が多いので逸れないように」
「はい」
差し出された手を取る。
手を繋ぐのは、さすがに前より慣れてきた。
それでも、指が絡むと心臓は簡単に跳ねる。
人混みの流れに合わせて歩き出す。
太鼓の音。
屋台の呼び込み。
どこかで流れている音楽。
港の方へ近づくにつれて、そこに焼き物の匂いや甘い匂いが混ざっていく。
「お知らせがあるんです」
「はい」
「その前に、焼き鳥だけ……」
「美咲さん」
「だって今治ですよ!?おんまくですよ!?焼き鳥の匂いがするんですよ!?」
焼き鳥。
かき氷。
じゃこ天。
レモンスカッシュ。
ベビーカステラ。
商店街の方にも出店が並んでいる。
甘い匂いと、しょっぱい匂い。
火の匂いと、砂糖の匂い。
夏祭りの空気が、全部まとめて胃袋を誘惑してくる。
「美咲さんは、なんの屋台が一番好きですか?」
「えー?なんでしょう……そういえば、実家の神奈川の方では、じゃがバターのジャガイモが揚げてあるんです」
「そうなんですね」
「神奈川でしか見たことなくて……カロリーが怖いですけど、美味しかったなぁ」
「……向こうに戻りたいんですか?」
亮平さんの声が、わずかに低くなった。
東京には何でも揃っている。
車がなくても、スーパーにもコンビニにも行けちゃう。
少し電車に乗れば、大きなビルも、テーマパークも、流行りのお店もある。
でも。
「東京には、なんでもあるけれど、愛媛にしかないものもたくさんあります」
「はい」
「ここの方が、食べ物も美味しく感じます。人もあたたかいです」
東京では、あんなに人がたくさんいるのに、いつも一人のような気がしていた。
仕事をして、家に帰って、寝る。
それを繰り返すだけの毎日。
ご飯は、自炊をしていた時期もあるけれど、疲れ切った日はコンビニかファミレス。
食べることを、こんなに楽しみにしたことがあっただろうか。
地元のものを食べて、作った人のことを考えて、誰かに伝えたいと思ったことがあっただろうか。
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