第三十話 最低な元婚約者が、『愛媛の元カノ』を笑ってきました
「美咲さん。本当に無理をしなくても」
「大丈夫です。さっきはちょっとだけびっくりしただけです」
会場へ入ってからも、亮平さんは何度も私を気遣ってくれた。
元カノさんと共通の知り合いが来ても、誰かに声をかけられても、亮平さんはずっと私のそばにいてくれる。
そのたびに、私を『恋人』として紹介する。
私は否定せず、笑って挨拶をする。
「瀬川美咲です」
「亮平さんには、いつもお世話になっています」
口にするたび、気持ちが落ち着かなくなる。
これはフリなんだから。
恋人役なんだから。
わかっているはずなのに、亮平さんが自然に私の腰の少し後ろへ手を添えるたび、どうしても意識してしまう。
「そういや、向こうに教授、来てるぞ」
「え?本当に?」
亮平さんの表情が変わった。
話していた恩師の方だろうか。
さすがに、先生には亮平さんの方から挨拶に行くべきな気がする。
「亮平さん。私は大丈夫なので、ご挨拶に行ってください」
「……美咲さんも一緒に」
「いえ、積もる話もあると思うので、ここで待ってます」
「ですが」
「大丈夫です。本当に」
そう言って笑うと、亮平さんはまだ少し迷っているようだった。
けれど、声をかけてきた男性に促され、申し訳なさそうに頭を下げる。
「では、少しだけ……すぐ戻ります」
「大丈夫なので、ゆっくりお話ししてきてください」
亮平さんが移動していく背中を見送る。
一緒にいる間、予想していた通り、周りの女性からの視線はすごかった。
亮平さんを見ては、色めき立つような声があちこちから聞こえる。
私がいなかったら、今頃取り囲まれていたんじゃないだろうか。
「よかったん?ほら、若旦那を追いかけてる子、いるけんねぇ」
「いいの。束縛するような立場じゃないし」
「素直じゃないけんねぇ」
素直じゃない。
素直になんて、どうやったらなれるのだろう。
そもそも、今の私は何に対して素直になれていないのか。
亮平さんに行ってほしくなかったこと?
他の女性に囲まれてほしくないこと?
それとも、恋人役という言葉に隠れて、本当は別のものを期待していること?
考えたくなくて、私は手にしたグラスの水を一口飲んだ。
その時だった。
「美咲」
名前を呼ばれて振り向く。
誰かなんて、見なくてもわかる。
この場で私を呼び捨てにするのなんて、一人だけだ。
「……何?」
「少し話せない?」
「話すことはありません」
「そんな固いこと言うなよ。久しぶりなんだし」
「新婦さんが待っていますよ」
「そんなのいいからさ、二次会の後、抜け出そうぜ」
は?
