第25話 歓迎されすぎています
馬車の窓の外を市場の屋根が流れていった。
布張りの屋根が通りの両側にどこまでも続いている。赤、黄、くすんだ緑。どの屋根の下にも木箱が積まれ、木箱には丸い野菜がぎっしり詰まっていた。籠を抱えた女、荷を担いだ若者、屋台の前でしゃがみ込んでいる子ども。誰も急いでいないのに通りはずっと動いている。
ミリアは窓に額を近づけた。
「見て。あの南瓜、私の頭より大きい」
「荷車が多いわね」
クラウディアは向かいの席で反対側の窓を見ていた。
「市場へ入る荷車と出ていく荷車で通る道を分けているわ。誰が決めたのかしら」
「南瓜の話をしてるんだけど」
「その南瓜も荷車に載っているでしょう」
国境を越えて三日目だった。検問所から先は決められた道筋をそのまま進んできた。馬車の前後には、ダリオと部下の二人が馬でついている。ダリオは昨夜の宿でも窓の掛け金を二回確かめていた。
クラウディアも出発前から口数が少なかった。帝都で渡された書類の束を馬車の中で三回読み直している。ミリアは一回で寝た。
窓の隙間から甘い匂いが流れ込んできた。
焼いた生地と、溶けた砂糖と、何かの木の実。ミリアが顔を向けると、向かいでクラウディアも同じ方へ首を回していた。
「今、そっち見たでしょ」
「風向きを確かめたのよ」
「風向きを見るのに鼻が動くの?」
クラウディアは書類を膝の上で揃え直した。返事はなかった。
* * *
広場に着くと楽隊が鳴り始めた。
石畳の広場をぐるりと人が囲んでいる。子どもたちが花を投げ、屋台の主人たちが前掛けのまま手を振っていた。広場の真ん中には刈り取った麦の束で編んだ大きな輪が飾ってある。収穫祭の準備なのだと、ミリアは馬車を降りながら気づいた。
出迎えの列の先頭に紺の上着の女が立っていた。二十代の半ばくらいで、髪を後ろで固く結んでいる。
その女より先に、花を持った小さな女の子が母親に背中を押されて前へ出てきた。ミリアがしゃがむと、女の子は花と一緒に紙包みを差し出した。中身はさっきの匂いの正体だった。木の実を練り込んだ焼き菓子が二つ。
「聖女様と、もう一人の方の分」
「ありがとう。もう一人の方にもちゃんと渡すね」
包みはいったんダリオが受け取り、確かめてからミリアの手に戻した。
ミリアは一つをクラウディアの手に載せた。焼き菓子はまだ温かかった。
紺の上着の女が一歩前へ出た。
「ようこそヴェルナートへ。地方監察局の連絡官、ザリカと申します。遠いところをお越しいただき、街を代表して心より」
さくり、と音がした。
ザリカの言葉が止まった。ミリアは焼き菓子を齧ったまま固まった。中はまだ温かく、炒った木の実の香りが口いっぱいに広がっていた。
隣でクラウディアが自分の分を手に持ったまま小声で言った。
「挨拶が終わってからにしなさい」
「……ふぁい」
ザリカの口元が少しだけ緩んだ。咳払いを一つして続ける。
「……心より歓迎いたします。ご滞在中のご案内と、調査のお手伝いを務めます」
「帝国の補給実務官、ヴァレンシュタインです」
クラウディアが名乗る横で、ミリアは急いで飲み込んだ。
「ミリア・エルフェルトです。……すごい歓迎ですね」
「街の者が勝手に集まってしまって」
ザリカは困ったように広場を見回した。それでも口元は少し誇らしげだった。
挨拶が一通り済むと、クラウディアはようやく自分の焼き菓子を二つに割った。
「……木の実を炒ってから練り込んでいるわね」
「おいしいってこと?」
「材料の話をしているの」
残りの半分もすぐになくなった。
広場の端で年配の女が声を上げた。
「聖女様! どうか祈っていただけませんか」
周りの人々がそちらを振り返り、それからミリアを見た。ざわめきが少しずつ静かになっていく。
予定にはなかった。ミリアはクラウディアを見た。クラウディアは何も言わなかった。目を逸らさずに待っていた。
ミリアは広場の真ん中へ歩いた。麦の輪の前で足を止め、集まった人たちの顔を見渡す。日に焼けた顔、皺の多い顔、花を握りしめた子どもの顔。
両手を胸の前で組んだ。
「ここにいる皆さんが元気で祭りの日を迎えられますように。体の具合が悪い人は早く良くなりますように。祭りが終わったら、皆さんが無事に家へ帰れますように」
広場は静かだった。誰かが鼻をすする音がした。
「水車にも祝福を! 調整所にも!」
後ろのほうで男が叫んだ。何人かが笑い、何人かが頷いた。
ミリアは組んでいた手をほどいた。
「機械のことは、私より技師さんたちのほうがずっと詳しいと思います。皆さんの元気のほうは任せてください」
笑い声が広がった。楽隊がまた鳴り始め、子どもたちが花を投げ直した。
ミリアが列へ戻ると、クラウディアはもうザリカの隣に立っていた。声を落として話している。
「今の祈りは予定にあったのかしら」
「いいえ。市場組合の方が、お願いしたいと言っていたのは聞いていましたが……申し訳ありません」
「責めているわけではないの。次からは前もって教えて。聖女は頼まれると断らない人だから」
「断るときは断るよ」
ミリアが横から言うと、クラウディアはこちらを見ないまま答えた。
「今のは断らなかったでしょう」
「今のは祈りたかったの」
ザリカが二人の顔を見比べて何か書き留めた。
宿へ向かう前に、ザリカが紙を一枚差し出した。
「ご滞在の予定の仮案です。供給局から回ってきたもので、まだ決まったものではありません。ご希望を伺って直します」
クラウディアが受け取り、ミリアは横から覗き込んだ。
一日目、歓迎と昼食会。二日目、市内のご案内。三日目以降、設備のご視察。八日目、交易発表会。
その欄の下に一行添えてあった。
聖女ミリア・エルフェルト様による祝福。
「これ」
ミリアは指で行をなぞった。
「私、まだ返事してないです」
ザリカの顔から笑みが引いた。仮案を受け取り直し、その行をじっと見る。
「……供給局のほうで先に書き込んだのだと思います。私から確かめて持ち帰ります」
「お願いします」
ザリカは仮案を丁寧に畳んで上着の内側へしまった。
広場ではまだ楽隊が鳴っていた。焼き菓子の匂いも風に乗って流れてくる。歓迎はうれしかった。花をくれた女の子の手も、祈りのあとの笑い声も本物だった。
それでも、あの一行はミリアが返事をする前から書かれていた。
「お昼、何が出るかな」
ミリアが言うと、クラウディアは書類の束を鞄へしまった。
「さっきの焼き菓子が出るなら文句はないわね」
「出なかったら?」
「帰りに買うわ」
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