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悪女と聖女は、世界を救う方法で喧嘩する  作者: 白川 透


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第31話 それはもう報告しました

 出発の朝、ハンナが封筒を一通持ってきた。


「テッサに。昨日の夜書いたんです」


 封筒は分厚かった。ミリアが受け取ると中で紙が何枚も擦れる音がした。


「長いですね」

「書き始めたら止まらなくて」


 ハンナは紺の上着を着ていなかった。いつもの前掛け姿だった。ミリアが何か言う前にハンナが先に笑った。


「あれは祭りの日まで取っておきます。今度はちゃんと着ていきますから」


* * *


 技師との面談は村の集会所で行われた。


 案内役の青年が、前の日のうちに調整所へ使いを出してくれていたらしい。視察の予定にもともと入っていたのだという。集会所の長椅子で待っていると、戸口に痩せた男が現れた。三十半ばくらいで、外套の裾に乾いた泥がこびりついている。


「調整所の技師、オルネクです」


 オルネクは頭を下げ、戸口から一歩入ったところで止まった。椅子を勧められても端に浅く腰かけただけだった。ミリアの白い服とクラウディアの紺の上着を、交互に見ている。


 クラウディアが膝の上で書類を開いた。


「調整所の設備についていくつか教えてほしいの。供給局の方からは、整備は年に一度、収穫が済んでからだと伺っているわ」

「年に一度ではありません」


 オルネクが言った。言ってから自分の口を押さえるように顎を引いた。


 クラウディアは書類から顔を上げた。


「違うの?」

「……今は収穫が二回ありますので。本来は収穫ごとに区画を止めて見ます。年に一度というのは、収穫が年一回だった頃の話です」

「それは失礼したわ。教えてくれてありがとう」


 クラウディアは書類の余白に何か書き込んだ。それからペンを置いて、オルネクのほうへ体を向けた。


「では今年は二回とも見られたのかしら」


 オルネクは答えなかった。外套の裾の泥を指でこすっている。


 ミリアは自分の膝の上で手を組み直した。クラウディアは、間違いを指摘されたことを少しも気にしていないように見えた。


 しばらく誰も話さなかった。案内役の青年が気まずそうに窓の外を見た。


「オルネクさん」


 ミリアが言った。


「話すの、怖いですか」


 オルネクの指が止まった。


「私たちは帝国の人間です。話したことでオルネクさんが困ることになるなら、無理に聞きたくありません」

「……困るのは私ではありません」


 オルネクは顔を上げなかった。


「調整所の仲間です。それから村の人たち。調整所が悪いと言われたら、止めろという話になる。止めたら来年の畑はどうなるのか。帝国の方に、調整所はもう駄目だと書かれるのが……」

「書かないわ」


 クラウディアが言った。


「私が書くのは、見たことと聞いたことだけよ。駄目かどうかを決めるのは、あなたたちでしょう」


 オルネクは長いこと外套の裾を見ていた。それから肩から下げていた布の鞄を開けた。


* * *


 出てきたのは紙の束だった。端が手垢で黒ずんでいる。


「控えです。ひと月前に供給局へ出した報告の」


 ミリアはクラウディアの横から覗き込んだ。細かい字でびっしりと書いてある。読めるところだけ拾った。点検口の内側に黒い泥。三回見た。拭き取っても戻る。内部の継ぎ目から漏れている疑い。出力を減らして内部点検を。


 ミリアは最初の行に目を戻した。


 黒い泥。


 灰門の橋で荷車の車輪にこびりついていた泥。保守口の壺に詰められていた泥。近づいただけで指先が冷えた、あの感じ。


 顔を上げると、クラウディアも紙から目を離してこちらを見ていた。どちらも何も言わなかった。紙に書かれた言葉だけでは、同じものだとは言えない。


 クラウディアが控えの次の行へ目を戻した。


「出力を減らして、と書いてあるわね」

「増産の運用のままでは区画を止められません。止めないと中を見られない」

「返事は」

「……運用はそのまま続けるように、と」


 オルネクは控えの最後の紙をめくった。そこには何も書かれていなかった。


「点検口から見える外側の部材は自分で替えました。それでも泥は戻ってきた。だから中だと思うんです。継ぎ目のどこかがずれているんじゃないかと。でも、見てみないと分かりません。私の見立てが間違っているかもしれない」


 オルネクの声が少しずつ速くなっていた。


「中を見て直したいんです。直せるなら、止めるのは何日かで済む。全部やめる必要はない」


 ミリアは昨日の畑を思い出していた。黄ばんだ葉。乾いた土。ハンナが指さした、丁寧に土を寄せた一列。


 治せる、とは言えない。昨日もそうだった。


 けれどこの人は自分で直したいと言っている。


「オルネクさん。中を見るには、どこまで通れればいいですか」


 オルネクが初めてミリアの顔をまっすぐ見た。


「……どこまで、とは」

「泥があって入れないなら、通るところだけでも払えるかもしれません。私の浄化でどこまでできるかは分からないけど。オルネクさんが中を見られるところまで、道を開けられるなら」


 オルネクは口を開け、それから閉じた。鞄の中から折り畳んだ図面を取り出して、長椅子の上に広げた。


「保守通路がここから。点検口がここで、私が見たいのはこの奥の継ぎ目です」


 指で線をなぞりながら、オルネクは話し続けた。通路の幅、足場を置ける場所、泥が溜まりやすい角。さっきまで椅子の端に浅く座っていた男が、図面の上に身を乗り出していた。


 クラウディアがミリアのほうを見た。ミリアは小さく肩をすくめた。クラウディアの口元がわずかに緩んだ。


* * *


 オルネクは報告の中身を説明するために、二人と一緒に市街へ来てくれることになった。


「調整所を空けて大丈夫なんですか」

「仲間が見てくれます。……ただ、区画への立入りや作業の約束までは私にはできません。今日は説明だけです」

「説明だけでも助かります」


 帰りの馬車の中で、オルネクは図面を膝に置いたまま眠ってしまった。ミリアはハンナの封筒を鞄の奥へしまった。


 窓の外を豊かな畑が流れていった。来たときと同じ景色だった。


 日が傾き始めた頃、ミリアは思い出した。初日の広場でザリカから受け取った、あの仮案。


 聖女ミリア・エルフェルト様による祝福。


 あの日、広場の後ろのほうで誰かが叫んでいた。調整所にも祝福を。


 八日目の交易発表会で、聖女が何を祝福することになっているのか。ミリアはそれをまだ聞いていなかった。


 市街に着くと、ザリカが宿の玄関で待っていた。オルネクを見て眉を上げる。クラウディアが馬車を降りてザリカに向かって歩いていった。


「お話があるの。今夜のうちに」

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