第二話 寿退職のはずが、浮気されて婚約破棄になりました
去年の夏までは、自分は世界で一番幸せだと思っていた。
都内の制作会社で、Webデザイナー兼SNS広告まわりの担当として四年間働いていた。
毎月の残業時間は軽く六十時間を超え、クライアントからの無茶な要求を「お任せください!」の一言で引き受け、上司からのパワハラ紛いのプレッシャーを「はい、頑張ります!」でかわし続ける。
絵に描いたような社畜。
それでも続けられたのは、岡崎淳一という彼氏がいたから。
二十八歳。長身で、清潔感があって、休日には料理をして待っていてくれる。
私が疲れ切って彼の家に行くと、温かいご飯と「お疲れ」の一言を用意してくれる、いわゆる『いい人』。
少なくとも、あの日まではそう思っていた。
「美咲、話があるんだけど」
付き合って一年が経つ頃、淳一に近所のファミレスへ呼び出された。
向かいに座った彼の顔は、どこかぎこちない。
コーヒーの入ったカップを何度も持ち上げては、ほとんど飲まずに戻している。
もしかして、別れ話?
そう身構えたけれど——。
「岡山への転勤が決まって」
「え」
「来月から。で、その、せっかくだし……一緒に来ない?結婚しよう」
思考が、ぱたりと止まった。
プロポーズ、だ。
ファミレスのドリンクバーのジュースを、ストローでずずっとすすりながらのプロポーズ。
指輪もない。
花束もない。
フラッシュモブ……は嫌なので、それは無くてホッとした。
テーブルの上にあるのは、使いかけのおしぼりと、セットで頼んだポテトの空皿。
ドリンクバーでプロポーズ。
でも、その時の私は、それすら少し笑えて、少し可愛いと思ってしまった。
四年間、仕事に打ち込んできた。
会社を辞めれば、あの地獄の残業生活からも解放される。
淳一は『いい人』だし、岡山という新天地も悪くない。
いい加減、落ち着きたかった。
これが私の幸せかもしれない。
そう思った。
「……うん、行く」
パパパパーン♪というファンファーレとは違う、ファミレスのBGMが流れる中、二人は婚約した。
あの時の私は、運命の場面には案外、ロマンチックな演出なんてなくてもいいのだと、本気で思っていた。
こうして、四年間勤めた会社に退職願を出した。
送別会では「おめでとう!」と言われ、花束をもらい、同期の女子には「いいなあ」と羨まれ、上司には「向こうでも頑張れよ」と肩を叩かれた。
その手の重さすら、もうすぐ終わるものだと思えば我慢できた。
人生、順調。
そう思っていた。
三か月後に、全部崩れるまでは。
遠距離恋愛をしながら、十二月の結婚式に向けて東京と岡山を行ったり来たり。
料理を覚えようと毎日クックパッドとにらめっこし、近所のスーパーの特売情報をリサーチし、式の招待客の席次に悩む毎日。
新しい生活のために、私は私なりに必死だった。
知らない土地で暮らすことも、仕事を辞めることも、不安がないわけじゃない。
それでも、淳一と一緒なら大丈夫だと、自分に言い聞かせていた。
そのころから、淳一はたびたび「残業で遅くなる」と言うようになった。
遠距離になって三か月経ったある日。
結婚式の打ち合わせのために、私は前日から岡山へ来ていた。
残業で遅くなるという淳一の家で待っていると、ゴミ箱に入っていたレシートが目に入った。
本当に、何の気なしに。
丸められた紙の端に、見覚えのない地名が印字されていたから、つい手に取っただけ。
「……倉敷の、ホテル?」
日付は、「残業で遅くなる」と言っていたあの日。
二人分のディナーのレシート。
そして、ホテルのルームサービスの領収書。
その二枚が一緒になって出てきた時、脳内でパズルのピースがことごとくはまっていく音がした。
最近そっけなかったこと。
休日に「友達と飲み会」と言って出かけていたこと。
メールの返事が遅くなったこと。
電話をかけても、折り返しが翌朝になる日が増えたこと。
ああ。
全部これが答えなんだ。
不思議なくらい、頭は冷えていた。
台所に行き、湯を沸かし、お茶を淹れ、一口飲む。
湯呑みを置く音が、自分でも驚くほど小さかった。
落ち着いてから、帰ってきた淳一に言った。
「ねえ、これ何?」
レシートを差し出した手は、完全に静止していた。
淳一の顔が青ざめるのを、私は静かに見ていた。
「……ごめん」
「誰?」
「岡山支社の、中途の……」
「いつから?」
「……転勤する前の、出張の時から」
転勤が決まる前から。
何かが、ぷつりと切れた。
じゃあ、何。
あのプロポーズは、何だったの。
「遠距離って、やっぱり寂しくて」
「でも、結婚したいと思ったのは美咲だけ」
「彼女とは終わらせるつもりだし」
「仕事も辞めたんだし、岡山でやり直せばいいじゃん」
なんだか色々言い訳をされているけれど、耳に入ってくる言葉はどれも、ぬるい水みたいに胸の上を滑っていった。
つまり、あの「一緒に来ない?結婚しよう」というプロポーズは、もしかしたら後ろめたさからの勢いだったのかもしれない。
もしくは、その女性との関係を清算するための、都合のいい区切りだったのかもしれない。
いずれにせよ、私にとって最悪の解釈しかできなかった。
「わかった。婚約解消で」
涙は出なかった。
怒鳴りもしなかった。
問い詰めたいことは山ほどあったはずなのに、口にするだけの価値が、もうどこにも見つからなかった。
その場ですぐ荷物をまとめ、ビジホに移動した。
翌日、始発に近い新幹線で東京へ帰った。
窓の外を流れていく景色を見ながら、私は何度もスマホを握り直した。
退職願を取り下げるには、もう遅い。
結婚式場のキャンセル料も、招待客への連絡も、親への説明も、全部これから。
淳一と作るはずだった未来だけが、きれいに消えていた。
こうして私の、四百五十九通に及ぶ転職地獄が始まった。
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