第二十一話 亀老山展望公園で、仕事じゃない『楽しい』が増えていく
亀老山展望公園を後にして、私たちは再び車に乗った。
さっきまで見下ろしていた海と橋の中へ、今度は自分たちが入っていく。
車は島から島へと渡る道を走る。
窓の外には、何度見ても飽きない青い海と、緑の島影。
橋を渡るたびに、少しずつ空気の匂いが変わる気がした。
海の近さも、山の色も、島に入った時の道の細さも、全部が少しずつ違う。
「次はどこへ行くんですか?」
「大三島です」
「おおみしま」
「はい。大山祇神社へ」
「神社なんですね」
「はい。しまなみ海道を紹介するなら、外せない場所だと思います」
亮平さんの声が改まった。
さっきまでのドライブデートみたいな空気とは、少し違う。
観光地を案内するというより、大事な場所へ連れていくような声。
私も、自然と背筋を伸ばす。
「なんだか、お任せしてばかりですみません。でも——」
そこまで言って、窓の外へ視線を向ける。
さっきまで浮かれていた胸の内側が静かになっていた。
「食べ物と景色だけじゃなくて、歴史とか、土地の人に大事にされている場所もちゃんと紹介できるのっていいですね」
自分で言って、少し驚く。
一か月前の私なら、そんなことを考えただろうか。
映えるか。
数字が取れるか。
バズるか。
そればかり気にしていた気がする。
もちろん、広報として数字は大事。
届かなければ意味がない。
でも、届けば何でもいいわけじゃないのだと、最近ようやく思うようになった。
愛媛を紹介するということは、美味しいものやきれいな景色だけを切り取ることではないのかもしれない。
そこに暮らしている人が、何を大切にしてきたのか、何を守ってきたのか。
そういうものまで知らないと、たぶん、伝えたことにはならない。
「そうですね。ここは、島の人にとっても大切な場所です」
亮平さんの言葉は、短い。
けれど、その短さの中に重みがあった。
しばらくして、車は神社の近くへ着く。
駐車場から歩き出すと、空気が少し変わった。
さっきまでの海辺の明るさとは違う。
木々の影が濃くて、足元の砂利を踏む音がやけに大きく聞こえる。
鳥居の向こうに続く参道。
両側には古い木々。
観光客の姿もあるのに、不思議と騒がしさはない。
スマホを握ったまま立ち止まる。
「……写真、撮っていいんですよね」
「境内の案内に従えば大丈夫です。ただ、場所によっては控えた方がいいところもあります」
「はい」
スマホを構える前に、一度だけ深呼吸をした。
撮る。
でも、撮りすぎない。
入ってはいけない場所へ入らない。
誰かの祈りを邪魔しない。
撮っていいものと、撮らない方がいいものを、自分でもちゃんと考える。
広報って、見せる仕事だと思っていた。
けれど、何でも見せればいいわけじゃない。
見せないことで守れるものも、きっとある。
「難しいですね」
小さく呟くと、亮平さんがこちらを見る。
「何がですか?」
「こういう場所を紹介するのって。きれいです、すごいです、来てください、だけじゃ足りない気がして」
自然と小声になってしまう。
亮平さんは表情をやわらげた。
「そう思ってくださるなら、十分だと思います」
「そうですか?」
「敬意を持って見ようとしている人の言葉なら、きっと伝わります」
簡単に、大丈夫だと言い切らない。
でも、私が悩んでいることを、間違いではないと受け止めてくれる。
亮平さんのそういうところに、私は何度も助けられている。
そして、助けられていることに慣れそうになるたび、怖い気持ちが増える。
参道を進むと、大きな楠が見えた。
幹が太く、枝は空を覆うように広がっている。
近くに立つと、自分が急に小さくなったような気がした。
「……大きい」
木の根元には、長い時間が積もっている。
人が生まれて、育って、年を取って、いなくなっても、この木はずっとここにいたのかもしれない。
暑い日も、雨の日も、台風の日も、誰かが手を合わせた日も、誰かが泣きそうな顔で見上げた日も。
そう考えると、気持ちが少し静かになる。
スマホを構えた。
でも、すぐにはシャッターを押せない。
画面の中に収めようとすると、目の前の木はどうしても小さくなってしまう。
本当はもっと大きくて、もっと深いのに。
幹のしわも、木陰の涼しさも、見上げた時の首の角度も、画面には入りきらない。
