第十九話 海の上を走る橋で、愛媛に来てよかったかもしれないと思いました
「もう少しで今治です」
亮平さんの声につられて前を見る。
遠くに、海の気配がした。
まだはっきり見えない。
けれど、空の色が明るくなって、風景の奥に青が混じり始めている。
窓の外を流れる空気まで、さっきより少し軽い気がした。
「美咲さん」
「はい」
「最初に橋が見えたら、たぶん驚くと思います」
「そんなにですか」
「はい。初めて見る方は、だいたい言葉が止まります」
「私、たぶん止まらないですよ。うるさいので」
「それはそれで楽しみです」
亮平さんがそう言って、前を向いたまま小さく笑う。
その横顔を見て、また心臓が変なふうに鳴った。
亮平さんの言葉から、しばらくして、窓の外の景色が少しずつ変わり始めた。
建物の間から、ちらちらと青が見える。
最初は空かと思った。
でも、違う。
「……海……!」
窓に顔を寄せると、遠くにきらきらと光る水面があった。
その向こうに、小さな島影がいくつも浮かんでいる。
東京で見る海とは違う。
広いのに、どこか近い。
ただ水平線が続く海ではなく、島と島の間に、暮らしや道や時間がちゃんとある海。
「ここから、しまなみ海道に入ります」
「……え」
亮平さんの声につられて前を向くと、道路の先に大きな橋が見えた。
白く伸びる主塔に、空へ向かって張られた、無数のケーブル。
その下に、まっすぐ海へ続いていく道。
写真では見たことがある。
でも、実際に目の前に現れると、思っていたよりずっと大きい。
空に線を引いたみたいな白い橋が、海の上へ向かって伸びている。
車がゆるやかに橋へ入ると、視界が一気に開けた。
右も、左も、海。
橋の下には、青い水面が広がっている。
光を受けてきらめく海の上を、船が小さく白い跡を引いて進む。
遠くには、濃い緑の島。
さらに奥には、空に溶けるみたいに薄く霞んだ島。
道路は確かに橋の上にあるのに、まるで海の上を走っているみたいだった。
「すごい、すごいです。本当に海の上を走ってるみたい」
「来島海峡大橋です。今治と大島を結んでいます」
「名前は聞いたことありましたけど、こんな……」
こんな、何。
きれい。
広い。
気持ちいい。
すごい。
頭の中にいくつも言葉は浮かぶのに、どれも足りない。
どの言葉を選んでも、目の前にある景色の半分も掴めない気がした。
「美咲ちゃん、口開いとるけんねぇ」
肩の上で、いよぴよさんが言った。
「閉じる余裕がない」
「広報官としては、もうちょい語彙がほしいんよ」
「今は本当に無理」
「仕事放棄なんよ」
「これは視察。まず浴びてるの」
「景色を浴びる広報官なんねぇ」
スマホで撮らなきゃ、と思うのに、目を離すのがもったいない。
景色が次々と変わっていく。
橋のケーブルが流れて、海の色が変わって、島の形が近づく。
一秒でも逃したくない。
「撮影しますか?」
亮平さんに聞かれて、はっとする。
「します!しますけど……どこを撮ればいいのかわからないんです!」
「では、まずはそのまま、美咲さんが見ている景色を」
亮平さんはそう言って、周りの流れを乱さない程度に、車の速度を落としてくれた。
慌てて動画を回す。
フロントガラスの向こうには、橋の白いケーブルと、その隙間から見える青い海と島。
窓の端を流れていくガードレール。
遠くの船に、海の上に落ちる薄い光の道。
画面越しに見てもきれいなのに、実際の目で見る方がずっと広くて、ずっと眩しい。
スマホの中に収めた途端に、小さくなってしまう。
それが悔しくて、でも撮らずにはいられなかった。
「……これ、伝わるかな」
小さく呟く。
私が見たまま、感じたままの、この風の気持ちよさまで伝える方法があればいいのに。
車内に差し込む光の明るさと、海を渡っているみたいな浮遊感。
初めて見た時、気持ちが一気に広がるような感覚。
「伝わりますよ。美咲さんが、そう思って撮っているなら」
「……そういうものですか?」
