第3話 橋の上の指示
橋は思っていたより古かった。
谷川にかかる木橋で、両岸の石組みだけが新しい。真ん中より少しこちら寄りで荷馬車が一台、右の後輪を橋板の割れ目に落として傾いていた。馬の鼻先はこちらの岸を向いている。荷台には布団や鍋や箪笥が縄でくくられ、その上に三人の子どもも乗っていた。向こう岸には残りの馬車が四台、御者だけを乗せて止まっている。
手前の岸には人が集まっていた。馬車を降りて先に歩いて渡ってきた避難民たちらしい。泣いている女がいて、怒鳴っている男がいて、石に座り込んだ老人がいる。
「持ち上げりゃいいんだ! 皆で行くぞ!」
「馬鹿、揺らすな!」
男が何人か、橋へ踏み出そうとしていた。橋板が軋んだ。
「待って!」
ミリアは馬から飛び降りて叫んだ。思ったより大きな声が出た。男たちが振り向く。
「今乗ったら荷台が揺れる。子どもが落ちる」
「じゃあ放っとけってのか」
「放っておかない。荷台を縄で岸に留めて、傾きを止めてから子どもを降ろす」
ミリアは振り返った。ダリオはもう縄を肩にかけて、たもとの太い杭と荷台の距離を目で測っていた。
「ダリオさん、お願い」
「百数えるくらいで留めます」
ダリオが縄の端を杭に回し始める。ミリアは荷台の子どもたちを見上げた。一番上の男の子が妹らしい小さな子を抱えている。もう一人の女の子は荷台の端で片足を抱えて泣いていた。
「お名前は?」
「……トマ」
「トマ、そのまま動かないで。今、縄で馬車を止めるから。止まったら私が迎えに行く」
トマが頷いた。顔が真っ白で、唇まで色がない。妹を抱く腕だけが固くこわばっている。
背後でクラウディアの声がした。たもとに立って、馬の手綱を握ったまま橋の上にいる御者へ呼びかけている。
「この橋、どのくらい耐えるの」
「荷馬車一台分なら! ただ、うちは積みすぎてて」
「なら今は人を増やせないわね。縄が張れたら子どもを降ろして、それから荷を降ろす。降ろした荷はこちらの岸に並べるわ。受け取る人と置き場を今のうちに決めておく」
クラウディアは振り返り、たもとの男たちを指さした。
「あなたとあなた。荷を受け取る係。布団はあの木の下、箪笥と鍋は道の端。橋に乗るのは、私が呼んでから一度に二人まで」
「お、おう」
さっきまで橋へ踏み出そうとしていた男たちが、置き場を空け始めた。
「クラウディア」
ミリアは荷台を見上げたまま言った。
「子どもは歩かせないで。端の子は足を痛めてる。足首を抱えて泣いてるでしょ。トマは怖がりすぎて力が抜けない。自分で歩かせたら途中で止まる。二人とも抱えて運ぶ」
「なら迎えに行けるのは二人までね。御者のほかに橋へ乗せられるのはそれで限界よ」
「私とダリオさんで行く」
「分かった。荷を運ぶ人は子どもが渡りきるまで待たせる」
クラウディアは即座に男たちへ向き直った。
「今のは聞いたわね。子どもが先。あなたたちはその後よ」
縄が張られた。荷台がぎしりと鳴って、それ以上傾かなくなる。
「いいですよ!」
ミリアはダリオと並んで橋へ踏み出した。足元の板が一枚ずつ違う音を立てる。荷台に手が届くところまで来ると、まず足を痛めた女の子を抱き取ってダリオへ渡した。ダリオがその子を岸へ運ぶ間に、トマの腕から小さな子を受け取る。ミリアは自分も岸へ戻り、その子を母親の腕へ渡した。
もう一度橋を戻ると、トマは空になった腕をまだ胸の前で固めていた。ミリアが両手を伸ばすと、妹を渡すように腕を差し出しかけて、もう妹がいないことに気づいた。腕の力がやっと抜ける。泣きそうな顔でミリアの胸に飛び込んできた。
「よく頑張ったね。もう大丈夫」
岸へ戻ると、母親が駆け寄ってきた。三人をまとめて抱きしめて声を上げて泣く。周りで見ていた何人かもつられて泣き出した。
