第5話 今夜の章
中間宿の主人は、二人を見るなり申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。今夜は灰門の方から来た人たちで埋まっておりまして。二人部屋が一つしか」
ミリアはクラウディアを見た。クラウディアは宿帳を見ていた。
「それでいいわ」
「いいの?」
「避難してきた人を追い出してまで部屋を取る理由はないでしょう。護衛の三人は」
「納屋の二階を空けてあります。慣れたものだと仰って」
部屋は狭かったが、寝台が二つと小さな卓があった。窓の外では、宿の子どもが犬を追いかけている。犬のほうが楽しそうだった。
ミリアが顔を洗って戻ると、クラウディアは寝台に腰かけて書類箱を開けていた。積荷証の写しを取っているらしい。ペンの音が規則正しく続く。ミリアは自分の寝台に転がり、峠で買った栗の餅の最後の一つを齧った。
しばらくしてペンの音が止まった。クラウディアは写しを畳んで箱にしまい、その手で箱の底から本を一冊抜き出した。表紙をそっと撫でてから膝に置く。
「あ、資料」
「……仕事は終わったの」
「読むんだ」
「読むわ。七章まで読んであるの」
「私も読みたい」
クラウディアの手が止まった。
「あなた、こういうの読むの」
「読んだことない。でも、お茶を四缶も持ってくる人がそれより大事そうにしてる本なら、面白いんでしょ」
「……大事にしているとは言っていないわ」
「どっちでもいいよ。最初から読んでたら夜が明けちゃうから、ここまでのお話を教えて」
クラウディアは少し迷う顔をしてから、寝台の端に座り直した。ミリアがその隣へ移ると、本を二人の間に開く。
「主人公は侯爵令嬢のエレオノーラ。騎士のガレスに二度求婚されて、二度とも断っているわ」
「なんで断るの」
「一度目は父親の借金のせい。二度目は、ガレスが彼女を守るために嘘をついたのが分かったから」
「ガレス、いい人だね」
「いい人よ。不器用だけど。それと宮廷楽師のルカ。エレオノーラに曲を贈っている人。素性が分からないの」
ルカの名前を言うとき、クラウディアの声が少しだけ柔らかくなった。ミリアは聞き逃さなかった。
「で、今夜読む八章で何が起きると思う?」
「題名を見なさい。三度断るのよ。だから八章でガレスが三度目の求婚をして、エレオノーラが断る。その夜、ルカが正体を明かす」
クラウディアは迷いなく言った。机の上で帳簿を読むときと同じ顔だった。
「えー。私はガレスが求婚して、エレオノーラが受けると思う」
「題名と矛盾するわ」
「題名で最後まで分かったら読まなくていいじゃない。ガレスは嘘のこと、もう謝ったんでしょ」
「謝ったわ。でも借金はそのままよ」
「借金は二人で返せばいいよ。三回目は受ける」
「三度目を断る理由は、これから出てくるのよ」
「ガレスはいい人なんだよ」
「いい人だから断られるの。物語ではそういうものなの」
「そういうものなの?」
「そういうものよ」
二人は顔を見合わせ、同時に本へ目を落とした。
* * *
八章は、ガレスが手紙を書く場面から始まった。
三度目の求婚を、今度は言葉ではなく手紙で伝える。夜明けまでかかって書き上げた手紙を、彼は侍女のアンナに託す。
「ほら、求婚するでしょ」
「まだ断る前よ」
頁をめくる。アンナは手紙を持ってエレオノーラの部屋の前まで行き、そこで立ち止まった。
お嬢様はまた傷つく。騎士様と結ばれても、旦那様の借金がある限り幸せにはなれない。アンナはそう考えて、手紙を自分の前掛けの中へしまった。
「え」
「……え?」
次の頁で、エレオノーラは手紙のことを何も知らないまま、父親が連れてきた客人と舞踏会へ向かっていた。ガレスは返事のない手紙を待ち続け、ルカはこの章に一度も出てこなかった。
章が終わった。
ミリアは本を見つめ、クラウディアも本を見つめた。
「……断ってない」
「受けてもいないわね」
「ルカ、出てこなかったね」
「九章で出るのよ」
「さっき八章で正体を明かすって言った」
「八章で明かす可能性が一番高いと言ったの。可能性の話よ。それに、この流れなら九章で舞踏会にルカが呼ばれる。楽師なんだから当然でしょう。そこで手紙のことを知るのがルカなら、話の筋がいちばん綺麗に通るの」
クラウディアの言葉が急に増えた。ミリアは寝台に肘をついて、その横顔を眺めた。
「ねえ。それ予想じゃなくて、出てきてほしいだけでしょ」
クラウディアの口が閉じた。
「……根拠はあるわ」
「あるけど、出てきてほしいんでしょ」
「あなただってガレスの求婚を受けてほしかっただけでしょう」
「そうだよ。だって手紙、夜明けまでかかって書いたんだよ」
ミリアは本の頁を指で叩いた。
「それをアンナが勝手に」
「そうよ。主人宛ての手紙を勝手に止める侍女なんて聞いたことがないわ。即刻解雇よ」
「解雇はかわいそうだけど、届けてはほしかった。返事を待ってるガレスがかわいそうだよ。しかも前掛けに突っ込んだでしょ。皺になる」
「皺の問題ではないわ。燃やさなかっただけましと言うべきかしら」
「燃やしたら許さない」
「私も許さないわ」
二人は同時に頷いた。窓の外で犬が一声吠えた。
ミリアは本の次の頁に手を伸ばした。クラウディアがその手を押さえた。
「今夜はここまで」
「えっ、九章は?」
「明日は夜明けに出るのよ。灰門に着いたら休む暇はない。夜更かしは駄目」
「自分だって読みたいくせに」
「読みたいから明日の夜に取っておくの」
クラウディアは栞を八章の終わりに挟み、本を閉じた。それから、栞の房がどの頁から出ているかをじっと確かめた。
「……何してるの」
「あなたが先に読まないように、位置を覚えたの」
「読まないよ」
ミリアは自分の寝台へ戻り、毛布をかぶった。目を閉じる前に一度だけ薄目を開ける。
クラウディアが本を枕元に置き、栞の房の向きをもう一度直していた。
ミリアも、その房の向きを覚えた。
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