聞き間違いだと思った。
いや、思いたかった。
今は、この人の結婚式の二次会だ。
その場で、元婚約者だった私に。
しかも、式の主役である新婦がすぐ近くにいるこの場所で。
「いやさ、さっきはあんな言い方したけどさ。美咲の方が美人だなって」
「見比べると、やっぱ東京の子の方が垢抜けてるよな」
「莉子って、見た目まんま、キツいんだよな」
「その癖、家だとだらしないし、金遣い荒いし」
「仕事も辞めたっきり、次を探してもいないんだよな〜」
言葉が出てこない。
彼は酔っぱらっているのか、気が大きくなっているのか、奥さんの愚痴を止めない。
新郎の白いタキシードを着たまま、花嫁の悪口を、よりによって元婚約者の私にこぼしている。
意味がわからない。
気持ち悪い。
嫌悪感しかない。
その場から一歩下がりたいのに、足がうまく動かない。
「すり身……!すり身にしてやりたいんよ!!」
「わかるけど、黙ってっ……!」
「じゃこ天に加工するけんねぇ!」
「今それ以上言うと、私が変な人になるから!」
私が黙っていることを、勝手に肯定だと思い込んだのか、淳一はさらに近寄ってきた。
「どうせ、あいつだってお前とは遊びだろ?」
「っ!?」
腰に回された手に、一気に鳥肌が立つ。
「ちょっと、やめてよ」
「SNSも見たけど、『愛媛の元カノ』だっけ?マジウケる。俺の元カノなのにな」
その言葉に、顔が一気に熱くなるのがわかった。
馬鹿にされた。
私が一生懸命やっていることを。
愛媛で、悩んで、撮って、食べて、言葉にして、ようやく届くようになってきた仕事を。
ああ、彼はずっとそうなんだ。
だから、私が彼のために仕事を辞めたことにも何も思わなかった。
私がどれだけ不安だったかも、落ち着いたら働こうと、岡山での仕事だって調べていた。
婚約破棄をした後も、どれだけ必死に転職先を探していたかも、きっと考えたことがない。
私の頑張りは、彼にとっていつも、少し笑って流せる程度のものだった。
本当に、どこが好きだったんだろう。
一度は耐えられたはずなのに、視界が揺れる。
「その手を放してもらえますか」
低い声がした。
「あれ〜?莉子の元カレじゃん〜」
「亮平さんにまでやめてよ……」
「まあまあ、あんたも莉子の性格にうんざりして、癒し系な美咲に癒されたかっただけだろ?」
淳一はそう言いながら、亮平さんの肩に腕をかけようとする。
「俺と美咲は一年以上付き合ったわけよ。おたくは?どれくらい?」
「それ、関係ありますか?」
亮平さんが淳一の腕を静かに払った。
「一年だろうが、二年だろうが、付き合った時間は関係ありません」
私と淳一の間に立ち、庇うように亮平さんが言い放つ。
「彼女は僕の婚約者ですから」
婚約者?
その言葉に、全身が固まった。
誰が誰の……?
「おぉ、昇進やけんねぇ」
「黙ってっ!」
亮平さんの背中越しに、淳一の表情しか見えない。
亮平さんは、なんでそんな嘘を。
なんでかなんて、そんなのわかっている。
きっと、私を助けるためだ。
でも、婚約者という言葉は、恋人役よりずっと重い。
フリだとわかっているのに、胸の奥が大きく揺れてしまう。
「婚約者?聞いてないんだけど」
振り向くと、新婦の莉子さんが立っていた。
なんで。
こんな最悪のタイミングで。
「あなたに報告することではありませんので」
「昔は、何でも話してくれたのに」
「おい莉子。昔って何だよ。まだこいつに未練があるのかよ?」
「あなたこそ、さっきからチラチラチラチラ元婚約者ばかり見てるじゃない」
「そっちだって、こいつが来てからずっと様子おかしいだろ!?」
淳一の声が、会場のざわめきの中で嫌なほど響いた。
近くにいた招待客たちが、一斉にこちらを見る。
笑い声とグラスの音。
遠くで流れる軽い音楽。
それらが、急に薄く遠ざかる。
「やめなよ、淳一。ここ、あなたたちの二次会でしょ」
「美咲は黙ってろよ。これは俺たち夫婦の問題だから」
夫婦。
さっきまで二次会の後に抜け出そうぜなんて言っていた口で、よくそんな言葉が出る。
「その夫婦の問題に、私を巻き込まないで」
「巻き込んでないだろ。俺はただ、久しぶりに会った元カノに声かけただけで」
「腰に手を回して?」
亮平さんの声に、淳一は言葉に詰まる。
「いや、だから、それは酔ってただけで」
「酔っていたら許されると思っているんですか」
「固いな、あんた。二次会だぞ?場を盛り上げようとしただけだって」
場を盛り上げる。
あまりの言い草に、頭の奥がすっと冷えた。
私の腰に手を回すことが。
元婚約者をからかうことが。
今の奥さんの悪口を言うことが。
彼にとっては、場を盛り上げるための冗談だなんて。
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