第二十話 逆ナンされる若旦那に、思わず恋人繋ぎをしてしまいました
亀老山展望公園へ向かう前に、駐車場で一度休憩することに。
「少し歩きますから、先にお手洗いを済ませておいた方がいいかもしれません」
「はい。行ってきます」
スマホと小さなバッグだけを持って、急いでトイレへ向かう。
鏡の前で手を洗いながら、ふと自分の顔を見る。
朝より、少し頬が赤い気がする。
……いや、これは暑さのせい。
車の中で亮平さんの私服を見たせいでも、指先で髪に触れられたせいでもない。
絶対に違う。
「違うったら違う」
小さく呟いて、鏡から目を逸らす。
手を拭きながら、深く息を吐いた。
何度息を吐いても、何度深呼吸しても。
それでも、耳の横に残った指先の感触と、低い声の余韻はなかなか消えてくれない。
外へ出ると、亮平さんの姿が見えた。
ただ立っているだけなのに、やっぱり目立つ。
そして案の定というべきか、彼は知らない女性二人に話しかけられていた。
観光客らしい二人組。
一人はスマホを手に、もう一人は少し身を乗り出すようにして亮平さんを見上げている。
盗み聞きのような、そんなつもりはまったくないのに。
でも、風に乗って声が届いてしまう。
「地元の方ですか?」
「はい」
「この辺り、初めてで。よかったら、おすすめの場所とか教えてもらえませんか?」
「展望公園へ行かれるなら、この先の道を上がると——」
亮平さんは、いつも通り丁寧に答えている。
親切。
旅館の若旦那。
観光地の人。
地元の人として、困っている観光客に道を教えているだけ。
わかっている。
わかっているのに、胸の奥がむずむずした。
喉のあたりに、小さな棘が引っかかったみたいに落ち着かない。
さらに女性の一人が声を弾ませる。
「お兄さんも今から行くんですか?よかったら一緒に——」
そう言いながら、彼の腕に手を伸ばそうとしているのを見た途端、我慢できずに足が勝手に動く。
「亮平さんっ!」
自分でも驚くくらい明るい声だった。
亮平さんがこちらを振り向き、女性たちも一斉に私を見る。
その視線に一度だけ怯みそうになったけれど、もう止まれない。
私は亮平さんの隣まで行き、勢いのまま彼の手を取り、腕を引き寄せる。
ただ掴むだけのつもりだった。
本当に、それだけのつもりだったのに。
なぜか指と指が絡んでいた。
いわゆる、恋人繋ぎというやつで。
「……っ」
やった。
やってしまった。
身体の内側で、遅れて悲鳴が上がる。
でも、ここで離したら余計におかしい。
私は彼女役だし、虫除け契約であって、業務でもある。
そう、彼との約束の業務である。
業務上必要な恋人繋ぎ。
そんな言葉がこの世に存在するかどうかは、今は考えない。
「お待たせしました。行きましょう?」
なるべく自然に言った、つもり。
けれど、自分の声は少し上ずっていたかもしれない。
亮平さんは驚いたような表情の後、私の手を見て、女性たちを見て、もう一度私を見る。
「……そうですね。行きましょうか、美咲さん」
やわらかい声のあと、その呼び方が、いつもより甘く聞こえた。
亮平さんの指が、私の指をそっと握り返す。
女性たちは「あ、彼女さん……」と小さく呟いて、気まずそうに道を譲った。
その横を通り過ぎる間、顔を上げられない。
だって、手が。
亮平さんの手が、思っていたより大きくて、指先があたたかくて。
しかも、こちらから繋いでしまったせいで、離すタイミングが完全にわからない。
少し離れたところまで歩いて、私はようやく小声で言った。
「あ、あの、すみません。咄嗟に……」
「助かりました。断るタイミングを探していましたので」
「そう、ですか」
むずむずが薄くなったことに気づいて、今度は別の意味で落ち着かない。
よかった。
本当に困っていたなら、助けられてよかった。
そう思ったはずなのに、純粋な気持ち以外のなにかに気が付きそうになってしまう。
それが一番まずい。
「ヤキモチやけんねぇ」
「違う」
「でも、顔が怖かったんよ」
「唐揚げにするぞ」
「八つ当たりなんよ」
「八つ裂きの方がいいの?」
「発想が物騒なんよ」
亮平さんが、こちらを見ている。
「美咲さん」
「はい」
「不快でしたか?僕が、他の女性と話していたことが」
そんなふうに真正面から聞かれると思わなくて、言葉に詰まる。
「べ、別に、不快とかでは……」
「では?」
「その……フリとはいえ、一応、私は亮平さんの彼女役なので」
何を言っているんだ私は。
彼女役。
虫除け。
契約。
