第30話 せっかくの服ですから
リュネ村の畑は、馬車の窓から見たときより近くで見るほうが豊かだった。
夕方の光の中で、どの畝も葉が厚く茎が太い。蕪は土から肩を出し、豆の蔓は支柱のてっぺんを越えて垂れていた。案内役の青年が畦道で立ち止まり、帽子を取って額を拭いた。
「このあたりは全部豊穣環の区画です。以前は一回だった収穫が、今は二回あります」
ミリアは畦にしゃがんで蕪の葉を一枚つまんだ。裏まで青い。虫食いの穴も少なかった。
「すごい。うちの村の蕪、この半分くらいだったよ」
「土を見ても?」
クラウディアが訊くと青年は頷いた。クラウディアは手袋を外して畝の土を指でつまんだ。湿っていて黒い。指先でほぐすと細い根が何本も絡んでいた。
「よく肥えているわね」
「でしょう」
青年が自分のことのように胸を張った。
* * *
ハンナの家は村の西の外れにあった。
石を積んだ低い家で、戸口に干した唐辛子が下がっている。戸を叩くと、小柄な女が前掛けで手を拭きながら出てきた。白髪を一つに結んでいて目元がテッサによく似ていた。
「テッサさんのお母さんですか。お店でお預かりしてきました」
ミリアが言うと、ハンナは包みとミリアの顔を見比べた。
「まあ……あの子、また」
包みを受け取ったハンナは紐もほどかずに奥へ行こうとした。
「ハンナさん、開けないんですか」
「あとでゆっくり見ますよ。こんな良い服、汚したら困りますから」
ハンナは奥の箪笥の前で膝をついた。引き出しを開けると、同じような紙の包みがもう一つ入っていた。紐がかかったままだった。
ミリアはクラウディアを見た。クラウディアはもう箪笥の横まで来ていた。
「テッサさんから寸法を確かめてきてほしいと頼まれているの」
初耳だった。ミリアは黙っていた。
「袖の長さが合っているか、帰ってから伝えないといけないのよ。一度だけ袖を通してもらえないかしら」
「寸法ならあの子は昔から間違えませんよ」
「私もそう思うわ。でも確かめたと言えないと、あの子が気にするでしょう」
ハンナは包みを抱えたまましばらく黙っていた。
「着たら似合うって言ってあげてくださいって、テッサさんが言ってました」
ミリアが言った。
「私たち、約束しちゃったんです。だから言わせてください」
ハンナは困った顔で笑った。それから紐をほどいた。
中から出てきたのは落ち着いた紺色の上着だった。襟に細い白の縁取りがある。ハンナが奥の部屋で着替えて戻ってくると、ミリアは手を叩いた。
「似合います!」
「似合うわ」
クラウディアは言うと同時にハンナの後ろへ回って袖の長さを確かめた。本当に寸法を見ていた。
「袖、ぴったりよ。テッサさんにそう伝えるわ」
ハンナは袖口を指でつまんで窓の硝子に映った自分を見ていた。
「祭りの最終日にテッサさんが来てほしいって。お手紙、届いてますか」
「届いてますよ。返事を書こうと思っていたんだけど……」
ハンナは袖口から手を離さなかった。
「この服で行ったら、あの子喜ぶかしらね」
「喜びます。絶対」
「じゃあ行きます。畑はお隣に頼んで」
ミリアはクラウディアと目を合わせた。クラウディアは何も言わずに小さく頷いた。
* * *
帰ろうとするとハンナに止められた。
「夕飯、食べていってくださいな。せっかく来たんだから」
断る間もなく卓に皿が並んだ。蕪と豆の煮物、干した茸の汁、黒っぽいパン。最後に棚の壺から漬けた胡瓜を取り出して、小皿に盛ってくれた。ミリアの皿には一つ多かった。
「もっと食べて。若い人は食べないと」
「もう三杯目です」
「三杯は少ないほうよ」
ハンナの息子が畑から戻ってきて卓の端に座った。テッサの兄で、肩幅の広い無口な男だった。母の上着を見て一度だけ目を丸くした。
ミリアは漬物の壺に目をやった。棚に並んだ壺のうち、蓋の開いているものは中が底のほうまで見えていた。
「漬物、まだたくさんあるんですか」
「今年は少ないの。胡瓜があまり採れなくてね」
ハンナはそう言って息子の皿にも煮物を足した。
「この煮物の蕪は、さっき見た畑のですか」
クラウディアが訊くと息子が首を振った。
「うちの蕪はあっちの区画です。さっきのとは違います」
「見せてもらえるかしら」
息子はハンナを見た。ハンナは匙を置いた。
「暗くなる前なら」
* * *
家の裏から畦道を下ったところにその区画はあった。
さっきの畑と、畝の幅も支柱の立て方も同じだった。違うのは葉の色だった。縁から黄ばんで内側に丸まっている。蕪は土から肩を出していなかった。豆の蔓は支柱の途中で止まり、先が茶色く枯れていた。
ミリアは畝の前にしゃがんだ。土に触るとさらさらと乾いていた。さっきの畑の土とは、指に残る重さが違う。
「去年までは、ここも向こうと同じだったんですよ」
ハンナが畦の端に立っていた。紺の上着の上から前掛けを締め直している。
「この列はね、テッサに送る分だったの。あの子、うちの蕪が好きだから」
ハンナが指さした列は、ほかの列より少しだけ丁寧に土が寄せてあった。それでも葉は同じように黄ばんでいた。
「来年はどうなるのか。漬物も来年の分は今年ほど作れないかもしれないね」
ミリアは口を開いた。治します、と言いそうになった。
浄化なら少しはできる。けれど、これが何なのかミリアには分からなかった。病気なのか、土なのか、もっと別のことなのか。分からないまま手を当てて、それで良くなるとは言えなかった。
「……いつからこうなったんですか」
ようやく出た言葉はそれだった。
「夏の終わり頃から。最初は端の一列だけだったのが、ひと月で半分になって」
息子が答えた。畦にしゃがんで枯れた蔓の先をつまんでいる。
クラウディアが息子の隣に膝をついた。
「どこかに知らせた?」
「知らせました。村の世話役から調整所に。技師さんが一度見に来てくれて、上に報告したと言っていました」
「上、というのは」
「供給局です。街の」
クラウディアは少し黙った。
「それから誰か見に来たかしら」
息子は枯れた蔓を指から離した。
「来ていません」
「私たち、調整所にも行くことになっているんです。だから」
ミリアが言うと息子は立ち上がった。
「調べるって、前に来た技師さんも言いました」
怒っている声ではなかった。ミリアの顔は見なかった。
「見たいならどこでも見てください。畑はこのとおりです」
息子は枯れた蔓を畝の脇に放り、家のほうへ戻っていった。ハンナはその背中に何も言わなかった。
風が吹いて黄ばんだ葉がかさかさと鳴った。向こうの区画の葉は、同じ風を受けても音を立てなかった。
ミリアはクラウディアを見た。クラウディアは畦から立ち上がり、膝の土を払った。それから村の向こうの、調整所があるという丘のほうを見ていた。
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