第二十八話 車ごとフェリーに乗って、小豆島へ向かいます
「待ってください!!待ってください!!?本当にこれ大丈夫なんですか!?」
亮平さんの車に乗ったまま、ゆっくりとフェリーに乗り込む。
係員さんの誘導に従って、車は船内の駐車スペースへ進んでいく。
床の継ぎ目を越えるたびに、タイヤの下から低い音がする。
ごとん、と車体がわずかに揺れるたび、私は無意識にシートベルトを握りしめた。
「大丈夫ですよ。小豆島で動くなら、この方が便利ですから」
「そういう問題じゃなくて!車で船に乗る経験が初めてなんですけど!?」
「落ち着いてください。もう停まります」
亮平さんの言葉通り、車はゆっくりと指定された場所に停まった。
車に乗ったまま船に入る。
ただそれだけのことなのに、足元ごと日常から切り離されたみたいで、妙に落ち着かない。
「と、停まりました?降りても大丈夫なんですか……?」
「大丈夫です。デッキに行きましょうか」
「はい……わわっ……」
助手席から降りた瞬間、久しぶりに履いたピンヒールと、船特有のかすかな揺れで、足元が想像以上に不安定になる。
床はしっかりしている。
しっかりしているはずなのに、身体だけがほんの少し遅れて揺れるような、不思議な感覚。
「揺れるので気をつけて」
亮平さんがすぐに手を差し伸べてくれる。
よたよたと、小鹿のような足取りになりながら、私はその手を取った。
こんなふうに手を貸してもらうことも、もう数えきれないほどあったはずなのに。
今日は、いつもと違う。
仕事用のスーツとも違う。
旅館の羽織もない。
白いシャツに、控えめなシルバーグレーのネクタイ。
胸元には、派手すぎない白のポケットチーフ。
ジャケットは濃紺で、身体に合ったきれいなラインをしている。
旅館の若旦那としてのきちんとした空気はそのままなのに、今日は華やかで。
髪もいつもより軽く上げていて、近寄りがたいくらい整って見える。
「……直視できない」
漏れた声に、亮平さんが首を傾げた。
「何がですか?」
「いえ、今日の亮平さん、戦闘力が高いなと」
「ははっ。戦闘力ですか」
「元カノさんの結婚式にそのビジュアルで行くの、攻撃力高くないですか?」
こんなの、元カノさんだけじゃない。
他の招待客の女性だって、絶対に見る。
私ですら、できるならずっと見ていたい。
今だって、見すぎないようにするので精一杯だ。
亮平さんは一度だけ目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「美咲さんほどじゃないですよ?」
「っ……なっ!?」
「似合っています。そのワンピース」
囁くように落ちた言葉に、ぱっと顔を上げる。
結局、ワンピースは亮平さんのお言葉に甘えてしまった。
くすんだピンクに、夏らしくレースをあしらった涼しげなデザイン。
いくつか候補を出した中から、亮平さんが選んでくれたものだ。
自分で買った服なら、褒められてもここまで動揺しなかったかもしれない。
けれど今日は違う。
この人が選んだ服を着て、この人の隣に立つ。
それだけで落ち着かなくなる。
「でも、そうですね……もし次があったら、ペアリングでも用意しましょうか」
「ペアリング!?」
声が裏返る。
そんなのって。
フリの域を、いったいどれだけ超えてしまうのか。
「冗談です」
「ですよね……」
「でも、美咲さんにも虫除けが必要かなとは思っています」
「……それも冗談ですか?」
「これは本気です」
冗談なのか、本気なのか、全然わからない。
本当に心臓に悪い。
かっこいい亮平さんにどきどきしているのか。
それとも、選んでもらったワンピースを褒められたからなのか。
ペアリングという言葉に反応しているのか。
もう、自分でもよくわからなくなっている。
六月の末。
気温も高い。
船内の空気も、熱がこもっている。
きっと暑いせいだ。
顔の熱を逃がすように手で扇ぎながら、私は亮平さんに続いてデッキへ向かった。
外へ出ると、海風が思っていたより強い。
髪が頬にかかり、慌てて押さえる。
潮の匂いと、エンジンの低い音。
足元から伝わる、船の振動。
遠くに見える島影。
白く泡を引く船の軌跡。
空と海の境目に、小豆島らしい影が少しずつ近づいてくる。
今日は、亮平さんの元カノの結婚式の二次会。
私は、恋人役として隣に立つ。
何度もしてきたはずの役なのに、今日は少し重い。
ただの虫除けというには、私の方が意識しすぎている。
「緊張していますか」
「……少し」
「無理はしないでください」
「大丈夫です。私、亮平さんの恋人役なので」
「……役、ですね」
「はい。役です」
その言葉が、なぜか自分の胸にも小さく引っかかった。
便利な言葉のはずなのに、今日はその言葉で自分の気持ちを押さえ込んでいるみたいで。
亮平さんは、海の方へ視線を向ける。
横顔は穏やかなのに、いつもより遠く見えた。
「美咲さん」
「はい」
「今日は、もし嫌な思いをしたら、すぐに言ってください」
「それは、亮平さんもです」
「僕も?」
「はい。私、恋人役なので。虫除け役でもありますし」
そう言い切ると、亮平さんがこちらを見る。
少し驚いたような顔をして、それから、ほんのわずかに表情をやわらげた。
「頼もしいですね」
「今日は戦闘力高めで来ていますから」
「では、頼らせていただきます」
「はい。任せてください」
言いながら、本当は少し怖かった。
元カノさんがどんな人なのかも、どんな顔で亮平さんを見るのかも、私は何も知らない。
それでも、隣に立つと決めた。
フリでも、役でも。
今日だけは、亮平さんが一人で嫌な思いをしないように。
海風に揺れたワンピースの裾が、指先に触れた。
くすんだピンクのレースが、陽射しの中で淡く光っている。
亮平さんが選んでくれた服。
亮平さんの隣に立つための服。
その事実が、私の背中を押してくれた。
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