第二十九話 元カノの結婚式だと思ったら、新郎が私の元婚約者でした
会場に着いて、まず目に入ったのはウェルカムボード。
淡い花で飾られたボード。
新郎新婦の似顔絵。
その下に、金色の文字で名前が書かれている。
新郎 岡崎淳一
新婦 有坂莉子
あれ?
漢字って、どう読むんだっけ。
読めている気がするのに、意味が全然、頭に入ってこない。
「……同姓同名?」
思わず首を傾げる。
こんな名前、きっとどこにでもある。
岡崎淳一なんて、探せば日本のどこかに何人もいるはずだ。
けれど、名前と一緒に描かれた似顔絵が、どうしてもあの人の面影を思い出させた。
少し垂れた目元。
人当たりのよさそうな笑い方。
昔、私が『いい人』だと思っていた顔。
指先から、すうっと熱が引いていく。
「美咲さん?」
手からクラッチバッグが落ちそうになるのを、亮平さんが受け止めてくれた。
「どうしましたか?」
「あの……新郎……私の、元婚約者の名前で……」
「美咲さん。すぐ愛媛に戻りましょう」
「え……」
亮平さんに手を掴まれる。
帰る。
その言葉が、一瞬だけ遠く聞こえた。
「でも、今日は亮平さんの恋人のフリをするために来たのに……」
「そんなことはどうでもいいです」
「だって……」
「僕は美咲さんに、そんな悲しい顔をさせたいわけじゃないでんす」
会いたかったわけでもない。
今さら何かを言いたかったわけでもない。
それは本当だ。
なのに、亮平さんにここまで心配させるほどの顔を、私はしているのだろうか。
「美咲?」
聞き慣れた声に、身体がびくっと震えた。
やっぱり、同姓同名なんかじゃない。
別れてから今日まで、一度だって会ったことはなかったのに。
なんでよりによって、今日。
なんでよりによって、亮平さんの隣にいる時に。
振り向くと、そこにいたのは私の元婚約者である岡崎淳一だった。
白いタキシード。
整えられた髪。
日焼けした顔。
記憶の中より、幸せそうに見えた。
そのことに、胸がちくりとする。
未練ではない。
悔しさでもない。
ただ、あの時、私の人生をぐちゃぐちゃにした人が、何食わぬ顔で主役の場所に立っていることが、どうしようもなく気持ち悪かった。
「やっぱ美咲だ。え、なんでここに?」
淳一は驚いた顔をしたあと、すぐに笑った。
その笑い方が、昔と少しも変わっていないことが嫌だった。
「あ、もしかして莉子の知り合い?世間狭いな」
莉子。
その名前を、彼が親しげに呼ぶ。
私から仕事も、住む予定だった場所も、結婚式も奪った相手の名前。
あのレシートの向こう側にいた人。
「……知り合いでは、ありません」
どうにか、それだけを絞り出すと、淳一は私の隣に立つ亮平さんへ視線を向けた。
「えっと、こちらは?」
「曽我部亮平です」
亮平さんが静かに名乗る。
いつもの穏やかな声。
けれど、私の手を支えてくれている指先には、わずかに力がこもっている。
「曽我部……ああ、莉子の」
淳一の目が、意味ありげに動く。
「へえ。そういうことか」
そういうこと。
その言葉に、胃の奥が冷える。
「美咲、今はそいつと付き合ってるんだ?」
「……はい」
「そっか。よかったじゃん。ちゃんと次、見つかったんだ」
次……?まるで、私が落とした財布の代わりを見つけたみたいな言い方。
「いや、俺もさ、ずっと気になってたんだよ。あの後、美咲どうしてるかなって」
嘘だ。
本当に気にするような人なら、浮気なんてしない。
本当に気にしていたなら、仕事を辞めた私に「岡山でやり直せばいいじゃん」なんて言わない。
「仕事は?決まった?」
「決まりました」
「へえ、どこ?」
「愛媛で広報の仕事をしています」
「愛媛?美咲が地方で?大丈夫?東京でもけっこういっぱいいっぱいだったじゃん」
その言い方が、嫌だった。
心配しているようで、どこか上から見ている。
昔からそうだったのだと、今になって気づく。
優しいふりをして、私の弱さを先回りして決めつける。
亮平さんの空気が、すっと冷えた気がした。
「淳一さん。美咲さんは、こちらでとてもよく働いてくださっています」
「いやいや、そういう意味じゃなくて」
亮平さんの言葉に、淳一は慌てたように手を振る。
「こいつ、真面目だからさ。抱え込みすぎるところあるし、食べるの好きだから、ストレス溜まるとすぐ太るし」
息が止まった。
その言葉は、昔も聞いたことがある。
『結婚式までに少し絞った方がいいんじゃない?写真残るんだし』
悪気のない顔で言われた言葉。
