第二十五話 しまなみの帰り道、投稿しない写真をそっと隠しました
塩ソフトを食べ終える頃には、空の色がやわらかくなり始めていた。
朝に松山を出た時は、今日一日でこんなにたくさんのものを見ることになるなんて思っていなかった。
景色も、歴史も、香りも、味も。
今日一日で、しまなみ海道に何度も殴られた気がする。
もちろん、いい意味で。
助手席で写真フォルダを開いた私は、今日撮った写真の量に引く。
写真フォルダは、もう大変なことになっている。
「……四百枚超えてる」
「それは、整理が大変ですね」
「大変です。本当にどれもいい写真ばかりで」
橋も、海も、島も。
展望台の景色も、神社の大きな楠も、香水の小瓶も、塩ソフトも。
どれも消せない。
似たような写真が三十枚くらいあっても、それぞれ少しずつ違う。
光の入り方とか、風で揺れた髪とか、手元に映った紙袋とか。
それから、昼に食べたものたち。
写真を一枚ずつ確認する。
画面には、白いご飯の上に焼豚が乗り、その上に半熟卵が二つ並んでいた。
甘辛いだめがつやつや光っていて、写真越しでも危険な香りが蘇りそうだった。
「焼豚玉子飯、卵を割ったところで負けました」
「負けたんですか」
「負けました。とろっと黄身が流れて、焼豚とだめとご飯に絡んだら、もう勝てないです。人間は白米と半熟卵に勝てません」
「主語が大きいですね」
運転席の亮平さんが、前を見たまま少し笑う。
写真をめくるたび、今日の味がひとつずつ戻ってくる。
炊き込みタイプの鯛めし。
塩気がきいたソフトクリーム。
柑橘ジュース。
道の駅で見つけたレモンケーキ。
香水のお店の近くで買った、小さな柑橘ピール。
「愛媛、食べ物で殴ってきますよね」
「殴ってはないと思いますが」
「殴ってます。美味しさで。しかも連打です」
「美咲さんは、だいぶ打たれ強いですね」
「胃袋だけは」
肩の上で、いよぴよさんが胸を張る。
「胃袋広報官なんよ」
「肩書きを増やさないで」
「でも、いちばん仕事しとるんよ」
「うるさい。否定しづらいことを言うな」
窓の外では、夕方の海が少しずつ遠ざかっていく。
朝に見た海より、色が深い。
同じしまなみ海道なのに、時間が変わるだけでまるで別の場所みたいだ。
光が傾くと、橋の白い線も、島の緑も、どこか落ち着いた色になる。
「お土産もたくさん買っていましたね」
「はい!鯛めしの素をありったけ買っちゃいました!食べ比べしようかと!!」
「いいですね」
「あ!よかったら、亮平さんもうちに食べに来ませんか?」
「え?」
あ、まずい。
何気ないつもりだったのに、言葉にした途端、ものすごく変な意味を持ってしまった気がする。
亮平さんを部屋に誘う。
しかも、鯛めしの素の食べ比べに。
何その生活感と距離感の合わせ技。
「あ、あの!一人じゃ一気に食べきれませんし!」
「残ったら、おにぎりにして冷凍はするんですけど……」
「そう!香水!今日の、香水のお礼です!」
あんな素敵な香水のお礼が、鯛めしの素の食べ比べ。
どういうことよ。
必死になればなるほど、どうしても亮平さんを家に招待したくて仕方がない人みたいになっていく。
いや、どうしようもないくらい、仕方がない人でも構わない。
だって少なくとも、断られたら少し落ち込むくらいには、もう期待してしまっている。
「お言葉に甘えて、ご馳走になってもいいですか?」
「……なんか、無理やりですみません」
「いえ。美咲さんが作ってくれるの、楽しみです。合いそうなお酒も持っていきますよ」
「……ありがとうございます。何か、おつまみになる物も用意しますね」
思いがけずできた次の約束。
頭の中は、部屋の掃除や作る料理のことでいっぱいになる。
テーブルの上の転職本はもう片付けてある。
でも、読みかけの資料や、撮影用に買った小物や、食べかけのご当地のお菓子はどうだっただろう。