「少なくとも、僕はそう思います」
亮平さんはいつも、こういう言い方をする。
できる、と簡単に言い切るわけではない。
でも、私が見たものや感じたことを、信じてくれる。
その信じ方が、少し怖い。
嬉しいのに、怖い。
本当にそんなふうに見てくれる人がいることに、まだ慣れていない。
「亮平さん。この景色、愛媛に来てよかったって思うには、かなり強すぎます」
スマホを構えたまま、窓の外を見る。
海。
橋。
島。
空。
その全部が、何も言わずにこちらへ迫ってくる。
「まだ『かも』ですか?」
「……今は、よかった寄りです」
「それは光栄です」
「総合評価は、帰ってからにします」
「厳しいですね」
さっき私が言った言葉を、ちゃんと覚えていたらしい。
「胃袋と景色で、もうだいぶ落ちとるけんねぇ」
「黙って」
「その調子やと、愛媛の正社員登用も近いんよ」
「そんなのあるの?」
「あるけん。なんなら恋人の本採用もあるんよ」
「橋から落とすぞ」
「飛べるんよ!」
肩の上で、いよぴよさんが騒ぎ出す。
声が少し大きくなってしまい、私は慌てて口を押さえる。
亮平さんは前を向いたまま、肩を小さく揺らしていた。
「美咲さんが楽しそうでよかった」
そうか。
私、楽しいんだ。
婚約破棄をしたときは、私にはもう楽しいことなんて起きないんだと、少し本気で思っていた。
お祈りメールを数えていた頃には、こんなふうに笑える日が来るなんて想像できなかった。
愛媛に来たばかりの時は、何かから逃げるように、縋るように、遠くまで来てしまったと思っていた。
でも今、私は助手席で海を見ながら笑っている。
隣には亮平さんがいて。
肩には、うるさい広報神がいて。
スマホには、これから誰かに見せたい景色が映っている。
わけのわからない状況なのに。
それでも、ちゃんと楽しい。
「……撮れました」
動画を止める。
撮ったばかりの動画を再生すると、車内の小さな音と、橋の白い線と、海の青が画面の中で流れていった。
やっぱり実物の方がずっとすごい。
けれど、最初に息を呑んだ感じは、残っている気がした。
「では、次は展望台に向かいます。橋と海がよく見えます」
「展望台?これ以上があるんですか?」
「あります」
「愛媛、出し惜しみしないですね」
「まだまだありますよ」
亮平さんは、さらりと言う。
その声が誇らしげで、私はスマホを胸元に抱えたまま、もう一度窓の外を見た。
橋の白いケーブルの向こうで、海がきらきらと光っている。
車が進むたび、島の輪郭が少しずつ近づいてくる。
遠くに見えていた緑が、だんだん木の形を持ちはじめる。
この景色を、どうやって伝えよう。
きれい、だけじゃ足りない。
すごい、だけでも足りない。
写真映え、なんて言葉にしてしまうには、少しもったいない。
でも、今なら少しわかる。
変な小手先のことなんかじゃなくて、私が感じたままを。
海を見た瞬間に、視界がぱっと広がったこと。
橋の上なのに、空と海の間を走っているみたいだったこと。
島が近づいてくるたび、知らない場所が少しずつ自分の中に入ってくるような気がしたこと。
そういうものを、ちゃんと拾えばいい。
愛媛に来て三か月。
私はようやく、広報という仕事の入口に立てた気がした。
「美咲さん。展望台では、少し歩きます。風もあると思うので、無理はしないでください」
「大丈夫です。今なら橋一本分くらい歩けそうです」
「それは無理です」
「即答」
「無理はさせません」
亮平さんの声は穏やかなのに、そこだけはきっぱりしていた。
その言い方に、また気持ちが落ち着かなくなる。
仕事とか、取材とか、広報とか。
何度となく繰り返しても、この景色も、この時間も、亮平さんの声も、全部が私の中に残っていく。
ただの仕事では終わらない気がする。
そんな予感を抱えたまま、車は海の上の道を進んでいく。
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