「写真だと、全然足りないですね」
「はい」
「広報、向いてないかも」
「なぜですか?」
「だって、伝えたいのに、伝えきれる気がしないんです」
亮平さんは、考えてから言った。
「伝えきれないと思うことも、書けばいいのでは」
「え?」
「写真では伝えきれないから、実際に来てほしい。そういう言葉も、広報だと思います」
画面の中の大きな楠を見つめる。
写真では、風が写らない。
木の下に立った時の静けさも、足元の砂利の音も、空気が少し冷たくなる感覚も写らない。
でも、だからこそ。
来てほしい、と言えるのかもしれない。
「……それ、投稿文に使っていいですか?」
「どうぞ」
「亮平さん、たまにコピーライターみたいなこと言いますね」
「旅館の案内文を考えることもありますから」
「なるほど。さすがです」
肩の上で、いよぴよさんが珍しく静かにしていた。
「いよぴよさん?」
小声で呼ぶと、みかん色の丸い鳥は、いつもより神妙な顔をしている。
「ここでは、あんまり騒いだらいかんのよ」
「……ちゃんと空気読めるんだ」
「広報神やけんねぇ」
「ちょっとだけ見直した」
「ちょっとだけなんよ?」
小さく笑ってから、改めて楠へ向き直り、写真を撮る。
全体を一枚。
幹の質感を一枚。
木漏れ日を一枚。
足元の砂利を一枚。
派手な写真ではない。
バズるかどうかもわからない。
でも、撮っておきたいと思った。
誰かに見せるためだけじゃなく、私がここに立ったことを忘れないためにも。
拝殿の前まで来ると、亮平さんが自然に歩調を緩めた。
私も隣で立ち止まり、見よう見まねで手を合わせる。
何を祈ればいいのか、少し迷った。
転職がうまくいきますように。
愛媛での仕事が続きますように。
フォロワーが増えますように。
美味しいものを食べても太りませんように。
いくつも浮かんだけれど、結局、心の中で一番強く残ったのは別の言葉だった。
ちゃんと、伝えられますように。
この土地のことを。
ここで出会ったものを。
ここに来てよかったと思った気持ちを。
それから、隣にいる人が大切にしているものを、同じように大切にできますように。
手を下ろすと、隣の亮平さんも静かに目を開けた。
「何をお願いしたんですか?」
聞いてから、しまったと思う。
「すみません。こういうの、聞くものじゃなかったですね」
「いえ。僕は、あなたがうまくいくように」
「え」
「今日の、取材のです」
「あ、取材の」
なぜか慌ててしまう。
今日の取材。
そうだ。
そういう意味だ。
亮平さんの言葉はいつも、仕事の範囲にも収まる。
だからこそ、こちらが勝手に意識しているだけなのかもしれないと思ってしまう。
「ふふ。私も似たようなことをお願いしました」
「そうなんですか?」
「ちゃんと伝えられますように、って」
言ったそばから、少し照れくさくなる。
亮平さんはからかうでもなく、真面目に頷いた。
「美咲さんなら、大丈夫だと思います」
「そうやってすぐ甘やかす」
「甘やかしているつもりはありません」
「甘やかしてます」
「では、そうかもしれません」
その返しに、笑ってしまった。
神社の静かな空気の中で笑うのは少し悪い気もしたけれど、その笑い声は自分でも驚くほど穏やかだった。
境内を出る頃、私はスマホのメモに投稿文の下書きを打ち込む。
写真では伝えきれない場所でした。
木の大きさも、風の静けさも、足元の砂利の音も、ここに立たないとわからない。
だからこそ、しまなみ海道を訪れたら、ぜひ足を運んでほしい場所です。
打ち終えて、画面を見つめる。
派手ではない。
笑えるわけでもない。
もぐもぐ広報でもない。
でも、これはこれで、私の言葉だと思った。
「よい文章ですね」
横から亮平さんに言われて、私は慌ててスマホを伏せた。
「見ないでください!」
「すみません。見えてしまいました」
「恥ずかしいんですけど」
「でも、伝わります」
その一言に、胸の奥がじんわり温かくなる。
食べ物と景色だけじゃない。
この土地の大事なものも、ちゃんと見たい。
ちゃんと見て、雑に扱わずに伝えたい。
そう思えたことが、今日の取材の一番の収穫かもしれない。
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