13-1「成功」
「よいしょっと……。うん、ちょっと汚れてるけど、座れないほどではないね」
広げたパイプ椅子の座面を軽く払ったエマは、付いた埃を落とすように軽く手を叩いた。
「くしゅん!」
「大丈夫?」
「はい。流石に、埃が凄いですね……」
可愛らしくくしゃみをした乃亜は、カーディガンの袖口で軽く鼻を擦った。彼の大きく丸い瞳から、透明な雫が頬へと伝っていく。
「アレルギー?」
「はい、少し…」
「…流石に、あたしもちょっとキツいかも…」
乃亜は頷く。その横で、眉を顰めたエマが口元に腕を当てて小さく手を振っていた。
「あれ、何処行くの?」
エマが尋ねる。そんな彼女の視線の先--部屋の外へ歩いて行こうとしていた月鹿は足を止めて軽く振り返った。
「ちょっとお手洗いに」
「行ってらー」
薄暗いビルの中、隣同士に並べた椅子に座ったエマと乃亜は、軽く雑談を交わしていた。
「そっか…それは大変だったね……」
「僕が悪いんです。ロクに戦えもしないくせに、一番大切な時期の勉強を疎かにしてしまったから……」
乃亜の話を聞き終えたエマは、まるで自分のことのように顔を曇らせた。
「私立南館中学校って、充分凄いと思うんだけど…。詳しくはないけどさ、それなりに難しい所だって聞いたことあるよ」
つい一年ほど前に、中学受験を経験した友人が難しいところだと話していた覚えがある。
結局、その子は滑り止めとして受験した学校にも全て落ちて、エマと同じ公立の中学校へと通うことになったと聞いた。
「それに、さっきだって…。電磁波なんて、あたしは存在すら知らなかったわけだし」
「あ、あれは……」
「凄いの!あんたは普通に、充分凄いの!!!」
再び乃亜がネガティブモードに入りかけたことを察知したエマは、彼の言葉を勢いよく遮った。
「で、でも、それ以外のことは、本当に全然……」
「それでも充分凄いよ!数週間前までのあたしなんて、ただ何も考えずノロイを倒すことしかできなかったんだよ?」
そうなのだ。前の授与式があったあと、比較的すぐにエマの心は平静を保つことが難しくなっていった。
「学校の授業すら一切覚えてなくて、今になって超苦労してるくらいだし。丁度正気飛んでた期間だったからさ、中間テストの結果とか最悪だったもん。マジでやばい」
そう言って肩を抱きながら、エマは青い顔で小さく震える。
「それでも、エマさんはノルマ分の魔石を余裕で集めてましたし…それで充分……いや、それが1番すごいことだと思います」
そう言って乃亜は目を伏せた。
「それすらもできない僕は--」
--などと、自身を責める言葉が喉元まで込み上げる。
幸いにも声にならなかったその言葉を飲み込むように、乃亜は開きかけた唇をきゅっと閉ざした。
「それはまあ……人それぞれじゃない?あたしはむしろ、戦うことしかできなかったんだよね」
1ヶ月。たった1ヶ月前のことなのに、エマにはもう、ずいぶん昔のことのように思われた。
目を閉じると、あの頃の自分が思い出される。あれから、少しは変われたのだろうか。
変われてたらいいな--そんな事を思いながら。
「ノロイを倒すんだー!て、そればっかりでね。月鹿との出会いだってそう。あたしが、ノロイと間違えて月鹿を襲っちゃって……」
(……本当に、なんで間違えたんだろ……)
話しながらエマは、あの日の夜について改めて考えてみる。
当時のエマは、ただひたすら、無我夢中でノロイを倒し続けていた。
いくら正気を失っていたとはいえ、それまでのエマが人間を襲うようなことは、1度たりとも無かった。
どれほどの悪人であっても、等しく守るべき存在として接してきたのだ。
月鹿と初めて出会った時。そして再会したあの瞬間。
エマが人へ攻撃を向けたのは、その2回だけだった。
あの時、エマに人を攻撃する理由など何一つ無かった。実際、2日目にいたガラの悪そうな男性達にエマの魔法が牙を向くことはなかった。
月鹿だけなのだ。人間を攻撃してしまった実例は。
それ以前の問題で、月鹿を前にした時、"相手が人間である"ことさえ、理解していなかったように思える。
ただノロイを。
目の前にいる"呪い"を、消し去るために。
正義の味方として、人々に害をなす存在を見過ごすことはできなかったから。
「月鹿さんのことを……?」
「うん。自分でも意味不明なんだけどね。それで月鹿があたしを抑えて、ちょっと…その、中々に強引な手段で目覚めさせてくれてさ……感謝してるの、感謝はしてるんだけど…」
エマは肩を抱くように腕を回し、ぞくりと身を震わせる。その表情は、少し青ざめていた。
