第十一話 移動手段の対価に、若旦那の恋人役を引き受けました
「引っ越しをするんですか?」
「え?」
「すみません、賃貸情報が見えたので」
曽我部さんの視線の先を追って、私は慌てて鞄の中のクリアファイルを取り出した。
市役所でもらった書類や、契約関係の紙に紛れて、いくつか印刷してきた賃貸情報が挟まっている。
「ああ……そうですね。マンスリーだとやっぱり、あまり休まらないですし」
いくつかの物件情報をパラパラとめくる。
間取り図と家賃、駅からの距離。駐車場あり、なし。築年数。
東京で部屋を探していた時と同じ項目を見ているはずなのに、数字の感触がまるで違う。
「車も必要なのかなぁ……とか」
「いい物件はありましたか?」
「でも、契約期間は半年なんで……半年後には東京に戻るかもって考えると、悩んじゃいますね」
そう言うと、曽我部さんは考えるように、テーブルの上の物件情報へ視線を落とした。
「瀬川さん」
「はい」
「松山は四国版の住みたい街ランキングで、六年連続一位なんです」
「……急にプレゼンが始まりましたね」
「事実です」
曽我部さんは真顔だった。
さっきまで穏やかにスイーツを勧めていた人と同じとは思えないくらい、声に迷いがない。
「しかも、二位は東京二十三区です」
「東京から来た女に、東京に勝った話をします?」
「します」
「強火ですね」
思わず笑ってしまう。
曽我部さんは、さらに続けた。
「それに、愛媛は通勤時間が短く、自由に使える時間が長い県としても紹介されています」
「通勤時間……」
その言葉に、走馬灯のように通勤時間のことが思い出される。
東京で働いていた頃の私は、朝の満員電車に押し込まれ、帰りは終電近く、駅から部屋までの道を半分寝ながら歩いていた。
通勤だけで、毎日かなり削られていた気がする。
時間だけじゃない。
体力も、気力も、何かを好きだと思う余裕も。
「松山は、街の規模がちょうどいいんです。中心部に仕事や買い物の場所があって、少し行けば温泉があって、車を走らせれば海も山もあります」
「海も山も温泉も近い……」
「はい」
「強欲セットですね」
「そういう言い方もできますね」
曽我部さんが、少しだけ笑いながらプレゼンを続ける。
「あと、今治は住みたい田舎ランキングで、人口十万人以上二十万人未満の街の全四部門一位を取っています」
「全四部門!?」
「総合、若者世代・単身者、子育て世代、シニア世代です」
「全年代に刺してくるじゃないですか」
「しかも四年連続四冠です」
「強豪校みたいな言い方」
「実際、強いんです」
「曽我部さん、愛媛の話になると圧が強いですね」
「地元ですから」
そう言った曽我部さんの声には、静かな自信があった。
大声で自慢するのではなく、当たり前に大事なものを差し出してくるような。
私は手元の物件情報を改めて見る。
東京の部屋より、広い。
家賃も安い。
駅や電停の近くを選べば、車がなくても生活はできそうだ。
少し離れれば、駐車場付きの物件もある。
紙の上の間取り図を眺めているだけなのに、そこにベッドを置いて、机を置いて、朝起きてカーテンを開ける自分を想像してしまう。
愛媛に来て、まだ三日目なのに。
「……確かに、住みやすそうではあるんですよね」
「はい」
「食べ物も美味しいし」
「それは重要ですね」
「重要です。昨日からずっと、胃袋が愛媛に寝返りかけてます」
「胃袋から移住するのも悪くないと思います」
「悪い勧誘だ……」
肩の上で、いよぴよさんがうんうんとうなずく。
「まず胃袋、次に住民票、最後に心やけんねぇ」
「順番がおかしい」
「でも、もう一個目と二個目は済んどるけんねぇ」
「黙って」
私は小さく咳払いをして、物件情報を閉じた。
「それに、契約は半年ですし。引っ越しと車が重なるのは……さすがに勇気がいります」
「なら、僕が足の代わりになりますよ」
「え?いえいえいえ!?そんなご迷惑は!!」
「もちろん対価はもらいます」
「対価、ですか?」
そう言うと、曽我部さんは腕をテーブルにつき、ほんの少し身体を前に傾けた。
さっきまでの愛媛プレゼンとは違う。
声の温度は落ち着いているのに、逃がさないような気配があった。
「瀬川さんには、僕の恋人のフリをしてほしいんです」
「は?」
自分でも、かなり間の抜けた声が出たと思う。
「虫除け役やけんねぇ」
私は、突っ込むことすら忘れてしまう。
