第32話 その返事には賛成できない
供給局の控えの間には刷り上がったばかりの紙の匂いがした。
壁際の机で若い係が紙を十枚ずつ紐で束ねていた。交易発表会の案内だった。打合せの始まりを待つ間、ミリアは机の端に置かれた一枚を手に取った。
八日目、交易発表会。供給局長ベリオ・ラスケンによる成果報告。帝国補給実務官ヴァレンシュタイン様のご挨拶。
その下に太い字で一行あった。
聖女ミリア・エルフェルト様により、豊穣環と調整所の成果に祝福を賜る。
ミリアは紙を持ったまま動けなくなった。
仮案ではなかった。刷ってある。
「これ、もう配っているんですか」
係は束ねる手を止めずに答えた。
「はい。今朝、市場組合の皆さんにお配りしました。残りは午後から、商人の方々と掲示用に」
係の足元には紐をかけた束がいくつも積んであった。
隣でクラウディアも同じ紙を見ていた。紙を机に戻すと、ミリアの袖を引いて窓際まで下がった。
「打合せで私に先に話させてほしいの」
声が低かった。
「昨日の夜、オルネクから聞いたわ。外して替えた古い部材は異常を確かめるために取っておいたものだけど、今週の整理でまとめて洗って捨てる予定だそうよ。泥ごと。洗われたら彼の報告を裏づけるものが一つ減る」
「うん」
「ベリオは今、私たちの評価が欲しいの。あなたの祝福も私の挨拶も。欲しがっているうちに、部材を残すと約束させたい。約束を取ったら、すぐに祝福のことを言っていいわ。それまでの間だけ案内には触れないでいて」
ミリアは係の足元の束を見た。
「……約束を取るまでだよ」
「ええ」
扉が開いてベリオが入ってきた。
* * *
「お待たせしました。村はいかがでしたか」
ベリオは二人の向かいに座った。後ろに発表会の係がもう一人控えている。
「畑を見せていただいたわ」
クラウディアが答えた。笑顔だった。ミリアがこれまでに何度も見た、仕事の相手に向ける笑顔だった。
「豊かな区画は本当に見事ね。帝国では、あれだけの収量はまず望めないわ」
「そう言っていただけると局の者も喜びます」
「ええ。それで、発表会でご挨拶する前に調整所のことで少し伺いたいの」
クラウディアは膝の上で指を組んだ。
「オルネクという技師に会ったわ。熱心な方ね。彼が担当している区画の整備について……」
壁際で紐を結ぶ音がやんだ。
束ね終えた係が積んであった束を両腕に抱え上げていた。五つか六つ。扉のほうへ歩いていく。
「それ、どこへ持っていくんですか」
ミリアは言っていた。
係が足を止めベリオを見た。ベリオが穏やかに答えた。
「市場の掲示板と商人の組合へ。昼のうちに回しておかないと、皆さんの予定が立ちませんので」
「待ってください」
クラウディアの言葉が止まった。ミリアは隣を見なかった。
「その案内の、祝福のことです。私、お受けしていません。初日にまだ返事をしていないと、ザリカさんにお伝えしました。それを配らないでください」
係が束を抱えたまま立ち尽くした。
ベリオは少しの間何も言わなかった。それから柔らかく頷いた。
「それは……行き違いがあったのでしょう。係の者に確かめさせます」
「確かめるだけじゃなくて取り消してください。私は発表会で祝福はしません。もう配った分も訂正してほしいです」
ベリオは係に指で合図した。係は束を机の上に戻した。
「承知しました。訂正の文を出しましょう。聖女様のお気持ちを、こちらが先回りしてしまった」
部屋が静かになった。
ベリオはクラウディアのほうへ向き直った。
「それで、ヴァレンシュタイン様。調整所のことというのは」
クラウディアは組んでいた指をほどいた。
「私の挨拶も保留させていただくわ」
ベリオの眉がわずかに上がった。
「保留、とおっしゃいますと」
「帝国の補給実務官として、この街の供給を評価してほしいということでしょう。評価するなら、見たものについて話すわ。調整所で交換した部材を、洗って捨てる前に見せていただきたいの。オルネクが自分で外したものよ」
ベリオは手元の茶碗に手を伸ばし、口をつけずに戻した。
「そのような古い部品をご覧になっても面白いものではありませんよ」
「面白いかどうかは見てから決めるわ。見せていただけないなら、私は見ていないものを褒めることになる。それは帝国に戻ってから私が困るの」
ミリアはクラウディアの横顔を見ていた。さっきと同じ笑顔だった。
ベリオは机の上の束に一度目をやった。それから頷いた。
「分かりました。今日のうちに調整所へ使いを出しましょう。部材はそのまま残しておくように。……見ていただければ、ただの整備の時期だとお分かりになると思いますが」
「ありがとう。そう願っているわ」
* * *
供給局を出ると昼の鐘が鳴っていた。
宿までは市場の通りを抜けて歩いて四半刻だった。屋台の準備が進んでいて、通りのあちこちで木槌の音がしていた。
ミリアは通りの真ん中で立ち止まった。
「怒ってる?」
クラウディアも立ち止まった。
「……先に部材を残す約束を取っておきたかったのよ。あと少しだった。約束を取るまでは待つと、あなたも言ったでしょう」
「言った。でも、あの束、市場に持っていくところだったんだよ。待ってたら、その間にまた配られてた」
「束が一つ二つ増えても訂正は後から出せたわ」
「後から訂正しても、先に読んだ人は読んでるよ。ハンナさんの村の人だって読むかもしれない。聖女が調整所を祝福するって」
ミリアの声が思ったより大きくなった。通りすがりの女が振り返った。
「それに、あなたはベリオさんに笑ってたでしょ。畑が見事だって。あの人に合わせて」
言ってから、ミリアは自分の言葉を聞いた。言い過ぎだと思った。けれど、取り消し方が分からなかった。
クラウディアの顔から表情が消えた。
「合わせたのではないわ。相手が話を聞く気になるところから入っただけよ」
「同じに見えたよ」
「そう」
クラウディアは市場の屋根を見上げた。
「あなたが辞退して何が変わったの? 案内の訂正は出るわ。でも村の畑は昨日のままよ。あなたの気が済んだだけじゃない」
言い終えたクラウディアの目が、ミリアの顔に戻ってきた。何か続けようとしていた口がそのまま止まった。
ミリアは黙っていた。
気が済んだだけ。そうなのかもしれない、と一瞬思った。思ったことが、余計に悔しかった。
「……私は」
ミリアは言った。
「名前を勝手に使わないでって言ったときに、隣でそうだって言ってほしかった。あなたなら、言ってくれると思った」
クラウディアは何か言いかけた。
「私だって、あの村を……」
そこで口を閉じた。続きは来なかった。
二人はまた歩き出した。
揚げ菓子の屋台の前を通った。ミリアはそちらを見なかった。クラウディアも茶葉の屋台の前で足を止めなかった。
宿の玄関が見えるまで、どちらも口を開かなかった。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