そんな彼女を、乃亜は不思議そうに、しかし共感するかのような瞳で見つめていた。しかしすぐに、ふと思い出したかのように口を開いた。
「そういえば。月鹿さんって、何者なんですか?」
「何者って?」
エマは小さく首を傾げ、乃亜を見る。
「あ、いえ、他意はないんです。ただ少し気になって……。エマさんを助けたということは、月鹿さんはノロイの瘴気の中でも、狂うことなく動けていたということですよね?」
ワタワタと手を振りながら、乃亜は焦ってそう付け加える。彼の言葉に、エマは指を顎に当てて宙を仰ぎ見た。
「正直、それはあたしもよく分かんないんだよね…。魔力が沢山あるわけでは無いらしいし、結局は精神力の問題かなと思ってはいるんだけど…」
体を傾けながら、エマは唇を曲げて唸っている。
「魔力…あの鎖みたいなのは、固有魔法なんでしょうか?」
「授与式の前から使ってたから、そうなんだろうね」
エマが頷く。
「授与式の前…そういえば、月鹿さんは前回の授与式に参加してたんでしょうか…」
眉間に皺を寄せながら、乃亜は記憶を辿っていく。
しかし何度考えても、半年前の式で月鹿の姿を見た覚えがない。
桃、青、緑、金--色とりどりな髪が並ぶ中で、その灰色は決して派手な方ではないだろう。
しかし、不思議なほどに目を奪われる。周りに人がいない環境での記憶しかないからなのかもしれないが、乃亜にはどうしても、彼女の姿を見過ごしていたとは思えなかった。
授与式で見かけていたのなら、記憶のどこかには残っているはず。そう確信が持てるほどに、彼女の纏う雰囲気は特別なものであると、乃亜の直感が告げていた。
ならば、最近この街に引っ越してきたとか?その割には、街の地理をよく把握している気もするが……
そんなことを考えながら、乃亜は記憶の底を必死に探っていく。
「参加してないよ。月鹿って、2ヶ月前に退魔師になったばかりらしいから」
「2ヶ月前!?それって、なったばかりじゃないですか!」
エマの返答に、乃亜は思わず身を乗り出した。エマは変わらず、眉間に皺を寄せて唸っている。
「そうなんだよねぇ…授与式の前、最後に会った時は瘴気についてすらもよく知らないみたいだったから、流石に嘘では無いんだろうけど…」
納得のいかない様子で何やらぶつぶつと呟きながら、エマは腕を組んで体を捻る。
「…2ヶ月前になったばかりで、あそこまで戦えるものなんでしょうか?」
乃亜は1年かけても、まともに戦えるようにならなかった。
勿論、それが普通の事だとは思わない。現に、今隣にいるエマはすでに戦う術を得ているわけだ。戦闘の適正は、固有魔法と個々の能力次第で、始めからノロイを倒すすべを得ている人は、数多く存在する。
むしろ、始めのうちは戦うことができなかった乃亜やエマの方が、少数派なのだ。
見たところ、月鹿は完全なる近接戦闘型だ。
天性の才能とでもいうのだろうか。銀色の鎖と漆黒の短剣を巧みに操るその様子は、まるで一瞬の芸術作品のようだった。
「さぁ…?しかも、魔法もいくつか手に入れてるっぽいんだよね…」
乃亜の放った疑問にはエマ自身思うところがあったらしく、彼女自身の聖典を見つめながらそう話した。
「それって、たった2ヶ月で魔石を200個以上集めたってことですか?」
「それがなんと、300は確実っぽいよ」
「300!?じゃ、じゃあ、昨日は黄色だったって事ですか?」
勢い余って身を乗り出した乃亜を横目に、エマは肩をすくめる。
「実際に見せてもらったわけじゃないから、本当なのかはもう分からないんだけどね」
などと言いながらも、エマの瞳はどこか遠いところを見つめていた。
「ていうか、月鹿遅いね……」
「そうですね……」
沈黙の時間が流れていく。宙を見つめて動かないエマとは違って、乃亜の指先と瞳孔は忙しなく動き続けていた。
「なんかさ…………ごめんね」
重い沈黙を破るように、エマが口を開いた。
「どうしてエマさんが謝るんですか」
「それは…あたしの我儘のせいで、乃亜を変なことに巻き込んでしまったし…。乃亜にとっては、退魔師じゃなくなった方が幸せだったかもしれないのに」
力なく目を落とすエマに、乃亜は優しく言葉を返した。
「謝らないでください。元はと言えば、ノルマを達成できなかった僕が悪いんですから。ノロイは怖いですが、せっかく使えるようになった魔法が使えなくなるのは、確かに勿体無いですし」
「ありがとう。あの時は、とにかく追い出されないようにって必死で……みんなも、なんだか様子がおかしかったし…」