「えっと……?」
「さすがに、少なからず仕事にも支障が出てきていますので」
支障。
それが、曽我部さんに寄ってきている女性たちのことだというのはわかる。
昨日の隠し撮りも、さっき駐車場で囲まれていたことも、たぶん日常の一部なのだろう。
だからって、私が恋人のフリなんて。
「恋人がいるとなれば、少しは減ると思うんです」
「それは、そうだと思いますが……」
「瀬川さんは移動手段を確保できる。僕は仕事がしやすくなる。お互い様です」
言い方は理屈としてわかる。
わかってしまうせいで、かえって逃げ道を探してしまう。
愛媛の家賃は東京よりは安い。
けれど、駐車場に車の維持費を考えたら、契約社員の身としてはなかなか痛い出費。
それに、ゴールド免許とはいえ、私は立派なペーパードライバー。
あの路面電車が走る道路を運転する自分を想像すると、背筋がすっと冷える。
「無理に、とは言いませんが……」
「利用してやればいいんよ」
肩に乗って言いたい放題のいよぴよさんを、ちらりと睨みつける。
利用してやればいい、といよぴよさんは言うけれど。
本当に、これは私にメリットしかない話のような気がする。
地元に詳しくて、車を出してくれて、取材先も紹介してくれて。
広報の仕事としても、生活の足としても、これ以上ないくらいありがたい。
ありがたい。
ありがたいのだけれど。
手元のケーキに視線を落とす。
甘夏のソースが、皿の上で小さな橙色の線を引いていた。
甘えてもいいんだろうか。
ちらっと曽我部さんを見る。
真っすぐにこちらを見つめる眼差しに、どきりとした。
こんな人とずっと一緒に行動したら。
もし、恋人のフリで済まなくなったら?
そんな不安が胸をよぎるのを、慌てて振り払う。
恋愛は、二人でするものだ。
私だけそんな気持ちになっても、曽我部さんみたいな人が私を好きになるなんて、あるわけがない。
だからこその提案なんだから。
これは仕事で、取引で、虫除けで、足の確保。
それ以上でも、それ以下でもない。
「では……私なんかで務まるのかわかりませんが。よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
恋人のフリ。
フリのはず。
何度も何度も、頭の中で繰り返す。
わかっているのに、急に曽我部さんの顔を見るのが恥ずかしくなってくる。
「では、そろそろ行きましょうか、美咲さん」
「へ……?」
さっきまでは、『瀬川さん』と呼ばれていたのに。
急に、下の名前で呼ばれた。
たったそれだけなのに、身体が固まってしまう。
耳の奥に、今の声が残る。
「あ、だめでしたか?」
曽我部さんが、首を傾げる。
「やはり、フリとはいえ恋人なら、苗字で呼ぶのはおかしいかなと思いまして」
「いえ、そうですね。そう思います……」
「なら、美咲さんも。僕を下の名前で」
「……へ!?」
気づいてはいたけれど。
ちょいちょい曽我部さんは、急に積極的になる人だ。
いま、その積極性を真正面から向けられると、心臓がまったく落ち着かない。
さっきまで食べていた柑橘スイーツの甘酸っぱさが、喉の奥に戻ってきたみたいだ。
「……ぃ」
「い?」
「言うてしまうんよ!早く呼んでしまうけんねぇ!」
肩の上でいよぴよさんがばっさばさと騒いでいる。
うるさい。
とても、うるさい。
けれど、今の私はそれに突っ込む余裕すらない。
元婚約者の淳一を呼び捨てにするのに、こんなに緊張しただろうか。
いや、していない。
少なくとも、こんなふうに舌がもつれて、喉の奥が熱くなるようなことはなかった。
脳内はもう完全にパニックで、いよぴよさんの声すら遠くなっていく。
「ぃ、亮平さん……」
「はい。美咲さん」
名前を呼ばれながら、手を差し伸べられる。
恋人のフリ。
フリのはず。
何度も何度も頭の中で繰り返す。
早くも二回目の呪文を唱えながら、その手を取った。
指先が触れたそばから、曽我部さん——亮平さんの手が、思っていたより温かいことを知ってしまう。
大きくて、けれど強く握りすぎない手。
立ち上がるためのただの手助けなのに、意識しない方が難しい。
愛媛に来て、三日目。
愛媛担当SNS広報官という肩書きに、若旦那の恋人のフリ、が追加された瞬間だった。
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