あの時は、そうかもしれないと思った。
私が気をつければいいんだと思った。
笑って流せば、傷ついていないことになると思っていた。
でも今は違う。
肩の上で、いよぴよさんが低く呟く。
「美咲ちゃんは、頑張っとるけん」
「……」
「こんな奴の、どこがよかったん?」
そんなの、私が聞きたい。
いつもならうるさいと思ういよぴよさんの言葉が、今日ばかりは嬉しい。
「美咲さんが美味しそうに食事をされる姿は、こちらの料理人や店の方にとって、大変喜ばしいものです」
「え?」
「少なくとも、僕はそう思っています。そういう言い方は、失礼ではありませんか」
淳一の顔から、軽い笑いが消えた。
亮平さんは一歩も引かず、まっすぐ淳一を見ていた。
声を荒げているわけではない。
けれど、言葉の一つひとつが静かに線を引いている。
その横顔を見上げると、淳一は気まずそうに視線を逸らす。
「いや、だから、冗談だって。美咲も昔はそういうの笑って流してたし」
「笑って流していたから、傷ついていなかったとは限りません」
淳一は口を閉じたけれどすぐにまた、取り繕うように笑う。
「まあ、でもよかったよ。元気そうで。俺もさ、美咲には幸せになってほしいと思ってたから」
どの口が言うのだろう。
「今日も、来てくれてありがとう。あの時のことは……まあ、色々あったけどさ」
私の退職も。
婚約破棄も。
十二月の結婚式も。
四百五十九通のお祈りメールも。
彼にとっては『色々』で済んでしまう。
「もうお互い大人だし、今日は普通に祝ってくれるよな?莉子には、あんまり昔のこと言わないでくれると助かる。あいつ、気にするタイプだから」
淳一のその声に、胸の奥にあった震えが、すっと冷めた。
ああ。
この人は、私のことを心配して声をかけたんじゃない。
新婦に過去を知られたくなくて。
私に黙っていてほしくて。
それで、優しい元恋人の顔をしているのだ。
「……淳一」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
彼の名前を呼び捨てにするのは、ひどく久しぶりだった。
でも、心は揺れなかった。
「私からは、何も言わないよ」
「だよな。美咲ならそう言ってくれると思ってた」
淳一の顔が、ほっとしたように緩む。
「でも、それはあなたのためじゃない。私が、もうあなたと関わりたくないから」
淳一の表情が止まった。
言った。
言えた。
足は少し震えていた。
けれど、亮平さんの手がそっと背中を支えてくれている。
「だから、今日も必要以上に話しかけないで。私は、亮平さんの恋人としてここに来ています」
淳一が、初めて不快そうに眉を寄せた。
面白くなさそうに口元を歪める。
「へえ。まあ、よかったじゃん、美咲。俺よりいい男捕まえたってわけだ」
「捕まえた、ではありません。僕が、隣にいてほしいとお願いしました」
亮平さんの声が、低く響いた。
言葉が出なかった。
淳一も、しばらく何も言えないようだった。
心臓が、静かに大きく鳴っている。
隣にいてほしい。
それは、この場を切り抜けるための言葉かもしれない。
恋人役としての台詞かもしれない。
それでも、その言葉に支えられている自分がいた。
その時、会場の奥から女性の声がした。
「淳一?何してるの?」
白いドレス姿の女性が、こちらへ歩いてくる。
「あー、莉子。久しぶりの知り合いに会ってさ」
淳一が気まずそうに笑った。
亮平さんの元カノ。
そして、淳一の結婚相手。
彼女の視線が、亮平さんに止まった。
彼女はまるで自分の世界に入ってしまったように、亮平さんから目を離さない。
「……亮平。来てくれたんだ」
その声には、花嫁が招待客に向けるものとは違う温度があった。
嬉しさ。
驚き。
それから、隠しきれていない何か。
私は、亮平さんの隣で息を呑む。
小豆島まで来て、元婚約者と元カノが同時に目の前に現れる。
こんな偶然、笑えない。
けれど、逃げるにはもう遅い。
亮平さんの手が、私の背中からそっと離れ、代わりに私の手を取った。
指先が絡む。
あの日、しまなみ海道で繋いだ時よりも、ずっと自然に。
「お久しぶりです、莉子さん。本日はおめでとうございます」
亮平さんは、静かに言ったその声は、ちゃんと祝福の形をしていた。
けれど隣にいる私には、彼の指先が冷えていることがわかった。
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