第二十六話 助手席から投稿したら、今度は助手席彼女扱いされました
亮平さんの横顔が固まった気がする。
「みんな面白いこと考えますよね」
「……そうですか」
「あと、その席代わってって」
「代わりません」
「え?」
「運転中ですから」
「あ、はい。そうですね」
運転中だから。
そりゃそうだ。
何も疑問に思うところじゃない。
もう一度コメント欄を見る。
『この距離感、もうデートでは?』
『取材という名のデート』
『愛媛の元カノ、今日は助手席彼女感が強い』
デートじゃないし、元カノなのか、彼女なのか。
いったい私は、ネット上で何人分の記憶を背負っているのだろう。
「うわ……」
「今度は何ですか?」
「取材という名のデートって書かれてます」
言った途端、車内の空気がわずかに静かになった気がした。
私は慌てて続ける。
「もちろん、コメントですから!みんな勝手に言ってるだけで!」
「そうですね」
亮平さんの声は、いつも通り落ち着いている。
でも、ハンドルを握る指先に、ほんの少し力が入ったように見えた。
「美咲さん」
「はい」
「今日、楽しかったですか?」
不意に聞かれて、私はスマホから顔を上げる。
「……楽しかったです」
そこは、迷わなかった。
「取材としても、すごくよかったです。写真も動画もたくさん撮れましたし、投稿も分けて出せますし。香水作りも塩ソフトも、絶対反応いいと思います」
「仕事としては?」
「大成功です」
「では、仕事ではない部分は?」
亮平さんが、こちらに視線を向けると、胸の奥が、変な音を立てた。
「え」
「今日一日、美咲さん自身は楽しかったですか」
なんてことない質問のはずなのに、意味が違って聞こえる。
海が、少しずつ遠ざかっていく。
橋の白い線も、島影も、夕方の光に溶けていく。
答えるまでの数秒が、やけに長かった。
取材としての感想なら、いくらでも言えるのに。
写真が撮れた。投稿に使える。数字が伸びそう。
でも、亮平さんが聞いているのは、たぶんそこではない。
「……楽しかったです。仕事じゃなくても、たぶん、とても楽しかったです」
何も考えずに出た言葉に、恥ずかしくなる。
何を言っているんだろう。
これではまるで、本当にデートだったと言っているみたいじゃないの。
肩の上で、いよぴよさんが小さく囁く。
「若旦那、今のはだいぶ嬉しそうなんよ」
「黙って」
「美咲ちゃんもだいぶ嬉しそうなんよ」
「黙って」
「両思い目前なんよ」
「海に沈めるわよ」
「物騒なんよ!」
通知は、まだ増え続けている。
でも、今日はもう全部を追わなくてもいい気がした。
明日から小分けに投稿する写真は、帰ってからゆっくり選べばいい。
展望台の写真。
神社の楠。
香水の小瓶。
塩ソフト。
たくさんの美味しい食べ物。
どれも、ちゃんと見せたいし、ちゃんと伝えたい。
でも今だけはこの帰り道の余韻を味わっていたい。
松山へ近づく頃、空はすっかり夕方の色になっていた。
車がマンスリーマンションの前に着く。
「今日はありがとうございました」
私はシートベルトを外しながら頭を下げた。
「こちらこそ。お疲れさまでした」
「明日から、しまなみ特集で投稿しますね。まずは展望台、それから神社、香水、塩ソフトの順で」
「楽しみにしています」
「あ、香水」
私は膝の上に置いていた紙袋を持ち上げる。
「本当にありがとうございました。大事に使います」
「はい」
亮平さんは目元をやわらげた。
「よければ、次にお会いする時につけてきてください」
「え」
「せっかく選びましたから」
「……はい」
答えてから、頬が熱くなる。
次に会う時。
その言葉が、妙に甘く聞こえた。
「では、また」
「はい。また」
私は紙袋を抱え直し、車のドアを閉める。
車が走り出すのを見送ってから、ようやく息を吐いた。
肩の上で、いよぴよさんが呆れたように言う。
「若旦那、もう隠す気あるんかねぇ」
「黙って」
「美咲ちゃんも、さすがにそろそろ気づくんよ」
「黙ってってば」
今日一日、取材だった。
でも、記憶に残っているのは、海の青だけじゃない。
スマホを開くと、通知はまだ増えている。
『愛媛の元カノ、しまなみ編きた』
『明日も投稿ある?』
『この子のしまなみ旅、追いたい』
『助手席目線の破壊力すごい』
そのコメントを見て、小さく笑った。
「……明日から、ちゃんと見せるから」
今日見た景色を。
今日食べたものを。
今日、胸が動いたときめきを。
ただし。
亮平さんの手の温度と、香水を渡された時の顔だけは、私の中にしまっておく。
そう決めて、部屋へ戻った。
その夜、写真フォルダを何度も何度も見返して、結局なかなか寝られなかった。
今日撮った写真は四百枚以上。
でも、投稿に使わない写真もある。
二つ並んだ塩ソフト。
香水の小瓶を見つめる私の指先。
車窓に薄く映った亮平さんの横顔。
それから、ピントがぶれているのに、なぜか消せない一枚。
展望台へ向かう道で、繋いだ手元がほんの少しだけ写っていた写真。
たぶん、歩きながらスマホを持ち直した時に、偶然撮れてしまったのだと思う。
手だけ。
誰に見せても、何の写真かわからないかもしれない。
でも、私にはわかる。
あの時の風も、指先の温度も、離す理由を探しながら離さなかった自分のずるさも。
その写真を、そっと非公開のフォルダに移す。
仕事用でも、広報用でもない、今日の私だけの記録として。
眠れない理由が、選ぶ写真が多すぎるから。
そういうことにしておいた。
それだけではないことには、まだ気づかないふりをした。
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