みんなだけじゃない。エマ自身、訳の分からない嫌な気持ちで覆われていた。
思えば、あの時も正気に戻してくれたのは月鹿だった。月鹿がいなければ、エマもまた、乃亜が連れ去られていくのを、不快な言葉の数々を口にしながら眺めていたのだろう。
「……………」
「…?、どうかした?」
難しい顔で考え込む乃亜の顔を、エマは不思議そうに覗き込む。
「昨日って、僕はどうやって来たんですか?」
「…え?」
きょとんとした表情で、エマは聞き返した。
「僕が来た時の状況というか……。何か、おかしなところはありませんでしたか?」
身を乗り出して顔を近づけてきた乃亜に、エマは驚いたように仰け反りながら口を開く。
「いや?普通に……。そもそも、ノルマを達成してない乃亜が来れた時点で、まずおかしいし…」
エマはそう言うが、彼女を見つめる乃亜の瞳は、納得の色を示していない。そんな彼の瞳に押されたエマは、困ったように喉を鳴らした。
「んー……司教様が乃亜を追い出そうとしたとき、みんな虚な目で酷い言葉を投げかけてて……あたしも、なんでか嫌な気持ちになって……んで気付いたら一緒になって酷いこと言ってて……て、これさっきも話したか……」
それじゃない、とでも言いたげな彼の視線に気付いたエマは、話を中断させて再び考え込む。
「……さっきも、みんながおかしかったみたいな事を言ってましたけど。それって、どういうことなんですか?」
本当に知りたかった事とは違う。けれど、二度も同じ話を聞かされれば、流石に気になってくる。
話をやめたエマに、乃亜は詳しい説明を求めたのだった。
「あたしもよくは分かんないんだけど…まるで、ノロイの瘴気にあてられたかのような。そんな感覚だったかな」
「ノロイの?」
首を傾げた乃亜を見て、エマは頷く。
「そう。聖堂の中だし、ノロイが関係あるわけないってことは分かるんだけど……」
難しい顔で考え込むエマの隣で、乃亜も少し考える。
しかしすぐに、思い出したかのように話を切り出した。
「それは気になりますが……そうじゃなくて。何か、変な人とかいませんでした?」
「変な人?」
「はい、前回の授与式にはいなかったような……その……変な人です」
息を呑み、乃亜は返答を待つ。そんな彼の隣で、エマは「変な人かぁ……」と呑気に呟いた。
「……そういえば、シスターが変わってたね」
「シスターが?」
エマから発せられたものが思いもよらない言葉だったのか、乃亜は目を丸くして復唱した。
「うん。しかもね、ずっと泣いてた」
「…ずっと?」
エマの言葉に、乃亜は怪訝そうに首を傾げる。
「……どういうことですか?」
「分かんないけど……何か悲しいことでもあったんだろうね。話してくれそうな雰囲気でもなかったし、無理に聞くのはやめたけど……」
あの場に留まって話を聞こうかとも考えたが、式の最中で、彼女も次の人の名前を呼んで説明するという役割があった。そのため、エマは何も尋ねない選択をとった。
力になれなかったのは心苦しいが、他のシスターや司教様が話を聞いてくださっているだろう。そう信じて。
「なるほど…て、その人ではなくて…何か、変な…人間?みたいな…」
「みたい?」
「ぼんやりとしか覚えてないのですが……部屋の中で、白い羽根?のようなものが舞ってて……」
「……天使様、みたいな?」
エマの言葉に、乃亜は小さく頷いた。
「で、そのお方?が、誰かと話してて……」
「…誰か?」
「はい。なんかこう、背が高くて、うねうねしてて……」
「何それ?」
記憶を辿る乃亜の隣で、エマは更に眉を顰めて首を傾げた。
「分からないんです……。よくは覚えていないんですが、突然現れて、こう…ごちゃごちゃしてて…で、気づいたら、自分の部屋じゃなくて、式の会場にいて…」
難しい顔で話す彼に、エマは「うーん…」と小さく唸る。やがて、困ったように眉を下げてこう言った。
「それはよく分かんないけど……少なくとも、授与式に乱入してきたのは乃亜だけだったよ」
「……そうですか」
エマの返答に、乃亜は小さく肩を落とした。
「でも、それは気になるね。その記憶が本当なら、多分、そのうねうねしてる人?が乃亜のことを授与式に送り込んだんだと思う」
仮に、彼の記憶にあった白い羽根が天使様のものだったのなら。
ノルマも達成していない乃亜を、わざわざ授与式に送り込む理由が分からない。
それとも、本当に乃亜は「天使様に選ばれた存在」とかなのだろうか。
「やっぱり、そうなんでしょうか…?」
自信なさげに呟く乃亜に、エマは更に頭を傾けたのだった。