人を呼ぶ部屋になっていただろうか。
しかも、亮平さんを。
考えたら顔に出そうで、ごまかすようにまたスマホへ視線を落とす。
「明日から忙しくなりますね」
「はい。しまなみ特集です」
「楽しみにしています」
「亮平さんが楽しみにするんですか?」
「しますよ。会えない日も、毎日チェックしています」
また、そういうことを言う。
会えない日も、なんて、さらっと。
その言葉に勝手に引っかかってしまう私の方が悪いのだろうか。
「今日の分は、何を投稿するんですか?」
「えっと、行きの車内と、しまなみ海道に入るところだけにします」
「小分けにするんですね」
「はい。一日で使い切るのはもったいないですし」
それに、全部一気に出すと、私の心が追いつかない。
今日の景色も、香りも、食べたものも、まだ自分の中でちゃんと整理しきれていない。
私はスマホの画面を開き、今日の一投目にする写真を選ぶ。
助手席から撮った、フロントガラス越しの橋。
白いケーブルの向こうに広がる青い海。
車窓に映り込んだ、私の手元。
亮平さんの横顔は入らないように、ぎりぎり切った。
それから、短い動画。
橋へ入った時、私が思わず、
『……すご』
と小さく呟いている声が入っている。
「これ、声入ってますね……」
「いいと思いますよ」
「私の語彙が死んでますけど」
「初めて見た時の反応としては、自然です」
亮平さんのその言い方に、胸が温かくなる。
私は投稿文を打ち込む。
『初めてのしまなみ海道。
写真では何度も見ていたのに、実際に橋へ入った瞬間、言葉が出ませんでした。
海の上を走っているみたいで、島が近くて、空が広くて。
愛媛に来てよかったかも、が強くなった日』
「……これでいいかな」
「見せていただいても?」
「はい」
スマホを差し出すと、亮平さんは信号待ちの間に画面を見た。
「いいと思います」
「本当ですか?」
「はい。今日の美咲さんの気持ちが、そのまま入っています」
「そういう言い方、褒めすぎじゃないですか」
「褒めていますよ」
何も言い返せず、投稿ボタンを押す。
数秒後、画面に投稿完了の表示が出る。
私はスマホを膝の上に置いて、窓の外へ視線を逃がす。
帰り道の海は、朝とは違って見えた。
同じ橋を渡っているはずなのに、光が少し傾いて、海の色も深くなっている。
島影は朝よりくっきりしていて、遠くの空は淡い金色に染まり始めていた。
朝は、これから向かう場所への期待で胸がいっぱいだった。
今は違う。
今日見たものが、ひとつずつ身体の中に沈んでいく。
橋の高さも、神社の静けさも、香水の甘酸っぱさも、塩ソフトの冷たさも。
全部が、帰り道の夕方の色に混ざっている。
「夕方のしまなみも、いいでしょう」
「本当に」
そう答えたところで、スマホが震えた。
一回。
二回。
三回。
「あ」
通知が増え始めている。
投稿したばかりなのに、もう反応がついていた。
「早いですね」
「最近、初速が少しだけつくようになったんです」
コメント欄を開く。
『しまなみ海道、行きたくなった』
『この「すご」だけで伝わる』
『広報さんの初見リアクション、可愛い』
『助手席からの景色って最高だよね』
『愛媛に行ったことないはずなのに、広報さんを助手席に乗せた記憶がある』
『わかる。運転して横でこの声聞いた気がする』
『運転しているの、若旦那?その席代わって』
『いや若旦那はそのまま運転してて』
『この子としまなみ海道ドライブした記憶が今生えた』
コメントを見て、堪らず笑ってしまった。
「……また変なコメントが増えてる」
「何と?」
「愛媛に行ったことないはずなのに、私を助手席に乗せた記憶があるそうです」
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