ミリアは女の子の足首に手を当てた。腫れているが骨は無事だ。治癒の力を少し流して腫れを引かせ、濡らした布を巻いた。
* * *
子どもたちが落ち着くと、クラウディアが荷降ろしを始めさせた。
「箪笥から。重い物を先に降ろせば、車輪を上げるときの人手が少なくて済むわ」
二人ずつ橋へ乗り、荷を運んでは戻る。受け取り係が待ち構えて、決めた場所へ並べていく。
「それは道の端。違う、鍋は箪笥の横」
「お嬢さん、細けえな」
「細かくないと、あなたの鍋がどこへ行ったか分からなくなるわよ」
男が笑った。つられて岸の空気が少し軽くなった。
布団まで降りると、荷台はすっかり軽くなった。御者が手綱を握り直す。
「これなら四人乗っても平気です」
「なら、馬が引くのに合わせて車輪の脇から四人で持ち上げて。合図は私が出すわ」
クラウディアの声で、男が四人たもとに並んだ。ミリアはその列を端から見ていった。三人目で目が止まる。最初に橋へ踏み出そうとしていた男だ。右腕をかばって左手で袖を押さえている。
「あなた、腕を見せて」
「平気だ、これくらい」
袖をまくらせると、肘の下が赤く腫れていた。さっき荷台を押そうとして、どこかにぶつけたのだろう。
「折れてはいないけど、持ち上げたら今より痛めます。ここで冷やしていて」
「けどよ、人が足りねえだろ」
「代わりは探します」
ミリアは岸を見回した。若い者はほとんど荷の受け取りに出ている。石に座り込んでいた老人と目が合った。老人はのそのそと立ち上がった。
「わしがやる。若い頃は粉屋で袋を担いどった」
「腰は」
ミリアは老人に腰を前へ曲げてもらい、それから片足ずつ持ち上げてもらった。顔をしかめる様子はない。背中に手を当てても、筋が強張っている感じはなかった。
「……大丈夫そうですね」
「聖女様のお墨付きじゃな」
「お墨付きは出してません。無理だと思ったらすぐ手を離してください」
周りから笑いが漏れた。
「一、二、三で持ち上げて。今度は本当に三で」
クラウディアがミリアのほうを見ずに言った。昨日のことをまだ根に持っている。
「一、二、三!」
車輪が割れ目から抜け、荷馬車が橋板の上へ戻った。馬が進み、ゆっくりとこちらの岸へ渡りきる。岸から歓声が上がった。
ミリアは誰も怪我をしていないのを確かめてから、ようやく息を吐いた。老人の腰も無事だった。
「聖女様、出番がなくて残念じゃったな」
「残念じゃないです」
言い返すと、老人は満足そうに笑って家族のもとへ戻っていった。
* * *
向こう岸の四台を一台ずつ渡し終えるころには、日がだいぶ高くなっていた。
渡ってきた最初の馬車の後輪を、ダリオがしゃがみ込んで調べていた。割れ目に落ちた車輪だ。手が止まっている。
「どうしたの」
「これを」
ダリオが指したのは、車輪の縁にこびりついた泥だった。黒い。川沿いの泥は乾くと白っぽくひび割れるのに、これは乾かずに艶を残している。縁から垂れた筋が、油のように細く伸びて途切れない。
ミリアは手を伸ばしかけて止めた。前に浄化した古井戸の底に、これとよく似た泥が溜まっていた。あのときは触れた指が三日も黒ずんだ。
「触らないほうがいい。前に浄化した井戸に、こういうのがあったの」
「なら触らない」
クラウディアはすぐ車輪から一歩下がった。それから御者に向き直った。
「この馬車は、どこを通ってきたの」
「灰門の手前の村から街道をまっすぐです。途中で水たまりを何度か越えましたが」
ミリアはもう一度泥を見た。水たまりの泥がこんな色になるとは思えなかった。
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