便利な言葉を並べれば並べるほど、自分の気持ちを隠すために使っているみたいで、余計に落ち着かない。
「だから、ああいう時は、ちゃんと呼んでください。虫除け役なんですから」
「わかりました。次からは、ちゃんと呼びます。美咲さん」
その声がやっぱり甘く聞こえて、心臓がまた変な音を立てる。
肩の上で、いよぴよさんが小さく呟く。
「彼女役、便利な言葉なんよ」
私は聞こえなかったことにした。
だって、そうしないと……私だけ役で済まなくなってしまう。
そうして、展望台へ向かう道を歩き出すけれど、問題はまだ残っていた。
手が、離れていない。
「あの、亮平さん」
「はい」
「もう、誰も見ていないので……」
そう言いながら、そっと手を引こうとする。
でも、離れない。
亮平さんの指が、私の指をやわらかく包んだまま、時折親指が手の甲をなぞる。
「この先、階段があります。人も多いですし、足元も少し危ないですから」
「なるほど。危ないなら仕方ないですね」
「はい。仕方ありません」
絶対、仕方ないと思っていない。
そして私も、強く離そうとはしていない。
指先をほどこうと思えば、たぶんほどける。
けれど、そうしない理由を探している。
階段。
人混み。
足元。
危ないから。
理由があれば、もう少しだけ繋いでいても許される気がした。
展望台へ向かう道は、思っていたよりも静かだった。
木々の間を抜ける風が、葉を揺らす。
遠くで鳥の声がする。
足元の道はゆるやかに上っていて、歩くたびに海の匂いが近づいてくるような気がした。
そして、視界が開けた。
「……わぁ」
言葉を失う。
目の前に、瀬戸内海が広がっていた。
さっき車で渡ってきた来島海峡大橋が、白い線のように海の上へ伸びている。
島と島のあいだを、船がゆっくりと進んでいる。
海はただ青いだけではなく、場所によって深くなったり、光を受けて銀色にきらめいたりしていた。
空と海と島が、何層にも重なっている。
写真で見た景色のはずだった。
でも、全然違う。
写真の中では一枚の絵だったものが、ここでは風も光も音も持っている。
遠くの船が進む速度まで、ちゃんと今この場所の時間として流れている。
「写真で見たより、ずっと広いです」
ぽつりと呟くと、隣で亮平さんが言った。
「写真では、風までは写りませんから」
その言葉通り、風が頬に触れる。
海から吹いてくる少し湿った風。
木々を抜けて届く、柔らかい風。
髪を揺らし、浴びているだけで体全体が少し軽くなるような風。
「若旦那、今日ちょいちょいポエムなんよ」
肩の上でいよぴよさんが言うけれど、そんな言葉に突っ込むのも失礼なほどの絶景。
ただ、繋いだ手を握り直す。
そのことに気づいて、景色を見ているふりをしたまま、ますます顔が熱くなる。
「……写真、撮らないと」
「撮りましょうか」
「え?」
「美咲さんが景色を見ているところも、広報素材になると思います」
「私ですか?」
「はい」
「景色だけで十分では?」
「景色を見ている人の表情があると、行ってみたいと思う方も増えると思います」
正論なのに、亮平さんに撮られると思うと、急に落ち着かなくなる。
実際にここ数日は、私が食べている写真と、食べ物だけの写真では、明らかに食べている写真の方が反応がいい。
それは、もう圧倒的なほど。
景色も、ただきれいに撮るだけでは伝わらないのかもしれない。
そこに立った人が何を感じたのか、行ったらどんな気持ちになるのか。
その入口になるものが、表情なのかもしれない。
「変な顔だったら消してくださいね」
「変な顔にはならないですよ」
「またそういうことを……」
「本当のことです」
さらりと言われて、言葉が詰まる。
亮平さんがスマホを構える。
来島海峡大橋。
島影。
きらめく海。
隣には、亮平さん。
手は、まだ繋がったまま。
仕事。
取材。
広報素材。
もう数えきれないくらい繰り返し唱えても、繋いだ指先から伝わる熱のせいで、全然うまくいかない。
「美咲さん」
「はい」
「楽しそうです」
シャッター音が、小さく鳴った。
私は海を見たまま、返す。
「……楽しいです」
それは、仕事用の言葉なんかじゃない。
本当に、楽しい。
しまなみ海道を見られて、よかった。
この景色を、誰かに伝えたいと思えたことも、よかった。
愛媛に来て、よかった『かも』なんて、もう言えない。
そして。
今、隣にいるのが亮平さんでよかった。
そう思ってしまったことだけは、まだ誰にも言えない。
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